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2016-12-10

プリミティヴィズム(Primitivism)の変容── 観念の相対性をめぐる考察──  大久保恭子

1 はじめに

 プリミティヴィズムは、その起源を古典古代にもち、ルネッサンスを経て、18世紀啓蒙主義の時代には西洋の非西洋に対する認識、「他者観」として明確な姿を現し、20世紀に至った。その間一貫して語られたのは、人間の最善の状態はその「始まり」の状態にあるという観念であった。大航海時代以降、西洋にとっての地理的世界は急速に拡大した。それに伴い、他者を西洋の発展的歴史の諸段階に位置づけつつ、統一的世界観を形成しようという西洋側の意志が働いた。その結果、地理的な隔たりと時間的な逆行とがひとつの形容詞、プリミティフ(仏primitif)によって示唆されることになり、他者は西洋から遠く離れるほどに「野蛮」になると認識されたのである。しかし「野蛮」は、必ずしも否定的意味合いのみに用いられてきたわけではない。むしろそこに「高貴さ」を見いだす肯定的内容をも併せもっていた。

 プリミティヴィズムは西洋で長い時間をかけて形成された「他者観」であるが、この観念が視覚芸術の理解に適用されたのは、それほど古いことではない。美術史家がプリミティヴィズムをめぐる議論を始めたのは、わずかにここ半世紀あまりのことに過ぎない。本稿では未成熟な論争であるがゆえに、様々に保留された問題点を内包する、視覚芸術とプリミティヴィズムとの関連を新たな視点から考察する。

2 「事件」としての「発見」

i)フォーヴ(仏Fauve)によるブラック・アフリカ美術の「発見」

 20世紀初頭.おそらくはl906年の秋、のちに「フォーヴ(野獣)」と呼ぼれることになるパリの前衛グループの中心にいたアンリマチス(Henri Matisse)は、ブラック・アフリカ*1の小さな彫像を入手する*2マチスを中心とするこのグループは、前年のサロソ・ドートンヌで、一様に強烈な色彩と歪んだデッサンとを特徴とする作品を展示した。「これらは絵とは何の関係もない。形のない色の混乱だ。……クリスマスのプレゼントに絵の具箱をもらったばかりの子供の野蛮で素朴な遊びだ」*3という当時の批評からも察せられるように、その展示は一大スキャンダルに発展した。その翌年のマチスのささやかな買い物は、一見取るに足らないことのように見えて、その実、前年の展示と同根の先鋭な問題意識を反映した行為であった。

 プラックアフリカの彫像は、すでに1882年からトロカデロ民族誌博物館(現人類博物館)に展示され、パリの人々の好奇心をかき立てていた。しかしそれらはパリの人々にとって、未知の部族生活風習をかいまみせる造形物にすぎず、芸術と呼ぶべきものではなかった。というのも当時の人々のブラック・アフリカに対する理解は、流布していた進化論に基づく歴史観の中で人類の進化発展の初歩的段階に留まったまま、停滞した時間の中に存在する地域であるというものだったからである*4。そのように受け止められた要因のひとつは、ブラック・アフリカの多くの部族が書き文字を持たなかったことに求められる。彼らには自らが記録した歴史がない。そのために彼らは、歴史的発展を伴うことなく、永遠に歴史の前夜、人類の出発点に留まり続けると受け取られたのである。したがってその地域から産出された造形物は、進化した文明の産物たる芸術ではあり得なかったのである。ゆえにマチスがブラック・アフリカの彫像を手にとって、「すばらしい細工、独特の比率の感覚、形態とバランスの胸のわくわくするような豊かさといった。本能から生じる本物の彫刻的特質」*5を見いだしたことは、きわめて画期的「事件」たった。

ii)フォーヴの「発見」をめぐる言説

 フォーヴによる「発見」以前のブラック・アフリカの造形に対する言説には、ある共通する特徴が見いだせる。たとえばジョン・ラボック卿(Sir John Lubbock) は彼らは芸術という概念をまったく持っていないとして、「それらは人間をよく表現しているだけでなく、グロデスクな迫真性でもってアフリカ特性をもよく表している」*6と記し、アルフレッド・バートン・エリス(Alfred Burdon Ellis) は「グロデスクな粘土でできた像」について「人間の形をばかばかしいくらいに歪めている」*7と記録した。これらの言説に共通して用いられた「グロテスク」という形容は、西洋の人々のブラック・アフリカの造形に対する軽蔑と畏怖とがない交ぜになった複雑な反応を伝える。文脈から「グロテスク」は、西洋が伝統的に美の規範とした自然主義からの逸脱を指していることを指摘しておきたい。またオーウェンジョーンズ(Owen Jones)のように、それらの制作者たちを「野蛮人」や「小さな子供」になぞらえて語ることもしぱしぱであった*8

 それでは当事者であったフォーヴたちはどのようにブラック・アフリカ美術を受け止めていたのだろうか。マチスが「本能から生じる本物の彫刻的特質」を見いだして、ブラック・アフリカの彫像に芸術的価値を認めたように、同じくフォーヴと呼ばれたアンドレ・ドラン(Andre Derain)も、「その表現ときたら驚くべきもの。心をかき乱すもりだ」*9と、やはりフォーヴのひとりであったモーリス・ド・ヴラマンク(Maiirice de Vlaminck)に書き送っている。そのドランが1902年に「子供の芸術を学びたい。真実は間違いなくそこにある」*10ヴラマンクに宛てて書いていたことは示唆的である。

