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2016-08-25

モダ二ズム絵画の論理 山梨俊夫

1 モダ二ズムの射程

 この章では、20世紀美術の水脈を効果的に透かし見るために、4つめの手がかりとして「モダ二ズム」、ないし「モダニティー」という、これまでの3つとは違い、概念的性格の強い視点を据えてみる。とはいえ、じつのところ、モダ二ズムとは何であるのかを考えると、ひどく曖昧で流動的で、その姿を明らかにするのはむずかしい。モダ二ズムを定義すること自体は、ここでの目的ではないが、それでも尻尾の先を踏みつけただけで目鼻立ちが少しも描き入れられていないままでは、相手にすることもできない。

 モダ二ズムは、まず、どの領域で捉えるかによってそのたびに相貌を変える。もちろん、どういう角度から見るかによっても大きなずれを引き起こす。たとえば、社会全般の事象としてモダニズムを考えるなら、それは資本主義の成立とともに急速に広がる消費社会の性格、市場の論理に侵犯されるもろもろの社会システムでつくりだされる生活様式の性格、ないしはそうしたシステムそのものであると指摘できる。そうなると、モダ二ズムはある意味で資本主義とぴったり重なり合うほどに、経済原則の支配を受け、それに規定される。その視点をもってさらに視野を絞ると、消費によって循環し、消費を煽る経済体制がそれ自身の価値をつくりだし、人間は知らないまにその価値観を身にまとって種々さまざまの物事を判断するようになっていくという構図が浮かぶ。

 また、資本主義の社会体制からもろもろに性格づけをされながらも、いまここで考えるような文化的事象、とくに美術や文学は、社会体制の直接な支配から逃れ、時折り社会に自らの生みだす効果を投げ返し、それぞれ独自の体系を編み、展開していきもする。経済原則や社会体制拮抗した関係を結びながら、またときには「芸術」はそれらと関係を断って独立した領土でそれ自身の思想を育み、ときには「芸術」から社会へというふうに影響のやりとりを逆転させることもある。芸術や文化の領域のそうした性質は、もっとも広い意味のモダ二ズムを想定しても、それだけを判断の拠り所にして規定することはできないし、社会体制の振りかざす価値基準や芸術それぞれを獲得する価値体系がさまざまに絡み合って「モダ二ズム」が編まれていることは忘れてはならない。

 資本主義の成立とともにモダ二ズムの社会がやってきたと見れば、モダ二ズムのひとつの特質は、あらゆる分野で、不朽の価値や永続性を敬遠して、絶えず出現する新しいもののほうにより上位の価値を認めることにある。しばしば、それは個人の好みを押しのけて新しいものを押しつけるほどの強制力をもっている。卑近なところに例を求めると、気に入ったデザインの製品や、使いつづけることで愛着の湧いた製品が壊れたり故障したりしても、修理する方途はなく、故障した部品も手に入らないといったことが起きる。生産のシステムばかりでなく社会的なシステムが新たなものへの欲求を促すようにできているからである。またたとえば、工業製品は、新しく発売されるものはつねにそれまでのものより性能がよいとされる。前のものより性能は劣るけれど馴染みやすく快いなどというものはけっして開発されない。優れたものは、一歩進んだ性能をもっている。そういう考えが支配的になる。生活のレヴェルでは依然として進歩的観念は根強い。

 こういうふうに文化や芸術といった領域の外に広がるもっとずっと広い範囲で、モダ二ズムということを考えると、ほかにも、それはとりわけ生活様式のうえにいくつかの性格を現わす。利便性、速さ、人間さえも物とみなしてあらゆる物事に仕掛けられる数値化。それはすべてを見えやすく処理しやすくしようという合理主義から要請される。望遠鏡顕微鏡、電子技術の急激な開発によって引き起こされる感覚の擬似的な肥大。肉眼で見えないものが見え、声の届かないはるか遠方と会話でき、人間は高速で移動する。そして人間の身体能力を超えて広がっていく、こうした新たな感覚領域や運動領域に入っていくことが、モダンなこととされる。いや、いまはもうそれがごく当たり前の生活の一部となっている。個人の意志でその手前にとどまることはほとんど不可能である。近代化された社会では誰もが否応なく、等身大のスケールに見合った身体と感覚の一致状態を崩される。そうしなければ生活ができない。感覚の組み換えが促される。そして、組み換えられ、ひとつひとつがいわば身体の外に出てしまった感覚を、もう一度統合してバランスの取れたものにする困難に突き当たる。

