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2012-03-15 装飾について その3 *3/21画像の一部を変更

John Ruskin

 モリスにとって工芸美術は、自然の尊重、素材の知識、技術の知識、生活への知識、文化や歴史への知識を活用することで生み出されるべきものである。美を事物の生成に必要な時間*1の遵守によって裏付けること、それこそが、利潤を最優先に計算された労働に対し抵抗する美術工芸、労働のあるべき姿である。モリスは、自分たちの売り出した壁紙がセンスのない使われ方をされていることに落胆させられていたようであるが、問題は制作に注がれた道徳、美術、形而上的なるもの、なのである。それが、モリスの言う日用品を芸術にすること、すなわち「豊かさ」の価値である。

 モリスの手がけた「美術」とはおもに装飾(被覆装飾)である。用いられる染料や素材の選択および制作技術において、それがモノとして正しく作られる必要はもちろんだが、装飾としての機能の上でもまた正しくあらねばならない、とされる。壁紙であれ絨毯であれ、それぞれ事物の用途、用いられる環境に応じて、装飾の全体が構想されるのでなければならない。たとえば壁紙に用いられる色彩の色合いや強度、パターンの有り様、色彩が生む運動の有り様などなどは、室内空間の目的や装飾の視覚的効果を視野に据えて構成されている。*2ちなみに、モリス商会の家具には装飾を施していないモノも多い。カーヴィングやニス塗装のみで美しく仕上げてあったりする。こうした事物が示しているのは、美術と工芸が不可分であるということであろう。カーヴィング(取り扱いや強度を目的とする)やニス塗装(資材の保護を目的とする)といった表面加工は事物としての機能にもとづく工芸でもあり、同時に触覚や視覚などの感覚に訴える美術でもある。道具は単一の「用」から成ってはいるわけではない。様々な「用」から成っている。機能の相対的な自律性*3はあっても、そこに「工芸か美術か」というような矛盾や対立があるわけではない。

 さて、ここまではいずれにせよ機能が問題であった。だが、彼にとって装飾は既存の機能に仕えるだけではない。装飾とは知と技術による構築物のことであり、人々の心に憧憬の念をかきたてるような何かであろうとするものだった。イマココではない、どこか別の場所へと。彼はこうした脱出・脱自の感覚を、「宗教」と呼ぶ。モリスにとってそれは神ではなく自然への愛を意味しているが、しかし、理想社会を念頭に置いて言われるのであるから、やはり形而上的なるものである。装飾は外部への視線(外ヅラ)に向けられるべきではなく、使用者の内面へと向けられるべきなのである。では、そうした装飾が理想社会への憧憬であることは、デザインにおいて、どのようにして示されるのか。このことは、ゴシックリヴァイバルの気運に乗って各地で活発化した古建築の改修に対するモリスの抗議活動が、端的に示しているように思われる。自身装飾家であったモリスであるが、ここでは、技芸とマテリアル(物質)への抑圧という意味において「装飾」を批判してもいる。古建築には、我々が失ってしまった、いまだ我々には理解し切れていないような技術と知恵がある。ゆえに、建築の外形のみ(内装の見かけのみ)を修復するという名目でこれを破壊するようなことはしてはならない、というのが彼の主旨である。つまり、外ヅラ・ハリボテ批判である。研究者であり技術者でもあったモリスは、なんの検証もなしに古くからの技術が今日もそのまま存続しているなどとハナから信じることはなかった。

 モリスにとってはもろもろの技術こそ「民衆」であるが、しかし、「民衆」はたとえば「民族精神」に代表されるような観念的連続性を保証されておらず、そこに切断のあることが認識されている。学ぶべきものをいまだワガモノにしていないという認識があるからこそ、モリスは様々な民族の、様々な時代の技術を貪欲に学んだのだと言える。モリスがユートピアとして思い描いた生活は中世ばかりではなかったが、そうした〈技術=民衆〉がモリスの美意識と哲学を通過して今日の事物として現れることによって、装飾が、脱自であると同時に開示であるような、理想社会への憧憬であることは示される。彼の言う「美術」すなわち「芸術」としての「楽しい労働」には、こうした含意がある。

