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2016-09-14

20世紀芸術と多元文化形成:トリスタン・ツァラと「黒人詩に関するノート」 大平具彦

 トリスタン・ツァラと言えば、1916年にチューリヒで開始されたダダ運動の創始者であり、後にパリに移住してダダ運動の路線をめぐってブルトンと対立、その後独自の言語宇宙を創り出してシュルレアリスム運動にも参加したルーマニア生まれの詩人として知られているが、こうした紹介だけではツァラなる詩人の実像がしかとは伝わらないうらみがあるので、ここでは著名なある日本人作家の小説から、彼が実際にツァラ邸を訪問した際(1936年)の記述を引用してみることにしたい。

 梶がハンガリアから巴里へ戻って来たときは七月の初めであった。ところが、全く偶然なことにも彼がハンガリアヘ出発する一か月ほど前に、巴里のモンマルトルにあるクロイゲル[(筆者注)この作品の冒頭部分で語られる世界のマッチ王と呼ばれたスウェーデンの大実業家]の娘の家を訪問したことがあった。そのとき梶はその婦人がクロイゲルの娘だとは少しも知らなかった。梶の友人が婦人の良人の詩人と知己だった関係からある夜友人につれられてその家へ遊びに行ったのである。しかも、一層梶にとって興味深かったことにはその夫人の主人である詩人は、スイスシュールリアリストたちの発会式のとき彼ら一団の頭目であったトリスツァン・ツァラアだったことだ。ツァラアはクロイゲルの娘と結婚するまでは乞食詩人と云われていたほどの貧しいルーマニア人であったが、いつの間にか彼の生来の鋭い詩魂は光錐を現して、現在のフランス詩壇で彼に追随するものが一人もないと云われるほど絶対の権威を持続するまでにいたっていた。全く詩壇と画壇の一部の者らはツァラアを空前絶後の大詩人と云うどころではない。ボードレールさえツァラアにだけは及ばぬとまで云っている。

 [……]

 夜の九時過ぎに梶は友人と一緒に門扉のボタンを押して女中に中へ案内された。中庭は狭くペンキの匂いがすぐ登る階段の白い両側からつづいて来た。階上の二十畳もあろうかと思える客室の床は石だ。部厚い樫で出来ている床几のような細長い黒黒としたテーブルが一つ置いてある。正面の壁には線描の裸像の額がかかっているきりであるが、アフリカ土人の埋木の黒い彫刻が実質の素剛さで室内に知的な光りを満たしていた。梶は室内を眺めていてから横のテラスへ出た。そこには沢山の椅子が置いてあった。有名なモンマルトルの風車はすぐ面上の暮れかかっていく塔の上で羽根を休めていた。梶はその上に昇っている月を眺めながら、出てくるツァラアを待っていると、また来客が四人ほどテラスの椅子へ集まってきた。皆芸術家たちで詩人、作家、彫刻家、美術雑誌の女社長等であった。間もなく六人七人と多くなって梶は紹介されるに逞もないときツァラが初めて現れた。

 ツァラアは少し猫背に見える。背は低いがしっかりした身体である。声も低く目立たない。しかしこういう表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。この受け身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、力が満ちれば端傀すべからざる黒雲を捲き起す。猫を冠っているという云い方があるが、この猫は静かな礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。まことに受け身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。*1

 なかなかに興味深いルポルタージュであるが、実は、横光利一の『厨房日記』(1937年刊)の一節である。横光は1936年に渡欧しており、その間の彼の日記によれば、6月12日に画家の岡本太郎(横光の滞欧中の案内役兼通訳)とトリスタン・ツァラの家を訪問したことが書かれている*2。つまり文中の梶とは彼自身であり、友人が岡本太郎というわけである。件のツァラ邸は、設計がオーストリア建築家アドルフ・ロースでモダ二ズム建築として名高く、ツァラは文中で語られるクロイゲルの娘ことクレタ・クヌートソン(スウェーデン出身のシュルレアリスム系画家として知られ、父は『厨房日記』で語られているようにクロイゲルではなく、裕福なピアニスト)と結婚後ここに居を構え、このツァラ邸はシュルレアリストたちの会合の場としてもよく使われたという。横光の日記にしたがえば、当日の来客の中には作家ロジェ・カイヨワ、彫刻家ジャコメッティらがいたことが記されている。

 さて、横光の記述のうち、本書の主題との関連で取り上げておくべきは、当初はあのダダ運動のプロモーターとみなされていたツァラが、1930年代当時においては「生来の鋭い詩魂は光錐を現して[……]詩壇で彼に追随するものが一人もないと云われるほど」の詩人として声価を得ていたこと、そして、客室には「アフリカ土人の埋木の黒い彫刻が実質の素剛さで室内に知的な光りを満たしていた」ことである。先ず最初の点であるが、当時ヴァレリークローデルが名声を高め、シュルレアリストブルトン、エリュアール、アラゴンら)たちの詩が新しい星座のように登場してきた中にあって、あのフランス詩王の「ボードレールさえツァラアにだけは及ばぬとまで」言われるというのは尋常ではない。この評価は岡本太郎から横光に伝えられたものであろうが、それらの評言も実際に岡本太郎が当時深くつきあっていたパリの詩人・画家らから得ていたであろうとすれば、あながち誇張されたものとは言えまい。そして筆者もまたこうした意見に与するものであるが、それはツァラの詩が他の詩人に比して「優れている」とかいうことではなくて、そもそもがツァラの詩の言語(ツァラ語)は、詩というものが準拠するメタファー、シンボル、イメージといった表象原理とはどこか異性体的に異なった独自の言語スペクトルでもって、われわれを包み浸しているこの宇宙の芯と直接に交感し合い、その森羅万象とコスミックに交響し合うという点に存する。彼の詩から一節を引用してみよう。

鐘は理由なく鳴りそしてわれわれもまた

なぜわれわれを鎖につなぐ鎖の端を探すのか

鐘よ理由なく鳴れそしてわれわれもまた

われわれはわれわれの内部で鳴らすだろう 砕けたグラスを

贋金に混ざり込んだ銀貨を

戸口には深淵が広がっているかも知れぬままに

咲笑と嵐となって砕け散った祭典の残骸を

空気の墓を 北極の骨を砕く風車を

われわれの頭を天空に運び

われわれの筋肉に溶けた鉛の夜を吐きかける あのもろもろの祭典を*3

 ツァラの代表的大作『近似的人間』(1931年)からの短い抜粋であるが、一読しただけでも、朋友のミシェル・レリスツァラについて、「多くの詩人が、自分たちにとってのみつくられているかのように世界を見ているのに対して、ツァラは事物に密着しているゆえに、彼の詩篇は、世界のあらゆる箇所から湧き起こってくる個体の言葉の交差、集積といった様相を一挙に呈してくる。彼の詩を読む時、語っているのは当の詩人であるのか、あるいは一滴の血や樹木の幹、電気ランプや小石であるのか定かではなくなってしまう」*4と述べるように、詩的な意味表象などを越えて、それ自体でコスミックなうねりとなって湧き起こってゆくツァラの言葉の宇宙が感得できることと思う。にうしたツァラの詩と生涯については、拙著『トリスタン・ツァラ── 言葉の四次元への越境者』、[現代企画室、1999年]を参照されたい。)

 ところで、このツァラが、ピカソアポリネールと同じく、ダダの時代からアフリカオセアニアの黒人芸術、黒人詩篇に多大な関心を寄せ、その収集家であったことに注目したいと思う。というか、故国ルーマニアからチューリヒに出て来たサムエルローゼンストック(彼の本名)なる一青年詩人が、ダダを経る中でトリスタン・ツァラという20世紀最大の詩人の1人に変貌・成長してゆく背景には、これまたプリミティヴ・アートが濃厚に作用しているようなのだ。横光の記述ではツァラ邸の客室にはアフリカ彫刻が置かれていたが、ツァラは初期から後年に至るまでプリミティヴ・アートについて評論を数多く書いており、彼の書斎にはアフリカオセアニアの彫刻や仮面が多数飾られていたことが知られている。以下、ツァラが創り上げた独自の言語世界とプリミティヴ・アートの関連について辿ってみることにしたい。