 1905年のサロン・ドートンヌにおけるスキャンダルで、フォーヴを批判した批評家たちはこぞって彼らの作品に見られる現実離れした派手な色彩と、歪んで自然主義的でないデッサンとを非難していた。そして「子供」を引き合いにだして、彼らの作品に見られる無秩序を責めたのである。ところがドランは、批判のたとえに持ち出された「子供の芸術」を高く評価していた。ここで「子供のような」というたとえが、ブラック・アフリカを語る言葉の中に頻繁に見られたこと。また自然主義からの逸脱による形の歪みもブラック・アフリカの彫像に顕著な特質だと言われてきたことに注意したい。

 フォーヴがバリの画壇で注目を集めたとき、ルネッサンス以降の自然主義を引き継ぐフランス絵画の伝統は疲弊しきっていた。技術の洗練にばかり力を注ぐアカデミー方針は、伝統をますます形骸化していったのである。伝統の活性化を求める声が画壇の中枢を占めた人々からさえあがり*11、ましてや若い画家たちの危機感は強く、伝統の再生への意欲は一層のものがあった。「これらのアフリカのものは、プリミティフで複雑ではなく粗野であり、彼らの思考を本能に直接訴えかけることで表現し得ている」*12というドランの言葉は、フォーヴの問題意識の有りようを教えてくれる。フォーヴたちは、伝統を蘇生させるために「始まり」に立も返ろうとして、進化発展の歴史によってその聖性が弱められる前の、出発点に位置するアフリカに活路を見いたしたのである。サロン・ドートンヌでのスキャンダルもブラック・アフリカ芸術的価値を認めたのも、こうした彼らの問題意識から生じた一連の行為であった。

 フォーヴがブラック・アフリカの彫像に芸術的価値を発見すると、それはたちまち流行となり前衛的な芸術家は一斉にブラック・アフリカ美術の収集を始めた。それとともに批評家の言説にも変化が見られるようになる。ジェレット・バージェス(Gelett Burgess)は、最も早〈ブラック・アフリカ美術の価値を評価した批評家のひとりである。

 1910年5月にバージェスは「パリの野蛮人たち」と題する評論で、直前にサロン・デ・ザンデパンダンで見た作品の素描の未熟さと恐ろしげな色彩とに言及しつつ、「醜さが美をすたれさせたのだろうか。技術が素朴で調和を欠いた色彩に取って代わられた」と記述した。そして「私は[ブラック・アフリカの]ニジェールとダホメーの芸術について考えた。私はヒンドゥー教の奇怪なもの、アジアの神秘的なもの、その他多くのプリミティヴでグロテスクなものを見てきた。そして私は理に適った美しさがあるのと同様に、理に適った醜さがあるということに気づいた。おそらく一方は他方の否定的な側面、裏返しのイメージに過ぎないのだ。そしてそれぞれは固有の価値と深遠な意味を持っている。世界ができて間もない頃、人間はぞっとするようなもの、猥褻なものを描いたり。彫ったりした。それが復活したということは、人類が第二の子供時代を迎えた兆候なのだろうか。あるいは芸術の真の再生なのだろうか」*13と続けた。

 バージェスの文章において、ブラック・アフリカの造形は「芸術」であると見なされ、西洋の人々がすでに芸術的価値を認めていたアジア、つまりオリエントと同等に扱われている。そしてその根拠として西洋的な「美しさ」とは異なる「醜さ」という新しい美の規範を挙げ。そこに西洋の芸術の再生の希望を託したのである。ここにプラックアフリカの造形物に対する明らかな論調の変化を確認することができる。


3 プリミティヴィズムの誕生と発展

i)ロジャー・フライ(Roger Fry)の言説

 バージェスが「パリの野蛮人たち」を発表した同じ年、美術批評家であり画家でもあったロジャー・フライは、「ブッシュマンの芸術」という論文を公表した。フライはブッシュマン素描について「確かに野蛮な未成熟さと単純さとが見られ、一見すると、子供の素描や[西洋の]プリミティヴな時代の素描に似ているように見える。しかし注意深く検討してみるとそれらはまったく異なっている」*14と書いた。ここで彼は、ブッシュマン素描と、子供や西洋の過去の未熟な素描とを弁別しつつも、ブラック・アフリカの諸地域の中でも、最もプリミティヴであると考えられていたブッシュマン素描に、芸術としての価値を見いだしたのである。続けてフライはブッシュマン素描と西洋の未熟な素描との違いを列挙するが、そこにおいてフライが「形式」に着目して双方の特質と差異を論述したことは重要である。

 美術批評家としてのフライを語るとき忘れてはならないのが、1910年ロンドンにおいて「マネとポスト印象派たち」展を企画、開催したことである。この展覧会には、英国ではなじみの薄い、フランス前衛と呼ばれたエドゥアール・マネEdouard Manet)、ポール・セザンヌ(Paul Cfizanne)、ポール・ゴーガン(Paul Gauguin)、マチスらの作品が展示された。英国の新聞はこの展覧会の記事であふれたが、ロバート・ロス(Robert Ross)の「ヨーロッパ絵画の全構造を破壊しようという目論み」*15という言葉に象徴されるように、非難が渦を巻いた。それというのもフライはここで。いまだフランスに。おいてさえ美術史的位置づけが確立していなかった、ほとんど同時代の画家たちを歴史的な一続きの流れとして呈示したからであった。しかしそれゆえにこの展覧会は、その後に展開する20世紀モダ二ズムにとってきわめて重要な節目となった。

