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2014-02-02

絵画表現における重層性について 石村実


あくまでも画面の新鮮さの発見、新鮮な驚きを経験し、それを維持するために各種材料の積層がある。各層各層に於ける新鮮さの発見。それは描く以前に戻る行為に思える。もとの何も描かれない素地に還元してゆくように思える。

『空白からのドラマ/中西夏之


 先日国立西洋美術館でセザンヌの『首吊りの家』を見た。言うまでもなく、セザンヌの初期の代表作であり、セザンヌロマン派的な作風から印象派的な作風へと移行する時期に生み出された傑作である。明るい色彩と同時に、他の印象派の画家にはない重厚感がいかにも初期のセザンヌらしい。例えば、その展覧会で同時に展示されているモネの『印象・日の出』の、下地だけ作っておいてブルーとバーミリオン(?)で一気に仕上げたような作品と、いかにも好対照であった。セザンヌの晩年の自由閥達な筆づかいと比較すると、『首吊りの家』は構成的で堅い印象を受けるが、しかし、それと別に、セザンヌは初期から積層の画家、私の言葉で言えば重層性の画家であった、とあらためて感じられた。この感触は、私にとってはとても重要なことだと思われた。それは何故か?

 この『首吊りの家』という絵は、ただ単に重厚であるだけではなく、違った色の絵の具を積み重ねることで、重厚になっている。油絵の具特有の厚みのある表現をねらった面も勿論あるだろうが、この絵で問題とされているのは重厚なマチエールではなく、違った色彩の絵の具を積み重ねることによって得られる色彩の効果である。ブルーの上に重ねたホワイトと、オレンジの上に重ねたホワイトとでは、同じホワイトでも随分と違って見えることは、油絵の具を少しいじったことのある者なら分かることだ。セザンヌの『首吊りの家』では、その絵の具を重ねるプロセスによって隅々まで描かれている。言うまでもなくどの画家の作品であっても、下地の色から仕上げの色やワニスにいたるまで、色や絵の具を重ねないで表現することの方が稀であるが、セザンヌの『首吊りの家』においてはその仕事の密度が尋常でない。空であろうが、木の葉であろうが、石壁であろうが、その質感の表現よりも、色彩を重ねるプロセスの方が重要であったかのように描かれている。そのためにこの絵は、やや堅い感じのするほどのかっちりとした構成で描かれていながら、眼はそれぞれの下地になっている色を感じながら、自由に画面を行き来する。表面の色の下に含まれる豊かな色彩が、画面構成と絡み合いながら複雑な視覚的効果をあげているのだ。この下地の色がもたらす視覚的効果が単に技巧として語れないところに、セザンヌの特殊性、とりわけ同時代の印象派の画家とセザンヌとを分け隔てる特殊性がある。


 この『首吊りの家』では若いセザンヌにとって、明るい印象派の色彩を習得するということが絵を描く第一の動機であったと思われる。しかし、それとは別に絵の具を重ねること、色彩を重ねることによってこの絵は印象派的な色彩の実験を越えて、新たな視覚的効果を発揮している。それは層状に積み重ねられた色彩を、下の層から上の層まで時間的に同時に、或いは瞬間的に感じさせるということだ。絵が描かれた手順として見れば、下の層の絵の具はもっとも過去に近いものであり、上の層の絵の具は現在に近いはずである。しかしそれらの積層が、この絵の場合、同時に見えてくるのである。

