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2016-04-05

近代芸術(モダン・アート)という「歴史=物語」── モダニズム再考──  森雅彦

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1.近代芸術の外部

 芸術ははじめからこれは芸術である、これは芸術でないといったかたちで存在するわけではない。いわばあるコンテクストの中で芸術となる、あるいは芸術にならされるのです。それは近・現代のモダンアートにおいても変わらないので、ここでの話はそうしたことの一端に関わるものです。

 市民社会において育まれた近代芸術は、とうぜんながら大きな特色を持っている。こころみに、何でもよい、皆さんのお手元にある美術史の教科書を開いてみていただきたい。近代以前、すなわちプレモダンの芸術について、それらはたとえばロマネスクゴシックルネサンスマニエリスムバロックロココといったように、おおきな時空間の枠組みで語ることを怪しまないけれども、近代になると実に多様な傾向の芸術に出会うし、めまぐるしく変わるイズムの変貌に圧倒されるに相違ない(図1)。むろんロマネスクゴシックにせよ何にせよ、そこに多彩な傾向はあるにしても、それ以上にいわばある種の類似した表現傾向を持っていると思われているため、こうした記述になるのであって、その意味では、各時代ごとにある種の共通した表現形式を有していた近代以前の(単数の)大文字のStyleから、近代以降はひじょうに多彩な表現形式、つまりは(複数の)小文字のstylesへと変貌したかのように映ると言ってもよいわけである。しかもこうした(複数の)小文字のstylesは同時代に併存すらしていることもまれではない。

 むろん、ここにあるのは表現形式や様式の選択の自由性・恣意性だというのは見やすい道理であろうし、こうした芸術の恣意性は、芸術判断におけるオリジナリティの強調とも相補している。芸術の根幹は何よりも独創性にあるという観念は、近代のおおきな特質に相違ないので、そこでは「個/主体」の他とは異なる作品産出が重んじられるわけである。

 こうしたありようは、奇妙に近代社会のありかたと同型であると言えるかもしれない。近代資本主義社会は、アダム・スミス以来、自由な「主体」たる「個」の欲望による「商品/もの」の産出によって成り立っていると考えられている。そこでのインセンティヴは、他とは異なる「商品/もの」という差延の無限産出である*1。あるいはシュンペーターの名高い表現を借りれば、企業家によるイノヴェーションや新結合こそ、資本主義発展のカギであり、したがって「創造的破壊」こそ重視されるわけで*2、その意味において新陳代謝を促す企業家(むろんシュンペーターの言う企業家は資本家や企業の社長とは異なる、後者はむしろ官僚にこそ近い)は、あたかも創造的破壊を繰り返す芸術家とどこかパラレルに見えてきても驚くには当たらないであろう。

 さらに今日の芸術家像には、世のヒトとはいささか違うという、異端児とか世間とずれた人というイメージがあるが、これもまたたいへんに近代的な芸術家のありようである。ボヘミアンのように浮世離れしていてもあまりひとは怪しまないので、こうしたかたちで予期的社会化(アンティシパトリー・ソーシャライゼーション)のなされる世界では、異端/正系、革新的/保守的、前衛/アカデミズムといった傾向を内包するように無意識裡に想定されていて、したがってモダンな芸術は一般の人からすると「ノイズ」じみたものに映るし、また新しいアートはしばしばスキャンダルとともに生まれてきたように見えるのである。

 とまれ、こうしたモダンな芸術のありようをもっともよく示しているのは、何といってもフランスの近代芸術であろう。実際、近代芸術におけるフランス中心主義の信仰には強固なものがあって、フランスあるいはパリという「中心」に対して、その他の地域は「周縁」と見えるほどである。だからこんな現象も不思議ではない。たとえば、スペインの近代でもっとも重要な画家はソローリャという美術家であるが(図2)、しかし他地域ではあまり一般的な名前ではないであろう。プラド美術館の1階にはソローリャを中心としたスペイン近代絵画の展示空間が広がっているが、1、2階にあるゴヤのそれほど、多数の観者がいることはたいへんまれである。またイタリアの美術愛好家にとって、ジョヴァンニ・フアットーリの《まま娘》(1889年フィレンツェ、ピッティ美術館)という作品はたいへん有名で、実際けれんみのない秀作に相違ない。それゆえイタリア人の手になるイタリア美術史の入門書には、ごらんのように、よくこの作品が載せられているのだが(図3)、フランスの絵画なら、1.5流あるいは2流の画家の作品でも関心を引くのに、イタリア以外ではほとんど知られていないといった現象が生じるわけである。それは、言ってみれば、日本人なら誰でも知っている、黒田清輝の《湖畔》(1897年、東京文化財研究所)も、それ以外になるとおそらくよほどの美術愛好家でなければまず知られないといったことと同型である。

 ではなぜ近代においてフランス芸術は、いわば特権化されてきたのだろう。さまざまな説明が可能だと思われるが、ここではひとつだけその理由を挙げておきたい。フランス近代美術は、しばしばイズムの歴史などと呼ばれる。新古典主義ロマン主義以降、実にさまざまの流派が急速度に生成流転してきたからで、多様な表現意匠の工夫というものが、新陳代謝を繰り返すかのように、前代を否定し、またあえて異を唱えるといったかたちで、前衛芸術の自己展開をなすかのように展開してきたということである*3。いわば文字通りにモダンな感性にみあった創造的破壊を反復することの顕著な、不均衡動態論の芸術世界だったのである。したがって前の芸術を後代の芸術があたかも乗り越えるかのような芸術という名の支配闘争、エネルギッシュで発展主義的なモメントが際立っているので、ここではそれをモダニズムの自己革新としての芸術という風に呼んでみたく思われる。

