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北の考古学─日々の着想

2017-03-29

縄文の日々

ユリイカの縄文特集が刊行になりました。
よろしければご一読ください。
執筆中の本は、あと一息というところまできました。
日々緊張感を切らさず、一つの流れをつくりだしていくのは精神的にかなりキツイです。
年齢のせいでしょうか。
そろそろ限界に近づいてきたかんじなので、そのまえに完成になだれ込んでいきたい。
自分でいうのもなんですが、自分史上最高の出来、なおかつ最強のインパクトです。

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2016-12-19

海民の「砂浜埋葬」と奥尻島


2016.11.3記事「古墳時代海民の奥尻島渡島」では、土製模造品の鏡が本州古墳時代の海民にかかわる文物であった可能性を指摘し、奥尻島青苗遺跡で出土した土製模造鏡にも本州の海民集団の関与が考えられること、さらに祭祀具という性格からすれば、モノだけが伝来したのではなく、本州の海民が奥尻島へ渡海し、現地で祭祀をおこなった可能性も考えられるとのべた。

また6.11.1記事では、礼文島で出土した古墳時代の直弧文をもつ鹿角製刀剣装具も、古墳時代の本州海民に関係する文物と指摘されていることから、弥生時代から古墳時代にかけて、本州の海民集団が北海道日本海側の島嶼へしばしば渡海していたとみられる、とのべた。

さて、この奥尻島青苗遺跡では、土製模造鏡の出土位置に近く、地面に横たえた遺体を火葬し、そのうえに盛り土をおこなったらしい葬送遺構がみつかっている。このような葬法は、続縄文時代から擦文時代にかけて、さらにはオホーツク文化のなかにも認められない、きわめて特殊な葬法である。

そこで注意したいのが、古墳時代の志摩半島海浜部で、石棺等の施設を設けることなく、地面に遺体を横たえた「砂浜埋葬」がおこなわれていた事実である(穂積裕昌2008「伊勢・志摩・熊野と海人考古学」『海人たちの世界―東海の海の役割』中日出版社)。志摩市地蔵遺跡では、この「砂浜埋葬」の副葬品として、直弧文をもつ鹿角製刀剣装具がみられる。

「砂浜埋葬」は和歌山県でも確認されており、同県の田辺湾に面した田辺市磯間岩陰遺跡では、海岸砂丘上ではなく海蝕洞窟内に遺体を安置した例も確認されている。興味深いのは、この磯間岩陰遺跡でも、直弧文をもつ鹿角製刀剣装具が副葬されていることである(穂積前掲)。このような葬法は、確認が難しいことを考えると、ほかの地方の海浜部遺跡でもおこなわれていた可能性がありそうだ。

火葬という点では、奥尻島の葬送遺構と「砂浜埋葬」は異なる。しかし、火葬という特殊性をただちに大陸の葬法に結びつけてしまうまえに、本州のとくに海民の習俗のなかで、この葬送遺構を見直してみる必要もあるのではないか。

2016-12-16

アイヌ神話の構造(5)


アイヌの海民と高山信仰
本州の漁民だけでなくもちろんアイヌの漁民も、山ダテをもとに海上での位置を知り、水深によって異なるさまざまな魚種の漁をおこなっていた。

たとえば日高沿岸の場合、「sirkap(カジキ)やheparup(マンボウ)をとるとき、クピタ(山の名)、アポイ岳、厚賀山、シチプ(山の名)、モチプ(同)をみながら船の位置を知ったらしい」(静内:道教委編1984『昭和58年度アイヌ民俗文化財調査報告書』)という。

このうちアポイ岳は、日高山脈の主稜をはるかに離れ、海岸に近く位置する標高約800mの山であるが、様似アイヌはkamuy nupuri(神の山)と呼び、次のように考えていた。

「この山にはカムイが住んでいる。女のいくところではない。おやじらは俺たちを絶対に連れていかなかった。(中略)そこにいったらkamuy nomiしなければ、絶対にempisiきかない(漁がない)」(様似:道教委編1985『昭和59年度アイヌ民俗文化財調査報告書』)。

つまりアポイ岳は、容易に立ち入ることのできない山の神が住まう聖域であり、この神にたいして不敬があれば漁ができない、と漁民たちは考えていたのである。

アイヌにおいても、山ダテの対象である高山は漁民にとって信仰の対象であり、その神は漁を左右する存在であったことが知られるのである。

2016-12-09

アイヌ神話の構造(4)