 普通の絵画の場合、下の層の絵の具は常に上の層の絵の具のためにある。したがって下の層の絵の具は上の層の絵の具によって隠蔽されて、見る者の意識に上ることはない。典型的な例としてアカデミック技法のひとつ、グリザイユ技法を見てみよう。はじめの層はモノトーンの調子だけの層で、その上に徐々に色彩の層が重ねられていく。モノトーンで描かれた層は、そこで仕事が中断されない限り鑑賞者の目に触れることはないし、また、そのようなプロセスを見るものに感じさせるようでは、ぎこちない未熟な作品と言わざるをえない。レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』を見て誰がその深い色彩を除外したプロセスを想像できるだろう。しかし、その表層の絵の具を洗い落とせば、同じレオナルドが描いた未完成で着彩も部分的な『三王礼拝』のような過程が現れるはずである。グリザイユ技法では油絵の具の透明感が下の層に描かれた図像を透かして見せはするが、そのプロセスは常に隠蔽されている。 もうひとつ例をあげよう。アカデミック技法を改革した、セザンヌと同時代の印象派の画家たちである。印象派の場合、細かなタッチで並列的に画面に絵の具を置いていく。混色を嫌った画家たちは、表層での絵の具の輝きに全てをかけた。極端なことを言えば、印象派の作品では下の層にあたるものは存在しない。それは点描による色彩の絨毯にも例えられるだろう。光の色のうつろいを問題とした彼らの絵では、表層部分でいかにそれが巧みに表現できるのかが問題であり、表層に至る下の層は(あったとしても)やはり隠蔽されている。グリザイユ技法印象派の例に共通するのは下の層の絵の具の隠蔽、そして絵のプロセス隠蔽である。絵を描く過程での画家の営為、認識は、完成というゴールに至るまでの、あくまで過程・プロセスとして位置付けられ、意味付けられる。完成の途上にある画家の営為、認識は、完成に至る過程・プロセスという構図に集約され、意味的に隠蔽される。

 セザンヌの『首吊りの家』に話を戻そう。この絵では層となった色彩が同時に目に入ってくる。セザンヌが重ねた絵の具の、特に下の層の色彩が、見る者にとって、セザンヌの息づかいのように仄かに目に入ってくる。その息づかいが、表面的には堅固な構図のこの作品を動的なものにしている。絵の表層での画面分割や色彩とは別の層で、視覚的に絵が流動性を持っているのだ。この感触は完成に対する過程・プロセスという構図を突き崩しかねない重要性を持っている。もしも下の層の絵の具が上の層の絵の具の効果としてではなく、同等の意味を持つものとして視覚に感じられるのだとすれば、絵の表層に至るまでの画家の営為や認識も、完成に至るまでの単なる過程・プロセスとしてのみ意味付けるわけにはいかないのではないか? 絵の完成のための、マチエールの効果として積み上げられた絵の具の層と、セザンヌが積み重ねた絵の具の層は意味論的に区別する必要があるのではないか? 仮に私はマチエールとして重ねられた絵の具の層を重厚的な表現として、また、セザンヌの積み重ねた絵の具の層を重層的な表現として分けて考えてみることにする。実はセザンヌも、初期においては必ずしも重層性の画家であったとは言えない。だからこそ『首吊りの家』を見た時の私には驚きがあった。晩年においてセザンヌは、より明らかに重層的な表現をしている。『首吊りの家』は、言わばセザンヌの資質として重層的な表現が表出しているのだ。


 セザンヌの晩年の作品を見ていくと、いくつかの共通した特徴が見られる。例えば東京ブリヂストン美術館にある『聖ヴィクトワール山』であるが、画面全体が空間を刻むような均質な筆のタッチで覆われている。色彩は青、緑、グレーの柔らかな諧調が画面のほとんどを占め、わずかに建物に茶系統の色が使われている。『聖ヴィクトワール山』の山のピラミッド型を中心に構図が形作られているが、筆のタッチはその形にとらわれることなく、調子の変化によって流動性のある表現を獲得している。またこの絵にはあまり見られないが、晩年のセザンヌのもうひとつの特徴として、画面に下地の部分の色をそのまま塗り残して絵を仕上げてしまう、ということも見ておこう。