 とすれば、モダニズムとはどういうものなのだということになるだろう。モダニズムはそのまま訳せば近代主義だが、こうした言葉には分野によって様々なニュアンスがあるし、現にあるに相違ない*4。また同じ芸術でも、エズラ・パウンドやT. S.エリオットの詩をモダニズムと評するときと、わたしたち美術史家のそれではやはり微妙に異なっているであろうが、しかし西洋美術の無意識の中では、モダニズムという構えは最大公約数、すなわちごく教科書的な次元では以下のような含意を有していると言ってよいと思われる。

1.1.現代性

 芸術はモダンでなければならない── これは新しいもの、モダニティの強調であって、たとえばボードレールの『現代生活の画家』のような主張を考えれば分かりやすいであろう。彼によれば、芸術とはモダン・ライフの中に英雄性を見出すものなのである。

 また急いで付け加えておけば、近・現代におけるモダンは絶対的な価値観ではなく、セレクティヴな価値観なのであって、いかなる現在の芸術も同時代の芸術(contemporary art)ではあっても、すべてモダンであるとは限らない。すなわち、modem art≠art of the modern period なのであって、モダンとそうでないものとの差異のうえに成り立っているわけである。

1.2.自己言及性

 芸術とは何かという問いに対して、芸術とは芸術であるという自己言及性の発想は、単なるトートロジーの反復命題ではない。かつて絵画は、いわば神話、宗教などなど「絵画+α」として存立していたが、「絵画=絵画」だという純粋芸術論にも似た発想は意外と新しいので、その含意については後でまた立ち返ってみたい。とまれこうしたこととも深く関連するのが、次のフォーマリズムという芸術思考である。

1.3.フォーマリズム

 これは直訳すれば形式主義であるが、その芸術上の含意はそれ自体の「意義ぶかい形式」(クライヴ・べル)という以上に、主題内容よりも表現の仕方を重視する姿勢のことを意味している。絵画は何を伝えるのかではなく、絵画には何かできるのかの可能性を問うということだ。


2.モダニズムの原型としてのマネ── マネをめぐる言説たち

 さていささかアブストラクトな話に傾いたようなので、ここでもう少しモダニズムの具体層について考えてみることにしましょう。実はこうしたモダニズム芸術の始祖のような意味を担っているとしばしば目されてきたのは、エドゥアール・マネである。まずは皆さんに、ごく簡単にでも彼の芸術を思い起こしていただきたい。

 《草上の昼食》(図4)は1863年のサロンに落選し、世に名高い落選展でもスキャンダルになった作品としてよく知られていよう。この絵画の着想は、マネの友人アントナン・プルーストの伝えるところでは、ルーヴル美術館にあるヴェネツィア派絵画の傑作《田園の奏楽》(図5)の現代版を作ろうとしたもので、実際、ふたつの作品の類似は明らかである。両作品は戸外で展開する場面になっているし、着衣の大きな男性の人物が2人いて(ただし《田園の奏楽》には中景右端に小さく羊飼いも描かれている)、そのうちのひとりは両作品とも帽子をかぶっている。そのうえご丁寧なことに、着帽する人物たちは、《田園の奏楽》ではリュートを、《草上の昼食》では杖を持っている。また両作品とも女性が2人ずついて、《田園の奏楽》では笛を持つ女性はほとんど全裸体だが、もうひとり若干の衣装を下半身にまとった女性は容器を傾けて水盤から「水」を汲んで、あるいは注いでいる*5。他方、《草上の昼食》はといえば、ひとりの女性は完全に裸体で、もうひとりシュミーズ・ドレスを着ているような女性は、ボートのある水辺でこれまた「水」と戯れている風情である。とはいえ、実際にはマネはこの作品を制作するのに、ラファエッロの原画に基づいたマルカントニオ・ライモンデイの版画《パリスの審判》(図6)に依拠している。よく知られた事実ながら、マネは《パリスの審判》の前景右端の河神たちの構図を借用しているわけで、要するに《草上の昼食》は、表面上はルネサンス絵画のモダンな翻案、あるいは絵画史的記憶のような作品なのである*6

 今日のわたしたちからすると、こうした絵画の何か問題視されたのか奇妙な当惑すら覚えるものの、ひとつの理由は当時流行の「四人連れ」という風俗主題のように見えるうえ、着衣の男性たちと裸の女性たちの組み合わせが卑狼なものに思えたということにある。《草上の昼食》はおそらくセーヌ河畔での情景だが、当時ここではいかがわしいこともよく行われていたらしい。

 しかし、道徳的な思い込みだけではない。さらに重要な理由があって、そのためには《オランピア》(図7)を見るにしくはない*7。 この作品は1865年のサロンで《草上の昼食》以上にスキャンダルの対象となった絵画だとはいえ、これも表面上はティツィアーノの《ウルビーノヴィーナス》(図8)の絵画史的記憶のような作品にすぎない。両作品の類似は、横たわる裸婦像となっているばかりでなく、両者の身につけるブレスレットなどの細部にも及んでいる。裸婦の背後には人物かおり、また両作品とも背景を中央で仕切ったセッティングになっている。またティツィアーノのシーツの上の眠る犬は、置換されてマネでは背中を丸めて威嚇しているような黒猫になっているわけである。

