Hatena::ブログ(Diary)

garage sale このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-10-28

生きられる空間−空間を考えるための方法論的観点 田中彰吾

本家サイト

 学校空間のあり方について考察することは本誌全体に共通の課題であるが、その前提となる「空間」について、私たちはどのような観点から、どのように理解しているだろうか。改めて自覚する機会は少ないかもしれないが、論者が暗に前提としている空間理解は、現状の学校空間について考察するうえで、あるいは、望ましい学校空間のあり方を構想するうえで、陰に陽にさまざまな影響を与えることだろう。それゆえ、空間の見方そのものについて方法論的な考察を加えておくことは、本誌にとって必要な作業だと思われる。ここでは、現象学によって提示されてきた「生きられる空間」の概念について論じることで、そのような考察の一助としたい。


1.数学的空間と生きられる空間

 「生きられる空間 l’espace vécu 」は「生きられた空間」とも訳される。もともと、哲学者フッサール( 1859-1938 )やベルクソン( 1859-1941 )の時間論に影響を受けた精神医学者E・ミンコフスキー( 1885-1972 )が、「生きられる時間」と対にして提示した概念である。彼は次のように述べている。

生きられる時間が存在するように、生きられる空間も存在する。空間はわれわれにとって決して幾何学的な諸関係に還元されるものではない。幾何学的な関係は、われわれが単に好奇心の強い観客や学者の立場に立って、あたかもわれわれは空間の外にいるかのようにして、組立てるところの関係である。しかしながら、われわれは空間の中で生きそして行動しているのである。( Minkowski, 1933, p.367, 強調原文)

 この引用から分かるように、生きられる空間の概念において問題となるのは、たんに外部から観察されるのではない、私たちがそこで生きているところの空間である。

 ミンコフスキーの著作では、時間論の展開としての精神病理の記述が主に取り上げられ、空間論は萌芽的なものにとどまっていた。その後、この概念は哲学もしくは現象学上の問いとして改めて取り上げられ、メルロ=ポンティ( 1908-1961 )が身体性や知覚との関連で問題にした( Merleau-Ponty, 1945 )。また、時間性を問うたハイデガー( 1889-1976 )に師事したボルノウ( 1903-1991 )は、人間存在の根源的な次元としての空間性を正面から論じている。彼の著作『人間と空間』( Bollnow, 1963 )は、生きられる空間について包括的・体系的な考察を提示したこの分野の古典的な文献である。日本では、「身」の哲学を構想した市川浩( 1931-2002 )が、空間論についても優れた考察を残している( 市川, 1984; 市川, 2001 )。

 生きられる空間の概念に含まれる最も基礎的な問題意識は、個々の主体によって体験されている具体的な空間がある、ということである。時間について、客観的には同じ1時間でもそれが長くあるいは短く体験されたりするように、空間についても、たんに客観的に測量されるのとは異なる次元がある。私たちは通常、空間という言葉から、内部に何もない空虚な広がりを思い浮かべることが多いが、そうした空間のイメージは、生きられる空間からはきわめて遠い。そのような空間は、誰によっても生きられてはいないからである。ボルノウは、先の著作において、客観的に測量されるだけの量的な空間の範例を「数学的空間」に見出し、それとの対比において生きられる空間の特徴を記述している。まずは、この点について検討してみよう。

 数学物理学など、自然科学の分野で空間が問題にされる場合、一般に、原点で直交する3本の座標軸を持つ広がりとして空間が扱われる。X・Y・Zという座標軸で表現される図のような空間が、数学的空間の典型的なモデルである(図1)。概念的には、デカルトの座標系とニュートンの絶対空間を折衷的に表現した空間であると言ってよいだろう。

 数学的空間の最大の特徴は、その均質性にある。例えば、図1では原点が(X,Y,Z)=(0,0,0)という数値で表現されるが、その原点は、(5,7,2)という点や(9,4,6)という点と本質的に異なるものではない。代入される数値が異なるだけであって、原点をどこに置くかはもともと任意だからである。同様に、3本の座標軸にも質的な違いはない。座標系全体を回転させれば、X軸・Y軸・Z軸はそれぞれ入れ替えることが可能である。つまり、数学的空間においては、あらゆる点、あらゆる線は対等な価値を持っており、質の違いは存在しない。空間は、均質であり、無意味である。