 周知のように、1916年にチューリヒで始まったダダは、1920年ツァラのパリ移住によって、パリに活動の舞台を移す。当初は華々しく展開されたそのパリ・ダダは、2年後のパリ会議においてツァラブルトンの対立が顕在化して急激に下火となってゆくのだが、この頃からツァラの詩にも、初期のダダ詩篇の甲高い解体的トーンに代わって新たな内的な言語構築が試みられてゆく。

 ダダから次の段階への移行期とも言えるこの時期(1922年)に、ツァラは、チューリヒ・ダダ時代に書いた第一詩集詩篇二十五』(1918年刊行)の草稿を20世紀文学資料の収集家ジャック・ドゥーゼに売却する際、自身の詩を振り返って、彼に宛てて次のような手紙を書いている。(ドゥーゼは仕立て屋出身のパリ・ファッション界の大御所であるとともに、20世紀の文学資料・美術の大収集家。彼の集めた膨大な資料からなる「ドゥーゼ文学図書館」は20世紀文学の宝庫的な資料館となっている。)

 『詩篇二十五』の大部分は1917年に書かれたものです。[……]『アンチピリン氏の最初の天上冒険』〔ツァラ処女作品であるダダ的笑劇、1916年刊〕に先立つことになっていた私の最初の詩集『ンパラ・ガロー』は、ただ一部、校正刷りでしか残っていません。 1916年の冬に、私は版を全て壊すことにしたのです。神経症にひどく悩んだ後、私は方針を全面的に変えたわけです。荒れた生活の後、どうなったのか全く分からぬまま、私は一種の神秘的な回復の発作に罹りました。その神秘感覚は、宗教的あるいは政治的な既成の考えに向けられたものでなく、抽象的で専ら脳髄的な性質のものでした。『ンパラ・ガロー』のその版は、スイスに置いてきたトランクの中にまだあるはずです。

 [……]

 私は反応を起すときは極端になるたちで、1916年の私の詩の全ては、それまでの甘ったるくてやたらに念入りな自身の詩に対する反動にほかならず、過度に粗暴で、目立って騒がしい叫び声やリズムが入っています。私はそれらの詩に大きな欠陥があることを認めます。それらは多くの場合、大仰で、朗読向けに作られ、外的効果を含んでいました。それ以来、悲壮なもの全てに、私は強い不快感を覚えるようになりました。

 1916年に、私は、文学のジャンルを壊そうとしました。私は、詩の中に、新聞の文章や騒音や音声など、詩の一部をなすには不適当とみなされていた要素を導入しました。それらの音響は(それは模倣された音とは何ら共通点はありませんでした)、絵の中に様々な素材を用いたピカソや、マチスや、ドランの探求と対応するものでした。すでに1914年に、私は、言葉から意味を奪い、響きと聴覚的対比によって詩に新しい全体的な感覚をもたらcすべく言葉を使用する試みをしています。そうした一連の実験は、私自身が創作した純粋な音によって構成され、現実へのいかなる暗示も含まない抽象詩「トトーヴァカ」が最後となりました。

 『詩篇二十五』の草稿に、1917年から1918年にかけて書いた数篇の詩と(そのうち3篇は未刊)、黒人詩に関するノートをお付けします。当時、私は黒人詩に大変関心を抱いており(私は40篇以上の黒人詩篇を訳しました)、詩に関するこのノートは『詩篇二十五』の序文となり得るものです。これらのテキストは、1916年から「ダダ宣言1918年」(1918年3月)までの時期の私の関心がどのようなものであったかを正確に反映しています。

 『詩篇二十五』が刊行された後、手紙を受け取る度毎に、私のそうした個人的な関心に興味を抱く人たちが何人もいることに驚いたものです。その人たちとは、アポリネール、ルヴェルディ、ブラック、ブルトン、スーポー、等々です。[……]*5(強調、ツァラ

 ツァラの詩的道程のみならずダダの歴史の上からも、そして20世紀の詩の生成過程の上からも一級の重要度を持つと思われるこの手紙から、ポイント箇所を取り出すとすれば以下のように要約されるだろう。

  1. 詩篇二十五』の前に、ツァラは最初の詩集『ンパラ・ガロー』を出すつもりであったが、ダダの体験を経る中で言語戦略の立て直しのため中断を余儀なくされたこと。
  2. ダダの実験に没入してゆく中で、ツァラは、「抽象的で専ら脳髄的な」、そして「一種の神秘的な」、精神的危機と精神的蘇生とが一体となったような特異な意識状態を経験したこと。そうした中で、自身の「それまでの甘ったるくてやたらに念入りな詩」や、そのような詩に含まれる意味や情感性の解体に向かったこと。
  3. ツァラの詩の実際のテイク・オフとなった『詩篇二十五』においては、黒人詩が強く作用していたこと。それについて、彼は、『詩篇二十五』の序文ともなる「黒人詩に関するノート」を書いていること。また、何と自身で実際に黒人詩篇を多数訳していること。
  4. ツァラにとってダダの試みとは、「詩の中に、新聞の文章や騒音や音声など」の要素をコラージュ的に導入し、「言葉から意味を奪い、響きと聴覚的対比によって詩に新しい全体的な感覚をもたらすべく」(強調、引用者)言語を構築し直すことであり、それは、ピカソマチス、ドランらの造形領域上の新たな探求と対応するものであったこと。ツァラの黒人詩に対する強い関心もそうした戦略と結びついており、彼の黒人詩篇の翻訳も、これまた絵画での試みと相応して、「純粋な音によって構成され、現実へのいかなる暗示も含まない抽象詩〈トトーヴァカ〉にまで進んだこと。
  5. こうしてチューリヒから発信された詩作品『詩篇二十五』は、「アポリネール、ルヴェルディ、ブラック、ブルトン、スーポー」ら、パリの詩人、画家たちに強烈なインパクトを与え、20世紀の詩と絵画の巨大な変革運動へと繋がってゆくこと。

少し説明を加えたい。

先ず『ンパラ・ガロー』についてだが、確かに、ドゥーゼ文学図書館には、この幻となった作品の草稿が保存されている。ただ、その一部は『詩篇二十五』や(後の詩集の)『われらの鳥たち』に収録されており、その他の草稿には執筆時期が1916年以前を示すものもあるが、これはその草稿の元となった詩が書かれた時期であって、それらはみな── ツァラのダダ詩篇について優れた実証的研究を著わしているブラウニングが、『アンチピリン氏の最初の天上冒険』以前にツァラが詩作品を出版しようとしていた形跡は確認できなかったと書いているように*6── ダダの体験以降に書かれたか、あるいはそれ以前のルーマニア時代の詩がダダ風に書き直されたものとみて間違いない。『ンパラ・ガロー』の詩篇は、1916年に始まったダダの実験の中で、「抽象的で専ら脳髄的な、一種の神秘的な感覚」などを経つつ『詩篇二十五』へと至るその一行程とみるべきだろう。

