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2015-11-19

「歴史主体」論争への人類学的介入――共同体というものをどのように想像するか――その2 小田亮


4 共同体の想像のスタイルの貧困

 「小さな物語」が、共同体の境界のなかに限界づけられているものと捉えることは、普遍性や異種混淆性を、共同体共同体の狭間や、共同体を解体した後にしか見いだせないものと捉え、共同体(共同性)というものを「閉じられた共同体」や「共同体の慣習に縛られている未開人」といった近代オリエンタリズムの見方でしか想像できないのと同様の想像の貧困から来ていると言えよう。そこでは、ネイションという共同体も、その手前にある王国や地域共同体や未開社会の「民族」といった共同体も、同じように明確な境界をもつ均質な全体と考えられているのである。

 共同体が均質で閉じられたもので、そこに生きる人びとは共同体の慣習に縛られているという見方は、それらから解放された自由な市民とその普遍的市民個人が参加する普遍的な公共空間という、西欧近代の自己像を創り出すために、その逆しまの像を前近代や「未開」社会に投影してできあがった「オリエンタリズム」の産物ででしかない。もちろん、そのようなイメージが、近代のオリエンタリズムの一翼を担った人類学によって強化されてきたことは否定できない。しかし、現代の人類学者は、閉じられた共同体に規定された固定的な民族アイデンティティや、共同体の慣習に縛られた未開人というイメージを変えるような民族誌的記述もしてきたはずである。

 そして、前近代の共同体が、明確な境界と均質性をもつような共同体とは異なるスタイルで想像されていたということを示したのが、ベネディクト・アンダーソンであった。アンダーソンのいう「想像された共同体」は、顔見知りの範囲を越えているという意味であるが、アンダーソンも言うように、ほとんどの共同体は、ネイションに限らず、多かれ少なかれ想像されたものである。けれども、「共同体は、その真偽ではなく、それが想像されるスタイルによって区別される」[アンダーソン 1997: 25]と述べているように、アンダーソンが論じているのは、ネイションと他の想像された共同体との間の想像のスタイルの違いなのである。アンダーソンは、近代のネイションとは区別された「想像された共同体」の想像のスタイルの例として、ジャワの村の例を挙げている。「ジャワの村人たちは、かれらが一度も会ったことのない人々と結びつけられている、ということをいつもよく承知していたが、その絆は、かつては、固有の関係として、すなわち親族関係や主従関係の無限定に伸縮自在な網の目として想像されていた」[ibid.: 25]。そして、ネイション以前の想像の共同体では、境界はすけすけで不明瞭であり、周辺部では相互に浸透しあっていた[ibid.: 44]。

 このように、ネイション以前の「想像された共同体」では、一度も会ったことのない人びとと自分を結びつける絆は、主従関係や親族関係などの顔のみえる関係をたどって広がるネットワークとして想像されていたのに対して、ネイションは顔のみえる関係の連鎖の延長として想像されるわけではない。私たちが一度も会ったことがなく、これからも会わないであろう人びとと自分を同じ「日本人」として結びつける絆は、明確に境界づけられた全体と個人が、個別の複合的な関係を超えて無媒介に結びつけられるという想像のスタイルによっている。先に述べた共同体の想像の貧困とは、アンダーソンのいうネイションの想像のスタイルによって、すべての共同体を閉じられた均質のものとして想像し、もう一つの別の想像のスタイルによって想像することができないという貧困さであった。

 近代における共同体の想像のスタイルを逆から照らしだしているのが、ハンナアレントアフリカの野蛮状態としての自然共同体についての説明であろう。そこでは、アフリカ部族社会のネイティヴたちは、共同体の境界に閉じ込められている者たちではなく、そもそも境界を知らない者たちであり、単なる自然的な血縁への帰属しか知らない「人種」とされている。

 アレントは、『全体主義の起源』の第二部「帝国主義」で、20世紀のヨーロッパの人種思想の起源を、アフリカ植民地における動物かと思われるほど醜い黒人たちに囲まれたときの恐怖による「ヨーロッパ人アフリカ人化」、ないしは民族(ネイション)の「人種化」に求めているのだが、そのときに、アフリカ人化したヨーロッパ人の典型として、人種主義を掲げる南アフリカオランダ系植民者の子孫であるボーア人たち(現在はアフリカーナ、すなわちまさに「アフリカ人」と自称する)を引き合いに出している。そこでアレントは、土地を測量し境界を画定しようとしたイギリスの支配を拒否したボーア人たちの奥地へのトレック(移住)は、彼らがすでに周囲の野蛮状態にあるアフリカ人たちと同化し、民族から人種へと転落していたことの証しだという。

 ブーア人[ボーア人]が新しい未開地に逃げ込むことによって拒否したものは、境界線そのものだった。彼らは町に住む少数のイギリス人入植者と違ってアフリカをわが故郷と感じてはいたが、その故郷はまさにアフリカそのものなのであって、境界線で区切られた一定のアフリカの領土ではなかった。一定の土地との結びつき、一民族が政治体として構成する patria との結びつきは、彼らにあってはとうに本物の部族帰属意識に置き換えられていた。それは、数世紀来、定住することも民族となることもせずに大陸を移動しつづけてきた原住民の部族帰属意識と完全に同じものだった。[アレント 1981: 120]。

