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2014-01-18

美的ユート アの場──アドルノの美学理論の射程2── 照井日出喜

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 ほぼ半世紀前にブルトンの演説の末尾を飾るはずであったマルクスランボーとの統一というテーゼは,ほかならぬその彼岸性のゆえにほとんど妖艶ともいえる魔力を放つ。

 傲岸な「非行少年」の引きちぎられた魂がパリ・コミューン期の「苦悩の大都会,息も絶え絶えの大都会」に向かって撃ち続ける嫌悪と憎悪と呪詛の弾道は,取り澄ました概念操作による認識なるものとは異なるがゆえに,感性的《個》が返り血を浴びて「近代」の〈負〉の心臓を引っ掴み,切り開く場にわれわれを引きずり込むのであり,かくして, 1871年の「パリ」は1世紀以上も経た現代の都市へと,あるいは現代そのものへと直接的に移行する。批判的感性が現実性のあらゆる領域をみずからにかかわるものとしてとらえ「生の変革」を志向する《個》の表現が詩的天才と結びつくところにおいて,美的ユートピアの破片は悲しみにみちた大気を引き裂いて舞い散ることになる。それというのも「生の変革」は,必然的に,鉛色に抑圧された発想と感性の解放,新たに飛翔する夢と憧憬の表現へと向かうことを本質的な要請としてみずからに課すからにほかならない。

   おお百万の金色の鳥よ,未来を創造(つく)る生気よ──

           ──ランボオ『酩酊船』(鈴木信太郎訳)

 とはいえ,もとより,「美的な共同体意志」を媒介としての現実世界の《解放》は不可能である*1。現実を支配する経済構造に感性のみで立ち向かえるはずははじめからない。

   しかしながら,悲しいかな,この下界が支配者なのだ。

        ──マラルメ『窓』(鈴木信太郎訳)

 芸術がその存在によって,実現されることになるかも知れぬ《解放》に寄与することがたとえあるとしても,それはきわめて特殊な領域における特殊な帰結としてのことでしかあり得ず,たとえばモンテヴェルディグリューネヴァルトの作品の高貴な悲劇性がただちに《解放》に結びつくわけではないという事態は,いわゆる社会参加の芸術においても同様である。「芸術は人間が《善》を知覚することができるように魂をほぐして柔軟にすることをめざしている」*2というタルコフスキーの言葉は,誠実な芸術家魂の吐露ではあるとしても,実践的には,『ドリアン・グレイの肖像』の冒頭の一句,「芸術は徹底的に無用なものである」に如くものではない。

 オスカー・ワイルドのこの言葉は,「有用性」の君臨する現実性に対して芸術の「無用性」を突きつけるという一点からすれば,逆に近代における芸術の存在理由をパラドクシカルに明らかにする。無用なものはこの世界にあっては無力である。それが「有用性」の論理のなかで生き得るとすれば,商品として市場へと狩り立てられるときでしかない。 しかし,そうしたみずからの運命に深く傷を受けながらも,まさしくその傷の深さによって,「近代」なるものに特有の「有用性」の原理への嫌悪と拒絶との身ぶりを本質的にみずからのうちに含むがゆきに,卓越した芸術は近代のはらむ諸矛盾に向かっての無力ゆえに執拗な反撃を企てる場となり得る。 それがたとえ「砂漠のただなかに〈メッセージ〉を発すること」*3であるにせよ,現状肯定に安住した単純な「反近代」とは異なる「近代批判」こそは,現代における「価値転換」の根源にかかわるものにほかならず,そうしたきわめて抽象性の高い平面において,芸術は,道具的理性がテクノロジーの兵士たちを携えて盲目的に疾駆し,その論理の狭隘性ゆえに自己保存という1つの自明性が必然的に隷属性へと引きずり降ろされる状況に対する批判としての存在理由を獲得する。