 では、彼が多数訳したと述べている黒人詩篇についてはどうか。2、3例を挙げてみよう。


くねくね這って身を投げる 前へ

体をねじって身を投げる 前へ

蛇の皮膚が 持ち上がる

空に向かって 持ち上がる

心臓 どきどきする 休みなく

尻尾 ぴくぴくする 休みなく

尻尾 消えようとする

尻尾 動こうとする

ほら 震えながら

(ロリトゥジャ族「蛇の唄」)*7

溶けた首吊り人が揺れ動くように

色彩は再構成されて空間のあいだを流れる

それは虹

クラリネットがいっせいに生えるところでは

光の幼虫がおまえの下痢のなかを循環する

(ントゥカ族「熱帯の冬」)*8

カ タンギ テ キヴィ

キヴィ

カ タンギ テ モホ

モホ

カ タンギ テ ティケ

カ タンギ テ ティケ

ティケ

(マオリ族「トトーヴァカ」)*9

 ツァラは、キャバレー・ヴォルテールチューリヒ・ダダ発祥の場となった文学風居酒屋)での「ダダの夕べ」で何度か黒人詩篇を朗読しており、またダダの催しでは、ツァラの同僚の画家マルセル・ヤンコが黒人仮面を創作したり黒人彫刻風の絵を描いていたことをはじめ、黒人の音楽やダンス、黒人アートが積極的に取り入れられていた。ツァラが黒人詩篇── 黒人アートの場合と同様、当時は、この「黒人」にはアフリカのみならずオセアニアも含まれていた── に惹かれたのは、ヨーロッパの詩にはないプリミティヴな感覚と自発的創造性をそこに見て取ったからであろうし、それは黒人アートの非具象的な造形パワーと相侯ってダダの創造原理とストレートに結びつくものだった。

 引用した最初の詩は、ややナイーブな感じはするが、その分、生き物というものが持つ不可思議なうねりやざわめきがじかに伝わってくる。人間という存在も含めた生命とそれを包む宇宙とのそうした交感が、3番目の詩── ツァラがドゥーゼ宛の手紙の中で「純粋な音によって構成され、現実へのいかなる暗示も含まない抽象詩」と語っていた詩篇で、原詩を音訳したもの── においては、意味に回収されない純粋な音の響きだけで表現されている。実際に音読してみると、確かに何かにしかとは還元されないが、シンプルでもあり謎めいてもいる音響の連鎖から、何やら呪文的な世界が立ちのぼってくる。ツァラはダダの言語戦略を「言葉から意味を奪い、響きと聴覚的対比によって詩に新しい全体的な感覚をもたらす」ことと述べていたが、そこにはこのように黒人詩がひとつの作用因として溶け込んでいたと考えてよいだろう。ところで、奇異なのは2つ目の詩「熱帯の夜」である。いわゆる「未開」の民が、このような言葉使いをするものだろうか。ヴォキャブラリーは── ヨーロッパ詩人が顔負けするほどに── 何とも「モダン」であるし、詩法的にも先鋭である。実を言うとツァラアフリカのある部族の一詩篇を、「翻訳」するのではなくそこから受けたインスピレーションをもとに、ダダ風にアレンジして自分流の詩へと書き直しているのである。ということは、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が黒人仮面から生まれたように、アポリネールの「太陽 首 切られて」が黒人彫刻にインスパイアされたように、黒人詩篇が直接的にツァラの言語感覚を揺り動かして、こうしたアヴァンギャルドな詩を書かしめたと言っても過言ではなかろう。

 ではツァラはこうした黒人詩篇をどこで見つけていたのか。それをダダ的捏造と見る向きもあったようだが、ツァラはそうしたダダイストのイメージとは正反対に、実に真摯に、チューリヒ図書館で、1906年ウィーンで創刊された「人類学言語学の国際雑誌」『アントロポス』からそれらの詩篇をノートに丹念に書き取っていたのである。人類学者や宣教師によって収集されたそれら黒人詩篇はそこでアルファベット文字に音声表記されてドイツ語フランス語へと翻訳されており、ツァラは、ある詩篇は(音声だけの場合も含め)そのままに、ドイツ語で書かれたものはフランス語に訳し直して、またある詩篇は(「熱帯の夜」のように)自由に「翻案」して発表していたというわけだ。そればかりではない。件のチューリヒ図書館ツァラは、フロベニウス(ドイツ人類学者、アフリカオセアニア研究で有名)を読み、また前述のブラウニングによれば*10カール・マインホーフの『アフリカ人の詩』(1911年)や、カール・シュトレーロウの『中央オーストラリアのアランダ族とロリトゥジャ族』(1907年)など、ドイツ人類学の文献をも渉猟してそこからも詩篇を引き出しているのである。チューリヒで誕生したダダがヨーロッパアヴァンギャルドの中核たるダダヘとテイク・オフしてゆく段階で、ふとしたきっかけからもたらされたであろうダダと人類学とのこうしたどこか運命的な出会いに、ある種の深い感慨を覚えざるを得ないのは筆者だけではあるまい。ひとつには、ヨーロッパ帝国主義的拡張をベースに確立していった人類学が、皮肉にもそのヨーロッパの世界像とそれを支える表象構造を突き崩さんとするダダに多大な栄養を補給したという点において。これと関連することだが、もうひとつには、文明の先端たるヨーロッパにとっての「未開」が、実はヨーロッパがそれまでの殻を脱皮してゆく新しい血液になっていったという点において。そしてさらには、いかにも「相互に遠く隔たっている」人類学とダダとが、文明上の地殻的な変動が進行していったヨーロッパの、しかもその一大爆発である第一次大戦からは隔離されたチューリヒという一都市のとある図書館で、まるでルヴェルディの詩法そのものの如く、ふとした弾みから、だが実のところは、あたかも起こるべくして起こったかのように、めぐり会ってしまったという点において。ピカソの「アヴィニョンの娘たち」からほぼ10年、アポリネールの「太陽 首 切られて」から4年、彼らと比べてその出会いは、個人的レベルから学術的と言ってもいい広がりへと進化(深化)しているが、ツァラにとってチューリヒ図書館は、ピカソにおけるトロカデロ博物館アポリネールにおける彼自身の書斎と同じく、他者との決定的な遭遇の場であったのだ。そしてこの出会いが原点となって、30年代シュルレアリスム人類学とのあのクロスオーバーへと繋がってゆくことは、ダダ・シュルレアリスムを背後から支えていた文化史的な軸としてしかと確認しておくべきだろう。

 ここで、ツァラの(自身の)詩を見てみることにしたい。黒人詩篇はそこにどう作用しているだろうか。

塩が 鳥の星座となって 綿の腫瘍の上に群がる

彼の肺臓の中では 海星と南京虫がシーソーをして

細菌が シーソー筋肉の椋欄へと結晶する

煙草は抜きで挨拶(ボンジュール) ツァンツァンツァ ガンガ

ブーズドウツク ズドウツク ンフーンファ ンバア ンバア ンフーンフア

大藻類 船を抱擁する 船の外科医 傷跡は清潔に湿って

燦めく光のらい懶惰

船である ンフーンファ ンフーンファ ンフーンファ

私は彼の耳に大蠟燭を突っ込む ガンガンファー バルコニー上のチューバとボクサー

 ホテルのバイオリンは炎のバオバブとなって

炎はスポンジ状に成長する

炎はスポンジである ンガーンガ 打ち叩け

梯子は血液のように上昇し ガーンガ

羊毛の大草原へと向かう羊歯 爆布へと向かうわが偶然

炎はガラスのスポンジ 藁布団は負傷だ藁布団だ

藁布団はワンカンカ アハア ブズドウツクと落ちる それは蝶々である

鋏 鋏 鋏 そして影である

鋏と影 鋏と船舶である

[……]

わが脳髄は双曲線へと向かい

彼の頭蓋の中で磁土がひしめく

                          (「風景の癩を病む白い巨人」)*11

 この詩は元は『ンパラ・ガロー』に入っていたのだが、書き直されて『詩篇二十五』(1918年刊行、執筆時期は1916年〜1917年)の冒頭に置かれたものである。その意味では、ツァラの詩が、ルーマニア時代の初期詩篇からダダの経験を経て新たに創出されてゆく第一歩がここに刻印されていると見てよい。

 先ず、形態的な面について確認しておくと、ダダ詩篇からーその後のツァラの詩の一貫した書法となるが一句読点は一切廃止され、各行は小文字で書き始められている。シンタックスは意図的に脱臼させられ、名詞は冠詞の省略が目立つ。造語も使用され、異郷的な音響がふんだんに飛び交う。各品詞は文法的機能から遊離して相互に流通し合い、各語はオブジェ化されて意味の脈絡は絶たれる。安東次男は、『詩篇二十五』のこうしたツァラの詩について的確にもこう述べる。

