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2012-09-17

時間を忘れる──表象と労働 高橋紀穂

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<要約>

 ジャック・デリダの言語論は言語以外のさまざまな文化現象を射程に入れている。「時間」はそのうちの1つである。本稿では彼の言語論における「差延」の理論を軸に「時間」の本質を読み解こうとするものである。

 議論は以下の手順でなされる。

「1 はじめに」と第2節においては「差延」の理論における表象化の側面を検討する。第3節と第4節の前半では、表象化と時間との関係が考察される。第4節の後半から第5、第6節は「差延」理論をバタイユの「一般経済学」の助けを借りて読み解くことを試みる。

 このような議論の構成により、「差延」という表象化の運動が時開化の運動であり、同時に、それが労働を生起させる運動であることを議論する。

 そして、「7 おわりに」においては上記の内容についての若干のまとめがなされている。


1. はじめに

 本稿は、ジャック・デリダの[時間論]についての考察である。

 今日、デリダの言語論が洗練された議論であることは疑いえない。

 したがって、彼の議論における「時間」の位置づけ、あるいは、その意味を検診することは無意味ではないだろう。

 人間が時間の中で生を営み、そして終わらせるということを考えるならば、時間とは常にわれわれと関わっていることは自明の理である。

 他方、人間が生まれた時から言語の中で生を営み、そしてまた終われせる、ということも明らかである。社会心理学が明らかにしているように言語とは社会化の過程において最も重要なファクターの1つである。

 したがって、デリダの言語論における「時間論」を取り上げることは、言語と社会、あるいは言語と人間についての議論に関わるものにとって少なからず有意義であると思われる。

 ただし、デリダの議論に「時間論」なるものがあるわけではない。

 デリダは言語について言及する際、しばしば時間にも言及する。これは、少なくとも彼の議論において、いわゆる「言語」なるものが時間との関わりを抜きにしては考えられないことを意味している。とりわけ、「差延 différance 」と呼ばれる(概念ならざる)概念は、それが「差異づける」と「遅らせる」という2つの意味を持つことからもっとも時間と言語についての関わりを明らかにするものであろう。

 したがって、本稿でわれわれは分析の手法として、おもに「差延」を中心に時間を考えることになる。

 まず、そこから始めてみよう。


2. 差延

差延」とは何か。

 デリダは自身の作り出すキー・タームに異常なほど慎重に定義づけを行わない。彼の議論において利用される、彼自身が作ったキー・タームはそれ自身、定義を寄せっけない内容を持つ以上、このことは当然であると言えるが、それではここでの議論が進まないので、さし当たってデリダの議論を参考にしながら、できる限りの定義づけを行っておこう。

 まず、ソシュールの議論を踏まえ記号は差異のシステムであることを認めておこう*1。また、そこにおける諸記号はそれ自身積極的に示されるのではなく、他の項によって消極的に指示されるということも覚えておこう。

 次に、われわれの思考と差異との関係を考えてみよう。差異が出来上がった時、記号が形成される。そして、われわれは記号によって思考をなす。

 だとすれば、記号を可能にする差異を形成する運動はわれわれの意識に現われることはない。この差異の運動を思考しようとしても、それ自体が記号を利用している限り、必ず、思考は差異化の運動より遅れてしまう。つまりこの差異化の運動を思考は捉えることはできない。すなわち、差異化の運動がわれわれに現われることはない*2

  「差延」の運動がもしあるとすれば、それはこういったものである。

 それは思考を必然的に「遅れ」だものとする。

 「差延」とはこういったものである。


3. 差延から時間へ

 では、この「差延」と時間がどのように関わるのであろうか。

 ここからはそれを見てゆこう。

 まず、言語、あるいは記号についてのデリダの議論を本稿に関連する限りの範囲で説明しておこ

う。

 記号を差異化された何ものかであると考える以上、音声言語と文字言語──後者は狭義の「エクリチュール écriture 」と呼ばれる──に違いはない。どちらも差異の体系でしがないからである。

「話声言語はまず(中略)エクリチュールである」*3

 このような視点から見れば、われわれが言語に従い世界を切り取り、世界を感じ、それを現象として捉えているとすれば、それが書物を読むことと変わりがないということになる。

