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2012-08-26

フッサールの科学批判と「生活世界」概念 高階勝義

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〔1〕

 フッサールの後期思想を特徴づける,「生活世界( Lebenswelt )」理論は現代ヨーロッパの精神とその伝統的諸学の危機的状況に対する歴史的自己省察とそれを克服するための現代的人間の〈全人格上の転回〉の企てとして構想され,展開されている。*1

 フッサールは,「前世紀の終りごろから,学問に対する一般的な評価に転換が現われている」( VI,3 )という。彼がここで指摘しているのは,たとえば近代的諸学の学問性やその理論的・実践的成果に関する評価に転換が現われている,というような程度の問題ではなく,そもそも学問一般が人間の生存にとって何を意味してきたか,また何を意味することができるか,という学問的真理の意味全体にかかわる危機的状況である。したがってそれは近代的諸学によって規定された現代のヨーロッパ的人間性の全実在にかかわる危機としても意味されているのである。「19世紀の後半には,近代人の全世界観は,もっぱら実証科学によって徹底的に規定され,また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的にまどわされていたが,その徹底性とは,真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらすということを意味していた。単なる事実学は,単なる事実人しかつくらない。このような事実学に対する一般的評価の転換は,とくに戦後(第一次大戦後)避けることのできないものとなった(……)事実学はわれわれの生存の危機にさいして,われわれに何も語ってくれない。」( VI, 3f )

 フッサールがここで思いいたしているのは,第一次世界大戦という科学技術戦争の惨禍をまのあたりにしたヨーロッパ人一般の,かつては人類の無限の発展と繁栄を約束してくれるかにみえた科学技術に対する失望である。われわれ人間自身がっくりあげた現代の技術的文明世界が,まさにそれが人間自身の形成であるにもかかわらず,われわれにとってよそよそしいものとして,対立的に現われ,人間の支配から身をしりぞけてゆくようにみえるのは何故なのか。

 フッサールは,このような現代の危機の破局的状況におちいっている,というところに現代の生一般の危機の根源があるというのである。そしてさらに,彼は,その破局そのものの根は,科学的〈客観主義〉の学的理念そのもののうちにすでに潜在的にかくされそもそもの根源は,デカルト以来の近代の諸学を支配してきた, 〈客観主義( Objektivismus )〉の破局のうちにあるという。すなわち近代人が世界や世界の存在の根拠へのかかわりのなかで伝統的に有してきた,いわば標準的自己解釈あるいは自己理解とでもいうべき,科学的<客観主義〉がもはや自己の意味を弁明しえないほどのていたのだ,という。

 科学的〈客観主義〉は,客観的・論理的に確定されうるものだけが真理であるとし,したがってもっぱら世界が事実上何であるかを,客観的に確定するところに学問的真理の意味がある,とみてきたために,そこでは客観的学によって規定される以前の,われわれが直接に,直観的に生きている生活世界は,〈単なる主観的な仮象〉であり,したがってそれは学的真理にはかかわりえないドクサの領域でしかないとみなされてきた。しかし,フッサールは,まさにこの〈単に主観的な相対的〉直観生活世界こそが,むしろあらゆる客観的学の真理の妥当性を究極的に基底づける,根源的明証性の領域なのである,と主張するのである。「学は人間の精神の作業であって,その作業は,歴史的にみても,またそれぞれの学ぶものにとっても,存在するものとして共通にあらかじめ与えられている直観的な生活周囲世界からの出発を前提にしている。(……)学が問いを提出したり,答を出したりするとき,それらの問いは最初から,必然的にこのあらかじめ与えられてある世界を基盤とし,その世界の存立に依拠している。」( VI, 123f )

 したがって,科学的〈客観主義〉が,その理念化の方法によって,すなわち論理的活動によって形成された世界を,それ自体で客観的に存在する真の宇宙である,とみなすということは,それによってその理念化の基盤としての直観的経験の生活世界をおおいかくしてしまうことになるのだ,というのである。( VI, 51 )そして,フッサールは,まさに現代一般の自己解釈としての科学的〈客観主義〉のこのような徹底的な生活世界の忘失のうちにこそ,現代の危機の根源がある,とみるのである。フッサールの「生活世界」理論において,現代のわれわれの生の究極的責任と正当化に寄与すべき基礎学として構想されている,「生活世界」の学がその固有の課題として引き受けようとするのは,まさにこのような現代の危機的状況の克服であり,そのための現代のわれわれ人間の自己理解の変革にほかならない。

 しかし,現象学はいったいどのような仕方でそのような難題に答えようとするのか。現代の危機の克服に寄与せんとするフッサールが立ち向かわなければならない緊要の課題は,何よりも科学的客観主義的規定によって,おおいかくされ,見失われてしまった,われわれ人間とわれわれが事実的に生きている現実的世界との直接的・根源的関係を露わにすることであり,*2そのことによって〈客観主義〉において,人間によそよそしいものとして対立的に現われている世界から,人間を自己自身へとつれもどし、人間と世界との分かち難さに気づかせることである*3ということになろう。

 われわれは,以下の考察において,フッサールが「生活世界」の現象学によって,これらの根本問題にいかにして答えているかを見とどけ,そのことをとおして人間存在と世界との根源的かかわりの構造を明らかにしたいと思う。


〔2〕

 すでにみたように,フッサールによれば,現代の危機の根源は,理念化の方法によって形成された世界をあたかもそれ自体で存在する真の世界でかるかのようにみなし,直接的経験のなかでわれわれに直観的に与えられている,根源的明証性の世界をつねに科学的客観的真理という, 〈理念の衣( Ideenkleid )〉に照らして解釈しようとしてきた,伝統的客観主義のうちにあるということであった。しかしそうだとすれば,科学的〈客観主義〉によって徹底的に規定された世界そのものは,われわれにとってはいったい何を意味するのか。それが人間自身の精神の作業によって形成された世界であるにもかかわらず,人間に対してよそよそしく対立的に現われてくるようにみえるというのはどういうわけなのか。

 客観的に確定されうるものだけが真理であり,もっぱら世界が事実上何であるかを客観的に確定するところに学問的真理の意味が存する,とする科学的<客観主義〉の根底には次のような確信がある。すなわち「一般的に存在するものの無限の全体は,それ自身ひとつの合理的な全体をなしており,その全体は相関的に普遍科学によって,くまなく支配される」*4ということ,つまり「世界は数学物理学自然科学の精密な方法によって支配されうる宇宙であり」(5)しかもそのさいの科学の探究する事実上の規定はもともと宇宙そのもののうちに存在するのである*5という確信がその根底にある。

 ところでそのようにすべての存在者は客観的学の認識を基礎にしてあますところなく意のままにできるという信念は,「人間は経験において与えられたものを諸概念の連関にもちこんで,そこに人間の認識にとって解決できないものなど何ひとつ残さないという能力を、理性のうちに有している」*6という確信の表明でもある。したがってそこでは「人間の理性は,なるほど世界を創造者として投企するというようなことはしないとしても,しかし世界に内在する諸概念を用いて,世界の投企を追遂行し,その結果,世界の経過に関与したり,確実に計算可能な成果を伴う世界の改造などに関与したりできるようになる能力である*7」と考えられているとみなければならないであろう。