 重層的な表現という観点からこれらの特徴を見てみると、塗り残した下地の層も含めて筆のタッチと色彩の諧調が一体となって、『首吊りの家』よりも重層性が強調されていることが感じられる。この『聖ヴィクトワール山』では制作の過程にあるどの絵の具の層も山と向きあった時のセザンヌの認識を表出するものとして、平等な重みを持っている。筆のタッチのひとつひとつ、重ねられた色彩のひとつひとつがセザンヌと山との間にある大気を表現しているようでもあり、もっと直接的にセザンヌと山との絶対的な距離感を表現しているようでもある。一番はじめに画面に置かれた筆のタッチが、絵の完成のためのプロセスとしてではなく、既に画家の眼と山との間の距離を表出しているとしたらどうだろう? そのような筆のタッチが間断なく続けられ、時には修正され、時には積み重ねられたとしたらどうだろう? 私たちが『聖ヴィクトワール山』という作品を通して見ているのは、画家が山と対峙した時間の営為そのもの、認識そのものではないだろうか。しかも、りんごを描けばりんごが腐るほどの長時間を制作に要したこの画家の、ゆっくりと突き進んだはずの時間の流れは、1枚の絵に対して冷ややかに送られる鑑賞者の瞬間的な一瞥の中にも凝縮されて送られているはずなのである。この時間の変容の不思議さは一体何だろう? 絵の完成という青写真があり、筆のタッチがそのために費やされたプロセスであるなら、そのタッチに要した行為も時間も、完成という一瞬の中に隠蔽されて何の不思議もないだろう。しかし『聖ヴィクトワール山』では、筆のタッチひとつひとつが、その費やされた画家の行為・時間をしっかりと主張している。一方で、それらは画家の行為・時間そのものではない。それらは瞬間的に見るものの視覚に訴えるのである。その変容は一体何なのだろうか? そもそも1枚の薄っぺらな平面でしかない絵画に、時間はどのようにかかわっているのだろうか?

 普通、絵画と時間とのかかわりは、画面に描かれた図像とのかかわりで語られる。例えばデッサンの名手、印象派のドガの描く踊り子や、疾走する馬の絵を見てみよう。写真の技術が発達する前は、誰もがドガの描いた踊り子や馬はその一瞬の姿を正確に写し取ったものだと思ったことだろう。しかし走る馬の姿が分解写真で分析できるようになると、そのどの瞬間の写真にもドガの描いた馬の姿は見つけられない。ドガの馬の姿はいくつかの瞬間の馬の姿を合成したものだった。分解写真の中の馬が、切り取られた瞬間ごとにあたかも凍りついたような、ぎこちない姿をしているのに対し、ドガの描いた馬は生き生きと走る瞬間を表現している。そこであらためて認識されたことは、画家は1枚の静止した図像の中で時間の流れそのものを表現しているということ。現代の、写真の映像を絵に置き換えたような、スーパーレアリスムと呼ばれる類の作品は、この写真の表現する時間と絵画の表現する時間の違和感を顕在化することで、その表現の強度を強めていると言えるだろう。この図像のかかわる時間は具象的な表現に限らない。抽象絵画の父とも呼ばれるカンディンスキーは、その著作集『点・線・面』において、絵画の表現要素をリズム、ハーモニーなどの言葉を用いながら、頻りに音楽との比喩で語ろうとする。言うまでもなく、音楽は物理的に時間と密接にかかわる芸術表現である。また、もっと直接的に「時間の要素は、一般的に云って、点のばあいよりも線のばあいに、はるかに多く認められる。──長さ、すでに時間概念なのだから。」とも書いている。カンディンスキーが理論的に構築した世界は、カンディンスキーが考えたほど普遍的な意味を後世に残さなかったが、点・線などの絵画の構成要素が絵画空間の中で動勢を持ち、視覚の中で時間性を持ちうることは否定できないだろう。これらドガやカンディンスキーの例からも、絵画に描かれた図像が具象的であれ、抽象的であれ、時間と深くかかわっていることがわかる。絵画表現と時間とのかかわりは、このように図像と時間とのかかわりで語られるのが一般的だ。