 ここでこの「差延」の運動をもう少し詳しく見ていこう。

 「差延」とはまずは「差をつける」ということである。

 デリダはこれを「間隔化 éspacement 」とも呼ぶ。

 さて、現象とは記号によって把握されない限り現象化しない。したがって、この「間隔化」がなければ、現象が現象として浮上しない。したがって現象のはじめには「間隔化」があると考えることができる。デリダはこれを「あらゆる内容規定に先立つ差異を生む純粋な運動」*4と呼ぶ。したがって、極めて抽象的な概念であるが、この「間隔化」こそが差延の運動の正体である。

 われわれの問題へと戻ろう。

 時間と「差延」との関係を追いかけよう。

 「間隔化」は諸記号の諸差異を刻み付ける(だからこそこれは「 écriture 」と呼ばれる)。しかし、それだけではない。現象を浮上させる。すなわち、諸記号間の諸差異をつける運動とは、現象を時間と空間の中に浮上させると言うことをも意味する。

 「間隔化」とは空間的イメージを持っている。しかし、デリダはここに時間の概念もまた読み取ろうとする。それは、以下のような意味を持っている。

「記号作用の運動が可能になるのは、現前性の舞台に現われる「現前的=現在的」と言われる各要素がその要素以外の他のものと関係を持ち、自己のうちに過去の要素の標記を保蔵し、未来の要素との関係の標記によってすでに穿たれるにまかせている、そうした場合に限られる。差延とはこのような事態を生じさせるものである。そしてなぜそういう事態になるかと言えば、痕跡なるものは過去と呼ばれるものに関係を持つばかりではなく、未来と呼ばれるものにも関係を持ち、そして自己でないものへのこのような関係そのものによって現在〔=現前者〕と呼ばれるものを構成するからである。自己でないものと言ったが、それは絶対に自己ではないのであって、言い換えれば変容された現在としての過去や末来でさえもない。現在が現在それ自身であるためには、或る間隔が現在を現在でないものから分離するのでなければならない。けれども現在を現在として構成するこの間隔は、同時にまた現在を現在それ自体において分裂させるのでなければならず、かくしてこの間隔は現在を分別するばかりではなく、現在を基点にして思考可能な一切のものを、すなわちわれわれの形而上学の言語で言えば一切の存在者を、特には実体ないし主体をも分別するのでなければならない。力動的にみずからを構成しつつみすがらを分割するこの間隔、これがつまり空間化すなわち時間が空間となること、あるいは空間が時間となること(時間かせぎ)と呼びうるものである。そしてまさしくこうした〈現在の構成〉──すなわちここで類比的かつ臨時に現象学および超越論の言語を再現して言えば(とはいえこうした言語が不適切であることはすぐに明らかになるが)、もろもろの過去把持および未来予持および末来予持の標記・痕跡からなる「根源的な」綜合、還元不可能なほど非一単一的な、つまり厳密な意味では非一根源的な綜合──そうした綜合としての〈現在の構成〉、これこそを私は現−エクリチュール、現−痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。差延(は)空間化(と同時に)時間かせぎ(である)」*5

「間隔化」とはこのように空間化と時間化をともに行う。ただし、これはわれわれが日常感じている直線的な時間を生み出すだけではない。それは、直線約な時間を破壊するものでもある。「一切の存在者」を「分割する」とはその意味でとらなければならない。

 現象は「差延」の効果として現われる。それは一種の記号の効果でもある。しかし、それは、何か実体、本体、物質、そういったものがあってそれを表象したものではない。時間や空間を「差延」が生み出すとすれば、最初にあるものが「差延」なのであり、最初にあるのが記号の効果なのである。さらにわれわれは「差延」の運動それ自体を思考、指示することはできない。先に述べたようにわれわれの思考が作動するのは、その効果によって記号が形成された後でしがないからである。「差延」の運動を思考、指示することさえできないということは、記号に対する本体が不在であると認めるごとに等しい。あるいはまた、記号には根拠がない、と認めることに等しい*6

 本体を持たない記号とはその定義上どのようにも読み取られることができる。つまり、それは同一性を持たない。「存在者」が「分割」されるとは、たとえ人間とて、この状況から逃れることはできない、ということを意味している。ここにおいてあらゆるものの同一性にゆさぶりがかけられることになる。

