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2012-08-28

19世紀末フランス芸術──セザンヌを中心に── 廣田正敏

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 芸術家が誰のために仕事をするかというと、伝統的には、「パトロン」(王家、教会、大ブルジョアなど、いわゆるメセナ)から経済的支援を受けて、活動を行ってきたと言える。芸術が作家個人の営みとなり、その権利(著作権)や制作の自由が認められるのは、比較的新しい現象である。それは多分ナポレオン?世の帝政の終わる頃と考えてよいだろう。作家はこれ以後、なにかの権力に迎合することなく、作家活動を行うことになる。また特定の権力者のためでなく、「公衆」にむけたメッセージを持つ作品が描かれることになる。この変化はそれ自体評価されてよいことであり、また当然のことである。

 しかし「公衆」とはなにであろうか。それは正しい評価を常に下せるほど信頼できるものであろうか。もちろんそうではない。この不特定多数の人達は、ある場合は進歩的であり、ある場合は保守的であり、なによりも教養と洗練において、作家と同じ水準に達することは極めて稀である。1820年代以降、アカデミズムの権威が地に落ちたときから、芸術の分野で、作家の側にも、観賞者の側にも、深刻な混乱が生じる。新しい価値基準を確立することが不可能な時代は、言い換えれば、作家においては反抗の時代であり、観賞者においては批評の時代である。

 「サロン(官展)」批評を行ったボードレールドラクロワを高く評価したが、ロマン派芸術もまた短命であることを察知していた。「ロマン派に欠けているのは、すなわち信念と、それにともなう避けがたい懐疑である。」( 1846年のサロン批評)ボードレールにとって、優れた画家の特質は「気質」( tempérament )を持つかどうかにかかっている。彼はマネについて「決して彼は自分の気質の隙間を完全に満たさないでしょう。しかし彼は気質をもっています。これが重要なことです」と言い、またある画家たちについて「精神も、知識も才能もこれらの画家には欠けておらず、さらに独創性すらも欠けていないけれど、気質が、つまり私達の意見によれば、なににも換えることのできない特性が欠けていると思う」と書いている。

 一方、作家の側で、例えばクールベは次のようにいっている。「芸術家は全て、自分自身の師をもっているはずだと思います。わたしは芸術教育を否定しますので、自分自身の芸術も、なにかある流派も教えることはできないのです。あるいは、いいかえると、芸術は徹底的に個人的なものであって、どの芸術家にとっても、自分独自のインスピレーションや、伝統の自分独自の研究に由来する才能にのみ基づいていることを、わたしは主張するのです。」さらに、「もしあるひとが15年間、パリのエコール・デ・ボザールに、あるいはローマのヴィラ・メディチに閉じ込められたとすれば、もっとも生き生きとした性格の持ち主でさえ、年老いた教授たちの、古い諸例の、老熟した、古い理論に絶えず圧迫されて、どのようにして自分の独立を守ることができるのだろう」とも書いている。

 すなわちこの時代、個々の作家は自己の才能に見合った「独創性」を探求したのであり、その作業はまさしく個人レベルでの孤独なものであった。芸術家の個性は極めて強烈であるが、「公衆」から認知され支持されるとは限らない。また彼等は互いに連係することがあっても、かならずしも理解しあったとはいえない。セザンヌゴーギャンについて次のように書いた。「彼はわたしを理解しなかった。わたしは肉付けの、あるいは階調の欠如を決して欲しなかったし、それを受け入れなかった。これ(平板な絵)は無意味だ。ゴーギャンは画家ではなかった。彼は単にシナの絵を描いたに過ぎないのである。」とはいえ、それではセザンヌの絵を当時だれが認めたであろうか。

