われわれは何と闘っているのか
まずは上のツイートを参照されたい。僕のような中年がこのような言質に触れたならば真っ先に「飛影はそんなこと言わない」という20年以上前のミームを想起することだろう。そこにはいわばヲタク連中の必死さを笑うような兆候があったが、僕には異なる印象を残した。とはいえ、それは印象でしかなく思考に繋がらなかったのだが、今回、上のような発言によってようやく言語化できそうなので記しておく。つまり、僕らは創作に必然性を求めざるを得ない、ということだ。それは絵画、音楽、演劇、あるいは料理だったり便利グッズだったり。人為による「もの」すべてをここでは「創作」と呼ぶことにする。
必然性はあらゆる創作に不可欠である。論理がちぐはぐなものは創作ではない。こんなことを書くと「シュールレアリズムはどうなんだ」などという軽佻にして浮薄な意見が出てくる。まずはそれにあたる日本語を確かめてみるといい。「超現実」である。「超現実」は絶対に現実性を保持しなければならない。「現実をひとっ飛びに超える」という行動には、まず「超えるべき現実」が存在しなければならない。ハードル走は飛び超えられるべきハードルが存在して初めて競技として成立するのだ。あのレーンからハードルを取り払った姿を想像してみると、なんとも間抜けに見えるのはこの理由による。
ダリはその作品において時計を軟化させた。そこには「時計でなければならない」という必然が存在する。「時計」という日常的に「硬さ」を持った物体を題材にしなければ、ゆがませて描かれたところで、それはダリの独創性を表現しない。マグリットの作品において中空に浮かぶのは絶対に石でなければならない。「石」という「堅さ」「重さ」の象徴を浮遊させるからこそ、超現実としての色彩を持つ。ピカソの『泣く女』は必然性の最たる作品だ。あの色合いは「泣く」という時間的要素が介在する動作について、そこから時間性をはぎ取り、刻刻における要素を「絵画」という手法で一気に表わしてしまったら、ああなったに過ぎない。泣くという行為には激情がある。頰が紅潮する。そして大事な人を失ったゆえに顔面が蒼白となる。しかし厳かな「見送り」の場においてワンワン泣くわけにはいかない。だから怺える。それでも愛する者をなくした悲しみは涙となって溢れくる。鼻の頭にしわが寄る。歯を食いしばる。これらが実存においては時間的差異をもって次々に顕在化されるのだが、ピカソはそれを同時刻的に表現してしまった。「映像」というメディアがまだメジャーでなかったゆえに、「映像」で理解される事象を「絵画」という手法で表現した結果、あのような色彩と構図に至った、というだけである。
僕らは必然性の喪失に違和感を覚える。蛇に本質的なおぞましさを覚えるのは、僕ら自身の必然性である、四肢の概念がごっそり剥ぎ取られているからだ。先天的に四肢のいずれか、あるいはすべてを持たない人々に対して、僕らはこのようなおぞましさを感じない。なぜなら、そこには「持たない」ことへの理由と知識と理解とがあるからだ。理由と知識と理解は必然性を保証する。ただ、蛇やナメクジが四肢を持たないのは「そういうもの」という、理由と知識と理解とを超越した概念による。だから不気味なのである。
「飛影はそんなこと言わない」も同様、必然性の欠如に対する嫌悪を根底とした、人間全体における創作物に対する認識の一例だ。ベルクソンは笑いの発生源を、硬直に訪れる緩和であると論じた。これも必然性の結果である。笑いの基本は予想の裏切りにあり、一言で表わせば「なんでやねん」である。この構造をまさか2022年になってあらためて想起させられ、仕事終わりだというのに1630字も書く羽目になってしまった。とはういえ、ここに後悔はない。インスパイアは何らかの形で表出するものだ。これもまた必然性である。
Z Clock no sat tier more, carnet she dying
さて、世間は連休明けでウ~スな感じだろうが給料日は間近。
年末のボーナスについての通知も出るだろう。というわけで
「新井流 "ボーナスで始めるレガシー" スリヴァー編」はっじまっるよー!