 《オランピア》が忌避された一因は、ここでも道徳的な側面にあった。オランピアとは娼婦のことで(ただし高級娼婦か下層の私娼かは微妙な問題を孕む)、絵は挑発的な構造を含んでいるようにも見える。正面を見て背中を丸めた猫は愛らしく振舞っているというお上品な見方もあるものの、わたしには見知らぬものを眼にして興奮し、威嚇しているように映る。換言すれば猫の前には人がいるわけである。しかもオランピア自身、わたしたち観者の方をじっと見つめているため、オランピアのもとを訪ね、黒人のメイドを通して彼女に花束を渡してもらおうとしている旦那さんとは、まるで絵を見つめるわたしたち観者それ自身であるかのようなのである。ちなみに、猫というコトバは女性性器の隠語であることも思い起こされるだろう。

 しかしそれのみでなく、《オランピア》は表現手法の面においても、それまでの規範をおおきく逸脱しているのである。たとえばアレクサンドル・カバネルの《ヴィーナスの誕生》(図9)をご覧いただきたい。この《オランピア》と同時代の絵画は、当時名作の名をほしいままにした作品であった。今日から見れば、カバネルのヴィーナスの方がオランピアよりよほど艶めかしく官能的で、そして当時のブルジョワたちも密かに内心ではそう感じていたに相違ないのだが、皮肉なことにエロティックで卑狼だとして論難されたのはむしろマネの作品の方である。両者の描き方は根本的に異なる。カバネルの裸婦は丁寧に繊細な肉付けをもって描かれているのに対し、マネの裸婦はあたかもぬり絵のように平坦で、てらっとしている。そのうえ、輪郭まで強調されているため、今日流の言い方をすればへたうまのような絵になってしまっているのである。それゆえ、カバネルのような表現こそ、プロのプロたる絵画であるという思い込み、あるいは美意識に浸された公衆からすれば、雌ゴリラとまで抑楡されたマネの裸婦像は絵としてあまりに常識を逸脱したものだったのである。

 とすれば、ある意味、批判は必ずしも的外れではないことになるはずだが、注目に値するのはこうしたマネの芸術が批判者に対していかように弁護可能であったのかということである。この点でたいそう興味深いのは、小説家エミール・ゾラの議論である。

 ゾラは1867年に『エドゥアール・マネ』という小冊子を出版している(図10)。マネは同年に個展を試みていて、このときにはゾラの冊子も会場で頒布された。とまれマネは公衆の無理解に苦しむ彼を擁護してくれているゾラに感謝の念を抱いていたらしく、1868年には《ゾラの肖像》(パリ、オルセー美術館)という名高い肖像画を描いているほどである。

 ここで『エドゥアール・マネ』を、皆さんと一緒に紐解いてみよう。たとえば《草上の昼食》について、ゾラはこう書いている。

《草上の昼食》はエドゥアール・マネ最大の絵で、風景の中に等身大の人物像を置くという、すべての画家が思い描く夢を実現した。……前景では二人の若者がもう一人の女性と向かい合って座っているが、その女性は水から出たばかりで、大気で肌を乾かしている。この裸の女性が、絵の中に彼女しか見ない公衆を慣厩させたのだ。何ということだ。何たる下品さ。一糸まとわぬ女性が二人の着衣の男性のあいだに入っているとは。こんなことは今まで見たことがない。……(群衆は)水浴から出て草の上で食事をしている人々だけをそこに見て、芸術家が主題の扱い方において卑狼で人騒がせな意図を込めたと信じたのである。芸術家はといえば、単色の量塊の激しい対比を得ることを目指していたにすぎないというのに。画家たち、とりわけ分析的な画家であるエドゥアール・マネのような画家たちは、何よりも群衆を困らせるような主題を取り入れる考えを持ってはいない。彼らにとって主題は描くための口実だが、群衆にとっては主題だけが存在する。こうして、確かに《草上の昼食》の裸の女性は、少しばかり肉体を描く機会を芸術家に与えるためにのみそこにいるのだ*8

オランピア》についてはこうである。

1865年に、エドゥアール・マネはなおサロンに入選し、《兵士たちに侮辱されるイエス》と彼の傑作である《オランピア》を展示する。…… それは16歳くらいの娘で、おそらくはエドゥアール・マネがあるがままにそっと写し取ったモデルである。そして誰もが叫んだ。下品な裸の肉体をみつけたのである。身体から見たところ、それは芸術家が若くてすでにしおれかけた裸体として画布に投げつけた娘に違いない。……もっとみだらな他の人々は、そこに猥褻な意図を見出して悪い気はしなかったろう。さあ、彼らにはっきり言ってください、親愛なる巨匠よ、あなたは彼らの思っているようなものではまったくなく、あなたにとってタブローは分析のための単なる口実なのだと。あなたには裸の女性が必要だったので、最初に出会ったオランピアを選んだ。あなたには明るくて光に満ちた色斑が必要だったので、花束を置いた。あなたには黒い色斑が必要だったので、片隅に黒人女と猫を据えた。それらすべては何を意味するのか。あなたはそれをほとんど知らないし、わたしもまた知らない。しかし、あなたは画家の、それも偉大な画家の作品を作り上げること、すなわち光と影の真実、ものと生き物の現実を特別な言葉で精力的に翻訳することに見事に成功したことを、わたしは知っている*9

 ごらんのようにゾラは、絵画の主題にはまったく言及していない。むしろ意図してそこからあえて位置ずらしを行っている。そして「あなたには明るくて光に満ちた色斑が必要だったので、花束を置いた。あなたには黒い色斑が必要だったので、片隅に黒人女と猫を据えた」というように、絵画を絵画として扱うフォーマリストにも似た位相でマネの絵画の真実性を擁護したのであって、それはある意味においてモダニズムの実践的な批評になっているとも目しうるであろう。それはいわばマグリットの「これはパイプではない」の論理を先取りしていたと見ることもあながち不可能ではないのである。