 ボードレールに代表される批評は、芸術家による印象的批評と呼ばれるものである。自ら詩人である彼は自分の芸術を探求する過程で、美的感覚を養っていく。それはまた彼の人生観を投影した批評活動である。これに対して学問的な知的作業を通して批評に至る道がある。文芸の領域で批評が1つのジャンルとして確立するのは19世紀後半であって、テーヌ Hippolyte Taine ( 1828-93 )の貢献が大きい。彼の方法は実証主義と呼ばれるものであって、当時主導的な思想になってきた科学主義の影響のもとに、文芸の成立を3つの要素に分けて分析した。1人の作家は彼を生み出した諸条件を考察することなしに評価することはできない。それは[1]種族(国民性)、[2]環境(物理的、政治的、社会的要因)、[3]時代(歴史的視点)というものである。テーヌの客観的な方法論は多くの人々の共感を呼び、文芸批評の出発点となるものである。彼の弱点は、当然のことであるが、作家個人の素質の違いによって異なる作品が生まれる可能性を考慮していない(あるいは過小評価している)ことである。しかしこれは、その後の批評家たちによって様々な修正を加えられ、今日に至っている。

 テーヌ自身は美術学校でルネッサンスギリシアの芸術を講じ、けっして同時代の絵画の動向や文学作品を主題にはしなかった。したがって19世紀の指標なき美術界についての彼の判断は分からないが、客観的で没個性的、古典的な芸術を取り上げている点から見ても、彼はむしろアカデミズムの擁護者であったと考えられる。芸術家による印象批評が学者の体系的批評よりもしばしば有効であるのは、孤独で過酷な作業に取り組む個々の作家にとって、より示唆に富む発言を行うからである。

 セザンヌ Paul Céznne ( 1839-1906 )は南フランスのセクス・アン・プロヴァンスで生まれた。父は銀行家で家庭は裕福であった。同級生のゾラとともに多感な少年時代を過ごした後、画家志望の彼はようやく父を説得して、ゾラの後を追ってパリヘ出る(61)。その感受性は極めて鋭敏で、多くの詩を暗記し自らも書き、ロマンチックな情熱にあふれていた。パリの彼の言動は人は驚かすほど過激であり、自信に満ちたものであった。「官展芸術に対する彼の痛烈な風刺の言葉は画家仲間に伝わり、彼は最も過激で鼻持ちならぬ革命家とおもわれた。人はこの時期のセザンヌに、満々たる自信と表現の逆説的な過激さをもった若者を想像するに違いない。しかし彼をかく奮い立たせた強烈かつ純粋な情熱を見抜けなかったら、これは1つのポーズに見えたかもしれない」(ロージャー・フライ)。

 彼はパリの生活に馴染めず、また作品もよい評価を受けることなく、失意のうちにエクスヘ引きこもり、孤独な制作に打ち込む頑固な老人になっていくように伝えられるが、詳しい年譜を見ると、少なくとも50歳代まではパリとエクスをかなり頻繁に移動し(またそのほかの土地に滞在し)、他の画家とも交流している。「サロン」には連続して落選し心に大きな傷を受けながらも、若い頃にはマネを中心にした印象派のグループと交わり、ポントワーズ(パリ近郊)でピサロのもとに滞在し、彼から大きな影響を受け(72、81)、自宅近くのエスタックルノワールを招いて一緒に制作し(82)、さらにジャ・ド・ブーファンの別荘でルノワールとの共同生活(88)もあり、モネからロダンを紹介されたりもしている(94)。このように、最晩年にようやく名声を得た彼の生涯は、少数であっても彼の画業を見守る芸術家たちとの交流が絶えなかったといえる。

 若いセザンヌドラクロワ Eugène Delacroix ( 1798-1863 )やクールベ Gustave Courbet ( 1819-77 )の作品に強い共感を覚えたといわれる。しかしこの2人の画風は全く違っている。ドラクロワは『民衆を導く自由の女神』などに認められる荒いタッチと強烈な色彩と、さらに、古典への反抗を秘めた主題とによってヽロマン主義芸術の先駆者であったし、セザンヌの若い魂が引き寄せられたことは容易に理解できる。一方、クールベバルビゾン派の風景画家として名高く、写実主義芸術の代表的画家である。(バルビゾンの村はフォンテーヌブローの森近くにあり、そこに集まった画家たちはなにも同じ主義主張をもっていたわけではない。)ただクールベのレアリスムは彼自身を無意識のうちに一種の社会主義レアリスムへと導き、下層民やジプシーなどをリアルに描く政治的姿勢を持つに至った。セザンヌクールベの作品のどのようなところに共感をもったかは不明であるが、目に見えるものしか描かないというその非妥協的な姿勢にあったのではないか。