 しかし,客観的諸学が対象とする世界が,まさにこのように徹底的に,われわれ人間自身の精神の論理的活動によって形成された世界であるとするならば,それがわれわれにとってよそよそしいものとして,すなわちわれわれがなれ親しんでいる世界とは疎遠なものとして立ち現われてくるようにみえるのはどういうわけなのか。ランドグレーベは,現代的人間の科学的客観主義的自己解釈がもたらす問題状況を次のように分析する。「世界は人間の認識の投企によって作られ、形成されたものへとどんどん近づいてきて,次第にその程度を高めて,投企そのものによってうちたてられた技術的世界に化してゆくのであり,したがってこの技術的世界のなかでは,人間自身の作品や形成体でないものは,次第に残り少なくなってゆく。一方人間自身は,この技術的世界のなかでは,もはや人間自身の自己の作成の産物以外の何ものでもない技術的主体となる。そのとき,人間の理性はもはやそれ自体で存立している真なるものを受容する能力とはみなされない。人間の理性は,次第に人間によって産出された世界のなかでの人間の自己生産に対するまったくの道具的意味において理解されることになる。*8

 科学的〈客観主義〉のこのような破局の根は,いったいどこにあるのか。フッサールは,「生の素朴性への正しい帰行が,その素朴性を超えてゆく反省という形をとってであるが,伝統的客観主義的哲学の学問性のなかにひそむ哲学的素朴性を克服するための,唯一の可能的な道である」( VI, 60 )という。そのさいフッサールがさしあたって要請することは,存在者についてのいかなる哲学的あるいは科学的解釈をもいっさい妥当させない,という徹底した判断停止である。彼はそうすることによって,存在者にもともと意味充実を与えている直観にまで遡って問おうとするのである。したがってこの意味での現象学的還元は,学によってすでにいつも直接・間接に解釈された世界の背後への帰行,すなわちいっさいの学に先立って直接的経験において体験され,与えられてあるがままの世界としての「生活世界」への帰行の要請を意味するのである。

 したがって,この現象学的還元の目的は,もはや『イデーン』期の還元のように,世界存在の一般的信憑を排除し,必当然的明証性としての超越論的主観性のうちに,客観性の根拠を問うというようなことのうちにあるのではなく,自然的生においてわれわれにつねに自明的にあらかじめ与えられてある世界をまさにその直接的明証的経験において与えられてあるがままの相において,解釈し,分析することにあるのである。もとより,「生の素朴性への正しい帰行」としてのこの現象学的還元の要請が,単なる素朴な記述に尽されるものではない,ということは明らかである。直接的に経験されたものを経験されているとおりに反省することの要請としてのこの還元には,経験の働きの主観的能作への反省,経験する主観のなかにあるその経験の可能性の諸制約への反省の要請も含まれているのである。したがってここで究極的に要請されることは,科学的技術的規定に先立ってある,直接的な生活世界的経験の可能性の制約としての超越論的主観性の能作する生へと遡って問い,そうすることでまさにその自明的な生活世界がわたしに対して存在している仕方を根源的に問うことにある,ということになるのである。

 それでは,その上うな意味での「生の素朴性への正しい帰行」によって,科学的に規定された世界は,われわれの直接的経験の世界としての「生活世界」に対してどのような意味を有するものとして現われることになるのか。フッサールは,客観的学が対象とする世界の根本的意味を規定するにあたって,それを生活世界と対比することからはじめる。そしてその対比は,科学的〈客観主義〉を生活世界の忘失としてみるフッサールにとっては,同時にそれによっておおいかくされた生活世界そのものの構造を露わにする作業を意味するものでもあった。その対比をとおして,さしあたり明らかにされたことは,客観的学が対象としている世界は理論的構築物があり,原理的には決して直観されえない世界であるのに対して,生活世界はすべての点において現実に経験しうるということによって特徴づけられる,ということであった。( VI,§34.d )

 そのさいのフッサールの議論は,それぞれの世界にはそれに固有の接近様式があるということ,したがってそれぞれの世界はそれに対応する接近様式の相関者として与えられるのである,とする一貫した基本的視点をとおして展開されている。それによると,客観的学が対象とする世界は,主観的なものをいっさい捨象し,もっぱら客観的・論理的に確定しうるものだけを,それ自体として真に存在するものとみなす,という特定の学的研究態度に相関して現われる世界であり,すなわちそれは人間的生の多くの企てのうちのひとつとしての論理的思考活動によって,形成された世界であるのに対して,生活世界はわれわれのあらゆる現実的・可能的実践の普遍的領野として,したがってあらゆる学的に解釈された世界の基盤として,われわれにとってつねにあらかじめ直観的に,直接的に与えられてある世界である,というのである。( VI,145 )

 したがっで, ここでのフッサールの本来の関心が,ブラントが指摘するように,生活世界と客観的学の世界とを同一の地盤において,相互に対比することにあったのではなく,われわれがっねに直観的経験の世界に生きており,そこから科学的世界理解を含めてのすべての世界理解がその意味を得ている,というあまりにも明白であるがゆえに,従来見のがされてきた自明的事実を主題的に解き明すというところにあったのだ,ということは明らかである。*9

 ところで,生活世界は客観的学によって解釈された世界に対して,直観的に与えられてあるものとして存在しており,まさにその上うなものとして学的世界に対してその「基盤」としての機能を果たしているのであるという,ここで明らかにされた規定は、それだけでは生活世界の構造については具体的にはまだ何ごとも語ってはいない。したがって直接的経験の生活世界がどのような仕方で,客観的学が対象とする世界に対して,「基盤」としての機能を果たすのか,という肝心の問題についても,まだここでは何も語られていない。

 われわれはさしあたりこの問題の考察から出発しなければならない。すでにみたように,フッサールは,「生活世界」というのは,その世界の中に目ざめつつ生きているわれわれにとっては,いつもすでにそこにあり,理論的であるうと理論以外であろうと,すべての実践のための普遍的「基盤」としてつねにあらかじめ与えられている世界である,という。すなわち生活世界の存在は,われわれにとっては、何らかの観点や主題の上から妥当するというようなものではなく,「あらゆる現実的・可能的実践の普遍的領野として,地平としてつねにあらかじめ与えられている」( VI,145 )という。ところで,この生活世界がまさにそのようなものとして,われわれにとってはつねに直観的に経験されている,とは何を意味するのか。ブラントは,生活世界のこの直観性というのは,世界はいかなる意味でもわれわれが主題として念頭におくことのできるような意味形成体ではなく,それはわれわれが具体的に生きている世界として,つねに直接的に直観的に意味豊かに存在している,という生活世界の独特の存在様式を表明しているのである,という*10。したがってそれは,生活世界はわれわれのそのつどの特殊な目的意識の地平として,つねに直観的・直接的に経験されている世界であるとしても,その意味や直観性そのものは,完全に論理的に説明したり,反省したりできるようなものではない,ということをも示唆しているというのである*11

 「生活世界は,科学者たち自身が生きている世界であり,あらゆる彼らの理論的活動がそれに帰属する世界であるとしても,生活世界そのものは彼らの主題にはならない。」( VI,462 )というのは,すでにみたように,生活世界は何らかの目的や主題設定の上から妥当している世界ではなく,むしろ生活世界そのものがすべての目的の基盤として,つねに前提にされている世界だからである。「あらゆるそのつどの先所有,目的に対する基盤としての生活世界は完全には見わたせられない。」( VI,462 )

 それでは,このような直観的な生活世界がどのような仕方で,客観的学的世界に対する基盤としての機能を果たす,というのか。フッサールが,「生とはたえず〈世界確信のなかに生きる〉ということである」( VI,145 )というとき,彼はその世界存在の確信をただ単に直観的確信の意味で語っているのではない。フッサールはすべての存在確信には,それがどんなに素朴な生活のもつ存在確信であろうと,その背後にはすでに何らかの予見( Voraussicht )や帰納( Induktion )が働いているという。「<見られる〉事物はつねに,われわれが実際に,そして本当にそれについて見ている以上のものである。見るとか知覚するとかということは,本質的にそれ自体をもつということであるが,それは先所有( Vor-haben )や先思念( Vor-meinen )と一体をなしているのである。先所有を伴うすべての実践は帰納を含んでいる……」( VI,51 )