 アレントにとって、ほとんど動物と変わらない野蛮なアフリカ原住民の「自然状態」とは、人為的法の支配によって土地を囲い込むべき「境界」を知らないことを意味している。つまり、アフリカには、一定の土地と結びつき、境界によって画され、法によって囲い込まれた「共同体」というものがなく(いいかえれば、境界線も法も土地や郷土との結び付きもない、遊動する自然共同体しかない)、また、そのような共同体のないところには、公共性も政治体もないというわけである*1

 このような議論は、高橋哲哉[1995c]が周到に指摘しているように、たまたまアレントアフリカ黒人への人種的偏見が図らずも露出したという程度のものではない。境界線によって守られ、境界の内側に境界線を引くことで政治体を創っている人間的な文明(すなわち、古代ギリシアに端を発するヨーロッパ文明)と、その境界線の外側にあって「世界性」(人間の条件としての人為性)をもたない自然状態の野蛮とのあいだの「境界線」は、アレント公共性についての考えの根本にあるものだからである。

 アレントは、『人間の条件』のなかで、古代ギリシアのポリスと「家」(オイコス)のあいだに引かれていた境界線、すなわち公的領域と私的領域のあいだの境界線こそ、政治の基本的条件であり、公共性を創り出すものだという。「家」という自然共同体は、生命という過程を維持するための「必要」から生まれたものであり、そこでは、家長が女や他の子ども、奴隷に対して力と命令による支配をしていた。一方、公的領域であるポリスという政治的共同体は「自由」の領域であり、そこでは力と命令による支配ではなく、言論と説得による政治の領域であり、家長たちが、家から出て公的領域において個人の卓越性を示す活動をする領域だった。欲望や暴力といった自然状態を「家」という領域に封じ込め、それらが公的領域に侵入することを許さないという画然とした「境界」によって、政治的な公共性は創られるのである。

 しかし、この公共性の条件となるポリスと「家」(オイコス)との境界線は、それとは別のより根本的な境界線によって守られているのではないか。それは、アレントがはっきりとは明示していないが、ギリシア世界とその外部の野蛮な世界のあいだの境界線である。アレントは、「ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活、すなわち、家長が絶対的な専制的権力によって支配する家庭や家族の生活に固有のものであり、その専制政治がしばしば家族の組織に似ているアジアの野蛮な帝国の生活に固有のものであった」[アレント 1994; 47]と言い、また、「私的生活だけを送る人間や、奴隷のように公的領域に入ることを許されていない人間、あるいは野蛮人のように公的領域を樹立しようとさえしない人間は、完全な人間ではなかった」[ibid.: 60]と言っている。ギリシア世界内部のポリスとオイコスの境界線は、いわば、オイコス(私的領域)を人為的に創られた「自然状態」として創出し、それを超え出る公的領域としてのポリスを成立させるためのものであったが、この境界線の創出は、本当の野蛮な「自然状態」としての外部との境界線なしにはなしえなかったのではないか。

 アレントは、この外部の野蛮な「自然状態」を(法によって創られたオイコスの「自然」とは違って)、現実の実体と見なしている。そして、そのような実体としての外部の野蛮な自然状態は、アレントの現代社会の分析にも不可欠なものとして登場してくる。それが、いうまでもなく、アフリカであり、海外植民地である。アレントにとって、アフリカ原住民の部族帰属意識は、血縁という家族的な組織しか知らない自然的なものであり、一定の土地と結びつかない遊動するノマド的な行動様式は、法の支配する境界づけられたヨーロッパ国民国家という政治的領域には入れてはならないものであった。そして、それが侵入してきた結果が20世紀の人種主義というわけである。

 しかし、もちろん、アフリカに「自然共同体」などなかったし、「部族」は、土地を横断する血縁(親族)原理と、一定の領土に結びついた地域共同体の原理の両方を知っていた。たとえば、ケニア遊牧民レンディーレを調査した人類学者G・シュレー[Schlee 1989]によれば、レンディーレという民族集団のなかのある氏族(クラン)が、他民族のなかに同じクランの成員として同盟関係を結んでいる集団をもっているために、レンディーレのそのクランがたとえ他民族のある集団と戦争状態になっても、その民族のなかの同盟関係のあるクラン成員は彼らと戦うことなく、逆に支援するために、けっして民族全体が戦争になることはないという仕組みをもっている。アレントの主張とは違い、アフリカ共同体は、二つの原理による「境界」を状況に応じて使い分けていた。ただ、その境界線が複数的で、閉じられていなかったために、他民族や他のクランと戦いはするがヨーロッパ人アフリカでやったような全面的な殺戮をすることはなかったというわけである。血縁原理しかないわけではないし、一定の土地と結びついていたが縛りつけられていたわけではなかったのであり、境界線を知らないわけでもないし、閉じてもいないというのが、アフリカのふつうの共同体であった。それは、アンダーソンのいうように、「部族」と氏族という〈顔〉のある関係の延長による二種類の開かれたネットワークとして想像される共同体であった。その「部族」を固定してその境界を不変のものとしたのは、ヨーロッパ人による植民地統治だったのである。

 おわりに

 アレントは、アフリカ原住民の自然共同体を遊動するノマド共同体であり、そこには法も境界線も一定の土地との結びつきもなく、野蛮な暴力とカオスしかなかったと見なしていた。これは、「未開」社会の共同体を、慣習(法)によって縛られ、無垢で暴力のない閉じられた共同体と見なす一九世紀の社会学的な共同体観と対照的に見えるが、自分たちヨーロッパの社会の自己像の逆転した像を外部の非西欧近代に投影しているという点では、同じである。アレントヨーロッパの自己像が、人種思想に対抗するための政治体としての西欧型の「国民国家」であったのに対して、一九世紀の社会学の描く自己像が個人が自律し孤立した「市民社会」であったというだけの違いでしかない。