 情熱とそれを極度に抑制した表現様式というものがセザンヌの到達点であったことを考えれば、この2人の先輩は、セザンヌが内面の戦いを執拗に続けるための2つの支柱であったと考えられる。また彼の絵画が変化していく過程において重要な課題を投げかけた作家たちであるといえる。『ラザロの復活』、官能的な『パシャ』などの想像的な作品はドラクロワの影響を感じさせ、リンゴをあしらった静物画『果物皿』にはクールベの『りんごと帆立貝』を想起させるものがある。初期の想像的な作品はその完成度においてドラクロワに遠く及ばないが、80年代の静物画はすでに確固とした、セザンヌ独自の個性によって構築されている。「これらの静物画が劇的、抒情的、等々ではないのは、

何も感情の欠如のせいではなく、削除と凝縮の結果である。いわばこれらの絵は、すべての劇的事件を取り去ったドラマなのである。われわれが感嘆せざるをえないセザンヌのこのジャンルの傑作以上に、かくも厳粛で力強く重厚な感情を喚起した絵がこれまであっただろうか」(フライ)。

 「削除と凝縮」という手法は、セザンヌが長期間自分に課した課題と真剣に取り組んだ成果である。作家の孤独を語るとき、非妥協の精神に由来する外界からの孤立のみを問題にすべきではない。作家の独創性は、他の何者にも救いを求めることのできない孤独な作業の結果として、ようやく獲得できるものである。晩年のセザンヌはエクス近郊の岩山、「サント・ヴィクトワール」を執拗に描いたが、彼の姿勢はリンゴを前にした時と変わるものではなかった。

「自然の形態は総べて、球形、円錐形、円筒形に還元される」(ベルナール宛)という有名な言葉は、自然を観察し続けた彼の1つの到達点であったが、この幾何学的解体の方法はすでに静物画の中に随所に認められるものである。実際の作品を分析することは専門家にまかせなければならないが、セザンヌの「課題」を理解し、彼の「到達点」の意義を考えることはわれわれにも可能である。彼の時代および環境を総合的に把握することで、当時の非凡な芸術家がどのような苦悩を心に抱いていたかを知ることができるだろう。1820年代に始まったロマン主義運動は、自己解放、秩序破壊などの強いインパクトを人々に与えた。文学の領域ではヴィクトル・ユゴー Victor Hugo ( 1802-85 )が指導的地位にあり、絵画ではドラクロワジェリコーが先頭に立った躍動感のある時代であった。しかし50年代以降、このはなばなしい運動にかげりがみえてくる。ユゴーも初期の激しい情熱と誇張を捨てて、落ち着いた視点で社会小説や歴史小説を書き、現実主義的な外観をそなえるようになる。(これは彼の2つの小説『ノートルダム・ド・パリ』31と、『レ・ミゼラブル』62を読み比べるだけでも容易に理解できることである)

 バルザック Honoré de Balzac ( 1799-1850 )の類を見ない作業は、その意図においてきわめてロマンチックである。自分の作品に「人間喜劇」という総合タイトルを与えた彼は「パリの戸籍簿と競う」ことを日指した。農民やパリの下層民から貴族にいたるさまざまな階層の人物を登場させ、パリという都市のエネルギーと混沌と、さらにそこにうごめく人間の野心や貪欲さ、弱肉強食の姿を写実的に描こうとした。バルザックは単に想像の産物でない「現実」を作品の中に表現しようとして、徹底した写実主義手法を選んだ。もとより1人の作家がどんなに努力しても現実を語り尽くすことは不可能である。しかし少しでも真実に近付こうとする願望はどの作家にもあり、バルザックの選択も正しかったといえるだろう。そして後世の読者がバルザックに絶えず魅力を感じるのも、この自己増殖する小説世界の逞しい充実によるのである。ドストイェフスキーやプルーストなどもその影響を受けている。