 《批判》は,しかし,芸術固有の領域における根源的な自己批判的営為によってのみその発現を見る。すなわち,芸術における表現の威力は,芸術家がみずからに強制する凄絶な自己凝視にかかわる。冷ややかな弧独のなかでの《個》の営みの深さこそが本質的である──後期ロマン派においては,その自己凝視は「力の上昇と充溢との感情」としての「陶酔」*4としてとらえられたであろうが,まさしくその陶酔の徹底した抑圧への意志は,現代芸術の1つの本質的な規定性をもなす。最近のぶよぶよに膨張した神秘主義とは異なり,シュトックハウゼンの50年代後半の《クラヴィアシュトゥッケ》は,音楽に切り込むモノクロ―ムの刃の冴えが,ほかならぬ作曲者自身にも及ぶ極限性をはらむがゆえに,聴き手に異様なまでの緊張を強いることができるのであり,自己内における「他者」をことごとく剥ぎ取り,冷酷に燃えたぎる情熱をもって自己の内面の空無性を解剖しほとんど狂気か死かの二者択一にみずからを追いつめる危機意識の存在を感知させずにはおかぬのである。同時に,こうした危機意識は,世界に対する自己の位置の確定への意志の必然性をも生み出す。自己の内面への非情な沈潜と世界に向かっての批判と愛着と拒絶と夢との振幅が大きければ大きいほど,そしてその振幅のなかで芸術家が無残に翻弄されればされるほど、《個》は《世界》における現実体験という特殊な接点において1つの普遍的なものを獲得する。

 偉大な芸術家であることは最大の知性の表現であるというゴーギャンの言葉*5は,「感覚」なるものに酔い痴れて受注生産のモノトーンな世界をふらつく画家たちに向かって痛烈な批判の毒を放つものであるが,この「知性」はもとより技法上の知識のみを意味するわけではない。知性は想像力であり,すなわち,みずからの存在の世界に対する関係の再構成の能力にほかならず,したがって,また,世界に対する認識自体の鋭さと表裏一体をなすものでなければならない。

 当然のことながら,《個》にとっては現実体験の場としての世界は多面的である。バラの花の生命力から発せられるかの如き情念のふくらみも,光の群れのなかで緑に揺れるゆるやかな大気の流れも,シーレの脳髄を一瞬の狂気に追いやったであろう残酷な官能性の閃きも,既成の〈文明〉なるものへの憎悪も,戦争や支配権力への絶望的な抵抗も──要するに,直面する世界状況への鋭敏な反応こそは卓越した芸術家にとっての本質的な属性の1つをなす。 ピカソにとっては恋愛もゲルニカ爆撃も双方とも正当な芸術上のテーマであった*6バクーニンゼンパーとともにドレスデンバリケード闘争を指導する宮廷楽長の中で,みずからの作曲による《ロ ーエングリン》の神秘的なまでに眩しく高揚する弦の透明な夢が響き渡っていたとしても不思議ではない。フィローノフの《革命の公式》も,まさしく1919年ロシアという特殊性のなかで整然たる熱狂を内面に燃やした画家のみに可能な作品にほかならない。

 《個》としての芸術家にとってはその病める魂を震憾させるすべてのものが対象となるとはいえ,あるいはまさしくその同じ理由によって,社会的な主題がたんにその主題性のゆえに作品の卓越性を立証することになるわけではない。じっさい,「芸術の革命」が「革命の芸術」に還元され得ぬものであること*7は,もとよりフランス革命にのみ妥当するものであるはずはなく,「芸術が要求するのは真実であって生まじめさではない」*8というマレーヴィチのいささか皮肉にみちた言葉はこの文脈においても生きている。