 しかし、一方で絵画には描く行為としての時間とのかかわりがある。画家は永らく絵を描くのにかかわる時間を、完成のための過程・プロセスとともに意味的に隠蔽してきた。その隠蔽してきた行為・時間が、20世紀のはじめにダダイズムによって、暴き出される。例えばマルセル・デュシャンは、既製品(レディメイド)の便器や食器乾燥機を、作品としてタイトルをつけて展覧会に出品する。既製品は作品制作にかかわる行為・時間が絶対的なゼロに限りなく近い。そのようなオブジェが、なぜ展覧会で作品として成立するのか(あるいは、しないのか)? 芸術作品の意味の問い直しも含めて、デュシャンは作品制作の行為・時間をもイロニーをもって逆照射する。ダダイズムは表現形態として多面的であり、またいささか観念的であったのだが、その流れを絵画的に汲み取ったのがヨーロッパを中心としたアンフォルメルアメリカの抽象表現主義の画家たちであった。描く行為を重要視し、完成した作品はその結果として捉える。絵を描く行為そのものがパフォーマンスとして公開されたり、記録されたりしたこともしばしばあった。その描く行為・時間の意味の転倒は、美術史上で画期的な意味を持っていく。現代美術の流れはその後大きく変わり、ホップアートミニマルアートなども巨視的に見ればその流れの中にあると言えるだろう。

 セザンヌの晩年の筆のタッチによる行為・時間の表出は、現代美術の転倒された行為・時間の意味とかなり近いものがある。前述したようにセザンヌの筆のタッチによって画面に置かれたひとつひとつの色彩、調子は、そのままセザンヌの認識を行為として視覚化したものである。『聖ヴィクトワール山』では聖ヴィクトワール山という図像によりながらも、ひとつひとつのタッチが粒立つように描かれている。それはセザンヌの認識が、制作にかかわる時間とともに深まっていくさまを重層的に表現しているとも言えるだろう。いつしかセザンヌ絵画では、上の層の絵の具に対する下の層の絵の具の意味が転倒し、完成に対する過程・プロセスの意味が転倒し、と同時に図像にかかわる時間と行為にかかわる時間の意味が、やはり転倒しているのではないか。それらの3つのことは、セザンヌにおいては、次元こそ違え同じ問題の別の切口であったのだろう。セザンヌの行為・時間が、実際にそれがどのような時間をかけてなされたものであっても、1枚の平面上では同時に見える積層として、つまるところは絵画表現として変容されているのは、3つの次元での出来事が密接に繋がりながら、セザンヌの視覚的な認識を表現するシステムとして有効に機能しているからだ。


 セザンヌ絵画が独自の方法論によって、変わらずに生き生きと刺激的に見えるのは現在においても興味深いことだ。例えば行為・時間の捉え方においてセザンヌとの類似を指摘したアンフォルメルの作品の多くが、単なる過去の行為の痕跡として見えてしまうのに対し、セザンヌの『聖ヴィクトワール山』が常に生成しているかのように視覚的に立ち現れる。この対比は一体何だろう?考えられることは、行為・時間の意味を転倒しても、それが絵画表現として画面上で何らかの変容を経て表現されていなければ、単なる行為の痕跡、残骸に過ぎなくなる、というごく当たり前のことだ。特に日本におけるアンフォルメルと呼ばれる作品群は、不幸にして行為の痕跡、残骸としての姿をあらわにしている。画面上での画家の身振りの激しさは、絵画としてのダイナミズムにそのまま繋がるわけではない。例えばその身振りを重層的な表現として画面に定着する方法論が必要であろう。