 むろん実際のマネはまったく題材を看過していたわけではない。しかしモダニズムの原像マネという画家像自体は、新しい表象に鋭敏なフランスにおいてたいそう魅力ある様態であったし、そのことは、マネに深い関心を示してきた現代の若干の人々を想起していただくだけでも、じゅうぶんご理解いただけよう。たとえば、近代絵画の創始者マネを巧妙に語ったアンドレ・マルロー、マネの絵画に主題=主体の解体を見たジョルジュ・バタイユ、マネをルネサンス以降の絵画史上はじめて、画布を無視することなく、絵の中でその空間特性を生かす表象を創出した近代絵画の祖としたミシェル・フーコー、あるいは社会学の立場からマネのうちにアノミーの制度化を見やったピエール・ブルドゥー*10、ユニークなところではマネを通して映画の生成に言及してみせたシャン=リュック・ゴダールの『(複数の)映画史』などのことである。ここではいささか変わったゴダールのマネ像のみ、ごく簡単に紹介しておくことにします。

 ゴダールの『映画史』「3A」は、マルローやバタイユを強く意識しつつも、映画を先駆したマネという、意表を突く面白い言及を含んでいる。当該箇所は、まずは上下に重ね置かれたウィトゲンシュタイン最晩年の絶筆『確実性の問題』の文庫本と、プレイアッド版のディドロの『盲目書簡』という2つの書物を映し出してみせる。この映像はゴダール自身の『JLG/自画像』(1995年)からの引用で、後者では『映画史』と違って、テクスト自体朗読される*11。すなわち『確実性の問題』の121「疑いのないところには知識もない、と言えるだろうか」や、125「盲人がわたしに、あなたには二本の手がありますか、と聞いたとして、わたしはそのことをわざわざ見て確かめようとはしないだろう。そこまで疑うくらいなら、なぜ自分の眼を信用しなければならないのか、わたしには分からない。両手を見ているかどうかためしてみて、確かめるべきは、眼の方ではないのか」、あるいは『盲人書簡 補遺』の「彼女はかねがね、彼女にとって恐れなくてならないのは、ただ心と精神の資質のみだと言っていた。それもまた、殊に女性にとっては、眼の見えないことの利点のひとつです。彼女は、美男の殿方を見て振り返るようなことは決してありませんから、と言っていた。さらに彼女は付け加えて、幾何学者は眼を閉じたままほとんどの生涯を過ごすのですよ、と言った」などで、ゴダールはG. E.ムーアを意識したウィトゲンシュタインの知ることや確実性をめぐる哲学上の思索に関心を示しているという以上に、暗闇の閥にある盲人に触れつつ、見ること/見えないことをめぐる何らかの思考を暗示しようとして いるように映る。 またこの思考は、ひょっとすると音読を拒否している 『映画史』にも通底していて、こちらでは当の映像は「絶対的な何か(DE LABSOLU)」という字幕と、すぐさま続けて映し出されるゴヤの「黒い絵」の1点《ユディット》に重ね書きされた字幕「闇について(DES TENEBRE)」── あるいは前の字幕と連ねて「闇の絶対性の何か」── へとスリップしていく。この表層の移ろいは、あるいは映画とも共約可能なのかもしれない。映画とは── シネマトグラフを発明したのは闇とは真逆の光、リュミエール兄弟だとはいえ── ちょうど盲人が眼で見ずして、しかし何か確かなるもの、本質を見てしまうように、暗闇のスクリーンの中で見る、何ものかの思考のフォルムなのだから。とすれば、これに続いてマネの3点の絵画が「あなたが何を考えているか分かるわよ(JE SAIS A QUOI TU PENSES)」という字幕とともに登場するのも偶然ではない(図11)*12しかもこれらはすべてきわめて映画らしい手法であるクローズアップで映し出されるうえに、「あなたが何を考えているか分かるわよ」という文字自体、言葉はなくも思考を語るような表象、つまりは映画そのものの本質だと受けとるのにそう困難はなかろう。これらの絵を受けて、「それは無声映画であった(C'ETAIT DU CINEMA MUET)」と続けさまに字幕の入る所以である。それから映像とともに、ゴダールはその思索を語りだすだろう。

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女はみな、あなたが何を考えているか分かるわよ、と語っているようだ。おそらくそれは、この画家(マネ)に至るまで── このことをわたしはマルローから学んだのだが──内面(realite interieure)は宇宙(コスモス)よりまだ捉え難かったからだ。

ダ・ヴィンチフェルメールの有名な物憂いほほ笑みは、まずわたしと言う。わたし、それから世界。

ピンクのショールを纏ったコローの女さえ、オランピアの考えることを考えてはいない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ペルジェールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙と合流したからだ、エドゥアール・マネとともに近代絵画が始まったからだ。つまりは、シネマトグラフが。つまりは、言葉へと通じていく形式が。より正確に言えば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は、最初考えるために作られたが、それはすぐさま忘れ去られる。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴイツツで決定的に消えてしまう。この考えには、いささかの価値はある*13

 ここでこれらの言葉の詳細な詮索はあえて省略せざるをえないにしても、「エドゥアール・マネとともに近代絵画が始まったからだ。つまりは、シネマトグラフが」と思索するゴダールは、むろん事実確認をしたい意図などさらさら持ってはいない*14。むしろ、この映像をめぐるもっとも説得力のある校知な議論を借用するなら、19世紀は、内的な世界と外的な世界をひとつのものとして表象するための新たな「思考する形式」を胚胎させたのであり、それが、マネとともに近代絵画となり、同時に映画ともなった。つまり、近代絵画も映画も、何か外面的な事物を写しとるというだけでなく、その描写において、何かその本質を描きうるのだということ、言いかえればそれまでの「フォルムの思考」という様態ではなく、「思考するフォルム」という表象それ自体を作り出しだしたマネの絵画こそ、映画が受け継いでいるものなのだということなのだろう*15