 1917年に入ると、ツァラの詩語はむしり取って一つの容器の中へ乱雑に投げ込んだ果実のような様相を呈する。造語が多くなる。動詞や冠詞の省略がめだつ。およそ言語が本来備えているはずの意味伝達の機能は無視されてしまう。そのかわり1つ1つのことばがそれぞれ独立した小宇宙を持って、それらのあいだから不思議に爽やかな抒情が、1人の人間の息の温度を伝えてくるところがある。*12

 つまりは、ツァラにとって詩とは一後にあの『近似的人間』でコスミックに集大成されてゆくように── 言葉が表象的な次元を突き破って自身の神経生理の波動や呼吸そのものと化してゆく働きなのだ。そこでは言葉は一種の磁気のようなものを吹き込まれ、「爆布へと向かうわが偶然」、「炎はガラスのスポンジ」、「頭蓋の中でひしめく磁土」等々、われわれの感覚に真新しい地図を書き込む独特のイメージとなって結晶してゆく。ダダの歴史を書いたシュルレアリスム系の詩人ユニエの表現を借りれば、それは「燃えていると同時に冷たく、[……]そのイマージュは単語を充電する交流のようなものを伝えている」*13

 こうしたツァラの詩に組み込まれている(「ブーズドゥツク ズドゥツク ンフーンファ ンバア」等々の)音響、これが先の「トトーヴァカ」や音訳された黒人詩篇に由来するものであることは明らかだろう。先に引用したドゥーゼ宛ての手紙で、彼はこう記していた。

 私は、詩の中に、新聞の文章や騒音や音声など、詩の一部をなすには不適当とみなされていた要素を導入しました。それらの音響は(それは模倣された音とは何ら共通点はありませんでした)、絵の中に様々な素材を用いたピカソや、マチスや、ドランの探求と対応するものでした。すでに1914年に、私は、言葉から意味を奪い、響きと聴覚的対比によって詩に新しい全体的な感覚をもたらすべく言葉を使用する試みをしています。そうした一連の実験は、私自身が創作した純粋な音によって構成され、現実へのいかなる暗示も含まない抽象詩「トトーヴァカ」が最後となりました。(強調、ツァラ

 こうした言葉から分かるように、それらの音響は、「言葉から意味を奪い」、「現実へのいかなる暗示も含まず」、「響きと聴覚的対比によって詩に新しい全体的な感覚をもたらすべく」用いられたものだった(またそれは、「絵の中に様々な素材を用いたピカソや、マチスや、ドラン」らのコラージュ手法とも相通ずるものだった)。それはダダの根本原理そのものに根差すものではあったが、彼自身が記しているように、チューリヒ図書館での黒人詩篇との出会いがそれと共鳴し、その波長を一層強化したことは間違いない(ツァラは「すでに1914年に」そうした言葉の使用を試みたと言っているが、かつてその萌芽は彼のペンに宿ったことはあったかもしれないにせよ、本格的な試みはチューリヒでダダが始まってからである)。

 ところで、注目したいのはツァラの言葉の中にある「全体的な感覚」という表現である。ダダというと一般的には既成のものすべての解体をめざしたアナーキーな運動のように言われるが、それはあくまでも皮相な見方にすぎず、画家として映像作家としてダダを生きたリヒターが、世界全体を理性によって説明しようとするデカルト的認識を批判しつつ、「理性と反理性、意味と無意味、計画と偶然、意識と無意識が共存して、全体の必然的部分をなすという認識。そこにこそダダは重点をおいたのである」*14と述べるように、また、当時、初めてダダについて鋭い理解を示した批評家リヴィエールが、ダダを「絶対的な心的現実の体験」*15と喝破したように、ダダとは実は人間の意識というものの「絶対的な全体性」を表現しようとする運動だったのだ。十二音音楽を創始した作曲家シェーンベルクに学び、画家ピカビア(ダダにおけるツァラの盟友)の伴侶ともなった音楽家ガブリエルビュッフェは、「あらゆる領域において、20世紀の主要な方向は<知覚し得ぬもの〉をとらえようとする試みであったように思われます」と語っているが*16、ダダは、その20世紀的動向の結節点であった。キュビスムが、あるいは他の潮流のアヴァンギャルド絵画も「四次元」をテーマとしていたことについてはすでに述べたが、そうした流れは大きなうねりとなってダダに流れ込み、ピカビアが「魂の四次元」と述べるように、またツァラが「私は不可視の次元を創り出し、それを描く」*17と語るように、ダダの掲げる「一切の白紙還元」あるいは「絶対的自由」とは、実は、従来の遠近法的世界像からは「知覚し得ぬもの」の全面的奪回のマニフェストにほかならなかったのである。

 ここで思い起こされるのは、マクルーハンの次の言葉である。

 「自然の外観」を提示しようとする試みは非文字文化のひとびとにとっては不自然そのものであり、外観の提示というかたちでは彼等の意識にはまったくのぼらない、という発見は、現代人の間にある心の動揺を引き起こした。というのは、視覚だけを抽出し、それによって現実を知覚認識するわれわれの慣習につきものの現実歪曲の現象が、数学、科学および論理学や詩といった言語芸術にも悪影響を与えていることになるからである。*18(強調、マクルーハン)

 マクルーハンによれば、セザンヌ以降のモダンアートが遠近法的三次元を捨ててプリミティヴ・アートのように二次元化していったのは、視覚だけに偏向してしまったヨーロッパ近代の世界の捉え方── 対象を専ら視覚的に「再現」する彼らの「リアリズム」はそこに由来する──を打破し、二次元的モザイク構造を通して、諸感覚の多元的共鳴を鳴り響かせるためであったということだが、であるとするならば、「知覚し得ぬもの」を奪還しようとするダダなどのヨーロッパアヴァンギャルドプリミティヴ・アートに衝撃を受けたのは、単にヨーロッパにない原初的感情がそこに宿っていたからなどではなく、その全感覚的な表現に接して自らの文化圏の表現形態の限界を悟らざるを得なかったというもっと深刻な背景があったはずなのだ。それをより広げてヨーロッパが、自らの認識様式、知のありよう、文化全体に対する動揺と反省と自己批判とを示したものが引用した文であろう。つまりヨーロッパは、最も合理的に体系化され、まさしく普遍的と自認してきた己のそれまでの世界認識の方法(科学、数学哲学、芸術)が、実はヨーロッパという地域に固有な文化的「慣習」にすぎず、従ってそれは普遍的であるどころかローカルな一現象であって、むしろ、視覚的な「外観の提示」だけに限定されて全体像を示し得ない「現実歪曲」なのではないかという深刻な反省に直面したわけである。「ダダ宣言一九一八年」の中でツァラが、「見えるものはすべて虚偽である」*19と断じ、「あらゆる人間よ叫べ、達成すべき否定と破壊の一大事業がある。掃討し一掃するのだ」*20と訴えて、一切のものの白紙還元を宣揚するのも、そうした「世界の歪曲」とそのことに鈍磨な当時の芸術・思想に対する直覚的な拒否反応であったと捉えれば、ダダが決して破壊のための破壊などではなかったことが見えてくる。そして一方、その同じ『宣言』の別の箇所で、ツァラが次のように宣していることを見逃すわけにはゆかない。

われわれに必要なのは、強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されない作品である。*21

知の働きのための唯一の基盤── アート*22

 これら2つの文は、ツァラにとってダダが何であったかを明白に示す。言葉が意味体系の網にかからないままに、図像が遠近法的リアリズム装置に組み込まれないままに、われわれの生とそれを浸している宇宙の波動を、ダイレクトに、コスミックに現出させること。知が、ある表象メカニズムによる世界の専有に向かうのでなく、アートを通して世界とのコミュニケートに向かうこと。ピカソアポリネールが、ヨーロッパ近代の表象様式から出発しつつ、プリミティヴ・アートとの出会いのもとでそこからの脱却を作品化していったとすれば、ツァラは、ダダを通して一気に、プリミティヴ・アート(黒人詩)とピカソアポリネールらの先端的表現とを合奏させ、人間の意識と感性の地図を大きく拡大したのだった。