 したがって生活世界における人間の生というのは,数多くの現実的・可能的予見や帰納の地平によって,とりかこまれ,それによって支えられながら生きているだ,ということになるのである。フッサールは,ガリレイ以来の近代科学の固有の使命は,まさにこの生活世界における素朴な予見や帰納を無限に高めることにあったのだ,という。すなわち科学というのは,生活世界において現実に経験されうるものや経験可能なものの内部では、もともとそれしか可能ではない粗雑な予見を,無限に進行する「学的」予見によって修正するための「方法」なのであり( VI, 52 )、したがって「科学的真理」というのは日常的自然的生の予見を無限に高めた予見・帰納にほかならないというのである。

 しかしながら,そのようなものとしての科学的予見は,それがどんなに精密な帰納的論証にもとづくものであれ,限りないひろがりをもった生活世界的経験の地平について,完全に論証し尽すことは不可能なのであり,したがってそれはたえず新たな,さらに高度の帰納によって改良されなければならない仮説でしかありえないのである。その限りで,「科学的真理」というのは,生活世界における人間の生の地平を形成する,多くの予見のうちのひとつでしかなく,したがってそれは究極的には,当然生活世界の統一のうちに帰属すべきものなのである。( VI, 134 )

 ところが,諸科学は,近世におけるその出発以来,その「客観的真理」としての仮説を仮説として認めず,それだけがすべての可変的なものから独立して,絶対的に存在する真理である,とする客観主義的確信によって導びかれてきたために,直観的な生活世界については,それは,そこにはいかなる真の知も,真の学も存在しえない,〈単に主観的−相対的〉なドクサの領域でしがないとして,侮蔑的に取り扱ってきたのである。( VI, 127 )しかし,フッサールは,まさに〈単に主観的−相対的直観〉の領野としてのこの「生活世界」こそが,あらゆる帰納が(それが学的なものであれ,学以前のものであれ)そこに検証の場を求めなければならない,根源的明証性の領域なのである,と主張するのである。「すべての帰納は,それが直観されうるということ,可能的にそれ自身として知覚されうる,あるいは知覚されたものとして想起されうるということのうちに,その帰納の意味をもつ。」( VI, 130 )したがって科学的理論も,それがいかに精密な帰納によって形成されたものであれ,その真理の妥当性については,つねに何らかの仕方で,直観的に確証されなければならない,ということになるのである。フッサールは,科学がその理論形成とその自己検証のために使用するモデルというのは,まさに生活世界的直観にほかならない,というのである。( VI, 132 )


〔3〕

 ところで、われわれは生活世界と客観的学が対象とする世界との対比から出発した、フッサールの「生活世界」論がここでやっかいな状況におちいっているのに気づく。特定の理論的研究態度の相関者としての客観的世界は,さしあたっては,あらゆる可能的,現実的実践の普遍的地平として,直観的に経験される生活世界から明確に区別された。ところが他方では,目的形成体としての客観的世界が,あるいは客観的学そのものが人間の数多くの理論的・実践的営為のうちにひとつとして,結局はその根源的な意味基盤としての生活世界の普遍的な具体相に帰属すべきものであることが明らかにされたいま,生活世界と客観的学的世界との対比はもはや消滅してしまうのである。「ここで再び事態は混乱してくる。あらゆる実践的世界,あらゆる学は生活世界を前提にしている。つまりそれらは目的形成体として自ずからいつもすでに,また絶えず存在している生活世界と対比されることになる。しかし他方では人間が関与することをとおして生成するもの,あるいは生成したものはすべてそれ自身生活世界の一部分である。したがってそれらと生活世界との対比は止揚されてしまう。」( VI, 462 )

 ここに表明されている生活世界の逆説的な存在状況はどのように理解されるべきなのか。クレスゲスは,生活世界に対するこのようなフッサールの定式化においては,客観的学的世界との対比によって生活世界の構造を解明しようとした,出発の視点はすでにすてられている,とみなければならないという。なぜならここでは生活世界はもはや単なる主観的−相対的な直観的経験の相関者としてみなされているのではなく,生活世界の経験主体やさらにはその経験主体の理論的実践的な生のすべての営みとともに,いっさいの学をも含む,ひとつの全体としてみなされているからである*12。「具体的な生活世界は ”学的に真の” 世界に対しては,それを基底づける基盤であるが,同時に生活世界独自の普遍的具体相においては,学を包括するものである。」( VI, 134 )

 したがって,フッサールの「生活世界」の概念には,明らかに二義性が含まれているとみなければならない。すなわちフッサールが,「生活世界」という概念について語るとき,彼は一方では客観的学,およびそれが対象とする世界との対比によって得られる,狭い意味での生活世界について語りながら,他方ではその全具体相のなかに,客観的学的世界を含めての,あらゆる目的世界,あらゆる実践的世界を包括し,さらには上述の狭い意味での生活世界をも包摂する,最も広い意味での生活世界についても語っているのである。そして,フッサールは「 ”学的に真の” 世界に対しては,それを基底づける基盤でありながら,同時にその独自の普遍的具体相においては学をも包括するものである」という,まさにこのように背理にみえる,すべてを包括するような生活世界の存在様式を体系的に考察することこそが,「生活世界」論のさしあだっての具体的な固有の課題にならなければならないとしているのである。( VI, 134 )

 われわれは,ここではさしあたり,フッサールが「生活世界」概念のこのような二義性から免れるために,どのような議論を展開しているか,ということの吟味から出発しなければならないのであるが,その前に「 ”学的に真の” 世界に対してはそれを基づける基盤でありながら,同時にその独自の普遍的具体相においては学をも包括するもの」といういい方で定式化されている,生活世界の逆説的存在様式のうちに,具体的にどのような問題がかくされているのか,ということを改めて確認しておかなければならない。

 さしあたっての考察においては,生活世界が論理的な客観的学的世界に対して,「基盤」としての機能を果たしうるのは,それがまさに〈原理的に直観可能な〉根源的明証性の領域であるからであるとみなされてきた。しかし〈原理的に直観可能なものの総体〉といういい方で表明されている,生活世界の規定が具体的にどのような意味で語られているのか,ということについては必ずしも明確ではない。フッサールは,一方ではこの〈直観可能性の総体〉をいたるところに,同様に現存しているものであるかのように,したがっていたるところでいつでも近づきうるものであるかのように語りながら,他方ではそれは決してそのようにいつでも近づきうるようなものではなく,むしろそれはすでに比較的反省をとおして得られた,具体的アプリオリであるかのようにも語っているのである。

 ランドグレーベは, <直観可能性の総体〉がこのような曖昧な,二重の意味で語られているのは,フッサールの「生活世界」理論がさしあたり生活世界と客観的学的世界との対比をとおして展開された,という事情と密接にかかわっているという*13。この対比においては,客観的学的世界が理論的構築物として,原理的には決して直観されえない世界であるのに対して,生活世界はすべての点において現実に経験しうる世界であるとして,すなわち〈原理的に直観可能なものの総体〉,あるいは根源的明証性の領域であるとして規定された。そしてそのさいの〈直観可能性〉というのは,与えられたものが知覚において直接に現前して,「それ自体」として経験されることとして理解されている。(VI, 130)したがって,この意味で理解された〈直観可能性の総体〉としての生活世界というのは,感性的知覚において与えられる事物の領域の総体として理解される*14ということになるであろう。