 多くの場合、モリスは花や草、果物、鳥などを装飾に取り入れた。モチーフとしては珍しくないばかりか当時にあってさえよく用いられたなものであるが、しかし、彼が描こうとしたのは、たとえば藪をすり抜けてゆく感覚や、花と蔦の絡まった壁、寝ころべそうな野原、鳥のさえずる森、というような、身体的に感じ取られるような自然の風景であったところに特筆すべき点がある。用いられるモチーフはそうした風景を構成する特異点(似顔絵を描くときに思い浮かべる特徴のようなもの)として選ばれる。個々のモチーフは写生から描き起こされ、線描を活かしつつモチーフの特徴あるヴォリュームを捉え、複合的な幾何形体によって分析され構成の補助線を与えられることで、装飾構成として使い得る模様として形成される。(図1)


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 彼の装飾デザインは、二層から三層の交差し重なり合うレイヤーによって構成されており、色彩によって厚みと浅い奥行きが与えられている。パターン構成のラインが生む枠にモチーフをはめ込んでゆくのではなく、一つの模様が複数の構成ライン(ゲシュタルト)に参加し、さまざまな構成ラインをモチーフ同士の結びつきによって生みだすことに、力が注がれる。(ゆえに視線の運動は際限なく次々と続いてゆく。)*4一つ二つと模様が数えられるようなデザインはダメ、と、モリスは言っていたらしい。モリスによれば自然を直接持ち込むわけではない室内装飾にとって、そこに無限の連続と広がりを与えることが重要であり、ゆえに区分けされたマス目に模様(形態)が行儀良く配置されるだけの装飾は否定されるべきものであった。

 以下、「イーヴンロード」(1883)と名付けられたテキスタイル用のデザインを例にとって、構成の手順を再現してみよう。(図2)

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1 まずパターンを反復するためのおおまかなガイドの枠を作る。

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2 隣接した5マスを使って、主要な2つのモチーフを上下左右対称に配置する。内3つを、S字のラインで結ぶ。主要なモチーフと結びつけるよう、サブのモチーフを配置する。これらが全体の基本的な骨組みになる。

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3 2で作ったラインによって分割される部分を、上下左右の関係(置かれる位置によって、モチーフ間の結びつきが生む運動・構成のラインが異なる)を同時に考慮しつつ、複数の模様による流れと収束を中心に描き進める。

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*5


 美術史家のゴンブリッチ*6の『装飾芸術論』*7には、動物において、いかにして装飾が発生するかについて触れている箇所がある。なんと書いてあるかと言うと、動物における装飾活動の発生はさえずり、歌声にある、というようなことが書いてある。鳥の歌声はチャンネル(固有の周波数)を占有することで世界に溢れる音を制しつつ、同種間での特別な合図を可能にする。壁に心を繋ぎ留めるための歌声、他者への呼びかけ、それがモリスの「美術」である。(おわり)

*1:自然および物質の理、技芸および機能の理

*2: 杉山真魚による研究論文、『ウィリアム・モリスの生活芸術思想に関する建築論的研究』が、モリスに関する優れたレポートである。http://bit.ly/yXvaVw

*3:諸々の認識のあり方を主宰する形式の差異。

*4:いわゆる「平面充填」。Wikiによる以下のリンクを参照 → http://ja.wikipedia.org/wiki/平面充填

*5:装飾研究家のクライブ・ウェインライトはモリスのデザインについて懐疑的であり、彼の仕事はオーウェン(Owen Jones 1809 〜 1874)やピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin 1812〜1852)に比べて何ら秀でたものではない、としている。(前掲書『ウィリアム・モリス』リンダ・パリー編に所収。)モリスがオーウェンによる装飾に関する教科書を所持していたことはよく知られており、また、オーウェンとピュージンについてはそれぞれの功績があり装飾デザインにおいてのみ比較するのは公平を欠くが、モリスと彼らの違いは、構成の違いにある。オーウェンにせよピュージンにせよ、彼らのデザインは、基本的には導線でもある主役のラインが生む空白をモチーフで埋めるという、シンプルな階層化によってパターンを作り出す。