 ところで、レヴィ=ストロース[1977]は、『悲しき熱帯』のなかで、ブラジル奥地のナンビクワラ人社会のある首長が、レヴィ=ストロースと贈り物を交換するとき、曲がりくねった線を一面に描いたメモ用紙を人びとの前で取り出して、贈り物の品物の目録を自分で文字で書いたかのように読みあげるふりをしたというエピソードを書いているが、周知のように、ジャック・デリダは、その記述を、音声言語中心主義による「無垢で善良な共同体」への郷愁だとして批判している。すなわち、デリダは、それを、無垢で善良で調和的な小規模の共同体、そのあらゆる成員が直接に透明な音声言語で語りかけあっている平和で非暴力的なミクロ社会に、策略と背信によって外部から、文字が搾取の道具として暴力的にもたらされたということを語る物語だとしている。

 しかし、レヴィ=ストロースは、この社会が孤立した「無垢で善良な小規模の共同体」などではなく、ポルトガルによる民族大虐殺やヨーロッパ人のもたらした病気による人口激減など、外部から暴力的にもたらされた大変動を経験する以前には、階層の分化した複雑な政治組織と広範囲な交易や戦争を知っていた社会だったことを明らかにしており、出会ったころのアマゾン諸民族の遊動する小規模の群れという姿は、そのような大変動にもかかわらず、自ら移動する断片となることによって社会というものをなんとか再生させた成果なのだと書いている。したがって、デリダのように「無垢で善良な共同体」を想定した堕落の物語として読むのにはかなりの恣意が必要だろう。

 レヴィ=ストロースは、ナンビクワラ人の共同体について、それが無垢であったどころか、暴力的な争いや人びとの離合集散をともなう外部との交通があったことを隠してはいない。そして、そのことは、実はデリダも認めており、「『悲しき熱帯』をひもとき『論文』[『ナンビクワラの社会的・家族的生活』]の頁を手当たり次第にめくってみるだけで、[ナンビクワラは暴力を知らなかった、階層化も知らなかったという記述と]正反対のことがはっきりみてとれる。ここで問題なのは、たんに極端に階層化された社会であるだけではなく、自身の諸関係を華々しい暴力から借り受けている社会である」[デリダ 1976: 269]と述べている。にもかかわらず、デリダは、いったいなぜレヴィ=ストロースが無垢で調和的な共同体という観念をもっているなどという読みをしてしまうのだろうか。この調和的で無垢な共同体という読みは、共同体をそのようなものとしてしか想像できないというデリダ自身の盲点を指し示しているのではないだろうか。

 デリダが、無垢な共同体とは正反対の描写の例としてレヴィ=ストロースから引用しているのは、「遊動的集団の統一性はもろいものである。首長の権威があまりにも押し付けがましかったり、首長が女性を独占しすぎたり、食糧の不足を解決できなかったりすれば、他の個人や家族は離れていき、もっと事情の良さそうな近隣の集団に集まっていく。……このようにナンビクワラの社会は絶えず生成変動している」といった、遊動するノマド共同体離合集散についてのごくふつうの民族誌的描写である。このごくふつうのノマド共同体は、アレントのいうような、まったく境界も法も記憶もない暴力的な野蛮世界でもなく、19世紀社会学が想定したような、慣習に縛られた無垢で善良な閉じた共同体でもない。ところで、ここでデリダがおこなっていることは、そのような共同体の記述を、もともとそれらの共同体に暴力やいさかいがあったということを隠してきれていない記述(とデリダが読み取るもの)と、暴力やいさかいを隠す「無垢で善良な共同体」のイメージの記述(とデリダが読み取るもの)とに割り振る作業である。

 つまり、デリダが「無垢で善良な共同体」とは正反対の記述と見なすものは、西洋近代が創出した共同体の観念に当てはまらない記述ということにすぎない。暴力を知らない閉じられた調和的な共同体などというものも、法も境界も知らない自然共同体などいうものも「未開」社会にはなく、いずれも、「未開」と文明という近代のオリエンタリズム的な二元論に囚われたイメージにすぎないのだが、デリダは、当の二元論を基準にして、それに当てはまる記述と当てはまらない記述とに分けているのである。いいかえれば、デリダは、共同体について、固い統一性を有しており不満やあらそいによって変動したり離合集散することなどない「閉じられたもの」という貧弱なイメージしかもっていないために、そのイメージに当てはまらない記述は、驚くべき根源的な暴力を図らずも露呈したものとして読み取ってしまっているのである*2

 「歴史主体」論争においても、ポストモダニストたちは、共同体主義者たちと同じく、共同体を想像する貧困さを示しているようにみえる。ポストモダニズムは、近代オリエンタリズムに特有の、共同体と社会の二元論的対立や、アレントが文明と野蛮のあいだ、すなわち「自己と他者のあいだに引いた最も根底的な『境界線』を脱構築する」[高橋 1995c: 117-8]と主張していたにもかかわらず、結局、その境界線を温存して、自己のアイデンティティ構築のための他者像でしかない「閉じた共同体」や「無垢で調和的な共同体としての『村』の古老の物語」について批判し、アレントを引用しながら、その共同体(自然共同体?)を超えた普遍的公共性を確立しなくてはといい、あるいは、共同体の内部と外部の境界線脱構築して、同じ村のなかの成員だろうと「他者」はなるのだと言いながら、なぜか、他者は「外部」にしかいないという話をしてしまう*3。「歴史主体」論争のアポリアは、まさしく共同体の想像のスタイルが貧しすぎることにある。それを脱け出るためには、アレントが動物同然の生活と見なしたアフリカ原住民たちの境界の用い方に学ぶべきなのかもしれない。