 アンフォルメルと同時代の画家では、抽象表現主義の代表的画家、ジャクソン・ポロックの良質の作品において、重層的な表現を見ることができる。重層性という点において、ポロックは19世紀のセザンヌより直接的である。セザンヌの一筆一筆がいかに粒だっていようとも、それらは聖ヴィクトワール山などの具体的な図像を表現している。ポロックの場合、アクション・ペインティングと呼ばれるドリッピングを用いた方法論により、行為によって描かれた絵画がむき出しで表現されている。美術評論家、宮川淳の言うところの「表現行為の自己目的化」」が字義通りに観念的になされてしまえば、それは絵画表現ではなく絵の具の痕跡に過ぎなくなる。「表現行為の自己目的化」が絵画表現として成立するには、凡百のアンフォルメルの作品群とは一線を画するサムシングが不可欠である。ポロックの『五尋の生みの底』『伽藍』『ラヴェンダーの霧』などの1947年頃から1950年頃までの作品を見てみよう。そこに達成されているのは、いかなる絵画表現であろうか?行為(アクション)の痕跡である絵の具や塗料は、絵画の構成や絵画構成上の中心となるものを設定しないよう、コントロールされて画面に置かれている。(ポロックは作品が構成的にならないよう、無意識の精神状態を利用したオートマティズムを用いたが、その描線は意識的なものにからめとられないように絶えずコントロールする必要があっただろう。)絵の具や塗料などの素材は、互いになじむことを拒むように油絵の具、エナメル、アルミニウムペイント、メタリックなどが用いられる。反面、色調は意外と抑制され、中間色やグレーに近い卜−ンが感じられることが多い。これらが複雑に入り組んだ画面は、色調としては互いに絡み合いながら、絵の具の素材感としては各層が独立して見えてくる。そして構成を拒絶し、中心になる絵画的な奥行きを拒絶した描線は複雑に絡み、「深み」とでも言うべきあらたな絵画的イリュージョンを創りだしている。それは「表現行為の自己目的化」が絵画表現として結実したことを意味している。そこに表出しているのは、表現行為とそれにかかわる時間が、絵の具の積層として絡みながら同時に視覚に認識される絵画表現の重層性である。

 ポロックのこの時期の作品は、絵画の重層的な表現を見事に体現している。いくらかの偶然性も手伝っただろうが、ポロックは表現の高みに一気に登りつめてしまった感じすらする。ポロック自身、自分の登りつめたものが何であったのか、よく理解する時間もなかったのではないか。そのせいか、ポロックの表現の変質は早急に訪れる。傑作か失敗作か論議される1952年の『ブルー・ポールズ』は、失敗作というよりもポロックの精神状態の弛緩を表している。この作品に見られる柱状の絵の具の痕跡は、美術評論家、藤枝晃雄が著作『ジャクソン・ポロック』の中で正しく指摘しているように「方向性のある動勢によって画面をまとめる大規模なアクセント」である。つまり柱状の痕跡は構成的な配慮からなされているのである。色調も「対照の誇示」(藤枝)のために用いられている色が目につき、視覚の中で複雑に絡み合うこともない。したがって画面は重層性を失って、旧套的な意味での構成的な抽象絵画になっている。以降のポロック絵画からは重層的な表現は失われてしまう。


 最近では、絵画の重層的な表現についてユニークなアプローチをしている画家がいる。ドイツゲルハルト・リヒターという画家だが、リヒターは表現様式としていくつかの顔を持つことで知られている。ミニマル絵画ミニマル絵画であることを観念的に表現したような単色絵画や、ピンぼけの写真をそのまま写実的に表現した具象絵画など。共通するのは私たちの思考の中にある絵画という観念を、外側から批評するような眼差しで制作していることだ。そのリヒターが極彩色の絵の具をスキージでこすりあげたような抽象絵画を発表している。(タイトルも『抽象絵画』と名づけられている。)原色に近い絵の具が一面一気にこすりあげられていること、これは制作行為にかかわる時間が表層において瞬間的であったことを示していて興味深い。そのこすりあげる動作も垂直方向や水平方向などの機械的な動作でなされており、色の使い方も記号的なまでに青・赤・橙・黄・緑・白・黒などの原色が使われている。こすりあげられた原色が混ざり、濁り、あるいは並列し、点在して結果的には焦点がぼやけたような複雑な絵画空間を創りだしている。リヒターの『抽象絵画』は、嘗てのアクション・ペインティングが行き着いた「表現行為の自己目的化」を観念的に、ある意味では完璧に実行している。ポロックが「自分の絵のなかにいるとき、わたしは自分がなにをしているか意識しない」と語ったドリッピングの動作よりも、リヒターのスキージの動作の方がオートマティズムという方法論に関しては効率的だ。私はリヒターの『抽象絵画』に、かってデュシャンが便器を『泉』と題して展覧会に出品したレディメイドの作品と似たものを感じる。いずれも観念としての芸術や絵画を問題としており、ミニマルな動作できっぱりと作品を差し出すことで問題を逆照射して見せている。その作品の差し出し方にイロニーが感じられる。リヒターの『抽象絵画』では表現行為がミニマルであるために、表現行為とは何であったのかあらためて考えてしまう。表現行為もそれにかかわる時間も、スキージでこすられた層として明確に視覚化されているが、その機械的に一気にこすりあげられ、色彩も調和的な関係とは程遠い画面が、絵画空間として複雑な成り立ちを見せているのはどうしたことだろう?文字通り被膜としてのリヒターの絵の具の層と、セザンヌポロックが心血を注いだ絵の具の積層とはいかに違っていることか? しかし、制作の過程・プロセスを直接的に表現化し、その行為にかかわる時間を変容して絵画空間に表出している点において、それらの表現の骨格は似ているのである。何か狐につままれたような感触が残るが。