*6:Ernst Hans Josef Gombrich; 1909〜 2001

*7白石和也訳 岩崎美術社

2012-03-12 装飾について その2

argfm2012-03-12

 大学を出て23歳の1856年、モリスは建築家ジョージ・エドモンド・ストリートの事務所に就職。ここで建築とプロダクトデザインへの情熱を授かるもわずか9ヶ月で退社したのち、しばらくぶらぶらしていたらしい。ぶらぶらしている間に友人のロセッティ*1らと共に壁画の仕事をしたり、自作の椅子や絵画などに取り組んだりしている。25歳の1859年、無職のままジェーンバーディ*2と結婚。事務所で知り合って以来の友人フィリップ・ウェッブ*3とともに、自邸(「レッドハウス」)を建てる。ヨーロッパの「中流」とはこういうことなのであろう。いろいろな職種の友人達、すなわち、画家のロセッティとジョーンズ*4建築家プロダクトデザイナーのウェッブその他らが集まり、プータローモリスとともに新婚ほやほやモリス邸の内装を行った。レベルは高いが学園祭のようなノリの、いや、これこそ正しく文化祭と呼ぶべき行為なのかもしれないがそれはともかく、このとき集まったメンバーが中心になって「モリス商会」*5設立される。「商会」は冗談でつけたらしい。ちなみに、モリスとその妻ジェーン、ロセッティの二男一女は、その後、モリスがジェーンとロセッティの関係を認めつつ友人でもあり続けるという(公には黙していたらしい)“前衛的な”三角関係に陥る。立ち上げといいもめ事といい、ほとんどロックバンドのノリである。いや、これこそ正しくバンドと呼ぶべき組織なのかもしれないがそれはともかく、建築、内装、工芸、家具調度品を売りにする。

 金の出所はモリスパパであったが出資者として経営にも責任を負わねばならなかったモリスは、デザイナーとして経営者として、理想と市場とのギャップに直面し続けた。後世の口さがない批評家の中には、彼をタダの商売人とまで言う者もいる。なるほど、当初はメンバーの平等を期して匿名でのデザインが約束事であった商会が、名の売れ始めたモリスとウェッブを専属デザイナーとして前面に打ち出すことになったのも、市場での競争に勝ち抜くためであった。皮肉にも、文人モリスが有名デザイナーとなったゆえんである。また、いくつかの廉価版を出すこともできたとは言え、手間暇かけた多くの商品が「民衆」の手の届かぬような高価格帯から出られないことに対する煩悶は生涯続いたようである。商売には社交界でのロセッティの営業力も貢献した。資本主義の原理に則り、労働者への支払いが競争価格に基づいて決められるのは当然のことであったし、鉱山の株による資金運用も行っていた。のちの彼の講演から察するに、さぞかし罪悪と感じていたのであろう。モリス商会が存続し得たのは、優れたデザイナーが魅力的な品を次々と発表できたことはモチロンであるが、同時に、モリスが経営者としてもしたたかなアイデアマンであったからである。資金繰りをモリスに任せっぱなしにする友人達との決裂から商会は再編に至り、以後、モリスとウェッブを中心にした職人集団となってゆく。

 ザ・モリスバンドの顛末はともかく、モリスは、自らもまた職人であるようなデザイナー、生産手段を所有する小規模生産者に徹することで、結果的に資本主義に抵抗し得る城塁を、あるいは資本主義の胃袋に内側から風穴を開ける術を、確保しつづけることができた。利潤を最優先に強制されるような労働や生産活動に抵抗する力として、商品を自ら作り自ら売る権利と能力が要求され、さらには自由な労働と道徳社会を調和させる美的理念として、「美術」(ないし「芸術」)が参照されることになる。*6モリスが主に手がけたテキスタイル(染色や織物)に関しては、モリス自身が資料を調査して失われた技法を調べ上げ、自らの工房で職人らと共に実験し、技術を教える役割を担った。文化的領土の確保、それがモリスの装飾美術の意味である。モリス晩年の文学作品である『ユートピアだより』*7に描かれた未来社会には貨幣による売買がなく、商品が存在しない。なぜなら、あらゆるモノを自分[達]で作って自分[達]で使うからである。自分[達]で作って自分[達]で使うぶんには、利潤を最優先に算出された労働や商品に、関わることなく済まし得る。*8 不老部落のような自給自足共同体を作ることはモリスにはかなわなかったが、しかし、それはそれ、これはこれ、である。モリスの求めたような自由な労働リッチな作物を「民衆」が手にすることは、到達不可能な永遠の理想というわけでもない。たとえばかつては*9身の回りの日用品、今日では日曜大工や家庭農園、家事、または、タダで閲覧可能な論文や資料、記事、フリーソフトなどが可能性においては、そうである。「モリス商会」の商品には、購入者が自分で刺繍するための図案集というものもある。DIYスピリットである。そして、そもそもが「モリス商会」の出発点はそこ、自分[達]で作って自分[達]で使うこと(「レッドハウス」)にあったのであり、モリスは生涯みずからの幸福な青春時代を生き続けようとしたわけである。ちなみに「モリス商会」では、自分たちが使うために自分たちで作るモノもあったが、しばしばコストがかかりすぎたために商品化できず、図らずも(?)「自分で使うぶん」になってしまったものも少なくなかったようである。「根深くもセンチメンタルな社会主義者」、しかしながら、“I believe that art cannot be the result of external compulsion; the labour which goes to produce it is voluntary, and partly undertaken for the sake of labour itself, partly for the sake of the hope of producing something which, when done, shall give pleasure to the user of it. ・・・”。それを感傷と決めつけるのは、少し気が早いように思われる。(つづく) *10