 「ブッシュマンの芸術」の公表と「マネとポスト印象派たち」展の開催とが同じ年であったということは、双方に何らかの連関があったと考えるべきであろう。フライは展覧会に関連して「ポスト印象派」と題する論文を書き、そこで「いわばセザンヌは、印象派のデザインの構造全体を壊してしまうような隠れた力に触れたのだ。そして新しい、意味を内包する表現的な形式が現れることになる。セザンヌを見いだすということは、現代芸術に失われた形式と色彩の言語を甦らせることだ」*16と語った。「ブッシュマンの芸術」と「ポスト印象派」、ふたつの論文に共通しているのは、フライが作品の質を考慮する根拠として「形式」に着目していることである。

 「形式」によって作品分析を行うフォーマリズムは、やがて『ヴィジョンとデザイン』*17で明確な方法論として記述される。フライはここで芸術作品における内容よりも形式の優位を唱え、そうした形式は普遍性を有すると論じたのである。またこの著作の構成そのものがフライの美術史観を示していた。彼はブッシュマンなどブラック・アフリカ部族の芸術についてまず論じ、ついで西洋の伝統的プリミティヴであるジョット・ディ・ポンドーネ(Giotto diBondone)たちに触れ、さらに論をセザンヌ、ポスト印象派へと展開させたのである。フライは「形式」に着目することによって、西洋の芸術もブラック・アフリカの芸術も同じ基準で論じることを可能にし、ブラック・アフリカの芸術を西洋の発展的歴史の「始まり」に位置づけたのである。

 また1920年の「ネグロ彫刻」という論考でフライが、「我々には。人類の最も偉大な業績のひとつは表現的な造形的形式を作ることにあると考える習慣がある。……我々が今日到達したレベル、またどの民族がこれまで有してきたよりはるかに高いレベルにおいて、名もない野蛮人がそうした力を持っていることを認めざるを得ない」*18と語るとき、彼はブラック・アフリカ芸術に見られる非自然主義的かつ概念的形式こそが、「現代芸術に失われた形式と色彩の言語を甦らせる」契機となると考えていたと言っていいだろう。「ブッシュマンの芸術」の公表と「マネとポスト印象派たち」展の開催は、フライの美術史観に照らしてもっながりを持っていたのである。そう考えると、「マネとポスト印象派たち」展のポスターにゴーガンのタヒチでの作品を用いた理由が理解できる.このポスターでは、ゴーガンといり現代画家の作品の形式と、タヒチのプリミティヴな女性と彫像とが融合しているのである。

ii)ロバート・ゴールドウォーター(Robert Goldwater)のプリミティヴィズム

 ブラック・アフリカの芸術に対する呼称として、「プリミティヴ・アート」を用いることは、現在では一般的なことのように受け止められている。ところがブラック・アフリカの彫像に最初に芸術的価値を見いだしたフォーヴたちは生涯、ブラック・アフリカの美術を「仏アール・プリミティフ」とは呼ばずに。「仏アール・ネーグル」という呼称を用いていた。「ネーグル」に含まれる差別的な響きと、フォーヴがブラック・アフリカの造形物に「美」を見いだしたこととは矛盾するように見えるが、ここに「発見者たち」の複雑な反応をかいまみることができる。

 また「プリミティフ」という形容詞から派生した「プリミティヴィズム(仏Primitivisme)」は、確かに1897年から1904年の間に出版された「図解新ラルース事典」で美術史用語として登録され、そこには「男性名詞、美術用語。プリミティフな作家の模倣J *19と記載されている。しかしブラック・アフリカ美術を語るとき、フォーヴたちは生涯「仏プリミティヴィズム」という言葉を用いることはなかったのである。

 これらの事実から確認できることは、ブラック・アフリカ美術の「発見」の当事者の誰にも、現在一般的とされる「プリミティヴ・アート」や「プリミティヴィズム」。それぞれに相当するフランス語を用いた形跡はないということである。ここからいくつかの疑問が生じる。ひとつは、事典に記載された「プリミティフな作家」とは誰を指しているのかであり、またそれではブラック・アフリカの芸術に対して「プリミティヴ、アート」という呼称を与えたのは、いつ、誰なのかである。これらが明らかにすべき最初の問題となる。

 「プリミティフ」という形容詞は本来、14、15世紀イタリアフランドル芸術家を指していた。しかし、19世紀に降盛をみるオリエンタリズム(仏Orientalisme)の論調のなかで、その適用範囲は拡大していった。19世紀の後半になると芸術家たちの間でそれは、ゴシックロマネスクピザティンをはじめ、「仏アルカイック」と併用されるかたちでエジプトギリシャさえも指し示し、同時にタヒチやマルケサス。ペルージャワといった非西洋をも包括するようになっていった。このことから「図解新ラルース事典」の「プリミティフな作家」が指示する対象が推察できる。しかしこの範躊にブラック・アフリカは含まれてはいなかったのである。

 この傾向は「プリミティフ」というフランス語表記がバージェスやフライによって英語表記に変わっても受け継がれた。バージェスの「パリの野蛮人」の中にも「プリミティヴ」という形容は用いられているが、ブラック・アフリカの人々に対してはともかく、彼らの芸術をその言葉で形容した箇所は見あたらない。フライの「ブッシュマンの芸術」でも、「プリミティヴ・アートと子供の芸術で注意を払うべきもうひとつの特徴は……」*20といった使用例が散見されるが。そのすべては西洋の過去の芸術を指しているのであって。ブラック・アフリカの芸術に対して使用されてはいない。