 ところが,フッサールは他方ではそれが〈すべての世界に共通な普遍的構造〉を意味しているかのようにも語っているのである。ランドグレーベは,フッサールが〈根源的明証性〉という規定が何を意味するか,ということを説明するために引いている事例から,そのようなフッサールの構想を読みとることができるという*15。たしかにフッサールは,たとえばヨーロッパ人とインド人あるいはシナ人といった異民族が相互に了解しうるのは,それぞれの世界がまったく相対的なものでありながら,それらのあいだにはやはり共通の普遍的構造があるからである,といういい方で生活世界の相対性のうちに独特のアプリオリな構造が支配している,ということを示唆している。( VI, 142 )「あらゆる実践的形成体(文化的事実としての客観的学の形成体も含めて)を,そのままうちに含む生活世界は,もちろんたえず相対性の変移のうちにありながら,主観性に関係づけられている。しかし生活世界はいかに変移し,また訂正されようとも,それは本質法則的類型( Typik )を固守している。」( VI, 176 )

 ところで,この生活世界のアプリオリな普遍的構造というのは,いったいどういうものなのか。フッサールは,さしあたっての考察においては,それを「生活世界において,あらゆる相対的なものの変移のうちにあっても,不変のままにとどまるような形式的普遍的なもの」(VI, 145,)あるいは「あらゆる世界生活生活世界をその『基盤』とするあらゆる学を拘束している不変的類型」( VI, 176f )として規定し,「生活世界に固有な,アプリオリな学において展開されるべきこのアプリオリに立ち帰ることによって,われわれのアプリオリな諸学,すなわち客観的論理的学は真に徹底的な,誠実な学的基礎づけを獲得しうるのである」( VI, 144 )という。したがってそのように客観的論理的アプリオリを基礎づけるべきものとしての生活世界の普遍的構造は,「普遍的で前論理的なアプリオリ」として理解されねばならないというのである。しかしそのような生活世界の普遍的アプリオリがそもそも具体的にどのような構造をもち,それがどのような仕方で解明されうるのかということについては,ここでは必ずしも明確に語られていない。

 たしかに,フッサールはここで生活世界の普遍的アプリオリを主題とする,生活世界の存在論の可能性を示唆している。しかもそれが超越論的還元をまつまでもなく,自然的態度においても可能であるかのようないい方で,表明されているのである。「本来それ(生活世界の本質類型)は,超越諭的な関心がまったくなくなっても,したがって『自然的態度』をとっていても,もっぱら経験の世界として考えられた生活世界の(……)存在論という独特の学の主題になることもできたであろう。」( VI, 176 )しかし,ここではそれはまさに示唆にとどまっているだけで,それが実際にいかにして可能なのか,ということになると,やはり明確には何も語られていないのである。むしろフッサールは,別の箇所では,生活世界の問題体系の固有のテーマが,そのような具体的なアプリオリの存在論にあるのではなく,もっとはるかに大きな超越論的哲学の課題を引き受けることにあるのだ,ということを明言しているのである。「われわれは,その問題(生活世界の存在論)にかかわっているよりむしろ,よりはるかに大きい課題に進むことにしょう。(……)同じように生活世界に本質的にかかわるが,しかし存在論的ではないこの新しい主題への途を拓くために,われわれはひとつひとつの一般的考察を,しかも生活世界に目ざめて生きている人間的立場で(判断中止の範囲で)行なってみよう。」( VI, 145 )

 いったい,フッサールがその「生活世界」理論の展開において,このように生活世界の存在論とは別の主題に,すなわち超越論的哲学の課題への途をきり拓かざるをえなかっだのは何故なのか。すなわちフッサールが,明らかにその可能性を示唆している,自然的態度における〈生活世界の存在論〉への途をとらずに,生活世界と生活世界的対象がどのような仕方で主観に与えられるか,ということを主題的に反省してゆく,という超越論的哲学の課題( VI, 145f )に移行せざるをえなかったのは何故なのか。


〔4〕

生活世界」理論における超越論的態度への移行の動機については,フッサール自身は必ずしも明確には語っていないが,ランドグレーベも指摘するように*16存在論としての生活世界理論の構想そのものにそもそもの難点があったのだ,とみなければならないであろう。もちろん,フッサールがここで示唆している普遍的本質論としての生活世界の存在論が,伝統的形而上学の意味での存在論ではなく,彼がすでに『イデーン』?において呈示している,「領域的存在論( regionale Onto-logie )」の意味での存在論であるということは明らかである。この存在論のめざすさしあたっての目的は,形相的還元によって,すべての存在者の領域をその本質類型において明証的にしてゆく,というところにあった。したがってその上うな意味で理解される生活世界の存在論においては,〈世界〉というのは,その上うに本質類型にしたがって区別された存在者の領域の総体である,ということになろう。たしかに、フッサールはまさにこのような意味で生活世界を「物の全体( All der Dinge )」( VI, 145 )とか,「生活世界的対象の宇宙( Universum lebensweltlicher Objekte )」( VI, 176 )といういい方でよんでいるのである。

 ところが,フッサールは他方では世界の存在様式の固有性をその中にある多様な存在者のそれとは原理的に異なるものとして,次のように表現するのである。「世界意識と事物意識,すなわち対象意識(最も広義の,しかし純粋に生活世界的意味においての)とのあいだには,その意識の仕方において,原則的な区別が存する。(………)事物や対象は,われわれにとってそのつど妥当するものとして与えられているが,しかしそれらは原理的に物として,つまり世界地平のうちにある対象として意識されるという仕方でのみ,与えられているのである。それぞれの事物は,われわれにとってつねに地平として意識されている世界の中の何ものかなのである。(……)他方,世界はある存在者,ある対象のように存在するのではなく,それに対しては複数が無意味であるような唯一性において存在しているのである。」( VI, 146 )

 ここに表明されている,〈地平〉としての世界が,もはや存在論的概念ではなく,超越論的概念であるということは明らかである。というのは,「地平という概念は,生活世界と生活世界の経験主観が相関していることを反省することによってすでに出てきているものである*17」からである。クレスゲスは,「フッサール生活世界という概念は,もともと存在論的なものと超越論的なものとのまざりあった混成概念( Zwitterbegriff )なのである」*18という。しかしもしそうだとすれば,「生活世界」をもっぱら存在論的に扱ったり,あるいはもっぱら超越論的に扱ったりするということが,そもそも可能なのであろうか,という問題が起ってくる。少なくとも「生活世界」という概念を,もっぱら存在論的概念として把握してゆく,という可能性はたたれているとみなければならない。というのはもしも生活世界の概念をその上うにもっぱら存在論的に把握しようとするならば,生活世界は〈それ自体で存在する〉存在者の総体である,ということになってしまい,その限りでそれは,〈主観的相対的直観〉に与えられ,まさにそのようなものとして客観的学的世界に対して地盤としての機能を果たすものとして規定された,狭い意味での生活世界の概念とは無縁のものとなってしまうからである。

 しかし,他方「生活世界」概念をもっぱら超越論的哲学の課題として考察してゆく,という途にも困難な問題が山積している。その場合,「生活世界的対象の宇宙」とか「存在者の総体」といういい方で定式化された,広い意味での生活世界の概念の存在論的規定はどのように克服されることになるのか。そもそも生活世界をもっぱら超越論的に問うとはどういうことなのか,そもそも「生活世界」論における超越論的態度への移行にどのような必然性があるのか。われわれは,さしあたり生活世界概念が何故にその上うな超越論的哲学の問題体系において問われなければならないか,という問題に立ち入るにあたって,フッサールが『イデーン』?において呈示している,〈自然的生における世界意識〉の志向的分析に手引きを求めることにする。「(自然的態度において)わたしはひとつの世界を,すなわち空間において無限にひろがり,時間において無限に生成し,生成してきた世界を意識する。わたしが世界を意識しているということは,何よりもまずわたしが世界を直接的に直観的に眼前に見い出すということ,すなわちわたしがそれを経験するということを意味する。何らかの仕方で空間的に配置されている物体的事物は,わたしがそれにとくに注意したり,観察したり,思惟したり,意欲したりしながら,それにかかわっていようがいまいがその上うなことには関係なく,見たり,触れたり,聴いたり等のことによって,すなわち種々の仕方の感性的知覚において,わかしに対して端的にそこにある,つまり眼前に( vorhanden )ある。」( Ill, 48 )しかしそのさい世界そのものは主題的に存在しているわけではない。というのは自然的態度においては,われわれは世界のうちの諸事情にむかっているのであり,世界そのものにむかっているのではないからである。( VI, 148f )

