あらきけいすけの雑記帳

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2007-09-16 (Sun)

「ニセ科学批判批判」批判のための覚書

まずはじめに「はてぶ」界隈(はてなブックマーク - hasenkaのメモ - 科学という一神教)でごく一部の人々から熱狂的なネガコメをもらった科学という一神教 - hasenkaの漂流記を見てみると、このエントリの趣旨は

みんな寛容になろうよ。世の中にはいろんな人、いろんな考え方があっていいじゃない。科学者の態度は偏狭だよ。
と言いたいのであろうと思われる。

「寛容」「共存」という徳目を説くという視点からすれば、「良いことを言っている」ように見えるエントリである。はてなスターもいっぱい付いている。でも本当にそうか?*1

hasenkaさんが、たとえば「振り込め詐欺」をする人々の報道を見て、「みんな振り込め詐欺にも寛容になろうよ。世の中にはいろんな人、いろんな考え方があっていいじゃない」と言う人であれば、ボクの批判は届かないだろう。

「寛容」「共存」と言ったって限度というものがあるんじゃないかと思う。僕らはその限度というものがどの辺くらいかを、日常的な感覚で判断している。でもその日常的な感覚の基礎はある程度、言語化して意識をしておいた方が、「なんとなく」って曖昧な感覚のまま放置するよりはいいかもしれない。

「寛容」「共存」の基礎としては「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」という自由主義の基本の考えがある。もちろんこれは昔の王様のような時の権力による圧政なんかによる自由の束縛に対して、「みんな自由で平等だ、王様なんかに縛られないぞ」というキモチから出ているのであって、「なんでもやっていい」という話じゃない。

もちろん今は王様がむちゃくちゃやれる憲法なしの封建国家なんて(建前上は)ない。でもニュースなんか見るといろんな対立とかあって、何とか互いに迷惑かけずに共存できないものかなんてキモチにさせられることも多い。やっぱり自由主義の基本の考え方は知っておいたほうがいいんじゃないか。

じゃあどんな条件があれば「なんでもやっていい」のだろうか?

個人の行動のレベルの話なのだけど、「何をやってもいい」という言い方の背後には一応、つぎの五つの条件があることになっている:

  1. 判断能力のある大人なら、
  2. 自分の生命、身体、財産にかんして、
  3. 他人に危害を及ぼさない限り、
  4. たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
  5. 自己決定の権限をもつ。
ぼくはこれを現代倫理学入門 (講談社学術文庫)のp.167から抜書きしたんだけど、言いだしっぺはJSミルという昔の偉い学者さんだ。もちろん「オトナって何よ?」みたいなツッコミが全ての項目にかかるだろう。ツッコミを入れはじめると、結構、ディープな議論になる。でも、ここでは大雑把な理解で、「ニセ科学批判」について先に進んでみよう。

「ニセ科学批判」というのは、実はむかしから(っていつよ!)あった。ツッコミのかかる対象は、「血液型」のような科学のフリをするものから、「占星術」のようなオカルト、果ては「アポロは月に…」みたいな陰謀論までいろいろある。

ボクも以前は「そう目くじら立てんと、放置プレイで…」なんて考えていたのだが、たとえば菊池さんのこのページ、天羽さんのこのページを見て「これは大変なことかもしれん」って思ったわけだ。これを読んだときに例えば

うわー。あらきのハンカチでコップをくるんだら、汚い結晶ができちまったぜ。あらきってワルいやつなんだー。
みたいなイジメだって可能だって思った。これはひどい。そりゃ「ウソも方便」なんて言い方もあるけど限度があると思う。

だからボクは最近の「ニセ科学批判」活動を、単純に「科学的にマチガイ」ってだけではなくて、「ひとを傷つけるから良くないもの」、さっきの5原則から言えば3番目の「他人に危害を及ぼさない限り」を踏みにじるものを批判していると考えている。(これはボク自身の独自の解釈に過ぎないのだけれど。)

だからはてぶのネガコメの中でbunoumさんの

食品業界では偽装食品を排除しようとする力が働く。どうして並存を認めようとしないのか。共存してもいいじゃないか。ダンボールが肉まんに使われようと中国産のウナギが国産として売られようといいじゃないか。http://b.hatena.ne.jp/bunoum/20070802#bookmark-5415601
が一番、ボクのツボを突いたのだ。うまい



