あらきけいすけの雑記帳

2010-11-15 (Mon)

「3×5≠5×3」なんて指導するくらいだから、「日本人には創造性が無い」「創造性の芽を潰す」と言われるのももっともだ

注:2010.11.18に「追記」を書いた。それと同時に表題を『「3×5≠5×3」は「ノーマライゼーション」あるいはその逆の「ファシズム」の問題だ、「算数・数学」の問題ではない!』から変えた。

村上春樹の『卵と壁』を念頭におくと、ここには二人の『卵』がいる。ひとりはもう既にフルボッコ状態のトピ主の教師であり、もうひとりはこの教師に算数を習う児童である。ここでは幼い『卵』を擁護する。

かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetterまとめ

まず、これは思想統制であり、ノーマライゼーションの逆である

これを「算数・数学」の問題としてみるから議論が平行線になる。これは「ノーマライゼーション」あるいは逆の「ファシズム」という文脈で捉えるとすっきりするはずだし、ひょっとしたら建設的な議論ができたかもしれないとも思う。

極端に簡略化して言うと、児童全員に同じ解法を強制している(試験でバツをするというのは「強制」の印である*1)ので、これは解法、考え方の多様性を教師の権力で認めないという意味思想統制である。

ここにはどのような社会でも必ず存在する「極端な人」---それはちょっとませた秀才かもしれないし、学習障害の人かもしれないのだが---の「その人にとっての、その人の発達段階にとっての合理性」を踏みにじるものがある。

例えば Togetter での irobutsu さんの反応を見ていると、算数、数学の用語にあふれてはいるけれど、「児童の置かれた状況を勘案せずに、解法を強制するなんて、反自由主義的な行為が正当化されるの?」と読み替えるとすっきりする(とあらきには思える)。

これは教育法の問題ではなく、「ふつう」からはみ出てしまった子供に教師はどう接するべきかという問題なのである。

教育の目標は、本当は何なのか?

この議論の中で非常に気になったことは、目先の教育法に対して議論が集中してしまい、本当は子供をどのような状態に育てたいのかという目的を忘れていることである。正直言うと、大学教師も何人も参戦していて、こんな目先の議論に終始しているというのが情けない。

おそらく教育の目標のひとつは、最終的に「中学卒業する段階で負数も含めた四則演算の計算ができ、現実問題への応用ができること」にあるはずであり、その最終目標に近付くルートはひとつではあり得ないし、今回の積の演算をどう教えるかの話もその遠大なプロセスのごく一部にすぎない。

おそらく大半の児童にとってはこの方式での教育が合理的な方法のひとつなのであろう(ただし数学を教えている身として考えると、「ベストの指導法がひとつ」という発想*2は算数・数学教育の最悪の敵である)。問題はそれに乗れない児童に対してどう接するかという問題である。

ここで「乗れない」ごく少数の児童に対して、この先生は「ペケを与える」という態度で臨んでいる。ここに欠けているのは「ペケ答案には、ペケ答案に至るまでの、その児童にとっての考え方の筋道」があるはずだという認識である。とくにここで問題になっているのは「3×5」と「5×3」という「正しい値を出す演算」である。その「誤答」にいたる筋道を掘り起こしてみるべきではないのか?ひょっとしたら可換性の概念イメージを既に持っていて、どっちでも良いと知った上で急いで答案を書き殴ったかもしれないし、逆になんらかの学習障害を抱えていて、図式的思考がこの答案の順番以外ではうまくいかないのかもしれない。それは丁寧に聞かなくては、わからないことである。

理科教育の専門家の左巻さんのエントリ子どもの認識にゆさぶりをかける授業を(20余年前に書いた小論) - samakikakuの今日もワハハ SAMA企画がある。その中にこうある

学校には、正答主義という、おかしな考えがいきわたっているような気がしてならない。

 正答主義とは、正しくないと答えとして認めず、まちがいをバカにする考え方だ。ハイッ、ハイッといきおいよく手があがるが、さされた子どもがまちがうと周囲から笑いがおこり、まちがいをいった子どもは下を向く・・・なんて光景がよくみられるのである。