 60年代半ばにヴェトナム解放戦線に捧げられたノーノの《森は若々しく生命に満ちている》は,ヘンツェとともに西ベルリンの街頭でヴェトナム反戦デモの隊列に参加した作曲家*9の苦渋にみちた意志の表出であり,その手法は,とくに声という音素材自体をテキストに応じて変容させるということによって,ほぼ同じ時期に同じく声のために書かれたリゲティの2つの《アヴァンチュール》とは異なる内実を示している。 しかし,それにもかかわらず, 1987年秋に東京で初演された同じ作曲家による《2)進むべき道はない だが進まねばならない……アンドレイ・タルコフスキー》が構築した,ある意味ではほとんど《ハンマ―クラヴィア・ソナタ》にも比肩し得る精神世界には及ぶものではない。7つに分けられて配置されたオーケストラの深々とした沈黙,長く引き延ばされる持続音とそし微妙なズレ,意志的に突発する最強音,そしてまた沈黙──この作品は,聴く者をみずからの内面へのノスタルジアへと送り込むことによって緊張にみちた沈潜を強い,出口のないところで出口を探し求めねばならぬ意志の存在を想起させる。《森は若々しく……》はたしか60年代半ばという時代に対する作曲家の痛切な態度の表明をなすものではあるが,しかし,そうした〈意図〉がそれ自体として作品に規定をするわけではない。すなわち,この作品におけるテキストのモンタージュの高度の社会性が音楽表現自体の高度さを無媒介的に規定するわけではない。アンガージュマンの危うさと厳しさとは,危機的状況にある世界をみずからの内面に重ね合わせ,世界の醜悪さをアトラスのごとくにみずからに引き受ける悲喜劇を思い知りながら,極限にまで追いつめた内面から否応なしに閃き出るジャンル固有の技法の個性化=革新を通じて世界に向かい合う精神の身ぶりに存する。音楽における「生命力と創造性」とは「作曲家インパルスがその反省を貫いて確保され,さらにそれによって高められるところに保持される」*10というアドルノの指摘は,もとより他のジャンルに対しても妥当性を持つ。世界との関係におけるインパルスの強さと質の高さとは芸術家の主観性にかかわるものの,その反省は固有の技法とその破壊=創造というある種の客観性を通じてのみ実現され得る。 ジョルジュ・サンドが語るショパンの仕事にせよ,残されたヘルダーリンの詩の草稿が示す推敲の厳しさにせよ,あるいはまた膨大な思索の末に生み出されたモンドリアンの構成にせよ──もっとも,貧困のうちに彼が描かねばならなかった売り絵の花々も,不思議な静寂のなかに息づいてはいるが──,拷問にも似た彼らの苦行は,まさしくインパルスを高める技法もしくは形式の創出に向けられていた。そしてその創出の場は,《個》の内面を切り刻む危機意識以外にはあり得ない。 美的ユートピアの幽玄な揺らめきは,罪と汚辱にみちた救い難い悲しみの地からのみ立ち現れる。



II

 芸術が社会の富に依存する寄生的性格を持つことは明らかである。文化産業に組み込まれ,商業主義の絶対的な権力がポーの描く黒死病の仮面の如くに社会を覆い尽くすなかでのみその存在を許される芸術の現在の状況は,国王やその取り巻きの恣意に左右されて宮廷の香水の一部として存在することとさほどの差があるわけではない。ゲーテが宮廷詩人としてのみずからを投影させたタッソーは,夢幻的な官能性が艶やかな素朴のうちに立ち龍める牧歌劇のなかで,痛々しい妥協としての宮廷賛美を挿入した後,「愛神が永遠に/君臨する王国の掟は/厳しくもなければ邪でもない」(鷲平京子訳『愛神の戯れ』)と書き付けて秘やかな復讐を果たしながらも,みずからの存在の隷属性に苛まれつつ,やがては狂気の淵にのみ込まれる。彼の肖像が今日もなお生きるのは,《全体》に圧殺される《個》としての詩人の苦悩が,いわば超歴史的な響きとなって絶えず蘇るからであり,それというのも,隷属性を所与の事実として受け入れるか,それへの絶望的な反逆をみずからのジャンルへの根底的な問題設定としてとらえるか,という選択は,芸術作品が陽の目を見るための経済的な基盤という点からすれば,たんに倫理的要請としてのみ問われるというほどに単純なものではないからにほかならない。