 文化や芸術の領域も、そうした状況を背景にもっていることは言うまでもない。近代の資本主義からもたらされる、あるいは社会主義体制のなかでも同様に展開する合理主義としてのモダ二ズムは、網の目のように社会に張りめぐらされ、人間の生の全般を支える。

 ただ、現代の社会に生きるとき、モダ二ズムがもたらした、そしていまももたらしつづけているこうした事象は、生の一部に組みこまれてしまっているが、それら、経済、社会体制が追求する有用性を目指す価値の体系から引きだされる事象に従属する形で、「芸術」の性格が決定されていくのでないことについては明らかだろう。

 実際には「芸術」はそうした意味合いでのモダ二ズムに反発する。そういう土壌に育ちながらも、「芸術」のモダ二ズムは、功利的な生活の地平でのモダ二ズムから離反しようとする意志である。デュシャンやボイスのように、あるいは何物にも奉仕しないと志す絵画がそうであるように、「芸術」のモダ二ズムは、積極的に現実的な価値を否定する。生のレヴェルに絶えず侵入してくる近代の打ち樹てた価値を警戒し、その価値の転倒をつねに心がけるところに「芸術」は自らを存立させようとする。それらを外に押しやり、相対化し、検証するなかで、「芸術」自身の独立性をつくりだしていく。

 この相対的な「芸術」の独立は、相対化の行為によってこそ果たされるが、もう一度循環させて言えば、相対化の反響板となる社会的な生からの影を、遠く、あるいは近く背負ってもいる。なおかつ、芸術はそれ自身の論理をもってもいる。「芸術」はもろもろの社会構造のなかで独立性を保ち、自らの自律を維持しようと、いわば下部構造から離反しようと意志しつづけ、しかも、離反しようとする相手を忘れることができない。

 だから美術のモダ二ズムにしても、それがすべてではないにしろ、合理性の追求をひとつの柱とする。ただ合理性の追求といっても、それだけでも茫漠としているように、モダ二ズムは一体に分かりにくい。その理由は主として、美術の枠内でそれを語ってもしばしば、いま述べてきた生活レヴェルでの近代の性格に流れ出てしまうことがあるからだ。つまり、モダ二ズムを美術の枠組みのうちで自律的に考えるか、それを支えている背景との繋がりのうちで考えるかによって、つまり相互の関係の置き方によって、その特徴的側面はずいぶん違ったものになってくる。さらに、同じモダ二ズムといっても、19世紀中葉のそれと、モダ二ズムの体験を積み重ねたのちの20世紀初め、また20世紀後半では、その様相はそれぞれに異なってくる。そしてもうひとつ、純粋に近代以降に発生した特質の探査をしてみても、その純粋性は質を変えている。最近もモダ二ズムをめぐる言説はしきりに行なわれているが、それがいくつかの層を混在させているためにモダ二ズムの正体は見極めにくい。というよりもむしろ、正体など求めようとするのが誤りなのである。なぜなら、モダ二ズムに別段固定した実体があるわけでなく、ある時代ごとに浮かびあかってくる、それは前にはない新たなものの総体を、あるいはそこから数え挙げられるその時代の特質をまとめて、モダ二ズムと称しているところがあるからだ。