補遺 高橋哲哉『歴史/修正主義』と論争のその後

 本稿が扱った「歴史主体」論争に関して、その後いくつかの議論が出てきた。そのうち、ここでは高橋哲哉の新著『歴史/修正主義』と、『みすず』誌上でかわされた花崎皋平と徐京植の論争などにおいて出された「ついて、コメントを述べておきたい。

 高橋は新著の中で、野家啓一の「歴史の物語り論」について再び検討を加えている。野家[1998]が、自分の「歴史の物語り論」と坂本多加雄などのナショナリストによる「国民の物語」の提唱とは両立しないと述べているのに対し、高橋は、そうではないという。まず、野家の言い分を聞いてみよう。

 もともと「歴史の物語り論」は、無色透明な語り手によって超越的視点から語られる「唯一の正しい歴史」といった観念を破砕するアンチテーゼとして提出された議論でした。それゆえ、物語り論は「自国の正史」などという陳腐な観念とは対極に立つものであり、逆に「国民の歴史」といった統合的表象を解体するための批判的概念装置にほかなりません。われわれは常にすでに「物語り」のネットワークのなかに生きているのであり、必要に応じて都合のよい「物語」を勝手に選べるわけではありません。「物語り」は完結した単一の「物語」に収束するものではなく、むしろ多様な声を響かせながら増殖していくものです。さらに、物語り行為の遂行的性格は、歴史を物語るという行為が、どのような場面で誰が誰に向かって語るのかという言語行為的状況を明らかにするものです。それは「語り手」のイデオロギー性をも暴露せずにはおかないでしょう。(野家 1998: 20-1)

 これに対し、高橋は、つぎのように反駁している。「まず、第一に、『国民の物語』は、『無色透明な語り手によって超越的視点から語られる』ものとして考えられていない。それを語るのは『個人』や『世界人』よりはるかに具体的な存在である『スイス人』であり、『アメリカ人』であり、『フランス人』であり、また『日本人』である、とされる。坂本は、人々が『国民の物語』を語るとき、福沢諭吉が『偏頗心』と呼んだもの、すなわち『自分の生まれた国に偏る心』をもって語ることを、当然のこととして認めている。……要するに、坂本の『国民の物語』は、そもそもの初めから『政治的』なものとして提出されている。物語り論者から『暴露』されるまでもなく、自ら『イデオロギー性』を隠してはいないののである」(高橋 2001: 37-8)。そして、「第二に、『国民の物語』を『統合的表象』だからといって斥けることができるだろうか?」という。そして、そもそも野家の「物語り論」が「共同体」や「共同性」や「共同化」と強い結びつきを持っていたではないか、「いかなる『共同化』や『共同体』も、『排除と選別の暴力』から無縁ではありえない」以上、「それらの中から、「『国民』への『共同化』や、『国民』という『共同体』がアプリオリに排除される理由はどこにあるのだろうか? 『記憶の共同体』ないし『共同体の記憶』としての『歴史』から、『国民の歴史』や『国民の物語』をなぜ排除することができるのか?」(高橋 2001: 38)と疑問を投げかける。

 つまり、高橋は、野家の行っている、超越的視点から語られる統合的表象としての「国民の物語」と、物語りのネットワークの中で多様な声を響かせながら増殖していく「共同体の記憶の物語り」との区別は、両者がともに「共同体」と結びついている以上、不可能だというわけである。そして、その区別ができない以上、「歴史の物語り論」によって、坂本多加雄のいう「国民の物語」を批判することはできず、むしろ、「歴史の物語り論」は「国民の物語」を唱えるナショナリズムに回収されてしまうというのである。

 しかし、この区別は本当に不可能だろうか。「国民の物語」と結びつく「共同体」と、野家のいう「物語り」と結びつく「共同体」とが区別できれば、この区別はかのうとなるのではないか。そして、「共同体」の水準の違いを示すことで、その区別は可能であり、かつこの区別を行うことが、「歴史の物語り論」にとってだけではなく、人類学にとっても重要なのだというのが、本論で述べてきたことであった。野家がその区別を説得的に示しているとは言いがたいかもしれないが、この区別は、アンダーソンの二つの「想像された共同体」の区別や、レヴィ=ストロース[1972]のいう「真正さの水準」の区別に重なるものである。そして、レヴィ=ストロースによれば、この区別こそが「将来おそらく、人類学から社会科学への最も重要な貢献」[レヴィ=ストロース 1972:409]と判断されるものなのである。

 高橋がこの区別を不可能だと断じたのは、「共同体」というものを、ネイションをモデルとした単一のものとしてしか想像できないからである。そこでは、「共同体」は明確に境界付けられたものとして想像されている。たしかに、高橋のいうように、「いかなる『共同化』や『共同体』も、『排除と選別の暴力』から無縁ではありえない」だろう。けれども、その「排除と選別」の様態の違いによって、共同化や共同体は区別されるということが重要なのだ。