 したがって,われわれが自然的生において,世界を主題的に問おうとするときは,ごく自然に,世界とは〈諸実在の総体〉であるとか,あるいはく知覚的に与えられた事物の総体ドであるとか,あるいは〈空間時間的に配置された事物の全体〉( VI, 145 )であるとか,というような存在論的概念によって規定したくなるのである。しかしブラントが指摘するように,そのような〈諸実在の総体〉というような自然的世界概念は,あまりにも漠然としていて,結局のところそれは世界について何ごとも明らかにしてくれないし,そもそも〈空間時間的存在の総体〉などという世界は,われわれにとっては決して与えられはしないのである*19

 ランドグレーベも,実在性の総体という存在論的概念は,フッサールが考えるような,自然的生活の可能的経験の対象となりうるものではなく,それはもともと哲学的抽象に由来する概念なのである,という。*20そして彼は,自然的生における,あらゆる学や哲学に先だつ,われわれの世界理解の相関者ということならば,むしろ〈地平の総体〉としての世界規定の方がより適切であるというのである。たしかに,晩年の労作である『危機』におけるフッサールは,自然的生におけるあらゆる実践の普遍的領野としての世界を<普遍的地平〉として理解している。「自然的生は,それが学以前の関心であれ,学的関心であれ,あるいは理論的関心であれ,実践的関心であれ,それらの関心によって動かされながら,普遍的地平において生きている。」( VI, 148 )もとよりこの普遍的地平としての世界も,自然的生にとって主題的に存在しているわけではない。というのは通常の自然的生というのは,「そのつどの目的に関心をうばわれた生」なのであり,「そのつど与えられた対象へまっすぐに向かい,したがって世界地平の中に入りこんで生きている生」( VI, 148 )なのであり,したがってそのような自然的生にとっては,世界はすべてのわれわれの目的・目標をつねに包括している地平として,明確に名ざされたり,主題にされる必要がないほどに自明的なものとして,不問のままにうけいれられているからである。

 しかし,自然的生はそれにもかかわらず,たとえば他人がときには自分の目的と一致しえない,他の目的や目標を有するということ,他人がおそらく自分には知られない,あるいは理解されえない他の目的を有しうるということ,すなわち他人が自分の地平を超えたところにある目的を有しうるということを知っている。つまり自然的生は,各人がそれぞれの,しかもそのつどのパースペクティヴに対応して現われる地平としての,多様な特殊世界を有しているのだ,ということをすでに知っている。ランドクレーべは,通常の自然的意味で理解される〈地平〉というのは,まさにこのような生のパースペクティヴによって限定された周囲世界にほかならない,という*21

 しかし,フッサールが「具体的普遍性」とか,「あらゆる実践の普遍的領野」として規定している生活世界が,このようなそれぞれのパースペクティヴに対応して現われる特殊な世界地平ではなく,そのような特殊世界のすべてを包摂する, 〈地平の総体〉として考えられている,ということ*22すなわちフッサールが,「それに対しては複数が無意味であるような唯一性において存在するもの」として語る,〈世界地平〉というのは,そのつどの特殊な生の関心によって規定された地平のすべてを超越している〈総体地平〉*23として考えられている,ということは明らかである。したがって自然的生におけるわれわれは,一方ではそのときどきのパースペクティヴに応じて,多様な特殊世界に生きている自己を意識しながら,他方では,それらの特殊世界の生のすべてが,ひとつの包括的世界地盤における出来事である,ということをすでに知っているのだということになる。「われわれの理論的,実践的主題のすべては,つねに世界という生の地平の通常の統一性のうちに存在する。世界は,あらゆるわれわれの作用,すなわち経験し,認識し,行為する作用が,そこに向けられている普遍的領野である。」( VI, 145f )

 ところで,世界がもしもこのように,われわれの作用のすべてがそこへ向けられている普遍的領野であるとすれば,そしてそれが自然態度の一般定立によって,すでにそのようなものとして自明的に与えられ,その上うに存在するものとしてうけいれているとするならば,われわれがそのような自然的態度を放棄し、生活世界の自明的先所与性( Vorgegebenheit )をもっぱら超越論的主観性の問題体系の中で解明してゆくという,超越論的態度に向かわなければならないのは何故なのか。そもそもその上うな超越論的立場への移行にどのような意味があるのか。


〔5〕

 「あらゆる現実的可能的実践の基礎的地盤としてあらかじめ与えられてある世界」としての生活世界をまさにその自明的先所与性において問うという,「生活世界」理論の脈絡における,超越論的主観性への帰還の要請がもはや『イデーン』以来の「デカルト的方途」におけるそれとはまったく別の立場からの要請である,ということは明らかである。フッサールは,『危機』において,生活世界の先所与性と自明性の構造の解明に着手するにあたって,従来の「デカルト的方途」を顧りみて,次のように述懐している。「この方途は一躍すぐに超越的自我に到達するようであるが,これに先だつ証明がすべて欠けているために,この超越論的自我は,明白な内容を欠いたまま,明るみに出された。そこで人は,さしあたっていったい何か得られるというのか,まったくわからなくなるし,それだけでなくそこからどうして哲学にとって決定的意味をもつ,まったく新たな種類の基礎学が得られるというのか,まったくわからなくなるのである。」( VI, 158 )

 自然的態度の一般的世界信憑に対する徹底的エポケーから出発して,「我思う,我在り」の絶対的明証性を発見し,そこに世界存在の可能性の根拠を見ようとしてきた,デカルトに倣った現象学的還元の方途においては,なるほど世界存在はそのエポケーによって,否定されたり,放棄されるのではなく,〈世界の現象( Phanomen )〉として,すなわち超越論的主観性の能作の相関者の総体として,括弧の中に保持されつづけるのである,といわれる。しかしそのような〈世界の現象〉が自然的生のわたしにとって,つねにあらかじめ与えられてある生活世界に対して,どのようにかかわっているのか,ということについてはそこでは何も語られえないし,そしてまたまさにそのような世界を構成し,基底づける主観性とみなされている超越論的自我そのものにしても,それはつねに匿名的に構成的機能を果たしている自我である,といわれるだけで,それ以上のことはついては,そこではやはり明確には何も規定されえないのである。

 したがって,「あらゆる人間にとってつねに自明的にあらかじめ与えられてある世界」を学的主題として問う,という哲学史上類例をみない独特の基礎学としての「生活世界」の学を構築せんとするフッサールは,ここで「デカルト的方途」によって,何か得られるというのか,まったくわからなくなる,と途方に暮れているのである。

 このような方法論的苦境の中で,フッサールが新たにとった態度は,世界信憑を先行的に排除することから出発する、「デカルト的方途」に対して、「純粋に自然的世界生から新たに出発し」( VI, 156f )、その世界の存在・非存在については不問に付したまま,そこに「世界があらかじめ与えられてあるその与えられ方の如何( wie )」に注目し,そうすることで世界をその与えられてあるがままの構造において問うという,「非デカルト的方途」である。( VI,157 )

