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北の考古学─日々の着想

2017-07-21

ラストスパート

1月から書き進めてきた原稿は現在もまだ執筆中で、精神的になかなかヘビーですが、刊行予定が来年1月ということになったようですので、それをはりあいにラストスパートをかけたいと思います。編集者の方からは、美味しいところてんこ盛りの、いわば「ウニ・イクラ丼」みたいなもんですね、といってもらいました。ウニ・イクラ丼かあ・・。それ以上のご馳走を知らない自分にとっては、最上級の褒め言葉かもしれません。12月には内容をお知らせすることができるかも。年内はまだこれから、秋田、広島、神奈川、東京、札幌、網走等々でお話しさせていただくので、緊張感を切らさずに走りぬきたいと思います。

2017-06-05

忘れてましたが

『理論考古学の実践』同成社
『ユリイカ』青土社
『日本考古学』43 日本考古学協会
以上の3冊に書いております。
よろしければご覧ください。

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2017-06-03

古墳の方位と太陽

北條芳隆さんから『古墳の方位と太陽』(同成社)をご恵与いただきました。
古墳研究の新たな視点、おもしろい。
私も他界観の本を書いているところでしたので、刺激と元気をいただきました。
ありがとうございます😊

2017-05-01

松前藩直営の砂金採取

1696年、朝鮮の東莱府に住んでいた李朝の下級官吏である李志恒ら8人は、江原原州にある地方官庁を訪ねるため船で北上したが、強い風にあおられて漂流し、北海道の利尻島に漂着した。かれらは北海道の日本海沿岸を南下し、アイヌ民族と接触しながら、羽幌町で金の採掘を管理する松前藩の役人と面会する。その後かれらは松前城下から江戸、対馬を経て釜山に送還された。この顛末を記したのが李志恒の『漂舟録』である。

目を通したつもりだったのだが、羽幌で云々の件は気がつかなかったなあ。

2016-12-19

海民の「砂浜埋葬」と奥尻島


2016.11.3記事「古墳時代海民の奥尻島渡島」では、土製模造品の鏡が本州古墳時代の海民にかかわる文物であった可能性を指摘し、奥尻島青苗遺跡で出土した土製模造鏡にも本州の海民集団の関与が考えられること、さらに祭祀具という性格からすれば、モノだけが伝来したのではなく、本州の海民が奥尻島へ渡海し、現地で祭祀をおこなった可能性も考えられるとのべた。

また6.11.1記事では、礼文島で出土した古墳時代の直弧文をもつ鹿角製刀剣装具も、古墳時代の本州海民に関係する文物と指摘されていることから、弥生時代から古墳時代にかけて、本州の海民集団が北海道日本海側の島嶼へしばしば渡海していたとみられる、とのべた。

さて、この奥尻島青苗遺跡では、土製模造鏡の出土位置に近く、地面に横たえた遺体を火葬し、そのうえに盛り土をおこなったらしい葬送遺構がみつかっている。このような葬法は、続縄文時代から擦文時代にかけて、さらにはオホーツク文化のなかにも認められない、きわめて特殊な葬法である。

そこで注意したいのが、古墳時代の志摩半島海浜部で、石棺等の施設を設けることなく、地面に遺体を横たえた「砂浜埋葬」がおこなわれていた事実である(穂積裕昌2008「伊勢・志摩・熊野と海人の考古学」『海人たちの世界―東海の海の役割』中日出版社)。志摩市地蔵遺跡では、この「砂浜埋葬」の副葬品として、直弧文をもつ鹿角製刀剣装具がみられる。

「砂浜埋葬」は和歌山県でも確認されており、同県の田辺湾に面した田辺市磯間岩陰遺跡では、海岸砂丘上ではなく海蝕洞窟内に遺体を安置した例も確認されている。興味深いのは、この磯間岩陰遺跡でも、直弧文をもつ鹿角製刀剣装具が副葬されていることである(穂積前掲)。このような葬法は、確認が難しいことを考えると、ほかの地方の海浜部遺跡でもおこなわれていた可能性がありそうだ。

火葬という点では、奥尻島の葬送遺構と「砂浜埋葬」は異なる。しかし、火葬という特殊性をただちに大陸の葬法に結びつけてしまうまえに、本州のとくに海民の習俗のなかで、この葬送遺構を見直してみる必要もあるのではないか。