 また、高橋は、「『国民の物語』は、『無色透明な語り手によって超越的視点から語られる』ものとして考えられていない。それを語るのは『個人』や『世界人』よりはるかに具体的な存在である『スイス人』であり、『アメリカ人』であり、『フランス人』であり、また『日本人』である、とされる」というが、「日本人」や「フランス人」は、「個人」や「世界人」と同じくらいに抽象的な存在である。それを「『個人』や『世界人』よりはるかに具体的な存在」と思わせることこそ、「国民の物語」のイデオロギー性であり政治性なのである。その意味で、野家のいうように、それは「無色透明な語り手によって超越的視点から語られる」。たとえ、「われわれの祖父たちを辱めるな」というように、より具体的に語られても、それは〈顔〉の見える具体的な親族のつながりとは無縁な、誰でもない「祖父たち」でしかない。そして、そのような〈顔〉の見える関係のネットワークや連鎖による想像こそ、明確に境界付けられた抽象的で均質な「想像の共同体」としてのネイションエスニック・グループやジェンダーをかいくぐるつながりを創出するのである。

 にもかかわらず、高橋は、「国民の物語」の政治性やイデオロギー性を「偏頗心」へと矮小化し、坂本の「国民の物語」は、物語り論が暴露するまでもなく、そもそもイデオロギー性を隠してはいないとしてしまっている。そのような「偏頗心」は、〈顔〉の見える関係とその連鎖による共同化、あるいは野家のいう「われわれが常にすでに生きている、物語りのネットワーク」によって「想像された共同体」にとって、「当然のこととして認められ」、また「現実に滅却することはできない」ものとしてある。それはイデオロギー性でも政治性でもない。しかし、個人と抽象的全体とを無媒介に結びつけてしまうネイションのような「想像された共同体」にとっては、そのような「偏頗心」は当然のことではない。しかし、そのことを隠蔽して、〈顔〉の見える関係とその連鎖による共同化においてと同じように、「当然のこと」とすることこそ、「国民の物語」のイデオロギー性なのだ。結局、高橋が二つの共同体の様式を区別できないのは、まさに「国民の物語」による「隠蔽」に嵌ってしまっているからに他ならないだろう。

 さて、「歴史主体」論争の波紋のひとつとして、花崎皋平と徐京植とのあいだで交わされた論争は、コミュニケーションのモードと、発話のポジションの政治性をめぐるものだった。この論争は、花崎が「『脱植民地化』と『共生』の課題」という論考において、日本の戦争責任資料センター編『シンポジウムナショナリズムと「慰安婦」問題』での徐京植の発言について、それが「糾弾」というコミュニケーションのモードになっており、「糾弾されているものが決して抗弁できない位置に立たされる非対話的な関係を導く」[花崎 1999: 15]ものでしかないと異議をさしはさんだことにはじまる。それに対して、徐は、「あなたはどの場所に座っているのか?」[徐 1999]という反論において、相手に「わかってもらう」というコミュニケーション・モードをすることをつねに強いられるのはマイノリティ(日本による植民地支配と侵略戦争の被害者、被差別者)であるにもかかわらず、花崎は、そのマイノリティからの「問いかけ」を「わかろうとしない」マジョリティを弁護しながら、マイノリティに「わかってもらう」努力をせよと要求していると批判したのだった。

 また、花崎が「『糾弾』というコミュニケーションのモード」を問題にしたことに似ている指摘を、内田樹[2001]が行っている。内田は、高橋哲哉の『戦争責任論』がもつ「審問の話法」に違和感を表しながら、つぎのように言う。

 「審問」というのは「誰から誰に」(「アジアの民衆」から「植民地主義的関係を清算できない日本人全員へ」)というような「方向」の問題ではなく、言説の「形式」そのもののことである。それはある場を領する話法そのものなのである。

  審問の話法を受け容れた者は、たとえ、「審問される側」においてそれを聞き取る場合でさえ、瞬間的に立場を変えて「審問する側」に反転することができる。というか、「審問の言語」以外では思考することも経験することもできなくなってしまうのである。…

 「審問の話法」は不幸な話法である。なぜなら、それは必ずや「最終的な真理」という審級を想定して語られるからだ。そうする以外には語られ得ないからだ。

  私は「最終的な真理」というようなものの名において語ることは、どんな場合でも自制しなくてはならないと思う。自分が「真理」に触れ、自分が「正義」を体現していると確信しているときでさえ。(内田 2001: 41-2)

 そして、内田は、高橋が「あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には、人と人とが共存し共生してゆくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答するという一種の『約束』があることになります。[…]応答可能性としての責任とは、私が自分だけの孤独の世界、絶対的な孤立から脱して、他者との関係に入っていく唯一のあり方だといってもいいのではないか」[高橋 1999: 25]と言っているのに対し、「この部分に私はまったく異論はない」が、「ただし、私がここで『呼びかけ』というときに考えているのは、純然たる『よびかけ』…であって、『査問』とか『召喚』とかいうような法制的なニュアンスはない」とし、「高橋にとっての『呼びかけ』は、どうもそういうフレンドリーな感じのものではないようである。むしろそれは誤答を許さない『口頭試問』に似ている」と述べて次のように続ける。