 とまれ、ごらんのように、モダニスト・マネなる原像はいまなおフランス芸術においては奇妙なオーラを発出し続けている次第なのである。

 さてこうしたマネに始まる(と、信じられ、また信じられたがっている)新しい芸術は、やがて印象派、新印象派などといった様々なモードを生み出すわけながら、こうしたフランス美術のありようを象徴するたいへん有名な言葉がある。「絵画とは一軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に一本質的にある秩序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」という19世紀末のモーリス・ドニの言葉である*16。この言葉自体印象派などを擁護したものではないものの、発言自体は大層興味深い。それはゾラのマネ擁護論の論理にも似ている反面── ドニ自身、「軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に」と述べているように、絵画の主題を否定したわけではない── それ以上にいっそう明快なプロトコルと化していると言えよう*17


3.ポスト印象派:虚構の「発明」

 とまれ新しい絵画自体は、ドニの暗示したような方向へと変転していったと見なされるようになった。重要なのは何よりもこのことであって、たとえばゴッホゴーギャンのポスト印象派、20世紀に入れば色彩の革命と評されるフォーヴィスムや、三次元空間の再現を異化して、かたちの革命をなしたとされるキュビスムといった風にいっそう斬新な造型意匠を生み出していくわけである。

 では印象派以後のこうした芸術は、どのようにして歴史化し、モダンな芸術の中に意味づけられ、まさに遡行的に整理されるようになったのだろう。近代以降の芸術はなるほどスキャンダルを生んできたとしても、それだけで歴史化するというわけではない。近代以降の芸術体制は往々画商(Deal-er)や批評家(Critic)の織りなす関係性のシステムによって、芸術の物語と触れあうのである。しばしばDealer / Critic 体制と呼ばれる所以である。

 加えてもうひとつ重要なのは、展覧会による芸術の広報・宣伝活動を含めた意味付与行為である。Art World と呼ばれる専門家集団の芸術世界は、そこに芸術家が属するのはとうぜんとして、狭義のDealer / Critic 体制のみならず、現実にはキュレーティングを含めた多次元システムによって成立しているのである。たとえばポスト印象派ということを考えてみよう。これは日本ではかつてしばしば後期印象派の名で呼ばれた芸術のことながら、こうした概念は実は展覧会の所産に他ならないのである。 1910年11月8日から1911年1月15日に、ロンドンクラプトンギャラリーで行われた「マネとポスト印象派」という展覧会のことで、その中心人物は名高いブルームスペリー・グループの一員で、画家・美術批評家でもあったロジャー・フライである。そのポスターはマネを新傾向の芸術の始祖とし、さらにセザンヌゴーギャンゴッホマティスといった主役の名前を強調している(図12)。

 ここできっと美術愛好家の皆さんなら、マティスは野獣派の画家ではと言われるに相違ない。しかしこの展覧会は、印象派以後の新芸術を(印象派デュラン・リュエルという画商が紹介してもいた)イギリスに紹介しようとしてなされたものなのである。だから、彼らの他にも若干のみ挙げれば、ドニ、スーラ、セリュジエ、ヴラマンク、ルオー、フェリックス・ヴァロットン、マイヨール、ピカソ、マルケ、ドランなど、多彩な顔ぶれを見いだせるし*18、第2回のポスト印象派展は、ロシアイギリス美術家まで入っている。ポスト印象派とは、後期印象派つまり印象派の後期ということではなく、ポスト・モダン同様、印象派以後という虚構のラベリングなのであって、印象派をさらに先に進めた芸術であるという進化主義的観念を表明していたわけである*19

 この展覧会の翌年、パイントの『ポスト印象主義者たち』(図13)という、たいそう影響力の大きかった重要な書物が出版されている。ここで、パイントは、言葉としてはポスト印象派よりも表現派の方がふさわしいと記しているものの*20、ある意味ではそうだったと言えよう。またパイントはこうしたポスト印象派を跡付けるのに、マイヤー・クレーフェを参照したりしている*21。これは、新しいアートをまさに表現モードによって跡付けたフォーマリズム・モダンアート史の先駆的な試行を含むテクストなのである。

 実はこうした前衛芸術の熱気はすぐさま極東の日本にも伝搬した。 1912年(明治45)1月の『白樺』第3巻第1号に、柳宗悦は「革命の画家」という長編の美術論を執筆し、パイントに多くを依拠しつつ── ちなみに『白樺』はパイントの図版まで掲載したわけではないものの、萬鉄五郎の《裸体美人》を、同時期のパイントの著書の図版と比較するのも日本のモダニズム芸術の帰趨を知る上で一興ではあろう(図14、15)*22── このロンドンのポスト印象派展や、その画家たちを熱い思いを込めて紹介したのであった*23。「若し後印象派とは如何なるものであるかを尋ねるなら、答へは明白である。汝が拠る可き唯一の王国を汝自身の裡に見出し、其旺溢せる全存在を真摯に表現し様と思ふならば、汝は既に後印象派の気息に於て活ける人である。……げに芸術は人格の反影である」、と。


4. 20世紀前衛芸術のチャート図式

 さてポスト印象派の場合は、今見たようにその頃の新しい芸術の総称のようなものだったにもかかわらず、ひとたび一般概念化するや、その呼称はモダンアート美術史という遡行的なフィクションの物語形成に寄与することになったとしても、実に見やすい歴史の道理と言うべきであろう。