 そのことを最も雄弁に語っているのが、彼の2つのエッセイ、「黒人芸術に関するノート」(1917年10月)と「黒人詩に関するノート」(1918年11月、これは『詩篇二十五』の草稿をドゥーゼに売却する際に添付され、その「序文」に相当するとされたもの)であろう。双方のタイトルのいずれにも「黒人」という語が付されているが、しかし実際には「黒人芸術」あるいは「黒人詩」そのものについて書かれたものではなく、内容はツァラが志向する詩、芸術に関する論となっている。つまりツァラは、「黒人芸術」、「黒人詩」という標題のもとで、芸術と詩についての自らのコンセプトを語っているわけだ。では、「黒人芸術に関するノート」から見てゆこう。

 新しい芸術は、先ず第一に、集中であり、十字をなす頂点へと向かう角錐の角度である。われわれは、純粋性のもとに、先ず対象をデフォルメして次にそれを解体し、対象に接近してその内部に入り込んだのだ。われわれが欲するのは直接的な光である。芸術は、その特殊な作業に従って、自身の陣営に、自身の領土内に集まろうとする。そこで絡み合っている奇妙な性格の影響はルネッサンスの裏地のぼろ布であり、それは、いまだにわれわれの隣人の魂に掛かっている。というのも、わが兄弟は、黒くて尖った秋の枝が生えた魂の持ち主だからだ。

 私のもうひとりの兄弟は、純真で、善良で、よく笑う。彼はアフリカオセアニア諸島で暮らしている。彼は頭部と身体の他の部分との因襲的な関係に思い煩うことなく、彼のヴィジョンを頭部に集中させ、粘り強く、鉄のように堅い木の中にそれを象る。人間は垂直に歩行する生き物であり、自然の中にあるものはすべて対称である、というのが彼の考えだ。作業が進むに従って、必然性の度合いに応じて新しい関係が整えられ、こうして純粋さの表現が生まれたのだった。

 黒色から光を汲み出そう。簡素で、豊かな、光り輝くナイーブさ。多様な素材、フォルムの均衡。釣り合いのとれた序列へと構築すること。

 眼── 蕾よ、大きく開け、丸く、尖って。私の骨に、私の信念に沁み込むために。私の国を歓喜と苦悩の祈りへと変えよ。真綿の眼よ、私の血の中を流れよ。

 芸術は、時代の幼年期においては、祈りであった。木と石は真実であった。人間の中に私は見る、月を、植物を、黒色を、金属を、星を、魚を。宇宙の諸々のエレメントよ、シンメトリックに流れ出よ。デフォルメすること、沸き立つこと。手は強く、大きい。口は内包している、闇の力を、不可視の物質を、善良さを、恐怖を、叡知を、創造を、火を。

今宵が白色を挽いてゆくのを、私ほどはっきりと見た者は誰もいない。*23

 注目すべきは、プリミティヴ・アートへの言及があるとはいえ、それが、それ自体として個別的に論じられるのでなく、ツァラ創造論の中に溶け込み、全体化されていることである。ツァラチューリヒダダイスト・グループの中でただ1人早いうちからアフリカの彫刻を所有していたといわれる。リアリズム的再現による絵画(「ルネッサンスの裏地」、「黒くて尖った秋の枝が生えた魂」)とは別次元に立つ芸術創造の原理が、そうした彫刻に彼が見て取った創造性と同じ地平から、詩的に凝縮されたリリックな表現で浮き彫りにされてゆく。「不可視の物質」を内包する「宇宙の諸々のエレメント」、そうした「黒色から汲み出される光」、「直接的な光」── それを「白色へと挽いて」、「フォルムの均衡」による「純粋さ」へと構築すること。ツァラの内部ではこうしてモダンアートプリミティヴ・アートとは、合奏しつつ溶け合って、あり得べき創造原理として歌われている。

 では、「黒人詩に関するノート」の方はどうだろうか。その続編とも言える「詩に関するノート」(1919年3月)と併せて見てみよう。

 諸々の力が集積し、そこから感覚と意味が実体化して噴き出てくる一点に、物質の不可視の光線を、隠されてはいたが適正で本来の関係を、純朴に、何の説明も加えずに、集約すること。

 イメージを、その重さ、色彩、素材に従って、フォルムや構成体へと、整え、調律すること。あるいは、色価を、持続的な物質の密度を、個人の決意と、感性の揺るぎなき強度によって、すなわち物質の変容を捉えるにふさわしい感度でもって、面に従って配列すること。霊感に近接して、そしてそこで苦痛で身をこすりながら、湧き上がる決定的な歓びに向かって。そして各要素が呼吸し始める時、ひとつの有機体が創造されるのだ。詩は先ず、舞踏や、宗教や、音楽や、労働の機能として生きるのである。*24

 芸術は絶えざる差異の運動である。[……]様々に変動するその連続を、瞬時へと凝縮する力、それが作品である。持続する球体、因果などなき力圧のもとで生み出されるヴォリューム。(強調、ツァラ

 比較という文学方法はもうわれわれを満足させはしない。イメージを創り出しそれを統合する方法はいくつかある。しかし各要素は、互いに異なり相隔たった領域から持ってこられるだろう。

 闇も、われわれの隣人の眼が眩んでしまうほどに純白で純粋な光であれば、創造力に富む。彼らの光の前方から先に、われわれの光が始まる。彼らの光はわれわれにとっては、霧の中で、不明瞭なまま醗酵する影の諸要素が、限りなく押し合いへし合いして踊る極微的なダンスにすぎない。物質は、純粋さとなって輝く時こそ、密度と堅固さを獲得するのではないだろうか。*25

 一読して気づくのは、ツァラの詩論と芸術論の深い親近性である。というかむしろ双方は同一の原理によって展開されているといってもよい。ツァラというとすぐあの破壊的ダダ運動のプロモーターと思われがちだが、実はこのように20世紀アヴァンギャルドの創造原理の正統的な体現者であったのだ。そしてそれは「黒人詩」という標題のもとで展開されているとともに、そこから得たインスピレーションを発条として、20世紀的詩言語の最も先端的なコンセプトにまで高められている。「持続する球体、因果などなき力圧のもとで生み出されるヴォリューム」── 、これは、詩の言葉とは何かを表象するスクリーンとしてあるのではなく、それ自体の力勢によって意味作用(絵画でいえば遠近法的図像)を超えたもっと物質的な力(「持続する球体」)、あるいはひとつの時空(「因果などなき力圧のもとで生み出されるヴォリューム」)として立ち現れる、ということをマニフェストしたものだろう。そのように直接的に発現する「われわれの光」は、「比較」やら「アナロジー」やら「メタファー」によって何かを映し出す(表象する)「彼らの光」とは根本的に別次元にあるものであり、意味を超えているゆえに確かにそれは「永久に理解されない」が、しかし、「強靭で、直截で、的確で」あるがゆえに、感覚と意識に、ストレートに、垂直に、働きかけてくるのだ。さらにつけ加えておけば、ツァラはあのルヴェルディの詩法と同じように、「比較という文学方法はもうわれわれを満足させはしない。イメージを創り出しそれを統合する方法はいくつかある。しかし各要素は、互いに異なり相隔たった領域から持ってこられるだろう」と述べているが、このテキストが実際に書かれた時期(1917年3月)はルヴェルディの「イメージ論」(1918年3月)よりも早く、ここにもツァラ先進性が見て取れる。