 それではブラック・アフリカ美術に対して「プリミティヴ・アート」という呼称を明確に用いたのは誰であったろうか。1938年に-二ューヨークで「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」を出版したロバート・ゴールドウォーターは、「プリミティヴ・アート」という言葉の定義を試みた。そして彼はその序文において「プリミティヴィズムとは、絵画における歴史の特定の時代、流派に与えられた名称ではない。……プリミティヴィズムとはロマンティシズムと同じく芸術を作り出すひとつの態度である」*21と述べている鋤。ここで彼は『図解ラルース事典』の「プリミティフな作家の模倣」という定義を。より抽象的な「芸術を作り出すひとつの態度」に置き換えて新しい意味を与えた。そのうえでゴールドウォーターは「プリミティヴ・アート」の範躊に、19世紀を通して「プリミティフ」と形容された対象すべてに加えて、新たにブラック・アフリカ、オセア二アの美術をとりこんだのである。

 ゴールドウォーターは19世紀にみられた「プリミティヴヘの傾斜」と「20世紀のプリミティヴな傾向」とを明確に区別して、前者を「調和的な黄金時代への回帰という古くさい概念」*22であると断じる一方で、後者を「特定のプリミティヴな形式や様式から得られるインスピレーションを基にした運動」*23で、前衛的な意識に連らなるものであると記述した。そしてゴールドウォーターは、20世紀のプリミティヴィズムにおけるフォーヴとプリミティヴ・アートとの関わりについて、「「アフリカの」彫像をそれらが置かれていたコンテキストから切り離したにもかかわらず、結果として、アフリカの彫像に対するフォーヴの評価は、純粋な形式の問題解決に関わる称賛に限られてはいなかった」と述べ、フォーヴの作品を見る限り、「形式にも主題にもアフリカやオセア二アの制作物のいかなる痕跡をも見ることはほとんどできない」とした*24。ゴールドウォーターはフォーヴのプリミティヴィズムを、アフリカの彫像に造形的な価値を見いたし、視覚的に確認できる形式上の影響関係を作品に刻みつけたキュビスムの誕生の前段階であったと位置づけたのである。

 ゴールドウォーターが作品分析を行う際に、フライが提唱したフォーマリスティックな手法に依っていたことは興味深い。というのもフライは、ヨーロッパ、わけても英国で美術批評家として知られた人物であったが、20世紀初頭に請われてニューヨークメトロポリタン美術館の顧問としてアメリカ合衆国に渡り、作品収集の責任者として貢献したという経歴を持っていたからである。フライはヨーロッパ芸術作品アメリカ仲介しただけではなく、作品分析の手法も伝えたとみるべきではないだろうか。

 「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」においてゴールドウォーターは、総論としては、プリミティヴ・アートの影響は必ずしも視覚的に確認されうるものではないと断りながらも*25、個別的具体的な作品分析においては、プリミティヴ・アートに対するさまざまな反応を、形式的な類似関係を基に分類し、―連の様式的発展として理解したのである。

iii)ヴィルヘルム・ヴォリンガー(Wilhelm Worringer)の影響

 ゴールドウォーターが再定義したプリミティヴィズムが、先立つ、言説の影響を受けて誕生したことは言うまでもない。彼自身もその認識に基づいて、自らの主張の、いわば血統を示すかのようにプリミティヴなるものをめぐる言説を、時代を追って列挙した。ゴールドウォーターにすれば、それは持論り正統性を示すためであったろうが、彼とは異なる視点で批判的に受け取ることを可能にしてくれる重要な部分でもある。ここでゴールドウォーターが先駆的研究として力を入れて挙げたのが、ヴィルヘルム・ヴォリンガーの『抽象と感情移入』である。

 ヴォリンガーは、あらゆる芸術創造の基本的契機として、対象に依存することのない、普遍的な価値を志向する独立した形式への意志として機能する、潜在的内的欲求の存在を想定した。ヴォリンガーの論理は、アロイス・リーグル(Alois Riegl)の「芸術意欲」という概念を継承し。発展させたものである。ヴォリンガーは、あらゆる芸術の発展の第一段階にみられるのは、抽象的傾向であると指摘し、「すべての装飾は幾何学様式をもって始まったに違いない」*26と述べ、この傾向を支える抽象衝動は普遍的に存在すると考えた。そして彼は幾何学的抽象様式こそ最高の価値をもつと主張したのである。

 ゴールドウォーターは『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』中で、「ヴォリンガーによれば、プリミティヴ・アートはその抽象衝動において、オリエントエジプトおよび現代芸術の先駆であるということになる」*27と、ヴォリンガーの考えを紹介した。そして「第5章 知的プリミティヴィズム」において、幾何学的抽象の外観をもつキュビスムの作品をプリミティヴィズムに結びつけて、その様式に20世紀美術の前進的精神の現れを見いたしたのである。ヴォリンガーの「抽象と感情移入」がミュンヘンで出版されたのが、キェビスムの誕生した1908年であったということは示唆的である。またゴールドウォーターが「第3章 ロマンンティック・プリミティヴィズム」でフォーヴをキュビスム登場を待つ「準備段階」と位置づけたことと併せて考えると、章立てに沿った論理展開に、ゴールドウォーターの進化論的20世紀モダ二ズム美術史観を伺うことができる。そしてゴールドウォーターは、ヴォリンガーの説を引くことによって、幾何学的抽象様式を持つキュビスムこそが、20世紀美術にふさわしいということ、そしてその正当性は、プリミティヴ・アートにも見られる普遍的抽象衝動によって保証されているという論を展開したのでる。

 しかしこのゴールドウォーターの主張は大きな問題をはらんでいる。というのも彼が論拠として引いたヴォリソガーの考えが、歪められて援用されているからである。正確にはヴォリンガーは「抽象と感情移入」の中で、エジプト美術にみられる幾何学様式を称揚し、それは現代芸術にも通じると記述したのであって*28、ブラック・アフリカを含む「プリミティヴ・アート」には言及していない。またヴォリンガーは別の著作の中でよりはっきりと、「プリミティヴな人々が作り出すものは抽象衝動を形象化した物とは言えない」*29と明言していたのである。