 そうは言っても、では、ここで考えていこうとする絵画についてのモダ二ズムは、差し当たりどんなふうに思い描けばいいだろうか。


2 絵画のモダ二ズム

 19世紀の半ばころ、ボードレールは、同時代の絵画を観察しながら、絵画を囲む状況の変化を受けて絵画は何を描けばいいのか、描かなければならないのかを繰り返し語っている。ボードレールの眼は、モデルニテ、つまり近代、ないし現代的なるものに向けられていた。それはっぎのような性格をもつものであった。

 わたしは《近代性(モデルニテ)》という言葉を、束の間のもの、変わりやすいもの、偶発的なもの、芸術の半分が永遠不変であるとき残りの半分を意味するものとして使っている。(「現代生活の画家」「フィガこ紙、1863年、筆者訳)

 自らが生きる現実について回る特質を指折るボードレールは、彼の時代の絵画を天上から地上へ、教会や宮廷から市民社会へと移行させようとする。「モデルニテ」の概念は、ボードレールによって初めて明らかにされたなどというのではもちろんないが、彼の詩人としての生きざま、そして美術批評家としての視点、そのどれもが、掘り起こさなければならない主題は彼自身のいま生きている現実にこそあるし、現実と同義である現代にこそ拠って立たなければならないと語っている。芸術は、あるいは絵画は、それまでに目指してきた自らの聖性、崇高さをいったん棚上げにして、卑俗とみなされていた狼雑な現実に進んでまみれることを選んでいく。その進み行きは、広く観察される一般的な現象となる。    。

 ボードレールの場合は、ただ単に現実の表層的で非永続的な属性である儚さに積極的に近づくだけでなく、それに「英雄性」を認める。儚く、東の間に過ぎ去ることのうちに、新たに別の「永遠性」を打ち立てるように説く。もっともボードレール自身は、永遠なるものと対極にあるものとして束の間の現実を見据えているから、そう言ってしまえば矛盾しているとも言える。しかし、そこでは、現実のなかの束の間のものを、変転してとどめようもない凡俗の時の流れから掬い上げることが目指されている。

 芸術は、現実と接近しても、その凡庸な部分に紛れてしまうことについては、潔しとしない。われわれの現実のうちにも、芸術がそれまでに規範としてきた崇高さに取って代わる要素は見出しうるではないか。ボードレールが代表するその時代の眼は、それを探り当てようとし、その視野は次第に拡大していった。近代性、ないしは現代性と解されるモデルニテは、あるいは日本語化した「モダーンな」ものについての性格を指し、「当世風」を意味する場合さえあるだろう。

 ともあれ、モデルニテ、つまり近代性は、芸術ないし絵画が、伝統の課する束縛を振り払って、同時代のなかに自らの根拠を求めるときにあらわになるさまざまな属性を指していたと考えていいだろう。少し大雑把に過ぎるとのそしりを免れないかもしれないが、少なくとも絵画が不変の規範を引きずり下ろして、徐々に絵画自身の新たな根拠を確かめだしていった時期の、「近代」的なものは、絵画自体の形式を問うものではなく、その内容に関わるものであった。そしてそれが、少しずつ形式の領域にも変質を波及させていく。その移行の様子こそ、本書の第一章冒頭で触れたことなのである。

 形式の質が変わるといっても、絵画絵画であることを絵画によって問われるといった事態が発生し、そのことで絵画自律的な系をもって成立していくようになるのは、19世紀にその萌芽を見て20世紀に明白に意識され、方法化されてからということになる。絵画の自律性については第1章に触れているので、ここでは多くを繰り返さないけれど、19世紀から言われるようになった「芸術のための芸術」という言葉に、その発生は十分にうかがえる。「芸術のための芸術」、ないしは「絵画のための絵画」には、芸術、絵画を自己目的化し、何か他の目的に供することを拒絶する構えが色濃い。

 そうした芸術至上主義は、芸術自体の自律性ということと同時に、むしろしばしば芸術家自身の社会的な位置取り、生き方についての主張を押し出す。芸術を生きる目的の最上位に据えて、すべてをそれに従わせていき、時にはそれに殉じてもよしとする生き方の問題としての芸術至上主義、それも近代的性格を帯びているとみなせるが、そこから導きだされる芸術の自己目的化が自律性につながっていく。