 この方途は,『危機』に先だって,すでに『第1哲学』において構想されているものであるが,そのさいこの方途の構成を動機づけているものは,「デカルト的方途」においてすでに得られた,次のような洞察である。「わたしに対してそのつど現に存在する,すべての客観的なものは,すなわちそのつど何らかの意味でわたしにとって存在するものとして妥当する,すべての客観的なものは,何らかのわたしの固有の意識能作からのみ,その意味と現出仕方と妥当をくみとりえた。」( VIII, 139 )しかし,ここに表明されている限りでの世界の〈わたしに対する存在〉の洞察も,すなわち「世界はそれ自体として端的に存在するのではなく,意識の相関者としてのみ存在するのである」という洞察も,ことさら超越論的−現象学的考察をまつまでもなく,自然的生の反省のうちにすでに体験されうる世界意識でもある,ということはフッサール自身が認めていることであった。

 フッサール生活世界の先所与性への超越論的問いを主題的に展開する前に,カントの理性批判の問題提起における,〈問われることのない前提〉としての生活世界の存在の自明性について次のように語っている。「当然のことながら,カントの問題設定においては,哲学研究をしている,当のわたしを含めた,われわれすべてが意識的に生存している日常的な生活の周囲世界が,あらかじめ存在するものとして前提にされている。われわれは生活世界の立場からいえば,この世界のうちの諸対象とならぶ対象なのである。(……)他方われわれはこの世界に対する主観でもある。すなわち世界を経験し,考察し,評価し,それに合目的にはたらきかける自我主観であり,この自我主観にとってのこの周囲世界は,われわれの経験,わわれわれの思想,われわれの評価などがそのつどその世界に与えてきた存在意味しかもっていない。」( VI, 106f )

 われわれはわれわれの経験をとおして,世界にその存在意味を与えている主観である,と同時にわれわれはつねに世界における客観としての人間である,というこの論定は明らかに自然的な世界内部的反省の世界経験の表明である。しかし,それにもかかわらず,ここに表明されている世界意識が,もはやたとえば「世界は直接的に直観的に現に存在する」とか,あるいは「世界の事物は。(……)わたしに対して端的にそこにある,つまり眼前にある」( Ill, 48 )というような仕方で,『イデーン』 ?において定式化されている,素朴な自然的生の世界信憑にとどまるものではない,ということも明らかである。この『危機』の世界認識においては,少なくとももはや世界は自明的に前提された,問われない〈経験の事実〉などではなく,わたしのそのつどの経験の相関者と見なされなければならない,ということが明確に語られているのである。すなわちここには,自然的生における人間としてのわたしは,それ自体として存在する世界にかかわっているのではない,ということ,つまり「わたしにとっての世界というのは,つねにわたしが語り,そのつど語りうる主観的−相対的世界にすぎない」*24という,経験批判が表明されているのである。

 ところで,わたしがそのつどかかわっている世界が決してそれ自体として存在している世界ではなく,わたしがそのつど語りうる世界にほかならない,というこの自然的生の経験批判は,世界がもっぱらわたしの統覚とそれに帰属する妥当遂行にもとづく統一体にほかならない,という洞察の表明でもある。したがって,アグィーレは,この自然的生の経験批判のうちには,すでに世界は主観性の能作形成体である,とする超越論的省察の洞察が予示されているのであり,したがってまさにここに,フッサールの超越論的判断停止の必然性があるとみるのである。*25「わたしは,わたしが語っている,そしてそのつど語りえた,そして語りうるであろう,存在する世界をわたしの妥当能作にもとづく存在者として認識したのである。(……)このように明らかになった限りで,わたしはわたしか有している,すべての信憑をやめることができる。」( IX, 464 )

 とはいっても,自然的生においては,わたしは世界を経験する人間として存在しているのであり,すなわち世界の成素として存在しているのであり,したがってわたしが自然的生にとどまる限りでは,世界はわたしにとってつねにあらかじめ,わたしに先だって存在しているものとして前提にされているのでなければならないことになる。その限りで,自然的生のわたしにとっては, 〈世界の先所与性〉を主題的に問う,という途はとざされざるをえないのである。「自然的世界生は世界を妥当させているが、そのような能作している生は,自然的な世界生の態度では研究されえない。」(VI, 151)

したがって,世界の先所与性を超越論的主観性の能作との相関関係において解き明かそうとする,フッサールは自然的世界生の態度を全面的に変更する,普遍的判断停止を要請するのである。

  ところで,ここでフッサールが要請する全面的判断停止というのは,単に自然的生の個々の妥当遂行を1歩1歩さし控えてゆく,という程度の一般的判断停止を意味するものではありえない。自然的態度の全面的変更の要請としてのそれは,自然的な世界生の全体と妥当性の入りくんだ網とを貫通している遂行作用の全体を,はたらきの外におく( VI, 153 ),という,「他に類のない普遍的判断停止」( I, 151 )である。そしてそれは,フッサールにとっては,く世界があらかじめ与えられてある〉という,あまりにも自明的であるがゆえに,最も頑固で,最も普遍的で,最も奥深くかくれている自然的生の内的拘束からの徹底的自己解放を意味していた。( VI, 154 )

 自然的生においては,世界はそこにまっすぐに入りこんで生きてゆくものにとっては,端的にそこにあるものであり,問われることなく眼前にある世界として自明的にそこにある。すなわち自然的世界生の素朴な態度においては,世界はそれ自体として,絶対的に独立的に存在している世界であるかのように,うけいれられている。したがって,そのような自然的態度にとどまる限りでは,まさにそのような世界とその世界妥当を能作している主観性,あるいはそれをたえず獲得するという形で,そのつど所有し,かつつねに能動的に新たに世界を形成しつつある主観性との普遍的相関関係への問いなぞは起こりえないのである。それゆえに,フッサールは,世界と世界意識との普遍的相関関係を露わにするためには,〈世界の先所与性〉という,自然的生の最も奥深い内的拘束から徹底的に解放されなければならない,というのである。その解放の中で,われわれは,完全に「関心を離れた」観察者として,日常的世界を,すなわちつねに存在するものとして,またしかじかであるものとして妥当していたし,いつもわれわれにとって妥当しつづけている世界を,いかにそれが主観的に妥当しているか,という観点から考察することができるようになるのである,というのである。( VI, 160 )したがって,フッサールは,この全面的判断停止によって,自然的生の世界確信やその世界の客観的真理性を全面的に拒否しようとするのではなく,その全体を括弧の中に留保しつつ,「関心を離れた」観察者としての,超越論的自我の反省をとおして,まさにそのような世界妥当を能作している主観性の志向的構造の糸をときほぐし,そこからいかにして,世界の意味が形成されてくるかということを見きわめようとするのである。


〔6〕

 それでは,その上うな判断停止によって,世界はわれわれにとって,どのようなものもして現われることになるのか。世界はそれ自体として端的に存在するのではなく,わたしに対してのみ存在するのである,というすでにみた経験批判の意味が,いまや超越論的に考察されなければならない。フッサールは,世界は端的に存在するのではなく,自我に対してのみ存在するという。すなわち自我なしには世界は存在しないという。この定式はいったい何を意味するのか。フッサールは未公開草稿において次のように語っている。「世界はわたしなしには考えられない。このことは,自明ながら,人間自我としてのわたしが自分をぬきにして考えるならば,わたしは世界を同一的に保つことができない,というようなことをいっているのではなく,わたしの存在が世界から切り離して考えられない,世界からぬきとることができない,ということをいっているのである。」*26