 そもそもブラック・アフリカの芸術を「プリミティヴ・アート」であると定義したのiは、ゴールドウォーターその人なのであるから、それ以前に旧大陸で書かれた文献に見られる「プリミティヴ・アート」という言葉を、後に付与された意味に依って理解し、引用することは誤用である。

 しかしそこにこそ、ゴールドウォーターの論理展開の意図があったと考えられる。ゴールドウォーターは、普遍的価値の存在を前提にヴォリソガーの主張を歪曲し、拡大的に解釈することによって、西洋の伝統における自然主義様式から幾何学様式への移り変わりを、一貫性のある発展的プロセスと捉え、20世紀の前衛芸術に見られる幾何学様式プリミティヴ・アートに結びつけて高く評価したのである。ここでゴールドウォーターが、20世紀美術を「伝統がない」*30と捉えていたことは重要である。彼はパリでの「事件」としてのブラック・アフリカの彫像の「発見」の意味をニューヨークに移植する際に、旧世界の伝統やそれに付随する価値観を払拭して、いまだ独自の「伝統がない」アメリカによる新たなる一貫性のある言説、つまり歴史を築くために、変容させたと言えるのではないだろうか。ゴールドウォーターの意図は、1913年アメリカヨーロッパのモダ二スムを知らしめた「アーモリー・ショー」以来、アメリカ独自の伝統形成への熱烈な要望をめぐる運動に連なるものであったと考えることができる。結果としてゴールドウォーターのプリミティヴィズムは、20世紀初頭における旧大陸の「発見者」たちの意識とは大きな隔たりをはらむことになった。ここに観念における転回が確認できる。

iv)ウィリアム・ルービン(William Rubin)のプリミティヴィズム

 1984年から1985年にかけてニューヨーク近代美術館において「20世紀美術におけるプリミティヴィズム── 「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性── 」展が開催された。展覧会には19世紀末のゴーガンからマチスパブロ・ ピカソ(Pablo Rcasso)、コンスタンティンブランクーシ(Constantin Brancusi)、ヘンリー・ムーア(Henry Moore)等、現代芸術150点が集められ、同時にアフリカオセアニア南北アメリカ等のプリミティヴ・アート200点が展示された。この展覧会を企画し開催を実現させたのが、当時ニューヨーク近代美術館絵画・彫刻部名誉部長であったウィリアム・ルービンである。世界各地の美術館が所蔵する現代芸術を集め、世界各地の民族博物館からプリミティヴ・アートを借り受けて同時展示した点で。これはこれまでにない規模の画期的な展覧会であった。

 ルービンはこの展覧会の解説書として出版された「20世紀美術におけるプリミティヴィズム── 「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性── 』の編者も勤めた。この編著はルービンを初めとする総勢16名の、美術史文化人類学の気鋭の研究者からの論文で構成されたプリミティヴィズムにかんするきわめて重要な文献である。その序文の中でルービンは、「プリミティヴィズムがその20世紀に固有の局面を迎えるのは、なんと言ってもビカソとキュビスムの作家たちによってであった」と語ることで*31、ゴールドウォーターのプリミティヴィズムを基本的に引き継ぐことを表明した。そして「『プリミティヴ』に由来する用語である。プリミティヴィズムが自民族中心主義的であるというのは確かに本当である── そしてそれは論理的にも真実なのである。というのも、それは「部族美術」をそれ自体で指しているのではなく、「部族美術」への西洋の関心と反応とを指しているからである。プリミティヴィズムはしたがって『部族美術』の歴史に属するのではなく、現代芸術の歴史の一側面である」*32と明言して、ゴールドウォーターが読み誤ることによって示唆した、アメリカの言説が生み出したプリミティヴ観と20世紀モダ二ズム美術史観とを支持したのである。

 ルービンのプリミティヴィズムは、その編著が邦訳されるにあたって邦訳版にのみ加えられた補遺のなかで一層明確にされた*33。ここで「あとがき」を書いた吉田憲司氏は、この展覧会と解説書が巻き起こした論争に言及する。吉田氏は、批判急先鋒に立ったジェイムズ・クリフォード(James Qifford)が*34、ルービンは「親縁性」という言葉で、「部族的」と「モダン」との間に共通する人間の普遍性を見いたそうとし、ひいてはプリミティヴィズムを対象としながらも、プリミティヴィズムがそのそもそもの成立から抱え込んでいるはずの「プリミティヴ」と規定される側と規定する側との間にある権力関係、歴史的関係を捨象していると非難したことを紹介し*35、ルービンに真意を問いかけた。

 問いかけに応えてルービンは、「互いに近似した現代芸術の作品と『部族社会』の作品とをひとつの対として設定することが可能」*36で、しかもその「近似」は単に形態上の類似だけではなく、概念的形態というレベルで双方に見いだされる「親緑性」を指すと述べた。そしてルービンは「プリミティヴ」と「モダン」とが「親縁性」を持ち得る根拠として、「偉大な芸術作品はそれを生んだ個別の文化の特質を宿しているだけでなく……同時にそれを越え出て時間と空間を異にする他の文化にまで語りかける力をもつ」*37という超越的普遍論を唱えた。吉田氏が指摘したように、全ての人間は普遍的人間性を共有するという考えを論拠とするルービンのプリミティヴィズムを支えたのは構造主義の浸透であるだろう*38