日々の着想のメモゆえ、とりとめがないのはお許しを。

墓地をヤマと呼ぶこと
お宮の境内などに木が一カ所に集まって生えている場所のことを、モリではなくヤマと呼ぶ地域が、九州南部と南島を中心に九州北西部、瀬戸内海沿岸、太平洋沿岸各地、北関東、東北北部に分布がみられることから(国立国語研究所1970『日本言語地図』第4集)、その分布は海民と関係するものか、と指摘した(2016.11.15「海民と聖域」)。

そのこととかかわって、墓地や墓などをヤマと呼ぶ地域のあることが注目される。大林太良は、山上他界の観念と関連して、次のような例を挙げている(大林1965『葬制の起源』)。
隠岐島―――――――墓地=エーヤマ
奄美大島――――――風葬地=グショヤマ
中通島(五島列島)―棺=ヤマオケ
壱岐島―――――――葬地の決定=ヤマギワメ
対馬――――――――喪屋に住むこと=ヤマアガリ
佐久島(愛知県)――火葬骨の納所=ヤマバカ
愛知県下――――――墓地=クサヤマ
西宮市広田―――――埋め墓=ヤマバカ
青森県碇ヶ関村―――埋め墓=ヤマバカ

ほかにも、墓堀り人をヤマと呼ぶ例は次の地域でみられる(佐藤米司1971「穴掘り」『近畿民俗』53)。
滋賀県―――――――ヤマド・ヤマシ・ヤマイキ
三重県―――――――ヤマシ・ヤマイキ
奈良県―――――――ヤマシ
兵庫県―――――――ヤマイキ
鳥取県―――――――ヤマイキ
兵庫県旧香住町―――ヤマノシュウ
佐賀県旧久間村―――ヤマイキノヒト
壱岐島―――――――ヤマンヒト
隠岐島―――――――ヤマゴシライ・ヤマゴシラエ
新潟県―――――――ヤマゴシライ・ヤマゴシラエ
高知県―――――――ヤマウチ・ヤマト
鳥取県旧小田村―――ヤマホリ
島根県旧北浜村―――ヤマトリ
和歌山県旧川添村――ヤマタテ
神奈川県旧青根村――ヤマバ

山の神が、祖霊や死霊と関係するであろうことは、多くの研究者によって指摘されてきた(堀田吉雄1966『山の神信仰の研究』、ナウマン1994『山の神』など)。神域の森をヤマと呼ぶ背景には、そのような山をめぐる他界の観念もかかわっていたのだろうか。

川はどちらの世界に属するのか
いずれにしても、アイヌや海民の高山訪問譚からみるかぎり、かれらの世界は海と山で構成される二元的な構造をもち、水稲耕作が展開する平地は含まれていない。

和田萃も、高山訪問譚のモティーフとかかわる海幸彦・山幸彦神話に関して、「この神話伝承の段階では、まだ稲穂が稔る葦原の中つ国の領有、あるいは統治ということは問題になっていない」と指摘している(和田2008「大王と海民」『海人たちの世界−東海の海の役割』)。

そのうえで和田は、ワタツミの神(海神)が山幸彦のホオリノミコトに、自分は川の水も支配し、したがって田の水利も自由にできるといったことをもって、海神は海と川を支配する存在であったとのべている(同上)。

海民の世界観を構成したのは「海と山」であるが、両者をつなぐ「川」は水域という点で、具体的には船で移動可能な世界という点で、海民の世界観のなかでは、かれらに帰属する世界となっていたのだろう。

自然知のなかの山
では、なぜ海民の世界は海と山で構成されていたのか。それは、かれらが山を死霊の世界から天上のあの世への跳躍場所とみなしていたらしいこととかかわるものだろう。しかし、そもそも海で暮らす人びとが山を信仰の対象としていたのはなぜか。

実は、漁撈や船での移動といった海民の暮らしそれ自体、山なしでは成立しなかった。海民は、海上から山を目標にして船の所在を知る、山バカリ・山ダテ・山アテなどと呼ばれる測量技術を駆使した。

この山ダテの技術は精緻をきわめた。たとえば、「三浦半島で漁船を借りて魚礁を調査した時、そこは沖の浅場で陸地は遠かった。私には山立ての目印など見当たらない。しかし漁師は何の迷いもなく船を止めアンカーを打った。『ちょっと通り過ぎた。アンカー沿いに潜って、船が来た方向へ戻れ』と言われたのでそのとおりに進むと、魚礁が現れた」という(神奈川県水産技術センターメルマガVOL.247 2008)。

また、宮城県唐桑町の老漁師は、水深20メートルの深場の岩礁に付くホヤを、山をみながら船いっぱいになるほど採ったという。「魚は海にいるのではなく山にいる」「魚は山で釣る」のであり、そのため山ダテの技術は代々語り伝えられていったのである(川島秀一2003『ものと人間の文化史109・漁撈伝承』)。