*1:Dante Gabriel Rossetti 1828〜1882

*2:Jane Burden1839~ 1914

*3:Philip Speakman Webb 1831 ~ 1915

*4:Edward Coley Burne-Jones 1833 〜 1898

*5:1861年モリス・マーシャル・フォークナー商会設立。商会は1875年に解散、メンバーを入れ替えてモリス商会となる。ここでは必要な場合を除き「モリス商会」で統一。

*6:モリスは道徳、宗教、芸術を不可分のものと考える。

*7:1890 W・モリス 松村達雄訳 岩波文庫 

*8:この点で柳の民藝はモリスを受け継いでいると言えるように思う。民藝はそもそも、自分[達]で作って自分[達]で使うという状況において‘発見’されたものである。

*9千差万別であるが。

*10:モリスについての伝記は、以下の書物によっている。『ウィリアム・モリス』リンダ・パリー編 多田稔監修 河出書房新社  、 『図説 ウィリアム・モリス ヴィクトリア朝を越えた巨人』 ダーリング・ブルース/ダーリング・常田益代 河出書房新社 、 『世界の名著 ラスキン モリス』「ラスキンとモリス」五島茂 中央公論社 、 『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』小野二郎 中公文庫

2012-03-10 装飾について その1

John Ruskin

 柳宗悦民藝運動ウィリアム・モリス(1834〜1896)のアーツアンドクラフツ運動に連なるが、その柳はモリスに対して、「正しき工芸の美を知らなかった」と批判してもいたことは、前回触れた。美意識に煩わされた工芸であり、充分にゴシックでないと言って批判したわけである。柳が「ゴシック」と呼んでいるのはモリスも学んだジョン・ラスキン*1が描き出す中世の職人集団のことである。要するにここで柳は、モリスは父なるラスキンの遺志を実現し得ていないと、モリスの仕事は代用品に過ぎないと、ニセの欲望に囚われちゃって未熟だなあと、言っているわけである。言ってるようなもんである。だが、ラスキンに遡ることのできる、都市批判資本主義批判としての、世界中の古い民芸に学び、環境風土を含めた生成のプロセスにこだわるというコンセプトにおいて、柳が賞賛した芹沢と非難したモリスとの間に区別をつけることは難しい。柳自身が明確にその区別を説明していない。だから、柳の批判はいつも、どうにも残念な世俗的コンテクストにこだわっているように思われてならないのだが、ともあれ、果たしてモリスの仕事はラスキンの誤解であったのか。民藝理論によって断ち切られたモリスの「美術」とはどのようなものであったのか。

 日用品を芸術にすべしと説いたモリスの講演から、まずはモリスの言葉を引いておこう。


「I believe that art cannot be the result of external compulsion; the labour which goes to produce it is voluntary, and partly undertaken for the sake of labour itself, partly for the sake of the hope of producing something which, when done, shall give pleasure to the user of it. 私は、芸術は外部からの強制の結果ではあり得ないと信じている。芸術を産み出そうとする労働(labour)とは自発的なものである。それは労働それ自体のために為される労働でもあり、また、うまくいった暁には使い手に喜びを与えるような何かを産み出すことができるだろうという希望のための労働でもあるのだ。(筆者訳)」*2


