あらきけいすけの雑記帳

2013-01-19 (Sat)

大学入試学力を計るものではないことを改めて感じる

ひさびさに入試国語小林秀雄を見た。

と言っても試験監督をしたときくらいしか、国語の入試問題なんか見ることもないから、出題頻度なんか知らない。

刀の鍔(つば)の話である。いかにも小林らしい「目利き自慢」のエッセイである。当然のことながら、歴史的考証をスノッブ侮蔑しつつ、目の前の鍔の鑑賞をもったいぶって書き散らしている。室町末期に鍔の装備が一般的になって、戦争が日常の状態で明日の生死も計り知れぬ時代にあっては、鍔の装飾も後の時代に比べれば質素だが、所有者の覚悟が伝わってくるような素晴らしい仏教的デザインであり、またこのデザインの背景となったこの時代の仏教の受容も現代とは違ってもいよう、その名残が地方の琵琶演奏に残っていて云々、、、という、主題があっち行ったりこっち行ったり、いかに情趣の理解が深かろうとも、文章構成としては好き放題の感想を書き散らしているだけの駄文である。こんな文章は年の行ったジジイが日曜の朝にモオツアルトのレコオドでも聞きながら暇つぶしに読むのが似つかわしい。

こんな文書が自分の目の前で18歳前後の若者を選別する道具に使われるのを目の当たりにして、日本が本当に「技術立国」を目指した教育をする気が無いこと、所詮大学受験チューニングされた勉強の総決算の一つとして「センター試験」が位置づけられていることがひしひしと感じられて、暗澹たる気持ちになった。

(今年のセンター入試の出題が悪問過ぎたという部分もあるかもしれない。)


そもそも大学入試は学力を測るものではない。


入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。

東大京大に入った人は、学力があったから入ったというよりは、そのときの受験生集団、そのときに出題された問題に関して、点数がたまたまボーダーラインの上にいたというだけである。出題された問題によってボーダーライン付近人間はごっそりと入れ替わる可能性がある。もし本当に学力を測っているのならば、入学定員に関係なく「学力水準」を達成した人に入学許可を与えるのがスジであろう。教員教室をどう割り当てるかという経済的な理由があるから、学力によらず毎年、一定数の学生を入学させているのである。


入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。

だから良い入試問題とは、その大学のその年の受験生集団に対して、点数の分散が大きく、線引きが容易になるような試験問題である。東大にとっての良問を岡山理科大に出しても誰も解けないし、岡山理科大にとっての良問を東大に出しても点差が付かない。自分の大学の「身の程を知る」ことが良い出題の前提条件である。


小林秀雄にしても、小説の牧野信一にしても、そのような文脈で60万人の人間に序列をつけ、線引きを行うために、わざと分かりにくい、奇妙な文章を出題して、文章の構成要素を「文脈を斟酌して読み込む」技術の達成度を見ているのである*1。これが解けて何が嬉しいというのであろうか?しっちゃかめっちゃかな文章を批判的にではなく「とりあえず丸のみ」にして要素の解析を強要するのである。これでは将来、自分が作文をする段になったときに、事実を正確に記述し、合理的に論理を組み上げるトレーニングにはならない。このような問題に対してハイスコアを目指すための勉強を18歳年齢人口の約1/2弱の子供たちが強要されている(といっても、真剣に取り組んでいるのは上位層だけだろうが*2)。


結局、センター試験の国語は基礎的な学力の達成度を測る指標とではなく、技巧的な構文解析、文脈解析の指標としてしか機能していない。


多分、「技術立国」を目指した教育の文脈で、高校3年程度の過半の人口に対して、国語に関する基礎的な学力を測るには、出題の題材としてはもっと素直でロジカルな文書、例えばOECD報告書のアブストラクトのような文書を読ませて、内容の正確な読み取りがどこまでできるかを問うべきだと思う。標語的に言うなら「TOEFLTOEIC日本語にしたようなテスト」で、センター試験のような量の文章を出題し、ひねくれた文章の読解がうまいから点が高いのではなく、多様な分野の論理的で素直な文章をトータルの分量をかなり多めにして出題し、素朴に語彙が多くて正確に速読できるほど点が高くなる(「選別」ではなく能力測定が目的なので母集団の得点分布は気にしない)という形になるような試験であれば、学力を測るツールとして機能するのではないかと思う。*3


10年後に典侍がこのような愚劣な問題にコミットさせられるかもと思うと、さらに暗澹たる気持ちになる。

*1:これに限らず、日本の国語教育の題材の奇妙さについては石原千秋の著作を見るといいだろう。

*2ベネッセ 教育情報サイト|育児から受験に役立つ情報まで

*31月21日に「標語的に…」より「…機能するのではないかと思う」までを追記。もちろん今のセンター試験でも「結果として」語彙が多くて正確に速読できる受験生の点は高くなるが、最初から意図的に語彙と速読力を素直な文章を用いて測ればいいのにと思う。

kt66kt66 2013/01/23 10:01 技術立国のための言語教育が理想であるというご意見ですが、それならば、徹底した英語教育が求められるでしょう。特に理系学部では日本語で授業を行う理由は見当たりません。何国人にもなる必要がないわけですから。
そこまでの覚悟もなしに、小林や牧野の達意の文章を、駄文、わかりにくい奇妙な文と述べることは、理系の人間(私は理系文系の区別など人間の理性にはないと思いますが、あえて目には目をという気持ちで述べます)の稚拙な言説以外のなにもでもないと思います。
貴兄の文脈に寄り添えば、私は、理系進学を目指す者に、古文や漢文の試験を課することは無意味だと断言できます。
何国人にもならない、どの風土に生きていても、物質的な新陳代謝しか行わない身体に、古典の栄養物は害悪にしかならないからです。
技術だけで立国が可能であるということは幻想であると、理系人だからこそ悟っていた先達に、今こそ深く学ばなければならないと思います。私は寺田や、湯川や、朝永や、武谷らの珠玉のエッセイに心打たれることが屡々あります。

グラさんグラさん 2013/01/26 10:54 著者の意見に大賛成。技術立国なしに、日本は生きていけない。反論を書いている人がいるが、そんなの無視してかまわないと思う。古文・漢文はいらない。日本人だからといって、伝統や自国の歴史にしがみつきすぎるのも良くない。昔の時代とは違うのです、現代は。現代人らしく生きるには、ITを使いこなし、世界で勝負できる人材が必要。伝統や日本史や古文・漢文や文学など、日本が食っていくのにどれだけ必要性が薄いか。日本の侍や手裏剣や相撲などを売りつけたいなら、話は分かりますが。変な反論を書いている人もいますが、説得力なし。良い記事、ありがとうございました!