さて次は社会学玄論 : 疑似科学批判が流行る理由というエントリを見よう。

社会学的な概念が散りばめられた立派な文章だ。ボクのようなアタマの悪い人間にはなかなか理解できそうにないので、がんばってやさしい言葉で書き換えてみた:

疑似科学批判が流行る理由は、明らかである。

 社会学的に言うと、現代社会イデオロギーとして科学が機能しているからである。つまり、科学という言葉だけで人々は思考を媒介とせずにそれが真理であると信じるわけである。このような知識社会学的な社会状況を背景に、科学のイデオロギー効果を利用して人々を騙すのが疑似科学である。それは、虎の威を借りた虚偽知識である。アカデミックな本当の科学の立場からこのような虚偽知識を批判するのが、疑似科学批判をする論客たちなのである。

これはこのように言い換えられるのであろうか?
大雑把に言えば、現代の社会では科学は「権威を持って無批判に受け入れられる知識」なのだ。つまり「これは科学的」と言いさえすれば、みーんな何も考えんと鵜呑みにしちゃうのだ。このような知識社会学的な社会状況を背景にだから、みなが鵜呑みにしちゃうことをいいことに人を騙すこまったちゃんが疑似科学なのだ。つまり「カガク的」なんてもったいぶったフリしたウソってこと。ちゃんと大学で科学をベンキョーしてる立場から、このウソにイチャモンをつけるのが疑似科学批判をする人たちなのね。
ふざけていると思われるかもしれないが、学的な術語の魔力を脱神話化するには、ほぼ同じ意味であろうと推定される下卑た言葉に書き換えるのが早道だ。
 しかし、科学を絶対視する点においては、疑似科学もそれを批判する者も同じ観察点にいる。この盲点に自覚的な論客は少ない。多くの疑似科学批判論者は、疑似科学批判の背景には、科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理があることを理解していない。言い換えれば、自己の理論の前提に盲目なのである。学問的には、このままでは、目くそ鼻くそを笑う域をでない。
これは次の意味だと受け取った(ふざけた表現を用いて済みません):
でもさ、科学が「とーってもエライもんだ」と考える点では、疑似科学もイチャモン言うひとたちも一緒だよね!でもこれに気づいているブロガーってあんまりいないよね。イチャモンつけている人はたいてい、科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてるって社会学的真理があるってワカッテなーい!もっと言っちゃうとさ、自分のコトわかってないよねー。学問的には、どっちもどっちだよ!

ツッコミの入れどころは沢山あると思うが、一つだけ取り上げよう。

「科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能している」という文があり、これをわたしは「科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてる」という意味に受け取った。

そして「科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理」が、次の文の「自己の理論の前提」と同じものであると受け取った。(なぜならこの二つの文の述語が「理解していない」「盲目である」であり、この二つの文が「言い換えると」で接続されているからだ。)


ここで冷静に考えてみよう。

「自己の理論の前提に盲目」と書かれているが、これはロジックを追って読み返すと、

科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてることに、科学者は気づいていない
という意味になると思われる。しかし考えてみよう、ニセ科学批判者は、ニセ科学の持つ「科学的なそぶり」の権威的な効果をハッキリ自覚している、つまりニセ科学蔓延の背景として「現在の社会には科学が一種の権威として盲目的に受け入れられる素地があること」を意識している。そうであるからこそ「まちがった知識を権威として受け入れてはいけない」と批判をしているのである。

 だから「自己の理論の前提に盲目なのである」というのは、社会学的分析としては明らかに事実と異なっている。そして残念なことにこの「批判者が前提に盲目であること」が全体の結論のようである。


たぶん「ニセ科学批判者には社会学的素養がない」という趣旨の批判をしたいのであろうが、たとえ「最初に結論ありき」にしたって、ここまで議論のロジックがおかしいのでは「目くそ鼻くそを笑う域をでない」。社会学、科学哲学以前の小論文のおはなしである。*2