なお価格調べは2020年11月23日現在のものです。
続きを読むOn shoe knock and nerd and knee
今回もMagic The Gatheringの話をしよう。
昨今はコロナうず(なぜか変換できない)のせいでテーブルトップからはとんとご無沙汰である。
まあ、近所にはまともにMTGができるスペースがないのであまり関係ないのだが。
となると暗い部屋でひとり、テレビはつけたままMTGアリーナに興じるしかないのだけれど
レガシーやモダンといった環境にはやはりそれなりの魅力があるものだ。
特に僕のような西暦2000年前後に始めたプレイヤーには当てはまる事象だろう。
(なんてったってデュアルランドが3000円台だった。思えば遠くへ来たもんだ。)
とはいえプレイは出来ない。そこで僕の欲求を満たすのがデッキリストである。
ネットサーフィン(時代の最先端)していくうちに、ふとこんな記事を目にした。
【ボーナスで始めるレガシー】
往年の高額カードの飛び交う環境に、敢えて低価格で挑む。もちろんレガシー初心者向け。
「啓蒙」という言葉がこの国を離れて久しいが、ここに光明はあったのだ。勉強させていただこう。
……『デスアンドタックス』?
いやいやいや。高額カード必要じゃん。【カラカス/Krakas】なんていくらするのよ?
しかもあのデッキ、使ってみたけど選択肢が多くてしんどいよ?蒙古タンメン中本の初心者に
「んー、『北極』は厳しいから『冷やし味噌』から行ってみたら?」
ってアドバイスしてるようなもんじゃない?
ていうか、安くて使いやすくてそこそこ実績があるってんならスリヴァー一択でしょ。
メインで使うカードはほぼコモンかアンコモンだからお財布に優しいことこの上なし。
というわけで僕が真の「ボーナスで始めるレガシー」見せてやんよ!
つづく
運営がプレイヤーにライブラリーアウトを推しまくってる件
マジック・ザ・ギャザリング、通称MTG。
MTGアリーナというオンラインゲームもプレイ動画配信などで盛況である。
かくいう僕もここ最近は15年以上のブランクを経て再びMTGに没入している次第だ。
とはいえその空白は予想以上。
プレインズウォーカー?装備品?氷雪マナ?てな感じでルールもわからず
四苦八苦していたが、このMTGアリーナで今や立派なスタンダード勢である。
さて、MTGには「山札からカードを引けなければ負け」という基本ルールがある。
じゃあ相手の山札をさっさと空にすればいいんじゃね?
というのが「ライブラリーアウトデッキ」の基本理念だ。
クリーチャーが何体いようと、自分のライフが1点だろうと相手は敗北する。
快感である。
無限マナや無限ライフ、無限ダメージは可能だが無限ライブラリーは不可能なのだ。
その体現者として【石臼/Millstone】が存在するため「ミルデッキ」とも呼ばれる。
ところで、ここ最近はその「ライブラリーアウトデッキ」「ミルデッキ」を
運営側がプレイヤーに推しまくっているのである。
2020年7月8日現在のスタンダードで使用できるカードから、リリースされた順に
「運営がプレイヤーにライブラリーアウトを推しまくってる件」を検証したい。
【水没した秘密】(ラヴニカのギルド)
運営「青の呪文ひとつで2枚削れるよ。エンチャントだから割られにくいよ。しかも2マナだよ。」
ぼく「ほーう。2枚目が出ればそれなりかもね」
【迷える思考の壁】(ラヴニカの献身)
運営「【水没した秘密】があれば一気に6枚削れまっせ」
ぼく「タフネス4は序盤の守りに使えるな。でも相手が墓地を活用するデッキだと……。」
【夢を引き裂く者、アショク】(灯争大戦)
運営「じゃあレジェンドだけど最大20枚削れるうえに墓地も一掃できるってのは?青単デッキにも入るよ」
ぼく「決めた!もうライブラリーアウト回す!」
【マーフォークの秘守り】(エルドレインの王権)
運営「『出来事』もあるから【水没した秘密】があれば10枚削れるぜ」
ぼく「なにそれこわい」
【圧倒される弟子】(エルドレインの王権)
運営「もう一枚1マナ域あげるよ」
ぼく「いやもうお腹いっぱいだよ。どんだけ優遇すんのよ。」
【鏡細工】(エルドレインの王権)
運営「You【水没した秘密】コピっちゃいなよ」
ぼく「いいんすか?」
【神秘の賢者】(テーロス還魂記)
運営「【水没した秘密】が通った?おめでとう!早速2枚削ろうね!」
ぼく「は?」
そして……
【タッサの神託者】(テーロス還魂記)
運営「削れるのは相手の山札だけかね?」
ぼく「まさか、すべてはこの日のために……」
さて。