 そのうえ、さらにモダニズム芸術が自己展開を遂げると、いっそう精妙な図式が要請されるようになるのは不可避に相違ないけれども、ここで重要な核をなしたのもキューレディングによる評価であり、しかも今度は、美術館というパブリシティを持つ機関による歴史=物語化なのである。今日、モダンアートの殿堂として名高いニューヨーク近代美術館(MOMA)における展覧会のことで、とくに重要なのは1936年3月2日から4月19日にかけて開催された「キュビスムと抽象芸術」という展覧会である。その中心を担ったのは、館長アルフレッド・バーJr.で、同展覧会が殊の他に重要なのは、バーのモダンアート史観がきわめてよく示されているからである*24

 その展覧会カタログ表紙の系統図は、バーの美術史観のエッセンスとして、よく知られている(図16)。ちなみにこのチャート図式ではモダンアートは、非幾何学的抽象芸術と幾何学的抽象芸術の二大潮流へと収斂しているが、ダダイスムシュルレアリスムの系譜に由来する前者については、さらに1936年12月から「幻想芸術、ダダ、シュルレアリスム」という展覧会が開催されており、バーの思い描いていたものをいっそう明確に理解しうるであろう。

 実を言うと、このバーのチャートもすぐさま日本に伝わるに至った。 1937年刊の美術雑誌『アトリエ』の「前衛絵画の研究と批判」特集号は(図17)、バーの文章と系統図を掲載している*25。しかしいっそう興味深いのは、戦後の1948年に出版された『岡本太郎画文集 アヴァンギャルド』である(図18)。これは岡本太郎の作品の他に詩やエッセイ、美術論、小説までを収録した文字通りの画文集で、そこには彼の名高い文章「対極主義」も見出される。しかしさらに注目すべきは、岡本はバーの日本語版チャートを掲載することすら行っていることだ(図19)。ただしバーの「非幾何学的抽象芸術」はシュルレアリスムに置き換えられて、いっそうその意味を明確化させている。

 『画文集』の「践」には彼の知人たちの手になるエッセイが収められているが、そのうちのひとり佐々木基一のエッセイにある「岡本太郎氏は、絵画論上のシュールリアリズムと抽象主義との統一を目指していると言われている」という評価は正確な意義付けで、当時の岡本は自らの前衛芸術を文字通り世界標準でバーたちによって前景化されていた抽象芸術/シュルレアアリスムの超克に置いていただろうし(正確に言えば、こうした岡本の志向はパリ時代から一貫していたと見るべきではある)、バーの系統図はそうした戦後の彼の立ち位置を正当化するのみならず、モダンアート史観を啓蒙的にも、実践的にも意味づけるものであったに違いない*26

 ちなみに岡本太郎経由のバーの系統図は、『美術手帳』(No.63、1952年12月号)にも、そのままのかたちで再掲されていて、その影響力のほど、あるいは日本の1950年代におけるシュルレアリスム/抽象という、グローバルな戦後前衛の置かれた芸術状況のありようを強く証言していると言わねばならない。

 そのうえ、それから半世紀以上を経た『美術手帳』(No.866、2005年7月号)は、創業100周年を記念して「日本近現代美術史」を特集し、李萬煥、草間弥生、川俣正、森村泰昌村上隆といった、もの派以降の現代アートの最前線にある美術家たちへのインタヴューなどを含む、面白い読み物となっているけれども、わたしにとっていっそう刺激的なのは暮沢剛巳、足立元両氏の作成になる、「日本近現代美術チャート」(A Chart of Japanese Modern Art 1900-2005)というそれ自体アートフルな図表を掲載していることである(図20)。両氏の説明によれば「このチャートは、1900年から2005年にかけての日本美術の動向を大掴みに可視化したものである。このスタイルは、アルフレッド・バー・Jrが近代芸術の発展史を弁証法的に説明したChart of Modern Art (1936年発表、1941年改定)を批判的に継承した」とあって、バー のモダニズム方法論との時空を隔てた意外な出会い、あるいは芸術を「標本化」せざるをえない試行に際しての バーの感化力に、改めて驚かされるという次第なのだ。


5.まとめ:アンビギュアス・モダンーモダ ニスム/フォーマリズムの意義と限界

 さて、これまで今日自明視されているモダンな芸術に も歴史がある、あるいは歴史として事後的に作り上げら れること、逆に言えば冒頭に述べたように、はじめから 芸術は存在しないので、芸術とは何らかの力学で芸術と なる、あるいはならされるのだということを、ごくごく 簡単にお話ししてきた。その場合、モダンアートに あっては、そうした芸術の根底にあるのがモダニズムと フォーマリズムだったわけだが、こうした考えは確かに 芸術の新たな試みを自明視し擁護するうえで好都合な背後仮説だったことは明らかであろう。なぜならそれは、ごく分かりやすい讐えを使えば、あたかも科学実験のように、芸術の実験的な試行を限りなく許容する考えだからである。たとえば、戦後芸術はフランス主導から離れて、むしろアメリカに移行したと言われてきたが(図21)、そのアメリカの前衛芸術、すなわち抽象表現主義と呼ばれるアートを導いた理論的根拠や理念もまたモダニズム/フォーマリズムに深く関連している。

 実際、その最大の批評家クレメント・グリーンパークは、1965年の高名な論考「モダニスト絵画」その他において、モダニズムカントの哲学それ自体の境界付け、すなわち哲学の自己批判にも似た、絵画を純化する批判の強化の歴史であると捉えつつ、さらにヴェルフリンというフォーマリズムを代表する大美術史家の、彫塑的/絵画的をめぐる論理を巧みに利用して、こうしたアメリカモダニズム絵画を西洋絵画の正統な後継者と位置付けたのである。