「3×5≠5×3」には二つの悪しき「正答主義」がある、ひとつは「3×5≠5×3」そのものだが、もうひとつは「この指導法が正解という教師の態度」である(これはエントリKidsnote- において「説明」はあっても「批判的分析」が無い*3ことから明らかである)。どのような教育手法にもその長所短所があり、時と場合に応じて手法を使い分けるべきである…ということがこのトピ主教師の頭の中からすっぽりと抜け落ちているようである。

このTogetterの「読者」のあるべき態度

最後にもうひとつの『卵』も多少は擁護したい。

まず小学校の教師の業務内容、教育内容は多岐にわたる負担の多いものである。それから現在の初等教育の現場の困難を新聞等で見聞きして、それを勘案すると、この程度の杓子定規はある程度、がまんして、家庭での学習、会話などでカバーすべきものかもしれない。なぜなら現場の困難は、教師にその解決を押しつけるものではなく、児童とその保護者が家庭環境も含めて協力して克服しないといけないからである。おそらく家庭でこんな声かけをして、この差別主義的な部分をカバーすべきであろう

先生も大変なんだよ、ちょっとだけ我慢しな。おとなになったら掛け算の順番なんて大したことはないんだよ。
子供の成長を長い目で見て、目先の事をしれっとやりすごすのも、親の持つべき「大人の知恵」なのではないか。

追記 2010.11.18

3x5と5x3問題に文句を云っている人に言いたい

増田氏の「答えを出す過程が大切」という意見には同意する。でも算数、数学の持つ「抽象化の力」への洞察が足りないんじゃないかと思う。

いままでのあちこちの議論を読んでいてきちんと書かれていないなと思ったことは、「3×5」にしても「5×3」にしても紙の上に書いた時点で思考の過程の痕跡をきれいさっぱり消し去るということ。(3や5に「単位」をきっちりと書き添えたら話は違ってくるけど、そんな指導はしてないみたいだよね。)

「どっちだっていいじゃん」派は、思考のプロセスはいろいろあるはずだから、演算の順序を無理に一個に統一しなくてもいいんじゃないかと思っている。それに掛け算の順番ひっくり返しても答えが同じになることは、九九の表を覚えされられたときに気付くんじゃないかな。

だから、ぼくは「式を書くときに単位をきちんと書かせるようにします!」と擁護派が主張したら、議論はピタリとやんで、みんな納得しちゃうんじゃないかと思う。だって批判派は「それなら逆に書いても思考の痕跡は残るから」と思うだろうから。(でも2年生の全体に「単位」の考え方って教育できるのかな?)


算数の式を書いたときに思考過程の痕跡が無くなるから、その式では見えない思考過程をちゃんと子供に聞こう…とボクはこのエントリで主張した。

算数の式を書いたときに思考過程の痕跡が無くなるから、その式はどんな思考過程を経ているのか、どんな思考過程があり得るのか色々と沢山考えて見るべきなんじゃないかな…その答案を書いた人の思惑を越えて…とぼくは思う。

ちょっと極端な例を挙げよう…運動方程式だ。

運動を記述し計算をするだけならば、ニュートンの方程式だけで十分だ。でもニュートンの運動方程式を式変形してラグランジュの運動方程式にすると、例えばロボット工学で多リンク系の運動を深く考えずに…でも100%正確に記述するのに便利だし、ハミルトンの運動方程式にしたところから光学と力学の類比ができて、それが量子力学の波動方程式につながっていく。つまり式に対する見方をひとつに固定しないおかげで、世界を把握する力が増えていくというわけだ。


ぼくはかつてこれを嘲笑うぐらいだから、「日本人には創造性が無い」「創造性の芽を潰す」と言われるのももっともだ - あらきけいすけの雑記帳というエントリを書いた。「エネルギー保存」なんて正しい知識を杓子定規に振り回したって創造性にはつながらないぜ、極端なことを考えてみていろんな可能性を考えてみようぜと言いたかったんだ。

そんなボクの目から見ると「3×5≠5×3」は、先生が算数・数学の持つ「抽象化」の力を把握していないし、先生が具体的なものと抽象的なものの間の思考の切り替えが十分にできていないから、杓子定規になってヘンテコな主張になるんだと思う。「単位なしで式を書く」ということは猛烈な抽象化だから、そこに具体性の痕跡を残せというのは、算数の本当の力を殺いでいる。