 彼[高橋]に聞こえるのは「戦争とか、飢餓とか、貧困とか、難民問題とか、そのほか世界中で苦しんでいる人々の叫びや呻きや呟き」であり、「90年代になって続々と名乗り出てきたアジアの被害者たちの証言」であり、「元『従軍慰安婦』をはじめとするアジアの被害者たちの訴え」である。それは具体的には「『慰安婦』問題の刑事上の責任者を処罰せよという告発状」というかたちをとって、「(戦争責任の)刑事責任を果たすように、つまり裁きに服するように呼びかけられており、日本政府はそうした人たちの刑事責任を追ママする、つまり彼らを裁くように呼びかけられている。そして日本国民はその裁きを実現すべく努力するように呼びかけられている」ことに収斂してゆく。

 高橋がそのような呼びかけを選択的に聞ママことは彼の個人的な感受性の問題であって、私にそれについては別に依存はない。

誰だって、あらゆる呼びかけに等分に応答することはできない。当然にもそこには選択があり、優先順位があり、可聴音域には個人差がある。……だから、人はそれぞれ自分の聞き得た呼びかけにそれぞれの仕方で答えてゆくほかない。その限りで応答責任というのは、原理的には個人的な問題であると私は思う。

 しかし、高橋は自分の聞いた呼びかけは個人的に聴取されるべきものではなく、「日本人」全員が聞き取るべきものであると言う。(内田 2001: 47)

 内田のこのような言説は、徐が花崎の言説に対して述べているように、「裁き」を実現したくない人々を励ましてしまうおそれは充分にあろう。徐はつぎのように言っている。

私の側は、あらかじめ抗弁の口を封じられているのも同然である。なぜなら、花崎氏によって私は「検事裁判官」という糾弾者の地位を押しつけられているからだ。あえて抗弁すれば、そしてその抗弁が手厳しいものであればあるほど、多くの見物客たちが花崎氏の描いた図式を追認するであろう。ただでさえ現在の日本社会には、マイノリティ自身あるいはそれに連帯しようとする人々の側からの問題提起や批判に対して、糾弾主義だの告発主義だのとレッテルを貼る言説が横行している。そうした心ない人々が、今回の花崎氏の私への「批判」から励ましを得るだろう。気の滅入ることである。(徐 1999: 36)

 たしかに、このような「発話のポジション」からくる言説の政治的効果について、鈍感であってはならないだろう。それに内田は、高橋が「裁き」を強調するのに対して、それに「赦し」が伴わなければ他者とのつながりはありえないと、つぎのように言っている。

 「裁き」という言葉へのこだわりが示すように、高橋は「戦争責任をとる」ということを、もっぱら「真相究明」と「罪の償い」という「司法的」なものとして捉えている。「裁き」が「正義」を求めてなされることに異論のある人はいない。しかし、他者に対する責任は「正義」の成就だけでは果たし得ないということは、高橋自身が論拠として繰り返し引くレヴィナスその人の主張である。

 ……「裁き」だけでは、正義だけでは、他者との出会いは立ちゆかない。そもそも正義が希求されたのは、他者による苦しみによって震撼されたからではないのか。傷つけられた人間性への気遣いが正義を求めたからではないのか。

 高橋が正義を希求することになったのは、彼が「長い忘却を経て歴史の闇の中から姿を現した」顔を直視してしまったからである。正義を要請しているのは高橋における「慈愛の過剰」である。誰に強制されたのでもない、純粋に自発的な彼の中の「他者への愛」が、峻厳な正義を呼び求めたはずである。

 まず起源に「慈愛の過剰」がある。それが厳正な裁きと正義の執行を要求する。しかし、被告もまた「かけがえのない有責者」として、誰によっても代替し得ない固有の「顔」を持っている。その「顔」を見てしまうと、裁きは下せなくなる。それゆえ「裁き人」はあえて顔を見ないのである。しかし、ひとたび裁きが下されたときに、人は再び「慈愛の過剰」に帰還する。私たちはうなだれた被告の「顔」を見つめ、「なんとかして裁きの厳正さを修正しよう」と心を砕くことになる。罪された人びとのために「正義の峻厳をやわらげ、個人的な訴えに耳を傾けること」、それが私たち一人ひとりの次の仕事となるのである。

 レヴィナスが説いているのは、この慈愛と正義の終わりない循環である。「裁き」と「赦し」のめまぐるしい交替である。それがレヴィナスのいう他者経験なのである。(内田 2001: 98-100)

 内田の言っていることに私は共感する。とりわけ、高橋にとっての「他者」からの呼びかけからは、「侵略者である兵士たち」からの呼びかけが抜け落ちてしまっていることを考えれば、このような議論は必要なものだと思う。けれども、このような言説が、「赦しが邪悪さを野放しに」することを容認してしまうおそれがあるのも、またたしかだろう(もっとも、本論で私が書いてきたようなことも、「心ない人々」を励ます結果になってしまうのもたしかだといえるのだが)。とりわけ、「赦し」は、「慈愛の過剰」によって求められた峻厳な「裁き」の後にしかこないものであるにもかかわらず(つまり、まずは被告の「顔」を見ない「裁き人」が必要とされているにもかかわらず)、「私は『戦後責任の引き受け』というものが、そのような検察的な作業であってほしくないと考えている」(内田 2001: 41)と書くとき、「赦し」の可能性をも(すなわち「裁き」と「赦し」の循環としての他者経験の可能性をも)逃してしまうことにならないか、という危惧をいだいてしまう。

 にもかかわらず、内田の提示した「話法」ないし「言説の形式」という問題(それは花崎の提起した「コミュニケーションのモード」の問題と重なり合っていよう)は、重要であると思う。とくに「審問の話法」が、他者からの「呼びかけ」に応答するためのものである一方で、それが「他者」との〈顔〉の見えるつながりを(一時的にせよ)断ち切るものであることを自覚する上で、非常に重要なことだと思う。