 なるほど、フォーマリズム美術史の発想を巧みに利用したグリーンパークの批評はそれ自体巧緻な議論であって、戦後アメリカ絵画はすでにモダンアートの歴史に確固たる地歩を占めている。これはモダニズム/フォーマリズムが創造に積極的に関与しまた機能した、概して幸福な事例だったと言うべきであろう*27

 しかし物事にはつねに裏面がある。モダニズム/フォーマリズムもその例外ではないので、まずもって、こうした美術史記述は逆にそれに属さないものを排除する選別システムとして機能するということを指摘しておかねばならない。換言すれば、モダニズムもまた無意識裡に否定的準拠枠を設定することのうえにしか成立しえないのである。

 さらにまた、モダニズムの自動運動は、常に無一意味、無一主題としての安易な芸術至上主義への空虚な観念衝動のジレンマや、その裏返しとしてのAnything goes の陥穿、つまり芸術は「何でもあり」である、というパラドックスを内包している。こうした実験という名の下での、これも芸術、あれも芸術というアートバイパーインフレーションへの批判は、オルテガ・イ・カセットの『芸術の非人間化』やウラジミール・ウェイドレの『アリスタイオスの蜂』などを思い起こすまでもなく、昔から存在していたものだが、そうした見地に立てば、もしもほんとうにAnythinggoesであるなら、芸術という概念自体まったく不要であるし、芸術は芸術である必要すらないというアート相対主義に帰着することになろう。つまりはアートの自己解体ということである。

 しかしわたしはニヒリズムの誘惑、あるいはヘーゲル以来倦むことなく反復されてきた、芸術終焉論というお決まりの落とし穴ゲームにはくみしない。むしろそれに対抗すべく、芸術という倫理はあえて── あえて素朴に、振る舞うべきだと思っている。事態はモダニズム/フォーマリズムだから、優れているわけでも劣っているわけでも、またよいわけでも悪いわけでもない。それ自体はよくも悪くも両義的なのであって、モダニズムはときに伝統的であることもあれば(たとえば、グリーンパークはエリオット的トロッキズムよろしく、モダニズムを過去の正統な継承と考えたのであって、単純な反伝統主義を標榜したわけではない)、アカデミックモダニズムというキッチュにすら転化しうるのである。換言すれば、最悪のモダニズムとはドグマとしてのモダニズム、あるいは創造性を糊塗する単なる表現の逃げ口上としてのフォーマリズムに他ならない*28。むろん芸術に正解なる答えなどあるはずはない。ただしあえて申せば、芸術は中性的ではない、すなわち無害な日和見予定調和とは無縁であって、経験上そういう芸術はたいがいつまらないと断言できる。

 逆にいえば、批判性に富む芸術、異物としての、諸能力の女王としての芸術の有意味性は、おそらくマネの時代以来今なお変容していないのであり(断るまでもなく、かつてのポスト・モダンすら秩序化したモダンに対するオルタナティヴなモダニティ以外の何ものでもなかった)、また観者は、モダンアートというエニグマを自分の眼で確認し、己の認める芸術だけを強く擁護する闘争の権利、すなわち真の独断と批評の権利があることは現代アートといえども何ら変わらないし、また断じて変わるべきはずもないのである。

*1岩井克人資本主義を語る』(ちくま学芸文庫1997年

*2:こうした社会においては商品生産者同様、芸術生産者にも独創t生という名のイノヴェーションが重視されるのはとうぜんであるが、前近代の芸術思考では、独創性を無視したわけではないにせよ、概してそうした新しさ以上に優れた/劣ったという発想が優っていたと言えよう。

*3:こうした二極様式論のひとつの試みとして、たとえば、W Friedlaender, David to Delacroix, London, 1952.

*4:たとえば、戦後日本の政治・社会思想の文脈において、近代主義とは丸山真男大塚久雄のような西洋モデルに基づく市民社会を実現しようとする思想を含意しているだろう。もっともわたしは丸山を単純なモダニストとする、昨今の状況論的鄭楡をあまり信じていないけれども。

*5:これらの女性は、若者たちの眼には見えることのない風や水のニンフであろう。

*6:さらにオランダ17世紀の画家パウルス・ポッテルの《若い雄牛》の影響を指摘する見解があるが、これはいかにもありそうに思われる。

*7:《オランピア》についての詳細は、三浦篤「マネ《オランピア》── 横たわる裸婦像の集約と解体」(『ヴィーナスメタモルフォーシス国立西洋美術館ウルビーノヴィーナス展』講演録』所収、三元社、2010年、171-222頁)と、その参考文献を参照されたい。

*8:『ソラ・セレクション9 美術論集』所収、三浦篤訳、藤原書店、2010年、126-168頁。

*9: 同上。ただしゾラは究極においてマネを理解していなかったという見解もあり、美術批評家ゾラの問題は単純ではないから、たとえば、吉田典子「ソラはマネを理解しきれなかったのか── マラルメとゾラの美術批評におけるマネ評価について」(『ステラ』第30号、2011年、149-190頁)などをも併せて参照するとよい。

*10:ブルドゥー以外には邦訳もあるので、詳細な紹介は紙数の都合上省略する。ブルドゥーのテクストは、R.Bourdieu, "Einstitutionnalization de ranomie", Les Chaiers du Musee national d'art mo&me, 19-20 (1987), pp.6-19.

*11:テクストは、J. L. Godard, JLG/JLG: phases, Paris, 1996, pp. 24-26.