山ダテなしに船を沖に出すことは、真の暗闇のなかを進んでいくのと同じことであった。気仙沼湾の沖では、山ダテの目標になる氷上山(875メートル)が50マイル沖でみえなくなる。この位置を「小檜山つぶし」といい、五葉山(1341メートル)がみえなくなる70マイル沖を「大檜山つぶし」といった。そこから先は沿岸の山は一切みえないが、カツオの好漁場だったので、大檜山(五葉山)をたよりに、帆と八丁櫓だけのカツオ船をはるか沖合まで漕ぎだしたという(同上)。

海民の生活は、「不変」の山々を基盤に据えた、複雑な自然知の体系によって成立していたのである。

海民が山の神に祈ること
そのため海民は、山の神を信仰した。たとえば、宮城県気仙沼市の小々汐という漁村では、正月になると沖まで船を出し、神を遙拝する。バケツに汲んだアラシオ(海水)を船の各所にかけて大漁を祈り、最後に右舷から北上山地に向かって、サイノカミ(山の神)に「山のハカリがみえますように」「早く山をみせてくだされせ」と拝むという(川島前掲)。

福島県いわき市の漁民は、小川町桐ヶ岡の山の神を信仰し、10月の御縁日には参詣して「山をみせてください」と祈る。岡山県真鍋島では、山の神が漁業の神として信仰され、城山(127メートル)の岩場に、山の神の好むオコゼを供える。漁民が山の神を信仰し、オコゼを供える例は、ほかにも三重県南島町にある(同上)。

三重県の旧相差村という漁村では、旧暦の7月に「浜祓え」と呼ぶ湯立ての神事をおこない、山の神の憑依した巫女が悪日を知らせ、その日は海に出漁しないことになっていた。女性が山の神を祀る習俗は、三重県の各地でみられた(堀田前掲)。

さらに気仙沼地方の漁師は、毎年七月の土用などに五葉山、早池峰山、岩手山に登拝する「南部参詣」をおこなっていた。「山アテになるほどの山々はまぎれもなく霊山崇拝の対象」だったのである(川島前掲)。

山の神は狩猟民や農耕民と深くかかわる存在であったが、海民もまた、漁業や航海をめぐって山の神と深く交流していたのである。

なお、ここで注意しておきたいのは、海民が毎年、霊山となっていた高山に登り、山の神に豊漁や安全を祈る姿が、古代海民やアイヌの「高山訪問譚」、つまり海の神が毎年、山の女神に会うため山へ向かうモティーフと重なることである。(続)


2016-12-07

アイヌ神話の構造(3)


神話の三角形
アイヌの伝説には、海の男神であるサメの類いが、山の女神に会うため川を遡上し、山へ向かうという、「風土記」の古代海民の神話と共通するモティーフがみられる。では、両者に共通する神話は、かつて日本列島に広く存在していた神話なのだろうか。あるいは、日本からアイヌに伝わったものなのだろうか。後者とすれば、それはいつ、どのように伝わったのだろうか。

実は、『古事記』のなかにも、この「高山訪問譚」やアイヌの他界伝説と共通するモティーフが認められる。この『古事記』、アイヌ、古代海民の三者の神話の関係をとおして、アイヌ伝説の成り立ちについて考えてみたい。

a. アイヌ−古代海民
アイヌと、「肥前国風土記」「出雲国風土記」の古代海民の神話は、サメの類いである海の男神が山の女神に会うため川を遡上する、山の女神は海の神を阻止する、というモティーフが共通する。

アイヌ神話では、山の女神は「私を恋い慕っても夫婦にはなれないので……私のことは忘れて、シャチの女神を妻とせよ」と海の神にいう。山の女神が海の神を阻止するのは、海の神を嫌っているからではなく、何らかの事情によって、山の女神は海の神の来訪を押しとどめざるをえなかったとみられる。

そこで注目したいのは、このアイヌ神話では、山の女神は高山に住まうと語られていることである。アイヌの世界観では、高山は地下の死霊の世界から天上のあの世へ跳躍する場であり、使い捨てた器具の霊なども集まる場である。そして、そこを訪れた生者はかならず死んでしまうと伝えられる。

山の女神の住まう高山が、このような他界観のなかの高山を意識せずに語られたとは、とうてい考えることができない。山の女神が海の神の訪れを拒否したのは、他界の住人である山の女神が、愛する海の神を現世へ追い返すためなのであろう。