…そして、僕はこの辺で力尽きて、他のページを見る気力が失せてしまったのだ。


*1:ここではhasenkaさんが定義のハッキリしない曖昧言葉で議論していることには触れない。とくに「一神教」「宗教」という単語の使い方を見ると、思い込みが激しく、イイカゲンな使い方をしている。(信仰の篤い人々に失礼だと思った。)これについては突っ込み講座 - 泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々)できちんと批判されている。

*2:コメント欄に「こういう書き方は、私の師匠から学び取りました。その方を誰か当てて欲しいです。」と書いてあるが、こんな議論の詰めの甘いヘリクツも言えない学生卒業させたの一体、だれよ!

sotosoto 2007/09/16 07:37 水伝のせいで、いじめが増えるとは思えません。まず先にいじめ(の動機)があって、たまたま目の前にあった水伝を道具に使うだけでしょう。水伝がなければ、別の道具を使うだけです

sotosoto 2007/09/16 08:09 追記です
ニセ科学を問題視する立場から「水伝がいじめの原因になる」といった批判がよくあるようですが、いじめ問題の側からも同じように「水伝によって子供に伝わる道徳観が、いじめを助長する」という批判への同調はどのくらいあるものなでしょうか

arakik10arakik10 2007/09/16 08:53 いじめが「増える」とは思いませんが、「たちが悪くなる」ことを危惧しています。たとえば「おまえはバカだ」と言えば「バカって言うやつがバカだ」のような簡単な反論ができますが、「お前がワルいってカガクテキにショーメーされてんだぞ、センセーがジュギョーでそういってたじゃんか」みたいな、反論のしにくい形で正当化の論拠にされたのでは、いじめられるほうは先生に相談もできにくくなるでしょうし、先生も自分の授業の内容との一貫性を問われ、誠実さを疑われることになるでしょう。
わたしは「他人が同調するかどうか」ではなく「○○の理由によって、良くない」という形でわたしの判断、意見を申し上げております。

sotosoto 2007/09/16 09:37 >「お前がワルいってカガクテキにショーメーされてんだぞ、センセーがジュギョーでそういってたじゃんか」

それも、たまたま目の前にある道具を利用しているに過ぎないと思います

>反論のしにくい形で正当化の論拠にされたのでは、いじめられるほうは先生に相談もできにくくなる

そもそも、いじめというのは、大概がそういうものだと思います

sotosoto 2007/09/16 09:39 追記です

>授業の内容との一貫性を問われ、誠実さを疑われることになる

授業の内容にもよりますね。例えば「結晶の所はただのお話だと言いました。ちゃんと聞いていませんでしたか?」

SEIKISEIKI 2007/09/16 12:36 横槍ですが、水伝でいじめが起こる可能性だってありますよ。
小さい頃のいじめなんて、突発的で遊びからくるものが多いですしね。
ところでsotoどのは水伝に対してどのような立場なのですか?
僕はあーいうのは消えてなくなればよいと思っております(嘘、言い過ぎました)。

arakik10arakik10 2007/09/16 15:15 わたしはあーいうのは消えてなくなればよいと思っております。ひとを「見た目で判断し」差別を肯定する含意があるからです。道徳を教えるのなら別の教材を使って欲しい。
「水からの伝言」はいじめである:http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20061112

sotosoto 2007/09/16 18:36 水伝授業はいじめを減らすのに有効だと考える教師もいるように思います。(下記参照)
私自身は、水伝授業がいじめに与える明確な影響は特にない、と思います。

> 私たち教員のほとんどは、いじめをなくしたいと思っています。
> 投稿者 アンクルディノ : 2006年11月24日 19:12
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2006/11/post_251.html

論宅論宅 2007/09/17 09:30  はじめしまて 放浪のブログコメント屋の論宅と申します。
「擬似科学批判が流行る理由」という私のエントリーを取り上げていただいてありがとうございます。あらき様の解釈はそのとおりです。実は、ロジックの間違いも本当です。しかし、この間違い(釣り)がなければ、ニセ科学批判者によるコメントはなかったと思います。あえてこのように表現したのは、科学者に科学がイデオロギーであることくらいはわかっているということを再確認してほしかったわけです。
 イデオロギーに付随する機能ですが、もう一つは科学的言説は現代社会では権力であるという点です。意識するしないに関わらず、ニセ科学批判という自らの言説も権力性を帯びざるを得なく、その権力性によって他者が傷つくかもれしないという点において、盲目になりつつあるのかと思いました。権力である限り、正当な目的のために公平に運用されるべきだと考えます。ニセ科学批判が文化破壊者にならないことを願っています。科学という権力をチエックするのは、誰の役目なのか、その点、興味あります。