 ところで、詩の言葉が、「強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されない」ものであるとすれば、それは、ひとつの「時空」(「因果などなき力圧のもとで生み出されるヴォリューム」)であると同時に、また一方では、ひとつの「呪文」でもあるということだろう。悟性的にはまるで「永久に理解されない」語句の連なりではあるが、燦めきながら、うねりながら、「強靭に、直截に、的確に」、感官の中枢までをも揺さぶってやまない妖しい共鳴体。「太陽 首 切られて」という詩句が、黒人彫刻という「呪物」にインスパイアされ、そこに新しい詩学の源泉を見たアポリネールが、言葉でもってつくり上げた(ヨーロッパ側からの)「呪物」であると前に述べた。そしてそれが「呪物(フェティッシュ)」であるのは、そこから強烈に発現するイメージが、遠近法的な意味表象のスクリーンにおさまらないからであり、かつ、まるで「フェティッシュ=妖術」(すでに述べた通り、この語は、アフリカ表現様式ヨーロッパ表象装置に回収できないがために作り出されたヨーロッパ産の「クレオール語」である)のように、意識の深部に蠱惑的に作用するからである。ツァラ詩学が、アポリネール詩学と同じく黒人芸術から霊感を受け、それをより先鋭に、より高次元へと展開したものであることを考えれば、ツァラの詩が(あの『近似的人間』がみごとに体現しているように)、コスミックに生成する壮大な呪文として、意識を真新しい色で染め上げてゆくひとつの時空として立ち現れていったのは、むしろ当然な流れであったとも言えよう。

 さて、ここで、こうしたヨーロッパアヴァンギャルド詩学に深くインスパイアされつつ(まさしくアポリネールツァラが黒人アートに深くインスパイアされたように)、ネグリチュードというコンセプトのもとに独自の詩学を打ち立てていったエメ・セゼールに触れつつ、アフリカの詩や言語観について、ヤーンの著作『アフリカの魂を求めて』に拠りながら、少し述べてみたい。驚くべきことに── いや、当然と言うべきか── アフリカ詩人にとっても、詩はまさしく呪文なのである。

 純粋の現在なるものが存在するばあいでさえ、それは叙述とか描写とかの問題ではなく、呪文の問題なのである。*26

 アートの場合と同様、そもそもが詩の言葉は(さらには、アフリカ的思想によれば、言葉〈ノンモ〉そのものが)、本来からして「叙述とか描写とか」に従事するものではなく、感覚の彼方にある何かを呼び覚まし、招来させる宇宙の動勢の種子なのであって、呪文であること(=「強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されない」こと)は、まさにその正当なありようなのだ。つけ加えて言えば、引用文中の「純粋の現在」とは、ツァラが語る「様々に変動するその連続を、瞬時へと凝縮する力、それが作品である」(強調、ツァラ)という言葉と照応しよう。

 さて、この文章はさらにこう展開される。

 呪文を唱えることは、同時に、変形することである。[……]詩にあっては、ことばが、ことばによって生み出されるあらゆる「物」の力を、これまたことばによって生み出された他のもろもろの力とある種の緊張関係に置くことによって、変えるのである。[……]空間と時間── すなわちバントゥ── もまた変形せしめられる。[……]このように変形(メタモルフォーシス)の呪術は決して熄むことがない。ノンモ、ことば、は、つぎからつぎへとイメージを創り出し、それらのイメージと共に詩人を変形せしめるのである。というわけは、詩人自身も、物に接近して自らは変わらないということはないからだ。詩人もまた、その性質上、もろもろの力のなかの1つの力である以上、詩人はそれらの力と共に変化し、それらの力がもとで変化するのである。「事物」は詩人と同類であり、詩人は事物と同類なのである。したがって、詩人もまた、不断の変形という、同一の呪術にしたがうのである。*27

 「呪文」あるいは「呪術」という語が使われているために、人によってはいささか奇異の念を抱くこともあるかも知れないが、これらの語を言葉の根源的な力すなわち「言霊」あるいは「ヴェルブ」と置き換えてみるならば、ここで述べられていることは、ヨーロッパ近・現代詩の先端的詩論そのもの、また個我の捉え方においては現代思想の考え方そのものと言ってもいいだろう。詩的言語は時空を新たに創り出すという点に関しては、「空間と時間──すなわちハントゥもまた変形せしめられる」と表現されているし、言葉の詩的な働きにとって何よりも本質的な点、すなわち、それまであった存在を新たな存在へと切り開いてゆく詩の機能(ツァラは後年それを「詩は、ある面から他の面への転換作用である」*28と表現する)が、「変形(メタモルフォーシス) 」という語によって的確に概念化されている。さらに意味深いのは、言葉(〈ノンモ〉)がイメージを次々と創り出すことによって世界を変形せしめるとともに、そのイメージ作用によって詩人自身も不断に変形してゆく、と述べられていることである。これは、遠近法的表象を支える消失点が世界を超越的に見渡す固定的な自我であったのと対照的にピカソ絵画が多視点空間であったことと同様に、表現主体もその表現行為においては自らを複数性として開いてゆくということであり(ツァラ自身、ダダ時代の自らの作品に関して「私は自身の個性を滅却し、非個我的になることをいつも夢見た」*29と語っている)、ドゥルーズが「〜に成る」と捉えるような生成としての個我のありようと、重ね合わせてもよいほどに相似している。

 こうした事態は一体どう見るべきなのか。ヨーロッパアヴァンギャルドと黒人アート、黒人の言語コンセプトとの通底は驚くほどである。キュビスムやモダ二ズムの過激派的総結集であるダダなどアヴァンギャルドによるヨーロッパ表象の根本的な改変が、「未開」とみなされていた地域の呪文やフェティッシュ=呪物と結びついて、それまでとは全く異なる新しい世界像や表現形態を切り開いてゆくというパラドックス、その不思議さ── 。いや、ひょっとしたら事態は逆で、ヨーロッパは近代芸術、近代科学、近代国家、近代人を生んで、文明の覇者をもって君臨はしていたが、しかしそうした表舞台の背後では、世界と人間をトータルに捉えるという観点からは、むしろ「退歩」していったのではないかという、これまた実に感慨深いもうひとつのパラドックス── 。とまれ、ツァラの「黒人芸術に関するノート」、「黒人詩に関するノート」という一見何気ないタイトル、そこにこめられた内容を先鋭にスローガン化した「われわれに必要なのは、強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されない作品である」というアヴァンギャルド的「呪文」の宣揚からは、そうした文化史上の巨大な深海流が浮かび上がって見えることを確認しておこう。

 では、そのようなヨーロッパアヴァンギャルドを経ることでアフリカ的詩魂を開花させていったセゼールの詩と詩論を見てみよう。先ず、短いものではあるが、先の引用において原著テキストの中で触れられている詩を引いてみる(訳はセゼールの原文を参照して多少修正してある)。

 そして黒人たちは一耳元で肺一杯に宝石たちが歌うのを聴きながら── 灰燼のなかに探しにゆくのだ、もろもろの月をつくるための雲母をつくるための韓を、呪術師たちが星々のあの親密なる獰猛さをつくる薄片状の粘板岩を。*30

 やはりここでも「呪術」がキータームとして登場する。しかし、今やわれわれはこの語が意味するところを知っている。呪術とは、世界を織り上げてゆく言葉の物質的な力の別名であり、呪術師とはその言葉の聖なる使い手、つまりは詩人たちなのだ。であれば、冒頭にある「黒人たち」をあえて元来の黒人に限定する必要もあるまい。それは── 黒人たちが圧制に抗して言葉によって新たに世界を獲得してゆくように── 自らの内部に意識の新しい次元を開いてゆこうとする者たちの謂でもあるだろう。一読して感得されるように、セゼールの詩はアフリカ的語法に色濃く彩られながらも、彼の詩法そのものは、20世紀詩学のセゼール的展開と見ていいものである。ではそれはセゼールにおいてどう結実していったのか、やや長くなるが、彼の詩論を読んでみたい。

 事物にそれぞれふさわしい名を与えることによって、しかと差異化されていない灰色の世界に、私は、魔法にかかった世界を、「怪物たち」の世界を浮かび上がらせます。それは「諸々の力勢」が支配する世界であり、わたしはそれを呼び出し、それに訴えかけ、そしてそれを招き寄せるのです。[……]

 アフリカ的に解釈せねば!