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 モリスは社会主義思想の熱心な活動家としても知られている。今日モリスの講演録として知られている文章の多くは、彼が政治活動に乗り出してからのものであり、芸術の社会的使命を論じているわけだけれども、齢四十を過ぎて目覚めた政治活動をきっかけに彼のデザインコンセプトが大きく変わったという様子はない。もともと彼のデザインはラファエル前派やラスキンらとの交流を素地としており、ラスキンは美術研究者・批評家にして初期社会主義資本主義批判)の著名な思想家の一人である。上に引用したような彼の主張などはほとんどラスキンの言葉そのままであり、したがって、基本的に彼の政治活動は、それまでの自らの美術活動を支えたラスキンの思想が当時沸き起こったさまざまな抵抗運動においても活きるような論理を模索したものとして、解し得る。

 そうした思想上のいわば相乗りが成功したかと言えば、理論としてはチョット破綻している部分もある。イギリス初の社会主義政治団体*3において重要な地位を占めていたモリスによる講演は、しばしば美術家*4の使命がすべての労働者にとっての使命へとすり替わっていくこと、および、美と芸術と希望が同一視される傾向にある。エンゲルスはモリスを評して根深くもセンチメンタルな社会主義者と言ったらしい。このような理論上の難が、社会主義理論の黎明期にあってモリスの貢献とはいかほどのものかと議論が分かれるゆえんであろうが、 *5ただし、すべての労働者が守るべき格律として解すれば無理があるかも知れないが、モリスの主張を、「芸術家」モリスが一労働者として資本主義に抵抗すべく自らの社会的使命を考え宣誓している、という意味に受け取るならば、これはあてどなき空論であったわけではない。モリスは〈デザイナー工芸家〉であり、〈デザイナー工芸家〉としての立場から、労働の自由を標榜した。自然と調和した伝統技術に従い、労働者の自立と人々の生活に奉仕する仕事の充実が、理想社会の到来を準備すると、考えたわけである。そんな次第であるから、モリスを評価するにあたって彼から資本主義批判の流れを取り上げてしまったら、そもそも話題にする意味がない。モリスの仕事ははたして「煩わしき美意識」であるのかどうか、判断をおおいに左右する一点である。この点については、のちに再び詳しく取り上げる。

 批評によって美を‘産み出す’柳にとって、美は制作者にとって目的の位置を占めることはなく、柳にとっての目的(道徳的社会)を実現するための間接的手段(流通を促進するための、批評家による賞のような役割)である*6が、モリスにとって美とは新たなる完成へと向けられた意志(労働意欲)を規定する目的そのもの、である。つまり、日用品は芸術だと人々を説得することが課題なのではなく、日用品(都市や道路、耕作地を含む)を芸術として製作することが課題である。さて、ここで「外部からの強制」としてモリスがやり玉に挙げているのは、自然への知識や伝統的技芸の合理性などに従うことを指しているのではなく、はっきりと、市場からの要請・強制のことを指している。資本主義下においては原理的に、あらゆる商品の使用価値、あらゆる福利厚生は、資本を利する限りで認められる。しばしば利潤は、資本主義が自ら生みだすことのできない活力ないし資源(=自然、動物、人間、国家・共同体間の落差が生む位置エネルギーetc)への「支払う義務」を怠る*7ことによって、および、事物の生成に必要なコスト(時間的にも経済的にも)をねじ曲げることによって、生みだされる。モリスは、資本がそうした暴力を労働者に、消費者や商品に、自然の生態や環境に振るう限りにおいて、これを「外部からの強制」と呼んでいるわけである。*8来るべき社会を望み得るだけの精神を涵養することが、労働においても制作物においても、デザイン工芸(「美術」)に[もまた]託された使命である。

 柳は批評家であり、批評家としての立場から、宗教家としての独自の判断基準に基づいて、評価に値しないと見なされてきたような事物(工芸民藝≠美術)を評価するという仕事に重点を置いた。美そのものを価値転換することによって道徳社会の到来を目指していたわけである。「無意識」(「自然」)が生産したものであるからこそ、批判的な価値がある。一理ある。愚かな人間理性ではなく、自然が思考するのである。*9だが、民藝の「無名」の作者を「無意識」と同一視し、「無意識」が生産するのだと考えた柳には、単一の「用」に還元されない作者(労働者)の自由(欲望、無意識)という観点が欠けており、ゆえに、「民衆」(ないし労働者)がみずから社会を形成してゆくプロセス、あるいは抵抗を含む社会からの逸脱という出来事を、把握することができない。(これは彼の芸術家ぎらいとも対応しており、ゆえに「美術」ぎらいとも対応している。)自然と調和し、市場経済の外部へのコストも含めた生活全体に位置づけられるものとしての日用品を生みだすことが「無意識」と呼ばれるならば、モリスがやろうとしたことは抵抗としての無意識‘を’生産することであったと言えるかも知れない。(つづく)