技術開発者技術開発者 2007/09/19 04:52 こんにちは、arakik10 さん

水伝問題というのは、まさに「規範の根底」を覆い隠すものなのです。社会規範の根底は相互利害、つまり「人にされて嫌なこと、困る事は人に対してするな」なんです。水伝を教える事で得られるものは「規範(きれいな言葉を使え)に従え」であって、「規範の持つ相互利害の根底(自分がののしられるのが嫌なら自分も人をののしるな、自分が丁寧な言葉で話される方が気持ちよければ、人にも丁寧な言葉で話せ)を知れ」ではないわけです。

そして、その相互利害は人と人の個人間の関係ばかりでなく、社会全体の秩序を通じて個人に影響を与える訳です。社会秩序として「人を傷つけない言葉で話す」という規範が守られるときに、人は「誰かから口汚くののしられるのではないか」という不安を感じずに生きていけるわけですね。逆にそういう社会秩序があると、自分がその規範を犯しても、すぐに報復されるという事がないために、この相互利害への認識は薄くなるわけです。そのため文明的な社会では教育により、この規範の根底にある相互利害について教えないとならないわけです。水伝は規範に従うことを教えるだけであって規範の根底にある相互利害への認識を妨げてしまうものなので、教育として間違いなのです。

いじめ問題についても話されていますが、まさにこの相互利害から導かれる社会秩序の部分がおかしくなっているわけです。つまり、いじめに随伴的に参加するものは「反対すると次は自分がいじめられるから」と言うわけです。つまりそこで成立している社会秩序とは、「いじめに参加する方が自らのへ害が防げる」となっているわけです。水伝を授業にとりあげる教師たちは「現状がひどいのでなんとかしたくて」なんて言っていますが、その現状をもたらす「相互利害の認識が狂った子供の中の社会秩序」をさらに狂わせようとしているだけに見える訳です。

水伝授業について水伝授業について 2007/09/19 08:25 道徳『善悪は水の反応を見ることで決定できる』

A.この道徳が伝わらない
B.この道徳が伝わって、反発される
C.この道徳が伝わって、受容される

授業のやり方にも依存するとは思いますが、私はAのケースが大半だと思います。しかし、ニセ科学批判者の方達がご指摘のようにBやCのケースも可能性としてはあり得ます。
ところで、Bのケースであれば、その授業はむしろ反面教師として批判者の方から見れば却って良い影響を与えるように思います。Bのケースはともかく、Cのケースはほとんどないと思います。本当にCのケースが受容されているならば、「裁判の判決に水の判断を活用すべき」という意見を真面目に主張したりすると思います。ほとんどオカルトですね。

補足補足 2007/09/19 08:30 他者性は、むしろ「自分に心地良い音がある人には耳障り」といったことではないかと思いますが

関連関連 2007/09/19 08:50 社会学玄論:『科学の道徳化現象』
http://mercamun.exblog.jp/7461836/

要するに要するに 2007/09/20 03:16 何か、理解できた

>言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い

>“大人の発言には掛け値がある”という疑いを持ちにくく、持ったとしても、はたして掛け値がどのくらいなのかを慮ることが困難であるため、発言者の願望を載せて物事を大げさに表現すると狙った効果は効き過ぎることになる

>不合理なものはアスペルガーの人が嫌う対象となる

アスペルガー症候群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

逢坂逢坂 2007/09/26 19:52 社会学玄論のコメント欄が復活しました♪
http://mercamun.exblog.jp/7461836/

宮台の駄目ブログ宮台の駄目ブログ 2008/01/16 21:35 蔓延するニセ科学批判?

> 新刊の『現代の理論』新春号ですが、「日本国家の品格を問う」というのが特集で、いろいろ載っていますが、
> 後藤和智「さらば宮台真司」が、「俗流化」「ニセ科学」を経て「結語ー葬送」に至るという大変刺激的な論考です。

投稿者 hamachan 時刻 13時04分
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_e216.html