 ところで,世界はわたしに対してのみ存在し,わたしは世界のうちにのみ存在するという,このいい方も、われわれが一方において諸実在の全体としての世界を所有し,他方ではこの全体に対する自我を所有する,というようなことを意味するものではない。それは,自我とはまさに世界経験的なものであり,世界了解なものであるにほかならない,ということを意味しているのである。「わたしが世界とかかわっている生のうちには,単なる自我が多様な非自我的な存在に対立しているのではなく,すべての所有することのなかに,さしあたってすべての知覚的に所有することのうちに,すでに自我の努力や行為や能力などが潜んでいるということが含まれている。*27

 したがって,ブラントが説明しているように,「存在者は,みずからの地平性のなかで,自分の方からそれを解釈する自我の能力を指示している」*28ということになろう。しかもそれは存在者の存在意味に本質的に属することとして理解されなければならない。そしてさらに存在者の存在意味には,世界妥当性が属しているということを考慮するならば,この世界妥当も同様に自我の能力を指示している,ということになるのである。*29

 ブラントは,フッサールの未公開草稿を引きながら,われわれが,自我はあらゆる存在者の地盤としての世界を所有する,というときの〈所有する( Haben )〉というのは,〈わたしにできる( Ich-kann )〉ということを意味しているにほかならないという。(26)すなわち世界所有といういい方で,われわれがいおうとするのは,たとえば,わたしはこれこれのことを,しかもしかじかに理解することができる,わたしはいつでもこれこれのものをさらに規定してゆくことができる,ときには不一致が現われるとしても,しかし世界の統一のなかで,わたしはわたしの経験を一致にもたらすことができる,ということであるというのである。「世界は,ひとつの能力( ein Vermogen )をいい表わしている。つまり体系的に経験することができ,経験の過程において一致しないものを除去し,そのかわりに正しいものを接合することによって,同一の存在意味を確証することのできる能力をいい表わしている。*30」そして,われわれが世界を「わたしにできる」として所有している,ということそれ自身は、行為において,つまり能力の活動において証示されることになるのだという。*31

 ところで,フッサールが,このように世界とは自我の能力である,というとき,彼はそれ自体においてすでに存立している自我の固有の性質のことを考えているのではない。すなわち,自我が働かせることも,働かせないこともできる『見る−能力』をもっている,というようなことをいっているのではない。彼が考えているのは,世界はいつもすでに存在している先所与性であるが,同時に自我によって把握され,解釈されうるものとしてのみ存在している,ということである。つまり世界とは「地盤を付与するもの」として,一般に自我が個別的なものを理解することが可能であるとともに,同時に存在者や自己自身を理解することが可能であった仕方,現にそれが可能である仕方にほかならない,ということなのである。そういう意味で,フッサールは,世界はあらゆる存在をその概念において規定するところの「世界概念( Weltbegriff )」であるというのである。「あらゆる存在は世界概念,世界法則に従っている。それは何らかの事物の概念もしくはあらゆる事物の概念といったような一般概念ではなく,普遍的規則として,いっさいの事物の存在をそれらの概念性において、したがってそれらの特殊形態において規制するところの、新しい意味での概念である。*32

 したがって,このような自我の能力としての世界,「世界概念」としての世界という,世界の独特の存在は,所与性とそれといっしょに思念されていること( Mitgemeintheit )との間に成立する緊張関係のなかで,「地盤を与えるもの」として自らを告げている*33ということになるのである。与えられたものが与えられたものとして,世界的に存在するのは,まさにこのような緊張関係において以外にはありえないのであるが,この関係において与えられたものそのものは,本質的に自我によって,すなわち世界を経験する自我の能力によって解釈されうるということも指示しているのである。その意味で,ブラントは,フッサールが「世界を経験する生( das welterfahrende Leven )」とよんでいる自我は,自我−主観という世界に対立する主観として考えられているのではなく,世界と自我は,そこでは〈世界内に存在する自我〉という仕方で,相互に分かち難くよりあわされている*34というのである。

 したがって,「意識はつねにあるものについての意識である( Bewuβtsein von etwas )」といういい方で定式化される,古典的な意識の志向性という概念は,十分な意味においては,まさに上述のように徹頭徹尾世界とよりあわされている自我,すなわち〈世界を経験する生〉としての自我の機能として理解されなければならないということになろう。ところで,この機能する志向性は,われわれが自然的態度において諸々の対象性にかかわっているときは,まったくの匿名的な状態にとどまっているのであり,したがってそれがどのように機能しているか,世界意識がそこにおいてどのようにして発生するのか,というようなことは自然的生にとどまる限りでは主題にはなりえないのである。

 けれども,「いついかなるときであれ,われわれが対象を経験するときは,われわれはその対象が何であるか,という点で経験するのであり,そしてそれが何であるか,ということは,それぞれの対象の意味において経験されることなのである。*35」したがって自然的生におけるそのつどの存在者の経験は,すでにつねにその存在者に意味を付与している,〈世界を経験する生〉の志向性の存在を必然的先所与性として,究極的に指示しているということになるのである。

 超越論的現象学的還元というのは,まさにその上うな〈世界を経験する生〉として,匿名的に作動している超越論的主観性の志向性の構造を徹底的に露わにし,そうすることによって世界存在の意味がどのようにして形成されているかを根源的に向おうとすることにほかならないのである。この還元によって,自然的生における世界経験のうちにすでに洞察されていた,機能する志向性としての〈世界と人間〉との普遍的必然的相関関係がいまや超越論的主観性の超越論的構造として露わにされてくる。*36すなわちここでは,世界は超越論的主観性の機能する志向性によって意味的に構成された精神的形成体として露呈され,人間自我は超越論的主観性の自己客観化の所産という,新しい意味を付与されて現われてくる。( VI, 189 )したがって,ここでは〈世界と人間〉というような,世界内部的緊張関係はもはや止揚されているということになるのである。

 しかし,世界的存在としての人間自我をも含めての全世界が,すなわち世界的に与えられるもののいっさいがこのようにして超越論的主観性の能動的構成に転化されるとき,現象学にとって容易ならない問題が起こってくる。フッサールはそれを次のように表現した。「世界の部分的成素である人間主観性が,いかにして全世界を構成するのか。すなわちその志向的形成体として全世界を構成するのか。(………)そうすれば,世界の成素である主観がいわば全世界を呑み込むことになるし,それとともに自己自身を呑み込むことになってしまう。これは何という背理であろう。」( VI, 183 )「世界に対する主観性」であると同時に「世界の中の客観」でもあるという,人間的主観性のこのパラドクスを,フッサール自身は超越論的自我と人間自我とを区別し,そして人間自我は超越論的自我の自己客観化の所産であるとみなすという仕方で,解消させることができるとみている。

 しかし,ブラントが指摘しているように,フッサールがそこで試みているような仕方では,すなわち〈自我と世界〉との志向的相関関係の必然性の根拠をもっぱら自我の側に置きかえ,世界を超越論的自我によって構成された精神的形成体とみなすという仕方では,このパラドクスは解消しえない*37ということについては,われわれはすでに別のところで詳しく吟味しておいた。*38われわれがそこで得た結論は,フッサールが絶対的に孤独な哲学的に省察する自我から出発し,そこに開示される超越的主観性の経験の地盤に固執する限りで,彼は「現実性」への途をみずからとざさざるをえなかったということ,したがって「この人間」というわたしの事実的存在の地平も明るみに出すことはできなかった,ということであった。