「3×5」と書いた瞬間にそれまでの具体的なイメージは消滅する。そしてそこに新しいイメージで物事をとらえ直す可能性がでる。ボクは増田氏が算数のもつ本当の力、抽象化とそこから想像力を広げることで世界を広げることが出来ることを理解していないことにショックを受けている。


こんな思考に枠をはめる杓子定規が、なかなか大きな新しい産業を興せないでいる日本にとって、一番不要なものじゃないかな。


*1Kidsnote- 写真を参照のこと。

*2:「指導法はひとつと考える人」ではなく「指導法はひとつという考え」が敵なのである。ただし現実の授業ではどれか一つの方法を取らねばならない。二つ以上の方法で2回指導したら児童が混乱するだろう。

*3:「批判的分析」が無いとは、一体、大学で何を習ってきたのかね?

算数マニア算数マニア 2010/12/01 15:04 誤解があるようですので、いくつかの情報提供です。

まず、これは日本だけではありません。海外でも同様に扱われております。決して日本だけが乗数と被乗数にこだわっているわけではありません。
http://www.n-ishida.ac.jp/main-office/tyuto/09/kiyou2009/P3.pdf
ここにあるようにイランやアメリカでも、乗数と被乗数へのこだわりが見えます。英語圏では、言葉自体がこの順序に影響を与えるので、軽く扱う程度と、アメリカの研究者に聞いたことがあります。
中国では、以前は乗数と被乗数を区別するように学習しておりましたが、新しい教育課程からは、区別がなくなったそうです。理由は、みんな間違うから。それで中学以降の因数を小学校へ持ち込むことになったそうです。その結果、量の扱いについて不具合がおき、教師の対応で乗り越えているとのことです。

また、
>これは解法、考え方の多様性を教師の権力で認めないという意味で思想統制である。
については、著しい誤解です。

授業例を紹介します。
http://kusunoki.hs.plala.or.jp/sidouann/2nensidouann.pdf
ここで、24個の机の数の求め方で、「2×9+2」「8×3」「6×4」「2×6+2×6」と4通りの求め方が出ています。こうしたそれぞれの考え方を認めています。それが今の算数教育の主流です。
このそれぞれの考え方を表現するためには、共通理解が必要です。かたまり×いくつ分で表現しようということは、表現の共通理解であります。この共通理解を思想統制と言われているのです。
5×3と書いた子どもが、違う考え方を持ち、他の子どもと共通した表現方法で立式したというのであれば、×にはなりません。
(この写真からは、そうした状況は読み取れません)
日本の教室は担任制ですから、教師は、この子はこう考えるだろうというのが、大まかに予想できます。そして、このテストの前には、こうした順序についての学習もしております。その後で5×3と書いたのは、この子の理解に何らかの問題があったと考えるのは通常です(×をつけたのは適正かどうかは別です)。

「【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が小2のテストでは誤答なのか」で書かれていたことは、こういうことです。

文字式で「ax」と書くところを「xa」と書いた生徒がいたとします。この「xa」を認めることが自由な発想と言えるのでしょうか。やはり「ax」と書いた方がよいと指導するのではないでしょうか。「xa」と書いた生徒は、定数と変数の理解に問題があると思われるのではないでしょうか。
また、円の方程式を書きなさいという問いに、展開された式を書いた場合はどうなるのでしょうか(数学の評価については、よく知りません)。

小学校では、式を「表現」と「形式的処理」の2面で考えます。
子どもは、文章題を数学的に「表現」し(立式)、その式を形式的処理をして答えを求める過程をとります。ここで「表現」されたものが、適切であるかどうかを見ることが、思想統制なのでしょうか。
円の方程式を書くというのも「表現」でしょう。ここで展開された式を書くのはどうかと思います。文章題から立式したものも、まず展開されていないものを書く方がよいと思います。

ここで子どもたちに身につけさせたいのは、文章題の解き方だけではありません。それぞれの数の意味を理解していること、状況を的確に式に表すことです。表現のルールはローカルルールでかまいません。教室内だけで通じるものでもいいのです。
そしたことが、この問題の背景にあることをご理解いただきたいと思います。

arakik10arakik10 2010/12/02 06:18 算数マニアさま、コメントありがとうございます。
海外の情報や、「24個」の授業案の紹介などの貴重な情報をありがとうございます。
しかし、あなたの説明の手順、論の進め方には、いわゆる誤謬推理の要素がありますので、どこがそうなのかについていずれ丁寧に説明したいと思います。