 「審問」は、内田のいうように、被告の「顔」を見ないようにしなければならない「裁き」の場を創りだすばかりではなく、「呼びかけ」た原告の「顔」をも消してしまうような言説の形式である。そこには、定型化された「邪悪な抑圧者・加害者と無垢な被抑圧者・被害者」しかいない。そして、「誰が誰に向かって」かたっているのか、という「発話のポジション」を問うことには(アジアの無垢な被害者から加害者としての日本人へ、あるいは抑圧しているマジョリティから抑圧されているマイノリティへ、というように)、そのような「定型化」が入り込んでくる。そのような定型化された言説は、とりわけマイノリティが被った不正義を告発する裁きの場においては、必要不可欠なものだろう。その意味では、内田のように、そのような言説の形式をいかなるときにも自制すべきだとは思わない。しかし、そのような言説の形式が、生活の場を離れた特定の「裁き」の場における便宜のためのものだということ、そして、内田が指摘しているように、その「裁き」が、「赦し」と循環してはじめて、「他者」に応答できるのだということを忘れてはならないだろう。

 もちろん、このことは、実際に法廷闘争という「裁き」の場で、マジョリティを告発しているマイノリティの発する「審問の話法」に関して言っているわけではない。それがたとえ「糾弾」というコミュニケーションのモードでなされようと、それは当然であり、また「無垢な被害者」像からはみ出るような「顔」を見せないのも当然のことだろう。おそらく、「峻厳な正義の裁き」を要求するマイノリティは、それが「他者」との〈顔〉の見えるつながりとは切断された場でなされる便宜的な話法であることを承知しているだろう。そのような〈顔〉の見えるつながりを守るために、そして創りあげるために、それとは切断された「裁き」の場で闘っているのだから。

 しかし、「審問の話法」が「公共圏」での言説の形式なのだとするならば、そんな公共性は要らないと私は思う。そのような公共圏は、けっして「他者」とは出会えない場であり、〈顔〉の見えるつながりを否定する場だからである。それは、ハバーマスの言い方を借りれば、システムによる生活世界の植民地化を促進するだけの公共性となってしまうだろう。忘れてはならないのは、もし公共性が必要だとしたら、それは「裁き」の場として必要なのではなく、〈顔〉の見えるつながりを創りあげ、それを植民地化からなんとか守るために必要だなのだということなのではないか。(はじめに戻る

   文 献 表

安彦一恵/魚住洋一/中岡成文編

 1999 『戦争責任と「われわれ」――「『歴史主体』論争」をめぐって』ナカニシヤ出版

アーレントハンナ

 1981 『全体主義の起源2 帝国主義』大島通義/大島かおり訳、みすず書房

 1994 『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房

アンダーソン、ベネディクト

 1997 『増補 想像の共同体ナショナリズムの起源と流行』白石さや/白石隆訳、NTT出版

岩崎稔高橋哲哉

 1997 「『物語』の廃墟から」『現代思想』25巻8号、128-156頁

魚住洋一

 1999 「国家と境界――国民とその〈外部〉」安彦一恵/魚住洋一/中岡成文編 1999: 191-214.

上野千鶴子

 1998 『ナショナリズムジェンダー青土社

内田 樹

 2001 『ためらいの倫理学――戦争・性・物語』冬弓舎

岡 真理

 1998 「私たちはなぜ、自ら名のることができるのか――植民地主義的権力関係についての覚え書き」日本の戦争責任資料センター編 1998: 215-236.

 2000 『記憶/物語』岩波書店

小田 亮

 1997a 「ポストモダン人類学の代価――ブリコルールの戦術と生活の場の人類学」『民族学博物館研究報告』21巻4号、807-875頁

 1997b「文化相対主義を再構築する」『民族学研究』62巻2号、184-204頁

 1999 「文化の本質主義構築主義を越えて」『日本常民文化紀要』(成城大学大学院文学研究科)20: 111-173頁

2000 『レヴィ=ストロース入門』筑摩書房ちくま新書

加藤典洋

 1997 『敗戦後論講談社

斎藤純一

 1997 「表象の政治/現われの政治」『現代思想』25巻8号、158-177頁

 1999 「政治的責任の二つの位相――集団的責任と普遍的責任」安彦一恵/魚住洋一/中岡成文編 1999: 76-98.

坂本多加雄

 1998 『歴史教育を考える――日本人は歴史を取り戻せるか』PHP研究所

徐 京植

 1998 「『日本人としての責任』をめぐって――半難民の位置から」日本の戦争責任資料センター編 1998: 143-174.