*12:《休息(ベルト・モリゾの肖像)》(1870年、ロード・アイランド・デザイン学校美術館)、《ナナ》(1877年、ハンブルク美術館)、《プラム酒》(1877年、ワシントン ナショナル・ギャラリー)。この後、映像は、「クララハスケル、いや間違いマルタ・アルゲリッチ」という字幕を映し出す。このユーモア(とわたしには映る)は、無声映画の背景音楽や、トーキーの音響を連想させなくもない。

*13:テクストは,J. L. Godaid, Histoire(s) du cinema; La monnaie de /'absolu, une vague nouvelle, Paris, 1998, pp. 46-57.

*14:映画に対するこうしたゴダール一流の意表を突く見解は,メリエスをドキュメンタリー映画の始祖とする『中国女』(1968年)などにも見られたところである。

*15蓮実重彦「『(複数の)映画史』におけるエドワール・マネの位置」(『ゴダール・マネ・フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』所収、NTT出版、2008年、23-44頁)

*161890年の小論「新伝統主義の定義」の冒頭の言葉。 M. Denis, Du symbolism au classicism: Theories, Paris, 1964,p. 33. 理論家ドニの孕むきわめて複雑な様相については、稲賀繁美『絵画の東方 オリエンタリズムからジャポニスムヘ』(名古屋大学出版会、1999年、345-398頁)をも参照のこと。

*17:こうした発想自体は何もフランスに限られるわけではない。たとえば、ホイッスラーの有名な言葉「芸術はすべての不純物から独立しなければならない。眼や耳の芸術的感覚に、本来芸術とは無関係な、信仰、愛、愛国心、好みといった感情と混同することなく訴えなければならない」を想起すれば十分であろう。 Cfr.展覧会カタログ『ホイッスラー展』(京都国立近代美術館横浜美術館、2014年、19頁)

*18:展覧会に出品された作品の同定その他については,B. Nicolson, "Post-Impressionism and Roger Fry", The Burl-ington Magazine, XCin (1951), pp. 11−15; A. G. Robins, " 'Manet and the Post-impressionists': a checklist of exhi)-its", The Burlington Magazine, CLII (2010), pp. 782−793.

*19:この展覧会を含むイギリスにおけるポスト印象派の余波を集めた有益な資料集として,J. B. Bullen(ed.),Post-impressionists in England, The Critical Reception, London, 1988.ロジャー・フライについては,J.V Falken-heim, Roger Fry and the beginnings of formalist art criticism, Aim Arbor, Michigan, 1980.

*20:c. L. Hind, The Post Impressionists, London, 1911, p.3.

*21:c. L. Hind, op. cit., p. 31.日本でもよく知られていたドイツ語からの英訳(復刻版でごく簡単に人手できる)は、 J. Meier-Graefe, Modem Art: Being a Contribution to a New・System of Aesthetics, 2 vols・, London/New York, 1908.

*22:後年、萬はこの作品はゴッホマティスの感化を受けたものだと語っている。時期は明確でないものの、萬たちはパイントの著書を確実に知っていた。展覧会カタログ『フォーヴィスムと日本近代洋画』(京都国立近代美術館東京国立近代美術館1993年、156頁)

*23:さらに、パイントの著書は雑誌『現代の洋画』第17号、1913年(大正2)の「後期印象派」特集号に、村荘八の手で訳出された。同号にはマイヤー・クレーフェのセザンヌゴッホゴーギャンなども紹介されている。

*24:バーのモダニズム美術史観の詳細は、大坪健二『アルフレッド・バーとニューヨーク近代美術館の誕生:アメリカ二十世紀美術の一研究』(2012年、三元社)。バーの有益かつ便利なテクスト集として、Defining Modem Art: Selected Writings of Alfred H.BarrJr., New York, 1986.

*25:寺田竹雄訳「印象派より抽象絵画へ」、『アトリエ1937年6月号、38-58頁.

*26大谷省吾岡本太郎の対極主義の成立をめぐって」(『東京国立近代美術館研究紀要』、第13号、2009年、18-36頁)。抽象芸術/シュルレアリスムの超克として岡本の対極主義は、大谷氏の明敏な論考にあるように、疑問の余地なく花田清輝の思想と深く関連している。しかしわたしとしてさらに強調しておきたいのは、今日のわれわれの眼にはいかに意外に思われようとも、こうした岡本/花田流のラジカルな戦闘的二極論は、二律背反の予盾を肯定しエゴイスムを是認する福田恆存のような二元論ともいささか重なっていて(さらに当時の 福田ときわめいて親和的な人間観は坂口安吾に見られるだろう)、換言すれば、単なるインターナショナルな 芸術思想の所産という以上に、「戦後」という時代の、社会状況の中でこそ強く表出しえたアヴァンギャルド 思想だったという観点である。

*27:グリンバーグの批評については、C. Greenberg, The Collected Essays and Criticism, 4 vols, Chicago, 1986-1993.さらにまた、Idem, Late Writings, Minnespolis, 2007などを参照のこと。もっとも有益な邦訳は、『グリーンパーク批評選集』(藤枝晃雄編訳、上田高弘・川田都樹子他訳、勁草書房2005年)。また彼以後の現代のモダニズム批評の重要なテクストをも収録した、雑誌『批評空間』(臨時増刊号:モダニズムのハード・コア、太田出版、1995年)は、過激にして共感しうる論考を多数含むきわめて優れた特集である。

*28:近代美術に対するわたしの考えの基本的なスタンスについては、拙論「共犯関係としての前衛/アカデミスム」(A.ボイム『アカデミーフランス近代絵画』、森雅彦・阿部茂樹・荒木康子訳、三元社、2005年、訳者あとがき,401-421頁)を参照されたい。わたしと似て非なる,しかし学ぶところの多い社会史派の批判的検討をひとつだけあげておく。T. J. Clark, Farewell to an Idea: Episodes From the History of Modernism, New Haven/London, 1999.



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