 とはいえ現実を再構築することだけが芸術の目的ではない。人間の「真実」をどのような方法で描くかが、芸術家の最大の課題である。そしてさまざまな手法が探求されたのが19世紀の特徴なのである。フローベール Gustave Flaubert ( 1821-80 )は散文作品においても「ことば」は思想の伝達手段なのではなく、芸術の素材であり、それ自体が芸術であることを悟った。したがってバルザックと同じく彼も写実的描写に取り組んだが、フライがセザンヌに関して語ったように、「削除と凝縮」の見事な実例となっていて、あらゆる無駄が省かれ、むしろ作者が語らなかったことをとおして、われわれ読者は、1人の女の真実を、さらに「人間」の真実を、自分の中に作り出していくことになる(『ボヴァリー夫人』)。つまり読者が、かつては単なる聞き役であった立場を捨てて、作者とともに創作に参加するわけである。フローベール手法は20世紀に直接つながる源流となる。

 詩の領域で、ボードレール Charies Baudelaire ( 1821-67 )は世紀末芸術に大きな影響を与えた。彼は印象派の画家たちの真価をいち早く認めたし、自らも「呪われた詩人」として、芸術のもつ魅惑的な「毒」と正面から向き合った。人生に対する苦悩、幸福の希求(官能)、魂の救済、人間としての彼の全ての憎悪と愛を込めた詩集『悪の花』は、ヴェルレーヌランボーマラルメへとつながる象徴派詩人の原点である。ボードレール詩人が、現象として現れる「自然」を前にして、その背後にある捉えがたい真実を洞察し、それとの交感( correspondence )をおこなうことのできる選ばれた人間であるという。この自負が、破綻者ともみなされた彼の狂気に満ちた人生の救いであった。

 詩的表現について、さらに深い考察を行ったのはマラルメ Stéphane Mallarmé ( 1842-98 )である。彼は「音楽に奪われた富」を取り返すことを目指して、「ことば」の持つ音楽性にこだわり続けた。その結果、彼は通常の文法構造をほとんど破壊し、安易な意志伝達の道具としての言葉(マラルメがいう「手垢にまみれたコイン」)とは異なる詩的言語を構築するのである。

 フローベールマラルメが課題としたものは自己の芸術的能力の全てをかけて、普遍的な真理を探求し、表現することであった。それにはロマン主義の衝動や情熱だけでは達成できないさらに厳しい自己規制、克己の精神が必要である。「真の古典主義は制御されたロマン主義である」とジッドはいう。セザンヌもこれと同じ道を辿ったのではないか。

 そのときセザンヌは従来の絵画が追い求めた写実性が、絵画本来の制約に合致しない、ある意味では過剰な、また不可能な挑戦であったことに気付いたのである。すなわち、2次元の画面に立体性を持たせるための技法である遠近法や陰影法のテクニックは、絵画において虚偽の試みでしかなく、真実を描くことにならないのではないか。ルネッサンス以来こうした方向で完成された古典主義の絵画は、その内容においていかに古典主義的、またはロマン主義的な要素を含んでいたとしても、常に、写実という究極の目標のための不可能な奉仕作業であり、しかも決して3次元の世界を描写することはないであろう。だから、3次元への挑戦という目標そのものを捨てることが必要であり、現実に自分を取り囲む立体的な事物を、画面の中で逆に平面の次元に「還元」することしか解決の方法がないと、セザンヌは考えたに違いない。

 水浴する女たちの肉体は、なぜ枯枝のように潤いがないのか、トランプのゲームに熱中している男たちのあの異様な腕の長さは何を示唆しているのか。構図の規則に逆らって画面中央に垂れ下がる白いテーブルクロスを配したあの静物画は、従来の絵画と異なる何を表現しようとしているのか。さらに、決して美しいわけではないあの山塊「サント・ヴィクトワール」に彼はなにゆえあれほどの執着を示したのであろうか。