図1 数学的空間のモデル

 これに対して、生きられる空間は、内的に分節された構造を持つ(なおボルノウは、語義の正確性を求めて「生きられる空間 l’espace vécu, der gelebte Raum 」を「体験されている空間 der erlebte Raum 」と呼び直しているが、ここでは問題にしない)。生きられる空間は、主体の身体を通じてその内側から生きられているのであり、空間を体験している主体の居場所が空間全体の原点に当たる。主体にとって、原点はつねに「ここ」と呼ばれる場所、自己の身体がある場所である。空間はつねに「ここ」と「ここ以外」という差異とともに与えられる。「ここ」「そこ」「あそこ」という遠近感のあるパースペクティヴとともに、人は空間を体験し、認知している。

 座標軸についても顕著な違いがある。生きられる空間には、人間の身体および姿勢に由来する自然の座標系があり、入れ替え不可能な質の違いがある。先の図に示されたX、Y、Zという抽象的な座標軸は、身体を原点において考えれば、それぞれ「左右」「上下」「前後」という独自の意味を持つ方向として経験されている。左右は上下と交換できるわけではないし、上下は前後と交換できるわけではない。身体を通じて生きられる空間は、必ず、上下・前後・左右という内的に分節された方向性を持つ。


2.前後・上下・左右−自然の座標系

 ここで、生きられる空間の3つの方向性とその意味について概観しておこう(詳しくは田中, 2008を参照)。第1に、前後である。前と後ろは、行動する身体にとって最も分かりやすい対照性が現われる方向である。歩く、走る、物に手を伸ばす、他者にはたらきかける等、私たちが行う行動は、基本的にはすべて前に向かってなされる。後ろは、運動や行動を起こす方向にはならない。振り返って身体の向きを変えない限り、そちらに向かって行動は起こせない。知覚可能性から見ても事情は同様である。目・鼻・口などの知覚器官が集中する顔のある側が前であり、後ろにはその種の器官はない。前は、目で見ることができ、手を伸ばせば対象に届くのに対して、後ろは眼に見えないし手も回らない。はっきりと分節して知覚できる方向が前であるのに対して、後ろは明確にはとらえられず、漠然とした気配のようなものを背中で察するしかない方向である。

 つまり、行動可能性や知覚のパースペクティヴにおいて、前とはいわば「開かれた」「明るい」空間であるのに対して、後ろは「閉ざされた」「暗い」空間である(市川, 1984)。前には前景が広がり、前途が開けている。それはしばしば希望をもって前途洋々とか前途有望などと表現される。人が希望を抱き、明るい気持ちになる方向が前である。そのようなポジティヴな気持ちや態度は前向きと言われる。前が展望的でパースペクティヴが開けている可能性の空間だとすれば、後ろは回顧的で、レトロスペクティヴな空間である。振り返るか後退することでしか、われわれは後ろの空間とかかわれない。後ろ向き、後悔といったネガティヴな気持ちとの結びつきも深い。時間的には、前はこれから進んでゆく方向、後ろはこれまでに来た道のりであり、それぞれ未来と過去を意味する。

 行動上の意味合いが強い前後と異なり、上と下は、重力に抗して直立する人間の姿勢を通じて、その基本的な意味が与えられる方向である。人は、目を覚まして起き上がり、まっすぐ立った状態で活動する。活動を停止して床に横たわり、眠りに落ちていく方向が下である。上は、活動していること、目覚めていること、意識的であることに、下は、休止していること、眠っていること、無意識であることに対応している。隠喩表現としては、それぞれ生と死に関連づけられることも多い(レイコフとジョンソン, 1986)。

 また、人が直立する場所は、上に開けた天空と下に広がる地下という2つの空間のあいだ、地上である。直立する人間の身体は、四足歩行する動物の身体とは異なり、身体軸(背骨)が前後から分岐して上下をなし、感覚器や中枢神経は前というより上に集中している。身体構造としては、上は上半身であり、知覚器官・脳・心臓・手などが位置する一方、下は下半身であり、性器・排泄器・脚などが位置している。その意味で、人は、主に上半身を通じて、何かを感じたり考えたりする経験をしており、性行為や排泄といった、多分に本能的で衝動的なものを、主に下半身を通じて経験している。身体を通じて与えられるこうした経験のコントラストは、例えば次のような日本語の表現を基礎づけている。高邁な精神−低俗な欲望、向上−堕落、高貴−下卑、上品−下品等である(瀬戸, 1995)。