 事物のそれぞれに対し、植物相のもとに、あるいは動物相のもとに、それらの独特さに応じ、あり得べき名を与えることによって、私は、事物の力に参与し、事物の力を帯びるのです。

 イメージに関して言えば、それは別のものです。イメージは事物を結び合わせるのです。それは事物の未知の顔を私に提示しつつ、その事物が有する特異性を顕在化させます。しかし事物相互を対置させることによって、それらの関係を顕現することによってそうするのであり、もはや事物の存在ではなく、事物の潜在的な力を定立します。つまり、イメージは事物に対し、自身を超出してゆく根源的な力を付与するのです。詩にとってイメージが本質的であると言うのが極めて正当なのは、こうしたゆえにほかなりません。

 要するにそれはリズムなのであって── 私はリズムから話を始めるべきであったのかもしれませんが── 、というのも、煎じ詰めて言うならば、リズムのざわめきが最初に伝播してくるものこそ、本源的な情動であり、祈願にして神命であるからです。リズムが、呼び寄せては手なづけ、誘い出し、そして一種の必然として選び取ってゆく単語や言葉に先立って、そうした過程の中で、私には詩の形が見えてきます。いや、形(曖昧な言葉ですね)というよりはむしろ構造という方が適切でしょう。自身の設計図を書き取ってゆく詩の構造が、つまり、本能的にとらえられたその有機的な全体性が、見えてくるのです。

 それはどこからやって来たのでしょうか。外部から人工的に押しつけられたのでなく、深部から噴き出てくるのです。それは、昼へと跳躍する血潮に満ちた夜であり、生命の速度であり、その断続音であり、捕捉された語句の音楽ではなく、私の最も深い内的震動です。スーダンの彫刻家が仕事をするのは夜だけで、しかも歌いながら、彫像に呪文の言霊(ヴェルプ)を吹き込みながら、作業するのはこうしたためです。

 では、詩とはいかなるものなのか。常にこの問いに立ち返らねばなりません。原初のカオスから湧き起こる火山のように、内的な虚空から噴き上げて、われわれの力の場となるもの。人が指令を発する至高の状態。魔術、そう、それは魔術なのです。*31(強調、セゼール)

 このテキストは、著名なセゼール研究者であるリリアン・ケステロートに宛てた私信として書かれたものである。硬質に彫琢され、深い思考が緻密な腰となって織り込まれてゆく濃密な

文体を通して、「呪文」としての詩がいかなるものであるかが── そして結語で述べられているように、呪文からさらに「魔術」へと敷行されて── 、哲理的に、官能論的に、宇宙学的に語られている。ここにアフリカ性あるいはネグリチュードを見て取ることはもちろん可能であるし、ある視野からはむしろそう読み込むべきではあるとはいえ、しかし本書の主題から見るならば、より本質的な点は、すでに何度か指摘してきたように、もはやアフリカとか黒人とかが問題なのではなく、ヨーロッパアヴァンギャルドの中心的存在であるツァラが黒人芸術を経由して先鋭化させた詩的世界と、一方、ネグリチュードを提唱するセゼールが、シュルレアリスムなどヨーロッパアヴァンギャルドを経由して構築して行った詩的世界のそれぞれにおける異種交配性であり、それらのクロスオーバー的力線であり、そしてその双方の相互浸透性であり、そうして形成されていった20世紀の精神地理学であると言わねばならない。

 実際、ツァラの詩論・芸術論とセゼールの詩論とを読み比べてみると、もちろん双方の文体の生理的な相違はあるとはいえ──ツァラは鉱物的であり、セゼールは肉感的である── 、論点の共通性に驚かされる。主なものとして挙げれば、詩的イメージが比喩や象徴ではなく、異質なもの相互のクレオール的結合による新たな現実の創出であるという点、そしてそれが、「因果などなき力圧」(ツァラ)あるいは「力の場」(セゼール)と言われるように、呪文的であると同時に物質的な力勢として立ち現れてくるという点、だが一方で、それは暴発的であるようでいてしかし、「純粋さとなって輝く物質の密度と堅固さ」(ツァラ)あるいは「自身の設計図を書き取ってゆく詩の構造」(セゼール)とあるように、実は内的な有機性をも蔵しているという捉え方、等々は是非とも確認しておくべきだろう。そしてそれらを結び合わせている思想こそは、詩とは、芸術とは、作品とは、世界の表象などではなく(ましてや世界の特権的な表象ではなく)、世界への参与であり、世界の潜在的な力を帯びることであり、世界の組み直しにほかならないというものである。それまで普遍的であることを自任してきたヨーロッパ表象システムが、実は地域的なものであって、アフリカという外部と繋がったピカソアポリネールツァラらによって内部から崩壊を余儀なくされていったこと、そしてそこで形成されていったヨーロッパの新しい詩学芸術作品が、シュルレアリスムを通りセゼールを介して、今度はヨーロッパの側からカリブ、アフリカに再接続することで、より広汎な流れへと再構成されていったこと、ツァラとセゼールを結んでいる線は、20世紀の精神地理学のこうした文化横断のベクトルなのである。

 ここで再度ツァラの『詩篇二十五』に戻って、彼の詩のもうひとつの特質について触れておきたい。

h・アルプに

真夜中の底の花瓶に 幼児を

そして傷口を 容れる

羅針盤には 美しい爪の生えたおまえの指がはりつき

羽毛の内部で雷鳴がとどろく ごらん

玲羊の四肢からは 悪水が流れ出す

下部で苦悩する きみらは見つけたか 牝牛を 鳥を

渇き 檻の中の孔雀の胆汁

亡命中の王は 井戸の輝きを浴びて ゆっくりと

野菜園で ミイラになる

破砕したバックを播け

蟻の心臓を植えよ 辺りには塩の霧 ランプは空に尻尾を刷り込む

逃げ去る鹿たちの腹の内部には ガラスの破片

黒く短小な枝々の先端で ある叫びに向かって*32

 こうした詩篇や、先の「風景の癩を病む白い巨人」(8〜9頁)などを収めた彼の処女詩集詩篇二十五』に関して、当時のある書評が、ツァラの詩言語の特性を明敏にキャッチして、「ツァラは一種のイドあるいはヴォラピュークを創り出し[……]、彼の表現の豊かさは、読者がそれを作品から汲み出す度合いに応じてはじめて姿を現わしてくる」*33と述べている。イドあるいはヴォラピュークとは何か。人工国際語と言えば今日ではすぐエスペラントの名前が浮かぶが、イドもヴォラピュークもその人工国際語のひとつであり、ヴォラピュークは1879年にシュライヤーによって考案され、イドはザメンホフが1887年に発表したエスペラントを1907年にクーチュラとボーフロンがより簡略化したものである。では、なぜツァラの詩が「人工国際語」なのか。

 そのわけは、実は、彼が詩人として選びとった「トリスタン・ツァラ」という固有名ルーマニア生まれの彼の本名はサムエルローゼンストック)に織り込まれている。「トリスタン・ツァラ」とは、彼自身も認める通り、ルーマニア語の「トリスト・ウン・ツァーラ」すなわち「故国にあって悲しき者」に由来し、ツァラの詩的生涯と詩言語に照らしてこれを見るならば、先ず第一には、彼が故国ルーマニアを捨ててチューリヒへ、そしてパリヘと、どの国にも属さずひたすら絶対的異邦人として生きようとした彼の生のスタンスが込められていようし、さらには、詩というものが「自国語の中に異邦語を創り出す」働きである限りにおいて、それは同時に、「故国すなわち自国語にあって悲しき者」をも含意していよう。これは、第一義的には、彼が母語ルーマニア語を捨てて外国語であるフランス語を自身の言語としたことと関連しているが、すでに何度か述べてきたように、彼の詩的テーゼが「強靭で、直截で、的確で、かつ永久に理解されない作品」であった限りにおいて、より本質的には、ツァラの詩言語が、いかなる国語にも属さず、かつ「強靭で、直截で、的確に」作用する一種の絶対的異邦語へと向かって直立していたことと結びついている。当時パリで詩の新たな展開を模索しつつあったブルトンアラゴン、スーポーらの後のシュルレアリストにとって、チューリヒから届くツァラ詩篇はどこかランボーロートレアモンの再来を思わせるような啓示を与えていたらしいのだが、それは、彼らのいわば本流のフランス語に比して、ツァラの詩のフランス語がそうした異性体的響きを濃密に帯びていたがゆえであろうことは想像に難くない。