 そしてルービンが、具体的な作品でその「親縁性」を明示するとき、自然主義様式アフリカの彫像を意図的に排除し、幾何学的抽象様式のものを選択したことや*39、ルービンが編著の序文で、プリミティヴィズムという言葉は『図解ラルース事典』に登録され、「この定義の意味はこれ以後、美術史に受け入れられてきている」*40と書いて、プリミティヴィズムがあたかも一貫性をもつ観念であったかのように述べることで「これ以後」に生じた「定義の意味」の変容を隠蔽したことを考えると、ルービンはゴールドウォーター以来のアメリカの「新たな伝統の創造」*41の一環であるプリミティヴィズムをさらに先鋭化させたと言うことができる。

 これまで検討してきた結果、プリミティヴ・アートに対しての価値観は。旧大陸ヨーロッパから新大陸アメリカへの伝幡に伴って、その意味内容を大きく転回させたということが明らかとなった。フランス語の「プリミティフ」が意味していたのiは、あくまで時間的な過去に対しての憧憬であり、それは必ずしも形式的な類似関係において了解されるものではなく、多様ではあってもその意味を受け継ぐことによる伝統の活性化への切望の表れという側面を強く保持していた。一方ニューヨークにおいて「プリミティヴ」は、現代芸術に結びつけられることによって、先鋭な進歩的価値観に連なり、ここで時間的なベクトルは正反対を指すことになる。そして「普遍的価値」を前提とすることによって、現代芸術とプリミティヴ・アートとは、概念的形式としての「親縁性」を持ち、それは具体的には幾何学的抽象様式として呈示されると理解されるに至ったのである。

                 

4 ふたつの《ダンス》をめぐる批評の変遷

i)セルゲイ・シチューキン(Sergei Shchukln)のための《ダンス》

 それではプリミティヴィズムの変節と具体的な作品をめぐる批評の変遷とはどのような関係を持っていただろうか。「発見者」のひとりマチスは、ゴールドウォーターが新しいプリミティヴィズムを確立した1930年代に、自らの活動の場をアメリカ合衆国に拡大した。アメリカコレクターアルバート・バーンズ(Albert c. Barnes)の依頼による壁面装飾画《ダンス》をマチスが制作したのは、1930年代初めであった。

 「ダンス」という主題は、マチスが長い間あたためてきたものであった。なぜならすでにl1909年から1910年にかけてマチスは、ロシアコレクター、シチューキンの依頼を受けて《ダンス》を制作していたからである。シチューキン邸の階段装飾のために制作されたこの作品について、ヤコヴ・ツーゲンホールド(Yakov Tugendhold) は「全体の装飾性はどこから来ているのだろう。……この(アルカイックな)壷のプリミティフな筆触を現代的なパネルに置き換えた」*42と記述して、この作品のもつ特質を「プリミティフ(仏primitif)」と「装飾性」というふたつの言葉で言い表した。ここで注目すべきは「プリミティフ」がアルカイックに関連して意味づけられていることである。つまり1910年には「プリミティフ」という形容詞は西洋の伝統のはるかな過去につながるものとして用いられていたのである。同時に《ダンス》に「装飾性」を見いだしていることも重要であろう。というのもこのふたつの言葉は、19世紀の末からサンボリストたちによる美術批評の中で称賛の言辞として用いられてきたという経緯があるからである。そしてサンボリストの言う「装飾」とは、アルベール・ オーリエ(G・Albert Aurier)が壁画美学に関連して提唱したように、中世という時代とともに見捨てられた彩色された造形性を意味していたのである*43

 しかしこの作品をめぐる批評は、興味深い多様性を示してもいる。チャールズ・カフィン(Charles Caffin) は1911年に「マチスの作品は野蛮で、プリミティヴで初歩的な表現を連想させる」と述べ。さらに「その表面と輪郭線は彼が所有していたアフリカの彫像のような粗雑さを示していた」*44と記述した。ここではツーゲンホールドが批評の中で用いた「プリミティフ」の意味とは異なり、「プリミティヴ」という形容詞が直接的でiはないにせよ、アフリカの彫像に関連をもって用いられ始めているのである。カフィンの文章がニューヨークで出版された「フランス絵画の歴史」という著作の一節であるということは興味深い。ここに微細ではあっても確かな、「プリミティフ」と「プリミティヴ」の意味内容の変容を指摘することができる。

ii)バーンズのための《ダンス》

 20年の後マチスが完成させたのは、フィラデルフィアにあるパーソズ財団のメイン・ギャラリーを現在も飾っている新しい《ダンス》であった、ニューヨーク近代美術館の初代の館長であったアルフレッド・バー・ ジュニア(Alfred H. Barr, Jr.)はその著作マチス その芸術と観衆』によって、アメリカにおけるマチス研究の機軸を形成した。バーはバーンズの《ダンス》の制作過程を追い、初期の下絵から完成作に至る変化を自然主義様式からの離脱と捉えた*45。ジャック・フラム(Jack D. Flam)は近年発見されたフル・サイズの下絵を新たに考察対象に加え、マチスの「絵画言語はしだいに抽象的になり記号化されていった」*46と述べて、《ダンス》の制作過程を説明的な様式から抽象的な様式への移行と分析した*47プラムの主張は、自然主義様式から抽象主義様式への発展史に沿って展開され、それはバーの論調を継承するものである。そしてその進化論歴史観は、ゴールドウォーターやルービンのプリミティヴィズムを支えるものでもあった。