算数マニア算数マニア 2010/12/02 10:14 あらき 様
ご返答ありがとうございます。
後出しじゃんけんのようで恐縮ですが、後半の3つの段落は思いつきを羅列したもので、論と言えるものではありません。ご指摘いただければうれしいです。
それ以上に、ここでご紹介した情報をもとに、あらきさんがどのようにお考えを変えるのか、もしくは変えないのか、そのあたりをお示しいただければうれしいです。

算数マニア算数マニア 2010/12/09 10:31 あらきけいすけ 様

この問題も下火になってきた感がありますが、ちょうど学校でこの内容を学習する時期でもあるので、現場で変な混乱が起きないかも心配です。特に研究者の方の意見はそれなりに影響もあるかと思います。

前のコメントでは情報提供のみと思っておりましたが、その後考えたこともふくめて整理しました。

この問題を次のように考えます。
・かけ算の順番は数学の内容ではなく、表現の形式である。
・表現の形式を統一することは意味があり、思想を統制するものではない。

次のことをここでは前提とします。
 乗法には、大きく分けると?「同数累加(倍)」,?「量×量(積)」,?「基準量×割合」の3つの意味があり、今回の問題では、?の意味に限定する。

本論
1 かけ算の順序は数学的な内容か
 かけ算の順序は、国によって違い、普遍的なことではない。普遍的ではないものは、数学の内容ではない。したがって、かけ算の順序は、かけ算の表記の形式である。

2 日本において被乗数×乗数の順序は一般的なルールか
 日本語においては、a×b=被乗数×乗数 の順序である。(大辞林)
 日本の数学においてもa×b=被乗数×乗数 の順序(数学小辞典 共立出版)
  ともに、乗数を「乗法で、掛けるほうの数。a×bのbをいう」と順序で記述
 かけ算九九は被乗数×乗数である。

 よって、日本においてはかけ算を被乗数×乗数で記述するのは一般的なルールである。

3 被乗数×乗数とはどういうことか。
 他の演算と同様に 被乗数に対して「×乗数」という作業がなされること。
 a×bであれば、aをb倍する、aをb回足すなど。
 よって、3×5は、3の5倍または3+3+3+3+3を意味することになる。

4 こうしたルールを強制することは問題か
 例えば円周率をπで表記することは普遍的なことではない。世界中で明日からqと決めれば変更も可能である。普遍的に通用する考え方ではない。円周率の値は普遍的な内容。
 わり算の記号は、日本では「÷」だが、ドイツでは「:」である。であるから、この演算記号も特殊ルールである。(÷は学習指導要領に明記)。
 こうした表現の形式を統一することは、必要なことである。人によって円周率の記号を変えたり、演算記号を変えたりするのでは適切ではない。

5 表現の形式をそろえることの教育的な意味
 先に紹介した24個の机の数の求め方の事例で、子どもたちから出た「2×9+2+…」「8×3」「6×4」「2×6+2×6」が解法である。ここでは4通り紹介されているが、実際の授業ではもっと多くの方法が出たであろう。
 ここでは表現の形式を統一したことにより、それぞれの多様な考えが表現できている。形式の統一は、多様な考えを保証することになる。
 こうした学習から「3×8は8×3と同じ24だから、この教室だと3人ずつ8列で並んだ方が、うまく収まります」のように式で思考したことで新しい発見が生まれることもある。
 これが、「式で表し、式を読み、式で考え、式で説明する」ということである。こうしたことができる子どもを育てることを算数教育では目標としている。

以上です。
いかがでしょうか。

算数マニア算数マニア 2010/12/09 10:34 すみません。
前提の?は丸数字です。
初歩的なミスでした。

前提は、ここでは乗法を「同数累加(倍)」の意味に限って考える、ということです。
そのように読んでください。

arakik10arakik10 2010/12/12 07:24 算数マニアさま、コメントありがとうございます。
いずれコメントいたします。「算数」よりはちょっとだけメタな水準で頭を整理してみます。