 市川は、前後と分化した上下の意味について、次のように述べている。

大部分の動物では、ふつう頭化の方向つまり身体軸の方向と行動の方向は一致する。動物は身体軸にそって、頭の方向へ向かって進み、それが前である。価値的に見れば前は行動的・実用的価値をもった方向といえよう。…ところが人間の場合には、立行によって頭化の方向と行動の方向が分離する。…その結果、前が実用的・行動的価値の方向であるとすれば、頭化の方向である上は、非実用的・精神的価値の方向となり、下は一般に非実用的かつ精神的な反価値の方向となる。(市川, 2001, p.240-241)

 上半身と下半身の持つ精神的な価値づけの対照性が、上下という空間そのものの属性として投射されると、上という空間は「天国」や「神」と結びつく聖なる場所として、下という空間は「地獄」「黄泉の国」「悪魔」などと結びつく反−聖なる場所として想像されるであろう(反−聖と俗は同じではない。俗は人間の住む地上の属性である)。神話的な宇宙観における上下の構図は、生きられた空間の内的分節を反映していたのだと思われる。

 左と右は、それが本来対称的で等価であるとボルノウ(1963)も述べているように、互いの差異や意味上の対立がもっとも不明確な軸である。表面的に見る限り、身体の形態は左右対称であり、構造的にも臓器の位置が多少非対称的であるだけで、上半身と下半身のような顕著な違いはない。はっきりした差異があるとすれば、利き手や利き足のような、身体機能における非対称性である。コーバリスとビール(1978)によると、ネズミ、ネコ、サルなどの動物にも前肢に利き側は見られるが、右利きと左利きが同程度に分布しているのに対し、人間においては、文化や民族によらず右利きがきわめて多く、基本的に右手が優位である。西欧の言語や日本語、中国語など、多くの言語において、右が「正」、左が「邪」という正負の価値づけを与えられているのも(瀬戸, 1995)、こうした右手優位の傾向を反映してのことであろう。

 利き手の現象は、左右の空間について、次のような運動的意味の違いをもたらす(田中, 2008)。生活上の道具であれ、楽器のような道具であれ、道具を使用するさいには利き手が主に用いられ、他方の手は補助的に用いられる。利き手が右手だとすると、右手は左手より活発であり、器用である。右手に連動する右半身は、左半身に比べて、よりダイナミックに動き、しかも細やかなコントロールをきかせることもできる。ここから推測すると、向かって右側の空間は、ときに道具を介して、自己から環境へ、自己から他者へと向かって、能動的にはたらきかけやすい。他方、左手・左半身はより不器用な側である。よりスタティックで、動きも少ない。例えば、歩行時には大半の人が左を支持足にして主に右足で歩いている。右側が、積極性や能動性の空間であり、外向性、社会性、関係性などを象徴するとすれば、左側は、消極性や受動性の空間であり、内面性や自己性を象徴すると言えるだろう。


3.生きられる空間の意味

 ここまでの議論から明らかな通り、生きられる空間は均質的でもないし、無意味でもない。空間は、内的に分節化された一定の構造を持ち、意味を持っている。重要な論点なので繰り返すが、空間には意味がある。

 ただし、もともと空間に備わった属性として、空間には客観的な意味がある、と言っているのではない。空間の意味は、それを内部から生きている主体とセットにして考える必要がある。しかし他方で、空間の意味は、人間が心の中で感じている主観的なものに過ぎない、と言っているのでもない。上や後という空間について想像される意味を、人間が空間に向かって付与しているということではない。空間に意味があるということは、客観的な意味が空間中に実在することとも、主観的な意味を人間が投射することとも区別して理解する必要がある。生きられる空間は、私たちの意識を離れて存在する「物理的空間」でもないし、意識経験に還元されるような「心理的空間」でもない(加藤, 1995)。

 いずれの見方も、人間と空間の関係を偶然的とみなしている点で間違っている。人間と空間をそれぞれ独立に切り離して考えうる、という前提に立っているからこそ、空間の意味が客観的であるか主観的であるかの二分法にしかならないのである。ボルノウは、このような発想そのものを否定して、次のように述べている。