 ここで注意すべきは、彼ら、ニューヨーク研究者たちのいずれもが、バーンズの《ダンス》を「プリミティヴ」であるとは形容していないことである。その作品は、主題からしてシチューキンの《ダンス》とのつながりが明確である。実際バーもプラムも、作品分析にあたってシチューキンの《ダンス》を引き合いに出して、バーンズの《ダンス》の独自性を見いたそうとしている。それは彼らの作品分析の基本である、様式上の類似が両作品間にあったからに他ならない。それではなぜニューヨーク研究者たちは、新しい《ダンス》を「プリミティヴ」であるとは形容しなかったのだろうか。彼らがこの作品を、彼らの言うプリミティヴ、あるいはプリミティヴィズムの視点で捉えなかったことは、ルービンが編集した『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』に所収されているフラムの「マティスとフォーヴの作家たち」*48という論文の中で、彼がバーンズの《ダンス》に一切言及していないことからも明らかである。

iii)作品批評におけるふたつの傾向

 ここでプリミティヴィズムの変節が重要な意味を持つ。バーを初めとするiニューヨークを中心に活動したモダ二ストたちが作品を分析し、その美術史的意味を解釈する際に、自明の理として用いたプリミティヴィズムなる観念は、1910年のパリと少なくとも1930年代以降のニューヨークとでは、その意味内容を大きく変えていた。始原的なもののみが持ちうる聖性を称揚し、それによって西洋の伝統を再生させようとの意図のもとに語られた仏語の「プリミティフ」は、英語で「プリミティヴ」と表記されるに伴って、超越的普遍的価値の存在を前提に「伝統のない」20世紀の前進的なモダ二ズムの理論的拠り所となっていた。プリミティヴィズムはプリミティヴ・アートと現代芸術との間に概念的形態の「親緑性」、具体的様式としての幾何学的抽象様式を想定したのだった。ゆえにこそ、抽象的ではあっても有機的な曲線を主体としたバーンズの(ダンス》は「プリミティヴ」ではあり得なかったのである。

 それではバーンズの《ダンス》について異なる解釈は提出されてはいないのだろうか。ピエール・シュネデール(Pierre Schneider)はバーンズの《ダンス》の中央パネルに描かれたレイプの表現に注目した。この野蛮な行為がしばしばプリミティヴな人々の行為として絵画化されていたことは事実であるが、シュネデールは逆説的に「神聖なものは野蛮なのだ。激しいダンスはレイプによって突如、中断される」*49と記述した。そして彼は聖なるものを西洋のはるかな過去、黄金時代の理想に結びつけて、マチスのふたつの《ダンス》は同じテーマの追求であったと理解した。シュネデールの論調は基本的に仏語の「プリミティフ」の意味内容に重なり、1910年頃にシチューキンの《ダンス》に向けられたパリの批評内容を受け継いでいる。

 シュネデールが現代のフランスにおけるマチス研究の代表者のひとりであり、一方フラムアメリカにおけるマチス研究の中心人物のひとりであることを考えると。彼らの論調の違いに、今もなお分裂したプリミティヴィズムの二重性を見ることができる。


5 結語

 芸術作品を解釈し、それを美術史の中に位置づけようとするとき、人は往々にして抽象的な価値観を代弁する観念を論拠とする。視覚的に確認できる作品の様式と、自然界に存在する物象との類似関係が希薄になるにつれ、その傾向は一層強くなったと言えるだろう。そして批評家や研究者たちtt、根拠とする観念が、あたかも先験的に存在したかのように受け止めて、作品を分析し価値づけてきたのである。しかしあらゆる観念の立脚する基盤は、プリミティヴィズムを形成する価値観の変遷を追うことで明らかになったように、相対的であり、意図的である。言葉という表現媒体を駆使して芸術作品を語るとき、観念のはらむ相対性は作品の意味を自在に変え得るものであるということへの認識が必要なのである。ゴールドウォーターはプリミティヴィズムを「芸術を生み出すひとつの態度」*50と定義したが、むしろそれは「言説を生み出すひとつの装置」であったのである。

*1サハラ砂漠より南に位置するアフリカの地域に対して「ブラック・アフリカ」という呼称を用いた。これはサハラ以北の「オリエント」と認識されてきた地域と区別するためである。言うまでもなく筆者は「ブラック・アフリカ」という呼称に、何ら否定的な意味合いを含ませてはいない。

*2:Tack D. Flam, "Matisse and the Fauves”, in "Primitivism"20 Century Art, Affinity of the Tribal and the Modern, 2vols・, William Rubin (ed.), Exh. Cat., New York, 1984, pp. 211-239.大久保恭子訳「マティスとフォーヴの作家たち」ウィリアム・ルービン編「20世紀美術におけるプリミティヴィズム── 『部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性── 』所収,淡交社,1995年,211−239頁。

*3:Marcel Nicolle, Journal de Rouen, 1905. Cited in Ellen C, Oppler, Fauvism Reexamined, New York, London, 197, pp, 21-22.

*4:Flam, "Matisse and the Fauves”, p, 212.

*5:Transcript of lecture given at The Museum of Modem Art, New York, dated October22 1951 (courtesy of the Archives of American Art)

*6:Sir John Lubbock, The Origin of Civilzation, London, 1370, pp. 37-38.

*7:Alfred Burdon Ellis, The Land of Fetish, London, 1883, pp. 46-48.

*8:Owen Jones, The Grammar of Ornament, London, 1868, pp. 15-16.

*9:André Derain, Lettres à Vlaminck, Paris 1955, p. 197.

*10:André Derain, Lettres à Vlaminck. Cited in Flam, "Matisse and the Fauves', p. 216.