 人間としての個体は直線的な時間の持続を無条件に認め、その中で自己の生と同一性を抱きしめている。しかし、デリダはこれにもゆさぶりをかける。自己もまた、現象であり、「差延」の効果であるとすれば、それは本体を持たないのだから「私は今生きている」を十全に確証することなど決してできない。「私は死んでいる」かもしれない。その可能性を消すことはできない*7。実際「死んでいる」か「生きている」か分からない時間を経験したことは誰にでもあるだろう。その瞬間を想起すれぱ事は足りる。しかし、通常われわれはそうした時間を経験したあと、それを忘却したり、否定したりする。他方、デリダによれば、そういった時間を持つことは何1つおかしなことではない。個体の同一性が十全に充たされることがない以上こうした事態の方が普通であるとさえ言えよう。このようにして一直線に描かれる時間はかき乱されることになる。


4. 差延から一般経済学

 では、われわれが通常感じている直線的な時間と[差延]についての関係とはいかなるものか。

 ここからはこれについて考えてみよう。

差延」とは間隔化の運動──これが常に運動の中にあるということは注意すべきである──である。それは何かから何かを引き離し、記号、あるいはマークを生み出す。

 上述のように「差延」によってのみわれわれが現象を把握できるとすれば、われわれが本体にたどり着くことは不可能である。

 この議論を、何か「理解不能」のものがありそれが「差延」をひきおこしている、と捉えると、デリダの議論の中に否定神学の色彩を見取ることができる。つまり、何か分からないものがある、それがわれわれの世界の根底にあり、このものが「差延」を引き起こす、と考えればいいのである。そうすれば、最終的に記号はそこに収束され、体系を持つことができる。このように考えれば、デリダの議論は否定神学となり、そうとして批判することも可能である。確かに、前期デリダはこういった限界点を持っている*8そしてまた、後期のデリダはこの体系に逆らうことになるだろう。われわれはここではさしあたり、前期デリダの議論が含むこの限界を認めた上で、次へ進もう。

 何ものかの「差延」により時聞か生成する。つまり、「間隔化」こそが時間化、すなわち時間を生み出す、と言われている。

 その含蓄とはいかなるものか。

 デリダフロイトを引き合いに出して、次のように言う。

差延の一見したところ異なる2つの価値がフロイト理論では結びつく。2つの価値とはすなわち1つは識別可能性、区別、隔たり、間隔、つまり間隔化としての différer 、そしてもう1つは迂回、遅延、保留、つまり時間かせぎとしての différer のことである」*9

 この「時間かせぎ」とは、時間の生成のことを意味している「この時間かせぎはまた時間化〔 temporalisation 〕と空間化〔 espacement 〕」でもある*10

 この「時間かせぎ」の正体とはいったい何か。

 デリダは言う。

 「痕跡の運動は次のようなものとして記述される。危険な備給を差延することによって、つまり或る貯蔵=保留( Vorrat )を構成することによって自己自身を保護する生命の努力として記述される・・・快感原則と現実原則との差異は、迂回( Aufschieben〔押し開くこと、延期〕、Aufschub〔延期〕)としての差異に他ならない」*11

 この間隔化は何がしかが己の力を爆発、解消、破壊、消費、するのではなく、それを「貯蔵=保留」することによってなされる(またもや「何がしか」を想定しなければならない)。

 ここでデリダの議論は経済学エネルギー論と化す。その根底にバタイユの「一般経済学」があることを見て取ることはたやすい。実際、デリダ論文差延」においてバタイユの「一般経済学」に言及している*12。われわれはここで、このバタイユの議論を見てみよう。

 バタイユは、自身の議論をきわめて進化論的に構築している。つまり、人間もまず最初は動物であったことを主張する。

 このことはバタイユの議論を考える際、きわめて重要であることを指摘しておこう。では、バタイユにとって動物とはいかなるものか。彼は言う。

「動物は世界の内に水の中に水があるように存在している」*13

 バタイユが強調しているのは、動物には人間のような意識がないということである。これは、まるで意識がないということではない。恐らく動物も何事かを察知し補足し、とらえ、食するだろう。しかし、それは人間の意識のようなものではない。バタイユはそう考えている。すくなくとも、物を把腹する際、つまり、認識という事態において、人間はきわめて言語に拠っているということである。そして、この点を考える限り、動物の意識と人間の意識は大きく違う。