 装飾品としての遊戯性という「機能」が芸術において拡大するのは文化産業の本質に属する。抽象と具象とが方向として固定化され,後者に対する前者の攻撃性という本質性が喪失したところでは,「新しさ」は容易にたんなる流行へと転化する。 デュシャンの自嘲をはらんだ攻撃性も,模倣者たちによって「制度化」されることを通じて思いつき程度の娯楽に堕する傾向を持ちつ。入り乱れるイズムはいかにも混沌を装いながらも,ヴォルスフランシス・ベーコンのような人間存在の根源を問うほどの厳しさを保持しているわけではない。かつてのコンセプチュアル・アートにおいて,「コンセプト」そのものが分析哲学の二番煎じ程度のものでしかないとすれば,「アート」は所詮はエキセントリックで人畜無害な飾り物として,しかも「モダン」であることのシンボルとして,たとえば企業の一室のインテリアとして珍重されることになる。匿名性は無害性に通ずることとなり,したがって,収集家の欲望の対象として,美術市場なるものにおいて法外な価値が付けられることとなる。もとより,現在の社会では商品である以上価格のないものはない。しかし,J・ヴェーバーが西独の美術界を解剖して見せたように*11画商・美術館・評論家・資本の癒着によって「商品」が作り上げられ,いわば「独占価格」が形成される事態は,家元制度のカリカチュアが生き延びる日本はもとよりのこと,当然のことながら国際的な症候であり,そうした商業主義の支配こそが嫌悪されなければならないのである。アドルノホルクハイマーは文化産業の作り出す作品には(秩序はあっても連関はない」*12と断じたが,連関の拒否こそは現代の文化状況全般にかかわる。

 千代紙をどこで買うか迷うことと,ケージのコンサートとクリストの展覧会との選択に迷うこととの間には,後者が自負するほどの差異があるわけではない。みずからには直接的にかかわらぬものとして,いわばひとごとを選択するという限りにおいては,両者は同じ平面上にある。後者が,その選択肢にあいふさわしく,いわば硬質な刺激としての娯楽を求める点に多少の相違があるいはあるかも知れぬという程度のことでしかない。そして,都市におけるこうした層の一定程度大量の出現が,「市場」における芸術の存続を支えているのである。「安定した」社会の現状を前提したうえで,その前提が崩れぬ限りにおいて,これまでの芸術とは異なる「新奇さ」に立ち会うことは,その安楽で空虚な「急進性」のゆえに,みずからの手を煩わすことなく現代社会に対する優越感を味わうことを可能とする。「正確きわまる情報と磨き立てられた娯楽との洪水は,人間を小賢しくすると同時に白痴化する」*13という断定は、現在の社会の芸術「受容」の状況にこそ突き刺さる。集団の冷ややかな反応の前での芸術の姿は,ディケンズの『バ―ナビー・ラッジ』に描かれた群衆心理の非合理的な暴力を前にした個人の無力を想い起こさせる。



 効率性の原理がほかならぬ支配の論理として貫徹し,「個人の自律が個人の他律へと展開を遂げた」*14エゴイズムと他者の隷属化との体系のなかで意識が知り得るのは,ヘーゲルの叙述*15とは異なり,世界はまさしく外見と同じように悪しきものだということである。ヘルダーリンやクライストにとってのフランス革命ボードレールにとっての二月革命ランボオにとってのパリ・コミューンシャガールにとってのロシア革命,幾人かにとっての60年代末期──いずれも,彼らが「新しき生」への夢を投入した高揚期は,雨に打たれる泥まみれの古靴のごとく,残骸と化して「後ろ向きに信ずる」歴史家ニーチェ)の対象となる。「啓蒙の自己破壊の過程」を概念的に把握しようとする《啓蒙の弁証法》の著者たちに対して,「そのような気分,姿勢はもはやわれわれのものではない」*16と言いきれる心優しい「オプティミズム」は,なにやらほとんど18世紀のディヴェルティメントに聴かれる木管の響きを想い起こさせはするが,しかし,そこからは,諸個人が権力の支配に「自発的に」隷属していくシステムが完成の域にまで到達した状況が破局への予感から軋ませる不協和の音群を聴き取ることはできない。豪奢と逸楽とが美と秩序と静寂とともにある世界への誘いは,ボードレールの失意を食い尽くすことを通じてのみ開かれる。ミューズが苦々しきものとして現われ(ランボオ),美が恐ろしきものの始元(リルケ)であるのは,最も希求する者がっねに敗者であらねばならぬ世界においては必然的な帰結である。

 実践的には無力な芸術が提示する美的ユートピアは,もはやなんらかの「美的教育」を一義的なものとして掲げるだけの力は喪失した。みずから傷つきながら,あらゆる形態における人間の隷属化への抵抗の意志を吐き続けることしか残されてはいない。

   おお季節よ,おお楼閣よ

   無傷な魂など世にあるものか?