*11:ジョルジュ・デヴァリエール (George Deswalliéres) は、若くして画壇の中心にいた。ギュスターヴ・モロー (Gustave Moreau) のアトリエマチスの先輩であったデヴァリエールは、フランスの伝統の後継をマチスたちに期待していた。Roger Benjamin, Matisses 'Notes of a Painter' Criticism, Theory, and Context, 891-98, Michigan,1987, pp. 133-150.

*12:Gelett Burgess, "The Wild Men of Paris", The Architectural Record, May 1910, pp. 407.

*13:ibid., p. 402.

*14:Roger Fry, "The Art of the Bushmen', Athenevin, 1910, Repr, in Vision and Design, J.B. Bullen (ed.),New York, 1998, p. 62.

*15:Robert Ross, Morning Post, 7 November 1910.

*16:Fry, 'Post Impressionism', The Fortnighty Review, 1 May 1911. Repr. in A. Roger Fry Reader,Christopher Reed (ed.), Chicago, 1996, pp. 109-110.

*17:Fry, Wision and Design, New York, 1920.

*18:Fry, "Negro Sculpture', Atheneum, 1920, Repr. in Vision and Design, pp. 70-71.

*19:Nouveau Larousse illustré, 7 vols. and l suppl., Paris, 1897-1907, vol. 7, p. 32.

*20:Fry, “The Art of the Bushmen”, op, cit, p. 64.

*21:Robert Goldwater, Preface to the Revised Edition of Primititfism in Modem Art,Cambridge, Massachusetts, London, 1966, p. XXIV. 日向あき子訳『二十世紀美術におけるプリミティヴィズム』岩崎美術社,1971年,10頁。この文献に先立って「プリミティヴ・アート 」という言葉を,コールドウォーターに近似した意図で用いた例として, New York Herald, December 24, 1916, Cited in F. M. Nauman,“How, When, and Why Modem Art Came to New York', Art Magagine, , April 1980,p.m. John Graham, Systems and Dialectics of Art, New York, 1937 が挙げられる。但し,使用された文脈については。稿を改めて検討したい。

*22:Ibid., p. XXII.

*23:Ibid., p. XXIII.

*24:Goldwater, Primitivism in Modem Art, Cambridge, Massachusetts, London, 1966, p. 89.

*25:Ibid., pp. 262-253.

*26:Wilhelm Worringer, Abstraction and Epipathy: A Contribution to the Psychology of Siyig (1908), MichaelBullock (trans,), London、1963, p.52、草難正夫訳 『抽象と感情移入』岩波書店1979年、78頁。

*27:Goldwater, op cit, p. 29.

*28:Worringer, Abstraction and Empathy, op, cit, pp. 42-43, p. 90.

*29:Worringer, Form in Gothic (1911), Herbert Read (trans.), London, 1957, p. 20.

*30:Goldwater, op, cit, p. XX.

*31:William Rubin, "Modernist Primitivism, An Introduction', in "Prinitivism' in 20 Century Art, Affinity of the Tribal and the Moder, 2 vols., William Rubin (ed.), Exh. Cat., New York, 1984, p. 7. 小林留美、長谷川祐子訳「序── モダニズムにおけるプリミティヴィズム」前掲書所収、7頁。

*32:Ibid., p. 5.

*33:ウィリアムールービン 「吉田憲司氏の日本語版「あとかき」に寄せて」ウィリアム・ルービン編『20世紀美術におけるプリミティヴィズム ── 「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親緑性── 』〈日本語版のための補遺編〉淡交社,1995年,8−15頁。論争の口火を切ったのはトーマス・マキェヴィリー (Thomas McEvilly)であった。ルービンはマキェヴィリーに対して行った反論を補遣でも繰り返した。

*34:Tames Clifford, The Predicament of Culture; Twentieth-Century Ethnography, Literature, and Art, Cambridge, Massachusetts, London, 1988.

*35:吉田憲司 「「事件」としての展示と出版:「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」 プリミティヴィズム 日本語版「あとがき」として」ウィリアム・ルービン 編『20世紀美術におけるプリミティヴィズム ── 「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性── 」〈日本語版のための補遺編〉淡交社,1995年,6頁。

*36:ルービン「吉田憲司氏の日本語版「あとがき」に寄せて」,10頁。

*37:同上書,13頁。

*38:吉田憲司「「事件」としての展示と出版:「20世紀美術におけるプリミティヴィズム 」一日本語版「あとがき」として」,5頁。

*39:吉田憲司「「事件」としての展示と出版:「20世紀美術におけるプリミティヴィズム 」一日本語版「あとがき」として」,5頁。

*40:Rubin, "Modernist Primitivism, An Introduction", p. 2.

*41:ルービン「吉田憲司氏の日本語版「あとがき」に寄せて」,9頁。

*42:Yakov Yugendhold, “Osenny salon", Apolbn, 1910, pp. 30-31,

*43:G.-Albert Aurier, "Le symbolisme en peinture, Paul Gauguin”, Mercure de France, février 1891. Rééd. dans (Euvres posthumes, Rémy de Gourmont (éd.), Paris, Mercure de France, 1893, pp. 215-216.

*44:Charles Caffin, The Story of ‘French Painting,New York, 1911, pp. 214-216.

*45:Alfred H. Barr, Jr・, Matisse, His Art and His Public, New York, 1951, pp。242・243.

*46:Flam, Matisse: The Dance, Washington, 1993, p. 74.

*47:Ibid., pp. 65-77.

*48:Flam, "Matisse and the Fauves", pp. 211-239.

*49:Pierre Schneider, Matisse, Paris, 1984, p. 620.

*50:Goldwater, Preface to the Revised Edition oi Primitttns。,in Modem Art, p.XXIV.



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