 われわれは世界を言語によって、ばらばらに切り刻み、そのあと把握する。

 ところが、言語を持たない動物はそんなことはしない。つまり、自身を世界の中で切り取ったりしないし、対象として世界を切り刻んだりもしない。

 だからこそ、「動物は水の中に水かあるように存在している」と言われる。

 さて、人間はこの「水」から出てくる。なぜ、どのようにしてか。


5. 一般経済学

 その原因は「過剰エネルギー」にある。バタイユによれば、この世界は「過剰」に満ちている。なぜなら、この世界は太陽からエネルギーを受け取っており、その太陽とは「与えるだけで決して受け取らない」からである*14

 したがって、人間にとって最大の問題とは「生産ではなく消費」である。

 そして、人間が動物から抜け出すゆえんもこの「過剰」に端を発している。動物の進化とはこの「過剰」の消費のためである。このことはとりわけ人間にはそうである。人間はサルから進化していると言われているが、生存を保つということに焦点を当てた場合、サルも生きている以上、人間が行っていることはまったく無駄なことであると言うことになる。これは、身体に宿る[過剰]エネルギーの単なる消費でしかない。

 この過剰の消費によって、人間は動物から抜け出す。

 契機は2つある。1つは道具の使用。もう1つは死の衝撃である。

 彼によれば、「人間は労働しながら、やがて死ぬだろうことを意識しながら」動物から抜け出す*15

 少し詳しく見てみよう。

 道具とはそれ自身のために利用されるのではない。何がしかの目的のためにある。そして、その目的とはかならず、未来の時間にある。道具は未来の成果や目的へと従属している。バタイユはこれは道具を使う人間にもいえることだ、と言う。彼は「いま、ここ」を生きているのではなく、その生を未来の目的へと譲り渡している。つまり、彼は、今を生きていない。彼は道具と同じである、と*16

 続いて、未来への期待はわれわれに「死」を顕現させる。

 つまり、未来への配慮は当然、そのものの「死」を配慮しなければならなくなる。期待をぶち壊すのは道具を利用するものの「死」だけだからだ。

 バタイユはここから、個体が個体として生じると考えている。つまり、「死」の不安とはその個人の「死」の「不安」でしがないからである。したがって、「死」の不安が生じたときに個人が生じた。道具を使い、死の不安を感じたとき、われわれは人間となる。つまり、動物の「水」の世界から飛び出て、個体・個人となるのである。その結果、われわれは死の不安を常に感じなければならなくなる*17

 われわれにとって、「水の中の水」のような動物の世界の感覚はもはやけっして手に入れることはできない。そして、だからこそ、それは、恐怖と憧れの対象、つまり、「聖なるもの」となる。バタイユはそう考えた。

 したがって、バタイユにとっての聖なるものとは、「水の中の水」のような動物性の世界である。バタイユはこれを「内奥性」の世界と呼ぶ。「内奥性」の世界は未来やその成果を目指す人間にとっては危険である。なぜなら、その世界は「いま、ここ」しかないからだ。そこでは、未来に向けて自分を投影したり、もっといえば、我慢したり、努力したりすることなどないからだ。

 バタイユは言う。「自然は爆発し枯渇する」と*18

 そこでは、死もなければ生もない世界である。人間が経験する「生」や「死」以前の「死」の世界であると言えるだろう。人間はそこから出てきてやがてそこへ帰る。われわれは後にこのことにもう1度触れるだろう。

 バタイユがことさらに「消費」や「破壊」にこだわるのは、人間は労働の「俗なる」世界でだけ生きているのではないからである。人間は「内奥性」すなわち「聖なる」世界で生を営んでもいる。バタイユはそのことを強調する。その証左としてあげられるのが、祝祭、供儀、オルジーといった、消費、あるいは破壊的行為である。バタイユはこれらを「消尽」と呼び、人間がそれに対し「決定的な否をたたきつけたことはなかった」*19と考える。さらに、バタイユは、そこへと接近し「至高」の体験を得ることが「わたしたちの本性を定義つけるのに不可欠な要件」とさえ言う*20。最初に過剰エネルギーを想定している限り、この帰結は必至である。