 リュッベも,『危機』におけるフッサールの目的が,相互主観性の現実性の具体的規定にあったにもかかわらず,「彼は現象学的に還元された自我から出発して,そこから普遍的相互主観性の人間的領域に到達しなければならない,と信じていたので,『人間性』を意識の作用と内容から構成する,という解決しえない課題をひきうけることになったのだ*39」とし,そしてまさにそれゆえに,人間的「生活世界」の分析という,『危機』におけるせっかくの新しい主題体系も,結局は単なる構想,プログラムにとどまっており,したがってその目的はそこでは達成されていないと批判している。*40

 ところが,ランドグレーベは,すでに引用した最近の論文において,ブラントフッサールの『幾何学の起源』において明確に指示されている、*41〈人間性と文化的世界との相関的存在様式の普遍的歴史性とその歴史性のうちにひそむアプリオリな構造〉を見逃していると指摘し,〈人間性と世界〉のパラドクスを解消するための鍵は,そのアプリオリな構造によって示唆される<生活世界と歴史性〉の問題圏のうちに求められるべきであるという,新たな視点からの議論を展開している。*42

 彼はそのさい〈直観可能性の総体〉という,フッサールの「生活世界」概念の規定とその所与の超越論的構成的制約としての主観性との普遍的相関関係の志向的分析をさしあたっての考察の手引きにするのであるが,その構成的主観性の機能は,そこではもはや単なる認識する主観性の機能としてだけでなく,究極的には感性的−身体的主観性の機能として考察されなければならない,とされる。というのは,〈直観可能性の総体〉としての生活世界の所与の超越論的構成的制約は,純粋に理論的に認識する主観性のうちに求めるというだけでは尽きるものではなく,究極的には感性的−身体的運動感覚( Kinasthesie )の機能のうちに求められなければならないからである,というのである。*43

 われわれが、たとえば自然的生において共通の普遍的世界基盤の所有について語りうるためには,さしあたりその世界基盤についてのそれぞれの印象をかわしあうということからはじめなければならないであろうが,そのためにはつねに思惟能力と言語能力と運動感覚的に機能する身体性とがその不可欠の共通の制約として考慮されなければならないであろう。ところで思惟能力というのは,もっぱら言語的分節において展開されるものであり,そしてさらにその言語的分節というのは,同時に運動感覚的な身体的機能でもあるわけであり,したがって究極的には,共通の普遍的世界の所有の可能性の根本的制約は身体的運動感覚の自己運動において得られる直観的印象の構造のうちに求められなけれがならないというのである。*44したがって,直観的明証的経験の世界としての生活世界の解明は,与えられたものを単にカテゴリーのもとで自発的に思惟してゆく規定だけでは尽されないのであり,究極的にはそのような能動的思惟規定に先立ってある,受動的先所与性を可能にする構造,すなわち感性的身体的運動感覚の構成的機能の構造にまで遡って問われなければならないというのである。

 こうして,ランドグレーベは,生活世界の具体的普遍性としての歴史のアプリオリな構造を構成的機能として理解された,身体的な運動感覚的自己運動の受動志向性の分析をとおして解き明かそうとするのである。

 もとよりフッサール自身は,このような問題体系を主題的に体系的に展開しているわけではないが、晩年におけるフッサールが感性的身体的運動感覚の自己運動を超越論的構成機能としてとらえ,それを具体的な世界地平がそこにおいてはじめて根源的にひらかれてくるところの,究極的関係点としてみていた,という点については大方の異存のないところであろう。*45少なくともフッサールにおける〈感性的身体的運動感覚〉の概念がただ単に人間的主観性のパラドクスをめぐる問題の解明にとってだけでなく,これまでの考察においては,主題的には問われなかった<生活世界の具体的アプリオリ〉の構造の解明にとっても,重要な鍵を握っている概念であるということは疑いえないことであり,その意味で上述のランドグレーベの試みは,われわれ「生活世界」論の考察に大きな示唆を与えるものであるが,ここではわれわれはその可能的展開の方途を確認するにとどめ,その具体的検討は別の機会に譲ることにする。

*1:L.Landgrebe, Die Bedeutung der Phänomenologie Husserls für die Selbstbesinnung der Gegenwart, in: Husserl und das Denken der Nenzeit. ( Phaenomenologica.2 ) S.216

*2Vgl. G.Brand, Die Lebenswelt. S. 8

*3Vgl. L.Landgrebe, op.cit. S. 222f

*4:E.Husserl, Erfahrung und Urteil. ( Felix Meiner ) S. 40

*5:E.Husserl, ibid. S. 40

*6:L.Landgrebe,op. cit. S. 217

*7:L.Landgrebe,op. cit. S. 217

*8:L.Landgrebe, ibid. S. 217f

*9Vgl. G.Brand,op. cit. S. 16

*10:G. Brand, ibid. S. 18

*11:G. Brand, ibid. S. 18

*12:U.Claesges, Zweideutigkeiten in Husserls Lebenswelt-Beeriff, in: Perspektiven transzendentalphänomenologischer Forschung. ( Phaenomenologica. 49 ) S.88

*13:L.Landgrebe, Lebenswelt und Geschichtlichkeit des menschlichen Daseins, in : Phänomenologie und Mαrxismus. 2. 1976. S. 43

*14:L.Landgrebe, ibid. S. 43

*15:L.Landgrebe, ibid. S. 34

*16:L.Landgrebe, ibid. S. 31

*17:U.Claesges, op. cit, S. 97

*18:U.Claesges, ibid, S. 97

*19Vgl. G.Brand, op. cit. S. 85

*20:L.Landgrebe, Lebenswelt und Geschichtlichkeit des menschlichen Daseins. S. 32

*21:L.Landgrebe,ibid. S. 35

*22:L.Landgrebe,ibid. S. 35

*23:G. Brand, op. cit. s. 87

*24:E.Husserl, Manuskript, B I 22 IV.S.42f, zitiert nach A.Aguirre, Genetische Phänomenlogie und Reduktion. (Phaenomenologica. 38) S. 109

*25:A.Aguirre, ibid. S. 110

*26:E.Husserl, Manuskript, C 17 V,S.46, zitiert nach G.Brand, Welt, Ich und Zeit. 1969. S. 19

*27:E.Husserl, Manuskript, C4S.22, zitiert nach Brand, ibid, S. 20

*28:G.Brand, ibid.S. 17

*29:E.Husserl, Manuskript, C4S.22, zitiert nach Brand, ibid, S. 20

*30:E.Husserl, Manuskript, AV3,S.13. zitiert Brand, ibid. S.I7

*31:E.Husserl, Manuskript, KIII 6,S.222. zitiert nach Brand, ibid. S.18

*32:E.Husserl, Manuskript, KIII 6,S.222. zitiert nach Brand, ibid. S.18

*33:G.Brand, ibid. S. 18

*34:G. Brand, ibid. S. 18

*35:G.Brand, ibid. S. 26

*36:H.Hohl, Lebenswelt und Geschichte, 1962. S.45

*37:G. Brand, Die Lebenswelt. S. 106

*38:拙稿「フッサールにおける人間的主観性の自我論的構造──そのパラドクスをめぐって──」(『鳥取大学教養部紀要』第11号)参照

*39:H.Lübbe, Husserl und die europäische Krise, in: Bewuβtitsein in Geschichte. S. 79

*40:H.Lübbe, Husserl und die europäische Krise, in: Bewuβtitsein in Geschichte. S. 79

*41:E.Husserl, Die Frage nach dem Ursprung der Geometrie als intentionalhistorisches Problem. in:Husserliana. VI S. 378ff

*42Vgl. L.Landgrebe, Lebenswelt und Geschichtlichkeit des menschlichen Daseins. S.17

*43:L.Landgrebe, ibid. S.36

*44:L.Landgrebe, ibid. S.36

*45Vgl. U.Claesges, Edmund Husserls Theorie der Raiimkonstitution, III Teil



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