 とすれば、文字通りツァラの詩的テイク・オフを印した『詩篇二十五』が、「一種のイドあるいはヴォラピュークを創り出した」と称されたことは、ツァラの言語の核心を衝いたものであったと言ってよい。ルーマニア語母語とし、フランス語ドイツ語母語のように使いこなし、英語もイタリア語も解し、そして黒人詩篇を通じ非ヨーロッパの言語をも内部に響かせようとした詩人が創り出した、絶対的異邦語でありかつユニヴァーサルな「国際語」でもある新しい言語、「ツァラ語」。それは表皮はフランス語で覆われてはいるが、内的には統辞論的にも、意味論的にも、語彙論的にも、いわば多声的な質が鳴り響いている。ひとたびそうした語法に慣れれば、つまり言葉を(その自国たる)意味へと回収するのでなく、自己を(自国を、自国語を)他の何かへと開いてゆく力線として構築する語法に慣れれば、そのツァラ語はどのような母語を持つ者とも、もちろん日本語母語者とも豊かに交信し合う。それは一見したところでは見慣れない肌理をしているが、自己を異化する声を糧として欲する者には誰に対しても開かれているのである。そこではそれぞれの者がそれぞれに応じて、自らの裡に眠っていたヴォラピュークと出会う。『詩篇二十五』について評した件の批評家が、「彼[ツァラ]の表現の豊かさは、読者がそれを作品から汲み出す度合いに応じてはじめて姿を現わしてくる」と語っていたのは、ツァラ語が内包するそうした多元的交信力を直観したからにほかなるまい。

 言葉がヴォラピューク化してゆくという事態、言い換えれば、言葉が、言葉の故郷(自国)たる意味へと向かうことなく、絶対的異邦語として「永久に理解されない」ままに、しかしそれを読む者にとっては「強靭で、直截で、的確な」何ものかとして交感されるという事態とは、存在論的には自己が他者というトポスによって絶えず切り開かれてゆくということであり、言語表現論的には、言葉が何かの表象から離脱して、感覚にダイレクトに作用する物質的な力勢として立ち上がってくるということである。ダダの体験を経た後のツァラの詩的営為は、こうしたツァラ語の特性に一層のヴォリュームと映発力を付加しつつ、言語の壮大なコスモロジーの創成へと向けられる。彼の代表作『近似的人間』(1931年)は、その集大成的な結実となるだろう。

私のような 読者よ君のような そして他の者たちのような 近似的人間

騒がしい肉と 意識とこだまの堆積*34

おまえは他の者たちと向かい合っているおまえ以外のひとつの他者*35

私は言葉がその核のまわりに織る熱のことを考える

ひとがわれわれと呼ぶ夢*36

 3つの詩句とも『近似的人間』からの引用である。「言葉がその核のまわりに織る熱」によって、他の何ものかへと向かう複数性として現われてくる「私」── 、それは振動状態としての私であり、他者との共鳴体としての私であり、そうであるがゆえに、それはまた、常に「近似的」に私たらざるを得ないわれわれ「人間」という存在のありようそのものである。そして言葉が、意味の重力圏を脱出するベクトルを帯びた「熱」を「その核のまわりに織る」とき、その言葉を滋養として生きる者は、故郷や起源に根拠を持つ近代的な個我をはるかに越境して、何かへと接続し合う「われわれ」として現われてくる。それは人間という「意識とこだまの堆積」が交差し合う場であり、「言葉の熱」が織り上げる「夢」の場でもあり、そうである限りにおいてそれはまさしく世界のつくり手である。

私について言えば、私の生は1冊の開いた(ウヴェール) 本である。私は開いた生に自らを開く(ウヴェルト)、私は生の開放(ウヴェルチュール)に自らを委ねる。緑色(ヴェルト)の迅速な生に陶酔して。*37

 ツァラは『近似的人間』と並ぶ代表作『反頭脳』(1933年)の中でこう書いている。マラルメ的に世界を一冊の書物に封印するのでなく、自らを「一冊の開いた本」として世界に参入すること── 。黒人詩も、そしてほかならぬダダも、まさにそのようにツァラのページに書き込まれたのであろうし、そのことによって、ツァラという一冊の本とそこでの公用語であるツァラ語は一層開いたものとなり、「おまえは他の者たちと向かい合っているおまえ以外のひとつの他者」と歌われるように、その一冊の本は、多元的な声と強度とが響きあう交感体となっていったのだった。

*1横光利一厨房日記』。定本『横光利一全集』第七巻,河出書房新社,639〜641頁。なお,漢字は新字体に,仮名は新仮名づかいに直してある。

*2横光利一欧州紀行』。前掲『横光利一全集』第13巻,349〜350頁参照。

*3:Tristan Tzara: Qiuvres completes, tome 2, Flammarion, Paris, 1977, p. 81.

*4:Tristan Tzara: L'homrm approximatif, Gallimard, coll. Poe ?sie, Paris, 1968, p. 12. ユベール・ジュアンの序言の中に引用。

*5:Michel Sanouillet:Dαda a Paris, Jean-Jacques Pauvert, Paris, 1965, p. 571.

*6:Gordon Browning: Tristan Tzara: The Genesis of the DadαPoem or from DADA to AA, Xerox University Microfilms, Ann Arbor, U. S. A., 1972, p. 254.

*7:Tristan Tzara: Qiuvres completes, tome 1, Flammarion, Paris, 1975, p. 452. (以下,ツァラの同全集を,O. C, t. 1のように略記)

*8:Ibid.,p. 453.

*9:Ibid.,p. 454.

*10:op. cit・> pp. 42-43・

*11:O. C, t. 1, p. 87.

*12:安東次男「フランス詩史IV ダダ,シュルレアリスムの流れの中でー」,『世界名詩集大成5 フランス編IV』,平凡社1959年,418頁。

*13:ジョルジュ・ユニエ(江原順訳)『ダダの冒険』,美術出版社1971年,41頁。

*14:ハンス・リヒター(針生一郎訳)『ダダー芸術と反芸術』,美術出版社,1970 (1966)年,102頁。

*15:Jacques Rivie ?re: “Reconnaissance a Dada", N.R. F., ao倉t 1920, p. 219.

*16:谷川渥『表象の迷宮−マニエリスムからモダユズムへ』,ありな書房,1992年,44頁に引用。

*17:O. C, t. 1, p. 553.

*18:マーシャル・マクルーハン(森常治訳)『グーテンベルク銀河系一活字人間の形成』,みすず書房,1986年,85頁。

*19:O. C, t. 1, p. 363.

*20:Ibid., p. 366.

*21:Ibid., p. 365.

*22:Ibid., p. 365.

*23:Ibid., pp. 394-5.

*24:Ibid., pp. 400-1.

*25:Ibid。pp. 404-5.

*26:ヤンハインツ・ヤーン(黄寅秀訳)『アフリカの魂を求めて』,せりか書房,1976年,154頁。

*27:同書,154〜155頁。

*28:O. C, t. 5, p. 75.

*29:O. C, t. 1, p. 262.

*30:Aimg Cgsaire: La Poesie, Seuil, 1994, p. 196.

*31:Lilyan Kesteloot: Aime Cesaire, Seghers, coll. Po&tes d'aujourd'hui, Paris, 1966, pp. 205-6.

*32:O. C, t. 1, p. 106.

*33:Ariste, oct-nov. 1918. In: O. C, t. 1, p. 647.

*34:O. C, t. 2, p. 84.

*35:O. C, t. 2, p. 89.

*36:O. C, t. 2, p. 82.

*37:O. C, t. 2, p. 374.



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