では、共通する神話をもつ肥前国や出雲国の古代海民もまた、高山を死霊の世界と認識していたのだろうか。

大林太良は、山上他界の観念、山上を霊地とする観念が列島の各地に存在したことを様々な資料をあげて論じている(大林太良1965『葬制の起源』)。興味深いのは、山上は死者の魂がおもむくだけのところではなく、生命の根源でもあったことである。東北地方では山の神が産神となっており、妊婦が産室に入ると家族は山の神を迎えにいく。また青森の岩木山、佐渡の金北山、富山の立山、石川の白山、奈良の大峰山、愛媛の石鎚山などでは、成年式がこれら「高山」への登山としておこなわれる。

つまり、生命の誕生や成人式は、祖霊の生まれ変わりや祖霊との一体化を意味していたのであり(大林前掲)、山の神はその祖霊を司る存在だったのである。海の神の高山訪問譚は、このような祖霊の観念、生命の根源の問題と深くかかわっていたとみられる。「肥前国風土記」の神話では、ワニは「年に一度」山上へ向かうのであるが、そこには祖霊祭祀の実態が反映されていたにちがいない。このような山上他界の観念は、古代海民においても同様であったと考えてよいのではないか。

さて、同じモティーフをもつ古代海民とアイヌの、海の神の高山訪問譚が、他界の問題と深くかかわっていたとすれば、古代海民とアイヌには、山上他界以外にも共通する他界観は認められないのだろうか。

そこで注目したいのは、アイヌは洞窟を入口とする地下に死霊の世界があり、そこは高山につながるあの世への「準備場所」であると考えていた事実である。この洞窟は山中か海辺にあり、多くの場合、海岸の絶壁に口を開ける海蝕洞窟が「準備場所」への入口となっていた。

「出雲国風土記」によれば、古代海民もまた、海蝕洞窟を「黄泉の坂」「黄泉の穴」と呼んでいた。実際、考古学からも、海蝕洞窟葬や崖面に設けられた横穴墓と古代海民の関係が指摘されている。かれらが山上他界・山上霊地の観念をもっていたとすれば、海蝕洞窟の「黄泉の坂」「黄泉の穴」を入口とする地下の死霊の世界は、アイヌと同様、高山の他界とつながっていたにちがいない。

古代海民とアイヌは、ワニの高山訪問譚という神話の共有にとどまらず、その背景となる他界観をも共有していたとみられる。

b. アイヌ−古事記
『古事記』では黄泉の国の神話と、アイヌの他界伝説に共通するモティーフがみられる。夫(『古事記』ではイザナギ)は、亡くなった妻(『古事記』ではイザナミ)を訪ねて死霊の世界へ赴くが、妻は死霊の世界の食物を口にしてしまったので、もはや生者の世界に戻れない、というモティーフ(黄泉戸喫)である。

さらに『古事記』では、追いかけてくる黄泉の人びとに向かって、イザナギが呪性を帯びたモモの実を投げつけ、かれらを退散させるが、これはアイヌの他界伝説、すなわち死霊の世界に赴いた男が、人びとから穢れた食物を投げられ退散する、というモティーフと共通する。

そもそも黄泉の国神話は、男神が女神に会うため死霊の世界を訪れるものの、やむをえない事情によって女神が男神を拒絶するという骨格となるモティーフ自体、アイヌや古代海民の高山訪問譚と共通するのである。

ただし、黄泉の国神話では、聖なる食物によって生者が死者を退散させるのにたいし、アイヌの他界伝説では、穢れた食物によって死者が生者を退散させるのであり、そこには両者のモティーフの反転が認められる。

『古事記』ではほかにも、海幸彦と山幸彦の神話に共通するモティーフがみられる。この海幸彦と山幸彦の神話では、海の女神であるトヨタマビメが、山の神である夫のホオリノミコトに醜い真の姿(ワニ)をみられたため、海と山を結ぶ道を塞ぎ、行き来できなくしてしまうものの、たがいに慕いあっていた、と語られる。

山の神と海の神は、一本の道によってつながっている。しかし、一方の神がその道を塞ぐ、会うことを拒否するというモティーフは、アイヌや海民の高山訪問譚と共通する。さらに海の神がワニである点、女神が男神の訪問を拒否するという点も同じである。ただし、高山訪問譚では海の神が男、山の神が女であるのにたいし、『古事記』では海の神が女、山の神が男となっている。

つまり『古事記』には、アイヌの高山訪問譚および他界伝説と共通するモティーフが認められるが、そこでは多くのモティーフが反転しているのである。

c. 古代海民−古事記
『古事記』の黄泉の国の神話では、黄泉の人びとに追われたイザナギが、黄泉の国への道(黄泉比良坂)を「大岩」で塞いでしまうが、これは海の神が遡上してくる川を山の神が「石」で塞いだという、「出雲国風土記」の海民神話と共通する。