 1999 「あなたはどの場所に座っているのか?――花崎皋平氏への抗弁」『みすず』461号、29-37頁

高橋哲哉

 1995a 「汚辱の記憶をめぐって」『群像』1995年3月号、176-182頁

 1995b 「《哀悼》をめぐる会話――『敗戦後論』批判再論」『現代思想』23巻11号、238-254頁

 1995c 『記憶のエチカ』岩波書店

 1997 「ネオナショナリズム批判のために」『現代思想』25巻10号、262-275頁

 1998 『デリダ――脱構築講談社

 1999 『戦後責任論』講談社

 2001 『歴史/修正主義岩波書店

高橋哲哉西谷修浅田彰柄谷行人

 1997 「共同討議:責任と主体をめぐって」『批評空間』II期13号、6-40頁

デリダ、ジャック

 1976 『根源の彼方に――グラマトロジーについて 上』足立和浩訳、現代思潮社

中村雄二郎/野家啓一

 2000 『歴史』岩波書店

西川長夫

 1995 『地球時代の民族=文化理論――脱「国民文化」のために』新曜社

 1998 『国民国家論の射程――あるいは〈国民〉という怪物について』柏書房

西谷修加藤典洋

 1996 「世界戦争のトラウマと『日本人』」加藤典洋『戦後を超える思考』海鳥社、259-301頁

日本の戦争責任資料センター編

 1998 『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店

野家啓一

 1996 『物語の哲学――柳田國男と歴史の発見』岩波書店

 1998 「歴史のナラトロジー」『新・哲学講義8 歴史と終末論岩波書店

花崎皋平

 1999 「『脱植民地化』と『共生』の課題(下)」『みすず』459号、12-32頁

松田素二

 1997 「植民地文化における主体性と暴力――西ケニア、マラゴリ社会の経験から」山下晋司/山本真鳥編『植民地主義と文化――人類学パースペクティヴ』新曜社、276-306頁

ヨネヤマ・リサ

 1996 「記憶の弁証法――広島」『思想』866号、5-29頁

レヴィ=ストロース、クロード

 1977 『悲しき熱帯 上・下』川田順造訳、中央公論社

Schlee, G.

1989 Identities on the Move. Manchester University Press.

(2001/06/14 更新)

*1アレントは、つぎのように言っている。「人種組織体の幻的性格は、人間によって築かれた法律によって支配される世界の欠如に基づいている。ブーア人のトレック、彼らが隣家の煙突の煙を堪え得ず、いかなる法律にも服せず、いかなる境界線をも認め得なかったことは、彼らが神々となり支配者となった黒人世界に彼ら自身が組み込まれてしまったことの結果だった。互いの結びつきも法律もない彼らのアナーキーな共同生活には、彼らがまことに不幸な運命を送った暗黒大陸の宿業であるあの無世界性・無目的性と同じ無世界性・無目的性がこびりついていた。白人民族が周囲の黒人の人種部族へ同化してしまったことを最も明白に示す証拠は、ヨーロッパ人アフリカで行なった恐るべき殺戮がいわばアフリカ大陸自体の伝統に何の困難もなく適合していることであると言えよう。敵対部族の根絶は大昔からアフリカ原住民戦争の掟だった。[アレント 1981: 122-3]」つまり、二〇世紀のヨーロッパ帝国主義と人種主義の「野蛮さ」は、もともとアフリカのものだったというわけである。ここには、高橋哲哉が指摘しているように、「まるですべての悪はアフリカから来るとでもいうように、『ヨーロッパ人アフリカで行なった怖るべき殺戮』−アフリカ原住民犠牲者とする殺戮−を、本来のヨーロッパ人がではなく、アフリカ化したヨーロッパ人が行なった殺戮、ヨーロッパ人アフリカの『伝統』に『同化』したために起こった殺戮として示している」という「驚くべき転倒」がある[高橋 1995c: 103]。

*2デリダレヴィ=ストロース批判についての批判は、別のところ[小田 2000]でも、同じ論旨で少し詳しく紹介しながら行なっている。参照されたい。

*3:高橋は、岩崎稔との対談[岩崎/高橋 一九九七]のなかで、まず、「『人類』の理念……だけが……『いかなる民族も排除しない』というアーレントが、結局『民族』以下の『人種』なるものをブラック・アフリカに見て、それを『人類』から排除している点は、徹底批判すべきだと思いますが、だから全部ダメだというのではなく、その限界を突破する方向で考えていくためにも、ここで彼女が言っていることはすごく貴重なことだと思う」[岩崎/高橋 1997: 141]と述べて、アレントの議論が修正可能だとしているが、アレントにとっては、「人種」なる真の自然状態が「人類」の外部にあるからこそ、いかなる民族も排除しない「民族」からなる公共的な「人類」といったものを抽象的ではなく、具体的に想像できるのだろう。アレントは、抽象的な人類なるものの普遍は人種主義への対抗とはならないと言っているのだから。また、同じ対談で、やはり、野家の『物語の哲学』について、「今日の状況の中で、それがどういうポリティカルなジャッジメントの問題を取り込めるのかについては、まったく見えてきていないと思うんです」[岩崎/高橋 1997: 134]という批判を繰り返しているが、「まったく見えてきていない」のは、共同体の想像の貧困によるものだろう(補論を参照)。そして、対談の最後に、高橋は、加藤典洋の『敗戦後論』で、戦後日本人が「自国の死者を先に置き、そこからアジアの死者たちに出ていく」例として称賛していた、大岡昇平の『レイテ戦記』に触れて、最初は大岡にはフィリピン人の戦争被害は見えていなかったが、フィリピン研究者の池端雪穂に指摘されてはじめて、戦争におけるフィリピン人の存在に気がついたのだというエピソードを挙げて、内側(内部)からだけではどうしても見えないものがあって、外部の他者の視点が必要なのだという趣旨のことを述べて、あたかも、内部には「他者」がいなくて、境界のなかは均質であり、境界を挟んで異質性が向かい合っているかのように言っている。しかし、大岡の例は、〈顔〉のある近い関係を延長していくことで、境界を横断し、高橋のいう「外部」の他者の〈顔〉に出会えるのだという例であって、いきなり抽象的な外部の他者に出会うという例ではないだろう。



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