人間は、たとえばある物が木箱のなかにあるように空間のなかにいるのではないし、また最初はあたかも空間を欠いている主観のようなものとしてそこに存在し、そのあとから空間とかかわりあいをもつというぐあいに空間とかかわりあうのではない。生活は根源的に空間とのかかわりあいにおいて成立し、たとえ思考のなかであっても空間から解きはなされることはできないのである。(Bollnow, 1963, p.23)

 人間の主観性は、空間性という次元と切り離して理解することはできない。ハイデッガー(1994)の「世界内存在」にならって言えば、人間は「空間内存在」である。人間はその身体を通じて空間内に存在し、空間を離れては存在できない。人間から身体を切り離し、主観を空間の外部に置くことは、デカルトが行ったような一種の理論的抽象においてのみ可能な立場であり、そうした特殊な操作のもとで成立するのが数学的空間である。

 ただし、数学的空間が理論的抽象の産物であるといっても、その考え方にまったく根拠がないということではない。生きられた空間の体験そのものに、そうした理論的抽象を可能にするような側面が含まれているからである。生きられた空間の原点にはつねに身体があるが、移動したり、身体の向きを変えたりすることで、「ここ」は「そこ」や「あそこ」となり、前後左右は相互に入れ替わる。身体が動くことで空間の原点は移動するし、それを通じて、「ここ」はここ以外の場所と潜在的に交換可能である。

 こうした運動可能性は、身体の位置する「ここ」を離れて、仮想的に外部の視点を取る能力とも連動しているだろう。例えば、私たちが自己の鏡像を認知することができるのは、鏡に映る身体が自己の全体像であることを知っているからだが、自己の身体の全体像は、全身を外部から表象する他者の視点が獲得されているからこそ成立する(浜田, 2002)。あるいは、地図を読むことができるのは、自分のいる「ここ」という場所を離れて、鳥のように上空から俯瞰する視点を持っているからに他ならない。

 つまり、身体中心の座標系を離れて、他者や環境――広く「自己以外の存在」と言うのが適切だろう――を中心とする座標系も、私たちは一方で持ち合わせているのである。市川(2001)は、身体の外ないし他へ脱出して自己中心的な空間の見方を相対化すること、他者の場所から自己を位置づけることを「脱中心化」と呼ぶ。また、脱中心化を理念的に極限まで進めることで、どこにも中心を持たない「無中心化」された空間を構想することが可能であり、そうして成立するのが均質空間の概念であるとも指摘している。ピアジェも発達論的な視点から明らかにしているが、抽象的で均質的な空間概念は、先験的に理性に備わっているのではなく、素朴な空間概念から形成されてくるのである(Piaget & Inhelder, 1948)。

 ただ、数学的空間が概念として形成されたとしても、私たちが現実の生を送っている空間が、無中心化され、数学的空間へと取って代わられることはありえない。空間は自己の身体の側へと中心化されたり、身体の外部へと脱中心化されたりすることはあっても、中心そのものを失うことはない。例えば、「壁を背にして立つ」という表現は「壁の前に立つ」という表現と互換的である。ただしこのとき、自己の身体であれ壁であれ、空間座標の中心となる原点がなければ、私の立ち位置は表現できない。実際に無中心化された空間を生きることができるなら、「どこでもないここ」という言い方が、比喩ではなく実質的な意味を持つのでなければならないが、それは不可能である。

 結局、人間が空間のなかに存在するということは、身体に起点を持つ自己中心の座標によって周囲を分節しつつ、他方で、他のさまざまな存在――人間・動物・植物・物体・家屋・建物・街・都市・風景・太陽・星空、等々――を中心とするもろもろの座標空間のなかに自己を位置づけられつつ存在するということである。生きられる空間の意味は、自己が生み出す主観的なものでも、空間そのものに付随する客観的なものでもなく、自己とそれ以外の存在者とのあいだで中心化−脱中心化が絶えず生じている間主観的な次元にある、と言うべきであろう。