また、先に指摘したとおり、『古事記』の海幸彦と山幸彦の神話における、一本の道でつながっている山の神と海の神のうち、一方がその道を塞ぐというモティーフも、古代海民神話と共通する。

この『古事記』の黄泉の国神話と、海幸彦・山幸彦の神話のなかに、古代海民やアイヌの高山訪問譚と共通するモティーフが認められるのは、慕いあう男神と女神を結びつける道を一方の神が閉ざすというモティーフが、両方の神話のひとつの柱になっているからである。

高山訪問譚が他界をめぐる神話であったとすれば、これと共通するモティーフをもつ『古事記』の黄泉の国の神話が、まさに他界をめぐる物語であったのは偶然ではないだろう。黄泉の国の神話では、大岩で塞いだ黄泉比良坂とは、出雲国のイフヤ坂と伝えられる、とある。このことは、黄泉の国の神話が、出雲の海民の高山訪問譚をとりこんだものであり、さらにその高山訪問譚が他界の神話だったことも示しているのである。

ただし『古事記』では、高山訪問譚では女神となっている山の神が男神とされ、男神である海の神が女神とされる。海の神をワニとする点は同じであるが、そのワニは女神なのである。さらに高山訪問譚では、死者である女神に生者である男神が阻止されるが、『古事記』では、生者である男神が死者である女神を阻止する。

これはたんなる海民神話のモティーフの反転ではない。海民の世界観の否定的な流用である。

海民やアイヌの高山訪問譚では、川を塞ぐ山の女神が物語のイニシャティブをとり、醜いワニの姿をした男神は、彼女に逢瀬を押しとどめられる受動的な存在である。そもそも山の女神は祖霊の世界、生命の根源を司る存在であった。

一方、『古事記』では、女神は蛆の湧く醜い腐乱死体、あるいはのたうちまわる醜いワニである。女神は、他界にやってきてはいけないと男神を諭す存在ではなく、その醜さによって男神から聖なる食物を投げつけられ、他界に押しとどめられる化け物である。子供を置いたまま去っていく姿には、もはや祖霊の世界、生命の根源を司る存在の片鱗もうかがうことはできない。

『古事記』における海民神話の流用は、女から男へジェンダーのヒエラルキーを反転しながら、他界から現世にヘゲモニーを転換しようとする王権の意図にもとづくものだった、といえるのではないか。

縄文神話へ
では、「風土記」の海民神話と共通するアイヌの高山訪問譚や、『古事記』の黄泉の国の神話と共通するアイヌの他界伝説は、どのような関係にあったのか。

アイヌの神話や伝説のなかには、コロポックル伝説のように、日本の「御曹司島渡」説話が15〜16世紀に伝わり、アイヌの口承文化として独自化していったとみられるものがある(瀬川拓郎2012『コロポックルとはだれか』)。弥生時代以降、さまざまな和人集団が北海道に入りこんでいるのであるから、先の「御曹司島渡」にかぎらず、『古事記』の物語をアイヌにおもしろおかしく語って聞かせた、ということは当然あったと考えておかなければならない。

しかし、アイヌの他界伝説が『古事記』に由来したとはいえない。そのモティーフは反転しているからである。では、アイヌの高山訪問譚は「風土記」に由来したのか。物語としての内容が希薄な「風土記」を、和人がアイヌにおもしろおかしく語って聞かせたということはありえるだろうか。そもそも「風土記」の高山訪問譚は、たかだか数行の話にすぎないのである。可能性としては、本州の海民集団との交流のなかで伝わったか、あるいはかつて日本列島に広く存在したものだったのか、のいずれかであるにちがいない。

アイヌと海民集団が深く交流してきた可能性について、さまざまな形で指摘してきた。そもそもアイヌが交流してきた和人は、弥生・古墳・擦文時代にかぎらず、中世では「海民の首領」とされる安藤氏であり、近世には海運に従事する本州日本海沿岸の海民、あるいは北海道沿岸でサケ漁やニシン漁に従事する本州からの出面の漁民、つまりそのほとんどが海民であった。海民集団との交流のなかで伝わった可能性がもっとも大きいといえよう。

しかし、高山訪問譚も他界伝説も、アイヌの世界観に深く根差したものである。さらに、本州や糸満など南島の海民のなかに、縄文的な伝統が認められることについても指摘してきた。これらの神話や伝説が、縄文文化に起源して日本列島に広く存在した可能性についても考えておく必要がある、いや、考えてみたいとおもうのだ。