*1:John Ruskin, 1819〜 1900

*2:『The Aim of Art  芸術の目的』http://www.gutenberg.org/wiki/Main_Page 邦訳は『民衆の芸術』などに所収 『民衆の芸術』中橋一夫訳 岩波文庫

*3:「民主連盟」は当時のイギリス国内唯一の社会主義組織。1881年結成。モリスの参加は83〜84年まで。立法上の改革よりも民衆の啓発を重視するモリスの理想主義は連盟からの脱退、エリノア・マルクス(Jenny Julia Eleanor "Tussy" Marx 1855-1898 社会主義活動家カール・マルクスの三女。)らとの「社会主義同盟」の設立につながる。ただし、講演録などから明らかであるが、モリスは国家や企業の‘支払う義務’を強く求めており、労働者福利厚生についても、これを評価していないわけではない。念のため。

*4:モリスにとって美術と芸術との間に違いはない

*5:モリスがデザイナーとして活動した19世紀当時のロンドンは、帝国主義産業革命を原因とする深刻な社会問題があちらこちらで生じている、そんな状況であった。こうしたなか、裕福な中産階級の家庭に育ち大卒のインテリ文学青年であったモリスは、バルカン半島における紛争(露土戦争)への抗議活動を皮切りに熱心な社会主義思想家へと変貌、後半生をつうじて、労働争議環境問題、都市と農村の格差、伝統文化の保護、劣悪な商品への批判植民地主義への批判といった諸々の闘争にかかわってゆく。バーン・ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones 1833 ~ 1898)の紹介による学生グループとの討議、ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828~1882)を介しての植民地主義批判、ミル(John Stuart Mill 1806〜 1873)とマルクス(Karl Heinrich Marx 1818〜 1883) の読書などを経て社会主義思想への信念を固めていったようである。本人は経済理論がよくわからなかったと自嘲気味に話してはいるものの、『資本論 第一巻』(仏語版)は読み込まれすぎてページが抜け落ちるほどだったという証言が残っている。文学者としてすでに名声の高かったモリスによる運動への参加は歓迎され、弁が立ったこともあって、関わった組織ではつねにコアな存在であった。ただし、思想家としてのモリスに対する評価は一般に決して高いとは言えない。

*6:美と技術に関する柳の思考は、ハイデガーMartin Heidegger 1889〜1976)の技術論に少し似たところがある。興味のある方は以下の記事を参照されたい。関連記事 http://d.hatena.ne.jp/argfm/20090831 

*7:ちなみに、ここで言う「支払う義務」とは、法権力などによって強制的に発生する義務のことではなく、自分のものでない力を借りて恩恵を受けているがゆえの「支払う義務」、という意味である。

*8:モリスが機械仕事を批判するのはこの意味においてである。彼は機械による生産を必ずしも否定してはいない。事物に宿る「魂」を評価するモリスは、機械を生みだした知性をも矛盾なく評価する。たとえば紙を機械で作ることも、品質および労働環境自然環境などの条件さえ満たすものであるなら認めている。モリスの怒りの矛先は、機械そのものへ向けられていると言うよりはむしろ、当時の製造業者―-あるいは今日の一部製造業者&経済人&政治家--らが抱いていたような、機械技術の進歩が文明の進歩であるといった観念に安住することへと、そうした安住が生む環境破壊や品質の低下、労働者搾取へと、向けられている。

*9:だが、民族と風土の固有性が関心事である柳の‘批評’にはつねに、何をもって代表と認めているのかという問題がつきまとう。ひいては、なぜそれが代表として認められ得るのか、誰が認めるのかという問題がつきまとう。柳銀行の発行する「美」そのものの信用はどのように保証されるのか。なぜ土管や道路、排水溝、カツラや下着は選ばれないのか。