 このようなバタイユの議論は「聖なる社会学」、「至高性の哲学」と呼ばれ、そしてまた、これらがエネルギー論の視座をとった場合には「一般経済学」と呼ばれる。

 ここから、彼の議論とデリダの「差延」の議論を比較検討してみよう。


6. 労働と表象

 眼目はバタイユの議論において「労働」とは何か、である。

 議論を単純化すれば、バタイユにとっての「労働」とはエネルギーの「保留」と生産への充当=備給である。

 つまり、「爆発し枯渇する」自然から、エネルギーを[保留]し、それを「生産的労働」へと振り向けることである。ただし、これもまた単純な「生産」ではない。ある程度は「消費」である。なぜなら、「労働とはエネルギーを放出することである」のだから*21。したがって、この世界にはまったき「生産」も「消費」もない。あらゆる活動は程度の差を持った「生産」であり[消費]である。しかし、「労働」とは「保留」・「備給」したエネルギーをたいていの場合より大きなものにするだろう。

 他方、この「保留」「備給」はそれとして終わるわけではない。「生産」されたものがやがては「消費」「破壊」される以上、それらはいずれ「消尽」へと至る「保留」「備給」である。

 したがって、「(生産的)労働」とは「消尽」の「遅延」である、ということになる。

 「消尽」とは「死」の世界への回帰である。

 あるいはまた、先に述べた「生死」以前の[自然]の世界への回帰、といってよい。つまり、人間はその世界から出で、自身のエネルギーを大きく迂回、遅延させ、再び、そこへ回帰する(生産物はやがて破壊され、また、個体についても彼がいくら働いてもやがては死ぬ、という限りで)、ということを行なっているのである。これは「死から死へ向かっている」といっても同じであろう。

 われわれの始点と終点は死である。

 「労働」に焦点を当てた場合、このことはよく理解できる。

 これらの議論をデリダの「差延」と結びつけよう。

 「労働」が「目的一手段」の連鎖の地平にあることはすでに見た。

 「目的一手段」とは、言語、記号、すなわち、表象化作用とそれにともなう知的な認識がなければ可能ではないことは明らかである。

 労働とは表象化の運動を基礎とし、そこからしか始まらない。

差延」は「間隔化」をなす。そして、この「間隔化」が時間を生成させる。

 この議論をバタイユにひきつけて読み解くと次のような道が見えてくるだろう。ある種の抑圧(バタイユによればこれは個体自らがなす抑圧である。そしてこれがエネルギーを「保留」することとなる)により、個体が表象化作用を行い、労働を始め、同時に[死]を知覚した時、時間が生成される、と。

 時間とは「生」の時間のことである。少なくとも個体にとってはそうである。すなわち、時間とは始点の死と終点の死との間にしかない。時間はこのあいだに生起し、この間にしか存在しない。

 他方、この時間が存在しない限り、「死」もまた存在しない。あるいはまた、この時間が存在しない限り、「死」が「死」として生起しない、とも言える。

 「差延」はこのような「生」「死」[個体]「時間」を生起させる運動である。

 「時間」に焦点を当てるとすれば、それは「差延」の引き起こす「間隔化」そのものである、と言える。

 まとめよう。「差延」が、爆発するエネルギーを抑圧し、小出しにし、つまり、力の差異化を行い、表象、労働、生産を生起させ、そして、それらを直接「爆発」すなわち「死」へと赴かないような迂回路へと方向付けるやいなや、「時間」は生起する。これこそ「差延」の運動であるだろう。「差延」がこのような運動であるからこそ、それは「時間」の生成の運動なのである。したがって、「差延」が痕跡づける差異の「間隔」、それが「時間」であるとは、差異化とは必然的に「死」と「労働」を引き起こしてしまう、ということである。つまり、「差延」とは「直接性」の「差延」なのである。労働はその運動に促され、あるいはその運動の中で個体を創造すると同時にそれを「差延」へと導く。労働は、自己を「死」からひき離しながら、つまり「死」と自己のあいだに「間隔」を穿つように見せながら、労働の成果のその向こうに「死」を透かせて見せるだろう。