 もっと具体的に述べよう。例えば次のような場所は、そこに居合わせた人間に対して、まったく対照的な意味を持つ空間として現われるだろう。地平線の彼方が見渡せる大平原と、一面霧に覆われて見通しがきかない峠。ランドマークとなる建物のある街並みと、目印になる建物がない迷路のような旧市街。一人で使っているだだっぴろい部屋と、身動きがまったく取れないほど混んでいる電車。空間の意味は、明瞭に言語化して表現できない場合もある。しかし、言語化できてもできなくても、私の知覚において、あるいは私が行動するうえで、「ここ」という場所は、さまざまな意味とともに現われている。みずからの身体性を通じて、人間はつねに空間の意味を受け取っているのである。


4.場所の経験を記述する

 さしあたりの試みとして、生きられる空間とその意味について、特定の場所に即して記述してみよう。従来、このような考察の対象としてしばしば記述されてきたのは、家、都市、著名な建造物、聖地などで、人々のコスモロジーの要となる重大な意義を持つ場所であることが多かった(バシュラール, 2002; トゥアン, 1993など)。ここでは、より身近に私たちが経験していながら、そこに潜む深い意味が見過ごされていそうな場所をいくつか取り上げてみる。こうした記述を試みることで、学校空間の考察にとっても、間接的な示唆が得られるかもしれない。

(4-1) 森

 森のなかに足を踏み入れると、多くの木々が周囲に林立し、視界が部分的にさえぎられる。うす暗く、不気味に感じられることもあれば、やわらかな木洩れ日に包まれて心地よく感じられることもある。森という場所を特徴づけるのは、全体を見通すことができないということ、一種のパースペクティヴのなさであろう。ボルノウ(1963)も同様の事実を指摘している。

 森は、木々が林立することであらゆる方向から人を取り囲む。並木道のような一方向的な見晴らしの良さはない。森のなかの道は、しばしば曲がりくねり、どこに向かっているのかも一見したところよく分からない。森の全体を俯瞰する地図や、外に通じる道がなければ、私たちは簡単に迷ってしまう。森のなかでは、はっきりしているのは上下の方向だけで、前後左右は、どの方向も他からきわだって知覚されることがない。周囲の木々が、それぞれ対等に座標空間を主張しあい、その中を動こうとする人は、どの木を道しるべにすべきかが分からない。

森(パリ郊外)

 ネガティヴに聞こえるかもしれないが、むしろこうした点が森という場所の良さである。森は、それが原生林に近ければ近いほど、人間的な空間の秩序から離れてゆく。人間の作る街は、放射状の場合はランドマークとなる建物や広場を中心として広がり、格子状の場合は上空から俯瞰する視点(地図化する視点)を仮想の中心として持っている。これに対して、森は、木々の配列に遠近感を与える中心を持たないし、上空から全体を俯瞰する視点も与えない。

 このような意味で、森は、人間中心に出来上がっている空間秩序から一時的に離れ、一種の「異界」の経験を与えてくれる場所なのである。森の異界性について、例えば中沢(1992)も、南方熊楠(1867-1941)の森の思想に沿って、次のように述べている――「自然の森は、人為でできた社会と歴史を動かしている力の影響を受けない」(p.298)、「神々が森に住んでいるのではなく、森そのものが神だったのである。森は原神道にとっては、神聖なるカオスとして、神が生まれるトポスだった」(p.296)。

(4-2) 交差点

 交差点は、複数の道がそこで交わる場所である。道はある場所から別の場所へと伸びており、交差点では、道に沿って目的地へと向かう人々が一時的に交錯する。ある人は直進し、ある人は右折し、ある人は左折する。歩いて通行する人もいれば、自転車、バイク、クルマに乗って通る人もいる。方向も速度も異なる人々の進行に秩序を与えるため、大半の交差点には信号がある。信号は、人と乗り物の流れに時間的な秩序を作りだしている。

 時間帯や立地にもよるが、交差点を通り過ぎる人々はじつに多様である。スーツ姿のビジネスマン、犬を連れて散歩する老人、日傘をさした女性、若いカップルなどが横断歩道を渡っていくそばで、物資を運搬するトラック、家族連れが乗る乗用車、人々を運ぶバス、会社の営業用車などが信号を待っている。日ごろの私たちは無頓着だが、交差点では、性別、年齢、表情、歩き方、服装、所持品、乗り物など、さまざまな社会的文脈に連なる数多くの情報が、人々とともに行き交っている。交差点は濃密な情報の空間である。