 なによりもまず、絵画に向かい合う彼の姿勢を明確にしておかねばならない。セザンヌは晩年になって知人たちに自分の制作態度を説明しているが、そのいくつかを取り出してみよう。彼はエミール・ベルナールに宛てて次のように書いている。

「(……)私はとてもゆっくりと仕事を進めます。自然は私にとってきわめて複雑に見え、なすべき進歩は不断のものです。そのモデルをよく見て、きわめて正確に感じ取らねばなりません。さらに気品をもって力強く自己を表現しなければなりません。趣味は最良の判定者です。これをもつ人はめったにありません。芸術は極端に限られた個人にだけ訴えかけるのです。

 「芸術家は、性格(キャラクテール)の知的な観察に根拠を置かない意見は軽蔑すべきです。芸術家文学的精神を恐れるべきです。それは、画家をその真の道、自然の具体的な研究からそれさせ、触知できない思弁のなかにきわめて長い間迷い込ませるのです。

ルーブルは参照すべき良書ですが、これはひとつの仲介物に留まるべきです。取りかかるべき現実的で非凡な研究、それは自然という絵画多様性なのです。」( 1904 )(『セザンヌ 回想』P.M.ドラン編、高橋・村上訳、淡交社、以下の引用も同じ)

 またガスケに向かっては、次のように語っている。「画家にとって、すべての基本は感覚(サンサシオン)にあります。私はこれを何度でも言いましょう。私は方式を勧めているのではありません。自分自身の感情、観察、性格をもっと注ぐことのほうが大切でしょう。しかし、それが難しいのです!  いつでも理屈を言うのはたやすい。肝心なのは思うところを実行に移すことであって、そこに大きな障害があるのです。要するに、私が思うには、ここ(ルーヴル)で画家が学ぶのは考えることです。そして自然のもとで、見ることを学ぶのです。」

 ここで考えられることは、セザンヌにとって絵画は「自然」を学習し、その観察から得られた真実の感動や自己の思索を表現するものであるということである。それはまた絵画的な「美」や 「写実」に従属することを拒否し、あくまでも自己の精神性を画面に込めようとする姿勢であり、「自然」(現象)の奥に潜む真実の把握に、より多くの関心を向ける姿勢でもある。彼の発言を読めば、画面のなかで生み出される遠近の感覚を否定しているわけではない。しかし伝統的な遠近法にとらわれることなく、自然の奥行きを表現することのみを目標にしていると思われる。自作「サント・ヴィクトワール山」の量感(ヴォーリューム)に触れて彼はいう。「美術学校ではたしかに遠近法を教えますが、深さが垂直な面と水平な面との交差から生じるということがまったくわかっていません。それこそが遠近法なのです。」(ロワイエールヘの言葉)

 こうしてセザンヌの関心は「面」(プラン)の表現に向かっていたことが分かる。そして色面のそれぞれが衝突するところに輪郭が浮かび上がるが、セザンヌにとって輪郭線は何ほどの意味も持たず、むしろ面の構成こそが重要なのである。そのため、端的に言えば山も人物も、すべてが合成された面の塊として彼の内面を反映するものになる。この手法は、敢えて立体性、写実性を捨て、「個性的な感情、感覚、性格」(これ以外に彼はボードレールと同じく「気質(タンペラマン)」という語を使っている)の表現にこだわる彼の芸術的意図に合致していたと思われる。

 この平面への回帰(これを扁平な面というべきではない)は、自然のなかに存在する事物を解体し、画面上で再構築することを意味ずるわけであるが、画家の精神性は、この再構成の過程で現れてくるものである。それはあくまでも「自然の奥行き」に呼応する画家の内面を象徴的に表現しており、観賞者はセザンヌの目を通して組み立てられた新しい、もう1つの「自然」と向き合うことになる。それゆえセザンヌ絵画は観賞者に受動的な態度を許さぬものであり、芸術の創作に参加することを求めるものである。このように、彼はクロード・モネとは別の方法によって、従来の硬直した絵画を改革し、20世紀の美術に新しい指針を示したのである。



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