基本セット2021では「そのプレイヤーのライブラリーの上からn枚を墓地に置く」が
「切削nを行う」としてキーワード化されました。
それを受けてでしょうか、こんなカードが登場しました。
【テフェリーの後見】(基本セット2021)
運営「ドローステップのたびに削ろうぜ!このカードの効果で引いても削れるぜ!」
ぼく「ちょっと何言ってるかわからない」
いやもう削るしかないっしょこれ。
映画『ジョーカー』は害悪である。
YouTubeでうっかり予告編を観てしまったがゆえに、映画『ジョーカー』に時間を割くはめになった。面白かった。二日分の食費を投じて、バターとトウモロコシの焦げた臭気の漂う空間に2時間縛りつけられたことを差し引いても高評価を差し上げたい……しかし、手放しで礼賛してもよいものだろうか、という発想が脳裏をかすめた。ポップコーンとコーラの残骸をゴミ箱へうやうやしく埋葬する葬列に加わることの不本意に対するいらだちが天邪鬼な自分を呼び覚ましたのは間違いないだろう。しかし、そんな己のへそ曲がりを加味しても、やはり僕はこの映画を「善い映画」だとするのには抵抗があった。そのもやもやを身の及ぶかぎり言語化してみたい。
続きを読む福山雅治を愛すべきいくつかの理由のうち、たったひとつ
マツコ・デラックスはフジテレビの深夜番組『マツコの部屋』で拝見して以来の視聴である。「制作会社の者です」と臆面もなく言い放ち、しかし、番組が進むにつれてファッションがいかにも一般大衆の喜びそうなそれに近づきつつも、妻子ある身で自宅バレをも辞さない奇妙な男気を持つ池田Dとの掛け合いが刺激的だった『マツコの部屋』を鑑みれば、昨今の彼(彼女)の八面六臂ぶりには驚かされるばかりである。
今回は『巷の街を徘徊する』という、マツコの俗物視点(これは彼(彼女)の最大にして最高の視座なのだが、その小説は次回以降に譲りたい)が存分に生かされた地上波(!)テレビ番組において、かの福山雅治を迎えて神田周辺を徘徊するという内容。しかも筆者はたまたまテレビを点けて、途中から視聴し、しかも途中で切るという体たらくながらも、古書店においてバックナンバーの『BOMB!』を眺めつつ感想を漏らす福山氏に自身の感覚を呼び覚まされたゆえの筆を執る、というよりはキーボードを打つ所存である。
彼の人となりを、ラジオやテレビだけで感じ取った、言い換えれば、一般大衆と芸能人とを分け隔てるべく存在する境界を経て介した、きわめてマスメディアの偏向甚だしい彼の虚像を一般大衆向けのマスメディアを通じて感じ取った『福山雅治』なる人物像と番組を経た彼の人物像とを照合させた結果、あまり相違がないところにある種の喜びを感じたのだ。ラジオにおいて「もしもし?」「ましゃましゃ!」というやり取りを律儀にこなす福山氏(以下『ましゃ』)、もしくは桑田佳祐がエッセイにおいて「このエロ男爵!」と頭をはたけるましゃと、2016年8月現在のましゃとがバシッと一致したことに端を発する嬉しさをここに表したいのだ。
彼はこのテレビ番組において、好きだった、憧れてたことをやりたいだけやるには、ある程度の社会的、経済的余裕が必要であると説き、同時に、社会的、経済的余裕を取っ払って好きな、やりたいことをやってる連中に敗北感を覚えるという発言に、筆者は共感したのだ。長崎駅に向かえば、プラットフォームの至ることろにそのお姿と歌詞とが刻されている彼でさえ、そんな心境を訴えるという真実に、自身のくだらなさを覚えている次第である。当然と言えば当然なのだが趣味としてこんな一銭にもならない駄文を世界に発信する作業をジンの酔いとともに繰り広げている人間こそ筆者であり、駄文を垂れ流せば満足する人間ゆえ、それを糧にできれば世話はないものの、やりたくもない作業に埋没して糊口を凌いでいる立場に、ましゃとの蜘蛛の糸に匹敵するという表現さえ憚られる親近感を覚えるのだ。
つまり、彼の魅力とは、自分の立場を「夢追い人」と同じに置きつつも、ある程度の社会的、ならびに経済的成功を体現し、しかもその功績を「自身の夢とは相いれない」と喝破する点にある。筆者自身も、その「夢追い人」の一員なのだが、先に述べた社会的、経済的に成功していないゆえにましゃの生きざまには憧憬と納得のないまぜになった感覚を受け取ったような気分になるのだ。憧憬に納得とは、鬼に金棒、梅に鶯、ディランにアコギってな無双ぶりを発揮するエレメントである。それはマツコ・デラックスの「そりゃみんな好きになるわ」なる発言に一切が集約されており、自身もその『一切』に含まれていることを否定しない。
今回は以上です。