 この自己目的化はほどなく、芸術を成立させている芸術自体の構成要素への意識を高めることを促す。たとえば、モネ印象主義に観測される色彩分解と筆触分割の、そしてスーラシニャックの新印象七義の点描法に取りこまれる科学主義も、絵画絵画自体の要素に分解して組み立て直す試みであったし、セザンヌが晩年に語り残した造形思考も、再現描写の裏側に潜んでいた絵画自体の構造を引き出すものであった。そうした意識を伏流にして、20世紀に入ると、フォーヴィスムキュビスム、あるいはイタリア未来派ロシア構成主義という具合に、絵画は、自己目的化される過程を含みつつ、絵画の形式自体に自らの存在を限り、それに賭けるようになる。

 その時点では、もうボードレールの言う「モデルニテ」の焦点となっていた束の間の現実は、生活の地点から遠のいて、問題は絵画自体の現実をどう立ちあがらせるかに関わっている。「モデルニテ」は絵画のものとなり、近代主義としてのモダ二ズムは、絵画が表わしだす内容についての特徴ではなく、絵画自体について、とりわけ絵画の形式に関して言われる。

 モダ二ズム絵画。それは、社会全般に拡大されるモダ二ズムの時代の絵画という意味のこともあれば、モダ二ズムと規定された絵画の性格を具えた絵画という意味のこともある。このモダ二ズム絵画の特徴的側面を、これまで本書で触れてきた問題も視野に入れて、羅列的に考えてみれば、つぎのような事項が挙げられるだろう。

 まず、伝統との断絶。ヨーロッパ絵画ルネサンス期以来育んできた絵画上の規範理念の総体を「アカデミズム」として拒否し、それに代わるものを打ち出したり、ときにはその否定自体を主張することが、絵画のあり方として志向される。具体的には、線遠近法や滑らかな明暗法の破棄をはじめとする、三次元空間を二次元平面に写しかえることの拒否であり、それによって二次元平面を錯視的なものでなく絵画特性として強調する方向が生まれていった。

 そして、伝統的な規範を否定することから、新しさの追求が強まる。新しさとは、別の言い方をすれば差異ということである。新しさはつねに更新されなければならず、放っておけばすぐに古くなる。伝統を打ち消すという形で、自らに通じる比較的近い過去を押しやりつつ、一方では別の文化や遠い過去にいままでになかった絵画の要素を求める。そのことは、たとえば前章で触れた近代絵画とプリミティヴィズムとの結びつきにひとつの例を見出すことができる。自らの養いの根を探る手をさまざまに伸ばしながら、新しさ、つまり差異を強調していくことが、第一義になる。自分は他と違うのだというほどのことならば、もともと人間に備わった性質といえるだろう。

 しかし、急速に細分化される小さな差異によって新しさを際立たせるのに慌しいほどになるのは、20世紀の美術に顕著な現象である。20世紀初頭に始まって、第二次大戦前後にいよいよ激しくなったこの新しさの追求から生まれるものを直視して、ハロルド・ローゼンバーグは、それを「新しきものの伝統」と呼んだが、そうした一連の動きと新しさのなかに発現した絵画の性質は、それこそモダ二ズムの伝統といえるだろう。

 差異は、個人の段階、他者との比較の段階では、独創性オリジナリティー)として示される。独創性の競い合いは、こうして新しさの探求と同質の部分を含みつつ、美術の足場が個人にあることを明かし、個として、いかに強く自らの絵画の根を張っていくかに画家たちの目論見が集中しているかを語る。独創的であること自体がひとつの価値と認められ、それを獲得することが個性を高める。やがて、個人の内的な論理や内部から沸く希求に裏打ちされているかどうかは問われず、個性は、表面的な差異によってのみ測られるようになる。独創性の独走といえばモダ二ズムの否定的なあげつらいになるが、オリジナリティーの尊重は、依然、個としての存在を基盤にするモダ二ズムの重要な起点として働いている。