7. おわりに

 われわれは時間を真に認識することはできない。なぜなら、それは「差延」が引き起こす「間隔化」だからである。それはわれわれが差異化の運動、すなわち、表象化作用を認識できないからである。われわれは表象を利用し、あれこれを認識する。これは労働である。あるいはまた、労働の第1段階といってもいい。しかし、表象や労働を生起させる当のものを、つまり、時間の生成の現場を認識することは決してできない。われわれが常に「今」を取り逃がしてしまうのはそのためである。差延がそういったものである限り、われわれが「今」を捕まえることはできない。そしてまた、そうである限り、常に「過去」を、そしてまた常に「未来」を取り逃がしてしまうことに結びつくだろう。

 言語によって「時間」を真に認識しようとしても、常に失敗するのはこのためである。

 他方、「差延」は常に運動している。静止、固定した「間隔化」などない。それは常に動き、常に差異づける。だからこそ、表象を用いてそれを認識しようとしても常に遅れてしまうのだ。

「かつて決して現在であったことのない、そして未来にも決して現在であることのない過去」*22

 これこそが差延であり、時間である。

 われわれがこの時間そのものを把握することは決してできない。

 それは常に逸せられ、見失われ、忘れ去られるだろう。


引用・参考文献(邦訳のある文献の場合、本文中の引用箇所については一部変更したものもある)

*1デリダソシュールパロールよりもラングに重きを置いたことに批判を行ってはいるが、議論を集中化するため、ここではその議論には触れない。Cf. Derrida[ 1967b=1990 ].

*2:「意味作用の実証科学は差延作用の結果と事実を、つまり、自身が生ぜしめた特定の差異と現前を、記述することしかできない。活動中の差延作用自身についての〔科〕学は有り得ず、まして現前自身の根源についての〔科〕学、つまりある非=根源についての〔科〕学は有り得ないのである」( Derrida[ 1967b:92=1990:125 ])。

*3:Derrida[ 1967b:55=1990:79 ].

*4:Derrida[ 1967b:92=1990:124 ].

*5:Derrida[ 1972:13-14=2007:51-52 ].

*6:「表象とは死である」(Derrida[ 1967a:335=1977-83:(上)111 ])。

*7Cf.Demda[ 1990=2002 ]および、高橋「2006」。

*8東浩紀「 1998 」、とくに76頁から94頁を参照のこと。

*9:Derrida[ 1972:19=2007:60 ].

*10:Derrida[ 1972:8=2007: 42 ].

*11:Derrida[ 1972:19=2007:61 ].

*12:Derrida[ 1972:20-21=2007: 63-64 ].

*13:Bataille[ 1995:32=1985:28 ].

*14:Bataille[ 1967:35=1989:68 ]. この議論が正当かどうかには疑問がある。しかし、そこを差し引いてもバタイユの議論にはある程度の説得性がある。少なくとも、デリダの議論を読み解くには有益である。

*15:Bataille [ 1987:34=1973:72-73 ].

*16:「小麦を栽培する人は農耕者であり、牛を飼育する人は牧畜者である。ところで彼が耕作しているときには、農耕者の目的=究極は今現在としては彼固有の、本来の目的=究極ではない。飼育をしているときには、牧畜者の目的はいま現在としてはその固有の、本来の目的ではないのである。農業生産物、家畜は事物であり、そして農耕者は、あるいは牧畜者は、彼らが労働している時にはやはりまた事物である(中略)農耕者は1人の人間ではない。それはパンを食べている鋤である」(Bataille[ 1995:56-57=1985: 52-53 ]訳文一部変更。強調はバタイユ)。

*17:「個人の個体性を定める、個人として持続できるかどうかの不安は、その存在が事物の世界に統合されているという事態と結びついている」( Batalle[ 1995:69-70=1985:66 ]訳文一部変更)。

*18:Bataille[ 1976b:73=1973: 118 ].

*19:Bataille[ 1987:64=1973:89 ]

*20:Bataille[ 1993:215=1992:69 ].

*21:Bataille[ 1976a:573=2003:351 ].

*22:Derrida[ 1972:22=2007:64 ].



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