         ──ランボオ『おお季節よ,おお楼閣よ』(平井啓之訳)

 「それ自体において真実でない芸術作品が社会的に真実であり得ぬのと同様に,逆に,社会的に虚偽な意識が美的に真正なものとなることができようはずはない」*17というアドルノクレドは,クレドゆえの強靭さと危うさとに隈取られながらも, 20世紀初頭における政治と芸術のアヴァンギャルドの一致という亡霊を蘇生させ,下界を越え行くものの不在を断念できぬ感性をほかならぬ下界そのものに向かって表出させ続けるための秘やかな呪文をなすものである。そこからは,冒頭のブルトンテーゼの1つの無意識的な変奏が湧き上がる。意識と芸術の双方がそれぞれの地獄から這い上がり,天空に長く弧を描いた後に交錯する一瞬の幸福が,われわれに《解放》への意志の持続を強制するのである。

*1:Vgl. Theodor, W. Adorno, Kritik des Musikanten, in: ders., Gesammelte Schriften Bd. 14, 2. Aufl., Frankfurt a.M. 1980, S. 68.

*2:アンドレイ・タルコフキー『映像のポエジア』(鴻 英良訳),キネマ旬報社, 1988年, 246ページ。

*3ジャン=フランソワ・リオタール知識人の終焉』((原田佳彦・清水 正訳), 法政大学出版局, 1988年,8ページ。

*4:Vgl. Friedrich Nietzsche, Gotzen-Dammerung, in: ders., Werke Bd. VI-3, Berlin 1969, S. 110.

*5ゴーギャン『オヴィリ』(岡谷公二訳),みすず書房, 1980年,13ページを参照。

*6:E・ルーシースミス『1930年代の美術』(多木浩二持田季未子訳),岩波書店, 1987年, 135ページを参照。

*7:Vgl.Winfried Schroder, War die Franzosische Revolution auch eine Epochenzasur in der kulturellen, kiinstlerischen und literarischen Entwicklung ?, in: Weimarer Beitrage, 1/1988, S. 53.

*8カシミールマレーヴィチキュービズム,未来主義からシュプレマテイズムヘ──新しい絵画のリア リズム」,J. E. ボウルト編薯『ロシア・アヴァンギャルド芸術』(川端香男里・望月哲男・西中村浩訳),岩波書店, 1988年, 155ページ。

*9:Vgl. Hans Werner Henze, Luigi Nono, in: ders., Schriften und Gesprache 1955-1979, Berlin1981, S. 201.

*10:Theodor W. Adorno, a.a.O., S. 104.

*11:Vgl. Jurgen Weber, Entmiindigung der Kiinstler, 3. Aufl., Koln 1987.

*12:Theodor w. Adorno/Max Horkheimer, Dialektik der Aufklarung, in: Adorno, Gesammelte Schriften Bd. 3, 2. Aufl., Frankfurt a.M. 1984, S. 147.

*13:Ebd., s. 15.

*14:Max Horkheimer, Vernunft und Selbsterhaltung, in: ders., Gesammelte Schriften Bd. 5,Frankfurt a.M. 1987, S. 332.

*15:Vgl. G. W. F. Hegel, Phanomenologie des Geistes, Berlin 1971, S. 281.

*16:Jurgen Habermas, Der philosophische Diskurs der Moderne, Frankfurt a.M. 1985, S. 130.

*17:Theodor w. Adorno, Asthetische Theorie, in: ders., Gesammelte Schriften Bd. 7, Frankfurt a.M. 1972, S. 368.



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