 また、繰り返されるアヴァンギャルドの発生を、モダ二ズムのもっとも突出した部分と見るのか、19世紀以来の時代様式として定着し穏健化したモダ二ズムへの批判と見るのか、その差でアヴァンギャルドとモダ二ズムの関係についてはしばしばずれが生じる。しかし、族生するアヴァンギャルドは、それが投げかける否定辞や破壊的な主張と裏腹な関係で自らの推進力になる新たな規範への契機のために、いつまでも破壊志向の状態にとどまれない。

 ただ、もともと軍隊用語から借用され前衛を意味するアヴァンギャルドは、つねにいちばん前を進もうとする。そして、過去と手を切る身振りを怠らず、未知の領域を開拓しようと目指すゆえに、もっとも先鋭なモダ二ズムの申し子となる。歴史的にみれば、アヴァンギャルドそれぞれの個別的な論理は、声高に唱えられてしばらくすると、破壊志向とか革命志向の芽を摘み取られるようにして一般化されてきた。さらにそれは、同時代の美術の基底に吸収され、モダ二ズム絵画のものに組み立て直される。

 さて、モダ二ズム絵画、とりわけ二十世紀前半のそれが練磨してきた造形上の論理は、なによりもまず、「画家は形態と色彩において思考する。逸話的な事実を再構成することが目的ではなくて、絵画的事実を構成することが目的なのである」(ジョルジュ・ブラック)といった言葉に明かされているように、形態や色彩といった造形要素で一種の閉鎖的な系をつくりながら、そこで造形の要素と造形の思考が互いに循環する構造を絵画に持たせることを結果させている。形態、色彩、マティエール、さらに進んでカンヴァスや木枠などの支持体までに分解された絵画を、もう一度絵画としてどう組み上げていくか、モダ二ズム絵画は、多かれ少なかれ、その点をめぐって論理を展開させてきた。そのために、美術、あるいは絵画は、一見他の領域との関わりを断って、美術自体の論理で自らを成り立たせる事態が起きる。それは、言うまでもなく、第2章に述べた絵画の自律性ということにほかならない。                   ゛

 そして、自律的な性質を携えながら絵画は、自らを構成する要素の純化絵画内の論理の純粋化に向かっていく。その端的なあり方は、抽象絵画の誕生に見ることができるだろう。さらにまた、その循環的な構造は、絵画絵画について語る場を用意し、その自己言及絵画の展開を促進していく。絵画としての潔癖さを追い求めてそれぞれに自己完結的とさえ言えるモダ二ズム絵画の多様さは、たびたび異質なものを迎え入れたことで得られもしたが、根本では、この自己言及性を軸にして、絵画的論理の内側で差異を掘り起こすことによって発揮されてきた。

 絵画を要素に還元して、余分なものを不純物として削ぎ落とし、主題を簡潔にし、ときには主題を無化し、絵画を成り立たせる物質的な条件だげで自らの論理を開いていくこと、それはモダ二ズムの絵画の純粋状態と考えられる。そのことは、前に見たマレーヴィッチやっぎに見るモンドリアンの例にもっともよく見て取れる。そうしたモダ二ズム絵画典型は、自らを物質的存在として成立させることを優先させるために、意味を閉じている。その潔癖さのゆえに開放的ではない。それは、モダ二ズム絵画の限界とも言える。

 しかし、自己言及の反面として、つねに自らの内部の検証を続けるモダ二ズムは、自己批評、自己反省をもうひとつの特性とする。それを起動力にして、モダ二ズム絵画は絶えず、自らの限界を踏み出し境界を押し広げてきている。最近、さまざまに試みられているモダ二ズム批判もまた、広い視野に立てばモダ二ズムのこうした自己言及の力に支えられているものである。それぞれにモダ二ズムの性格を強くもった絵画の実際のさまを見ていくために、つぎに2、3の例を取り上げていこう。



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