 リヒターの絵画は重層的な表現を射程に入れた上で、それを逆に照らし出す単層的な絵画表現と言える。重層的な絵画表現のミニマルな、あるいはユニークなバリエーションとも言えるだろう。


VI

 再び『首吊りの家』を想起してみる。絵の具を重ねるなどということは、ごく技巧的なことであり批評的に語るべきことではないのかもしれない。が、この絵の前ではどうしても語りたくなる。このことを忘却して語られる美術史的な言説、例えばセザンヌの図像にかかわる方法論からピカソらのキュービズムセザンヌの可能性を直結させるような美術史的言説に私は不満を覚える。それはあまりにも一面的な「物語」だからだ。また、哲学者メルロ=ポンティのように、セザンヌ絵画現象学的に読み解くということも刺激的ではあるが、画家の技巧的な営為が宙に浮いてしまいそうで不安になる。絵の具の積層がもたらす重層的な表現について考えること、それは20世紀の美術が新しさの神話を求めて絵画の表層を大股で通り過ぎたあとで、見落としてしまった多くのもののうちのひとつを見つけることではないか? そこで発見できるものは新しさ、ではなく絶えず生成する新鮮さではないか? 画家、中西夏之は本文冒頭で引用したように、こう書いている。「あくまで画面の新鮮さの発見、新鮮な驚きを経験し、それを維持するために各種材料の積層がある。」例えばセザンヌにしろ、ポロックにしろ、リヒターにしろ、それぞれ発見した「新鮮さ」は異なるだろうが、この実感のこもった絵描きの言葉の中にそれぞれの共通点を見出せる。絵の具の各層における画面の新鮮さを発見し表現として定着すること、すなわちそれが絵画を重層的に表現することでもある。もしも画面の新鮮さが失われたなら、絵の具の層は単なる重厚な表現、マチエールとしての重厚さに過ぎなくなる。絵画が視覚において絶えず生成する新鮮な層の重なりによって成り立っているなら、あるいはそのことが絵画を見る者に発見できるなら、一見閉塞して見える現在の美術の状況もだいぶ違って見えるのではないか? 作品というものは制作の手を加えるにつれてだんだん重たくなっていくものである。手を加えることがプラスでもマイナスでもなく、絶えずはじめの新鮮さに戻っていくような作品に出会えたなら、それがいつの時代に創られたものであろうと出会いの至福は現在のものだ。現在において至福に至る、それはほんのひとつの方法論に過ぎないが‥‥。



※この論文について、審査員の中原佑介氏より、次の誤りを指摘されました。一度、冊子にもなった論文なので、ここでは訂正せずに掲載しました。(石村)

最後に些細なことをいえば、デュシャンの「食器乾燥機」とあるのは「ビン乾燥機」です。それにこれは「タイトルをつけて展覧会に出品した」事実はありません。こういうことは些細なことであってもどうでもいいということではないと思います。



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