 多様な人々は、それぞれの目的地へと向かう途上で、たまたまそこに居合わせているに過ぎない。同じ時間帯に頻繁にその交差点を通過するのでない限り、同じ人と出くわすこともない。行き交う人々の関係は匿名的なもので、交差点での振舞いも、互いに見知らぬ関係であることを前提としたそれである。行き交う人々は、一瞬の出会いというよりは一瞬のすれ違いを経験する。交差点でのすれ違いが出会いになってしまうと、かつての辻斬りや現代の交通事故のように、むしろ危険な場合が多いのかもしれない。

 誰もいない交差点が映画の一シーンとして映し出されることがある。これはこれで、交差点からその生命が奪われ、時が止まってしまったような印象を与える。交差点というのは、何の脈絡もなくただ偶然に人と物と情報がすれ違い、通り過ぎてゆく場所であり、有意義な出会いが起こる可能性はそう高くなさそうであるにもかかわらず、そうしたすれ違いがなければ場所としての豊かさを決定的に失ってしまうような、不思議な場所である。

交差点(吉祥寺駅付近)

(4-3) 海岸

 ひとくちに海岸といっても多様である。波の高い岩場、コーラルサンドの砂浜、小石と砂利の浜、静かな入江。海岸によって打ち寄せる波もさまざまで、小川のせせらぎのようにちょろちょろとやって来てはすっと砂に消える波、ざばんと打ち寄せた後でゴロゴロと小石を引き連れて帰る波、どーんと岩に打ちつけて高いしぶきをあげる波、長い海岸線に沿ってごーっとうなりながら寄せてくる波など、それぞれの海岸に特有のサウンドスケープがある。

 こうした音響空間に身を置くことは、それ自体として心地よい。サウンドスケープの概念を提唱したシェーファー(1986)も「水は原音風景(サウンドスケープ)の基音であり、その無数の形に変容する水の音は、他の何にもましてわれわれに大きな喜びを与えてくれる」(pp.37-38)と述べている。波の音が聞こえる経験は、耳をそばだてて人の話を聞こうとする経験とも違うし、嫌でも騒音が耳につく経験とも違う。それは、ただただ聞こえる、という原初的な聴覚経験に近い。このような音の聞こえかたは、物理的な音の大小にかかわらず、一種の静けさを含んでいる。

 海岸という場所を特徴づけるもうひとつの要素は、水平線である。水平線は両義的である。それははるか彼方に向かって私たちの視野をどこまでも広げてくれると同時に、それ以上は見えない一線として視野を限界づける。行動可能性という観点からしてもこの両義性は変わらない。私たちは水平線へと向かって無限に進んでゆくことができるが、それに合わせて水平線は後方に退いてゆき、決してたどりつくことができない。つまり、水平線の両義性は、知覚や行動において私たちをどこまでも遠くへと誘うものであると同時に、そこで空間そのものが枠づけられる限界を指し示している点にある。水平線(地平線も含めて)は、私たちの生きているこの空間が限りなく開けていること、かつ、私たちがある空間の内部に生きていることを、同時に感じさせる存在なのである。海が、限りない広大さを感じさせるとともに、どこかで私たちを包み込むような感覚を与えてくれるのも、そのためである。

海岸(神奈川県真鶴


5.おわりに

生きられる空間の意味は、反省以前に知られているものである(Merleau-Ponty, 1945)。身体を通じて暗黙に知覚されているような意味、あるいは、行動を起こすうえで当てにされているような意味、と言ってもよい。それは、特定の神話的世界観やコスモロジーを通じて語られる物語的な空間の意味ではなく、そうした意味が発生してくる手前にある、微細で前言語的な意味である。

 微細な意味しか持たないからといって、空間の影響が小さいということではない。むしろそうであるからこそ、空間は、無意識のうちに私たちに大きな影響を与えている。それはたんに、安心できる、快適である、やすらぎを得られる、落ち着きを感じられる、といった心理的な次元での影響にとどまらない。自分がここにいると実感できる、生き生きとしていられる、他者や自然とのつながりを感じられる、といった存在感の次元にまで及ぶものである。

 「生きられる空間」は、空間内存在としての私たちが、そこにいることを実感できるような「居場所place for being」を構想するうえで、さまざまな示唆を与えてくれる概念なのである。


引用文献

-



目次へ