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地下室のアーカイブス(岩川ありさBLOG) このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


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2010年11月13日

[]「傷つきを語ることの意味と聴くという経験〜質的心理学における『語り』研究の地平〜」

傷つきを語ることと、聴くことについて、下記研究会があるようです。

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 傷つきを語ることの意味と聴くという経験

 〜質的心理学における『語り』研究の地平〜

 

外傷体験や疾患をもつ人々が、その経験を語ることはどのような意味があり、またそれを聴くということはいかなる体験なのでしょうか。さまざまな暴力被害者やマイノリティに関する研究と支援実践をお持ちの宮地尚子氏(一橋大学)と小西聖子氏(武蔵野大学教授)から、傷つきそのものの意味、「当事者」と「支援者」のポジショナリティの問題、傷つきを語ることが誰にとってどのような意味をなすのか、などについてお話しいただきます。

【日時】 2010年12月4日(土)13:30〜16:30(13:00開場)

【場所】 本郷キャンパス法文2号館二番大教室

【費用】 無料

【主催】 日本質的心理学会 研究交流委員会

【協賛】 東京大学グローバルCOEプログラム

「死生学の展開と組織化」

【申込方法】

下記申込みフォームで受け付けます。

定員(100名)になり次第、締め切らせていただきます。

https://ssl.formman.com/form/pc/

VXe35rnCCAKWZJDC/

【内容】

問題提起

          

「質的心理学における『語り』研究の地平:トラウマナラティブを聴くという経験をめぐって」

徳田治子(企画者・高千穂大学

講演

          

「トラウマの語り〜『環状島』その後」

宮地尚子氏(一橋大学)

          

「トラウマを語り、聴くことの意味」

小西聖子氏(武蔵野大学)

対談

宮地尚子氏・小西聖子氏 〔聴き手:野坂祐子・徳田治子〕

・総合司会 山崎浩司(東京大学)

・企画代表 野坂祐子(大阪教育大学


【問合せ】

・野坂祐子(大阪教育大学)nosaka〔アットマーク〕cc.osaka-kyoiku.ac.jp

・山崎浩司(東京大学)uc4dals〔アットマーク〕gmail.com

2010年11月08日

[][]ヘテロセクシストがいる教室

 文学研究をするときにポジショナリティを問われる研究者と問われない研究者がいる。ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、大抵、どのような立場から論じているのかと問われるが、普遍的で、偏りがなく、常識的で、中立であると標榜している「普通の研究者」(正確に名づければ、ヘテロセクシストな研究者)にたいして、どのような場所から研究しているのかという問いが発せられることは少ない。今回、私は、ヘテロセクシズムという枠組みでものごとを捉える研究者を、正確に、ヘテロセクシストと名づけて、「ヘテロセクシストがいる教室」について考えてみようと思う。

 ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、多くの場合、ヘテロセクシストがいる教室の特定の椅子に座ることから学問を開始する。「ヘテロセクシストがいる教室」において、その構成員の、ジェンダーセクシュアリティのバランスについては興味があるところではあるが、ここでは、ヘテロセクシストな研究者が、どのようにしてヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化するかについて述べたい。

 ヘテロセクシストとは、「異性愛という特定の生活様式を規範としてみなし、社会的、経済的な特権を認めるような立場に立つ人*1」と広く定義できるかと思う。「ヘテロセクシストがいる教室」では、「生殖が人類の基本的な仕事だ」という考えがまかり通っていたり、「女性差別主義」を標榜する研究者の言葉が違和感なく響いていたり、異性愛を標準的なセクシュアリティだと主張し、異性愛者というアイデンティティが自然で自明なものであると疑わないように議論が組み立てられ、時折、女性やセクシュアルマイノリティがトークンマイノリティの研究者(女性やセクシュアルマイノリティを代表して話す許可証を与えられた研究者)として徴用される。私は、そのような教室のことをさして「ヘテロセクシストがいる教室」と呼ぶ。

 「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛という規範から「逸脱」した「性、身体、欲望のあり方」について議論しようとする研究者は、抹消されるか、置き去りにされるか、攻撃されるか、特色づけられて、時には保護されたり、珍しがられたり、愛でられたり、「わたしたちとは違う人々がいるのだ」というふうに「別世界」の話として意味づけられ、「ここにもちゃんとそういう研究者がいますよ」という意味で、許可証を与えられた存在として扱われる*2。トークンマイノリティの研究者は、時には、「多様性のひとつ」として歓迎されることすらあるが、「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシストな研究者が自明視している枠組みを問うた場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、議論を遅らせる厄介者のように扱われるか、「ジェンダーやセクシュアリティについては詳しくないので」という、無知を装う戦略によって、無効な問いを発した張本人のように扱われる*3。しかし、「ジェンダー、セクシュアリティについては詳しくないので」という「度しがたいまでの無知*4」の表明には、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」が潜んでいるということは、明記しておいてよいと思う*5。「ジェンダーとセクシュアリティについては詳しくないので」という弁明には、「だってわたしは別に知らなくてもいいから」という「度しがたいまでの無知」が潜んでいることが多い。

しかし、「度しがたいまでの無知」だけではなく、「度しがたいまでの有知*6」もまた、「ヘテロセクシストがいる教室」における大きな問題のひとつであると思う。

ヘテロセクシズムへの批判的な介入をしようとする研究者にたいしてヘテロセクシストな研究者がいう決まり文句に、「ジェンダー/セクシュアリティという視点はすでに新しくない」、「ジェンダー/セクシュアリティという視点をとりいれないで行われている研究などもはやない」という物言いがある。その言葉は、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という「度しがたいまでの有知(実際には無知の変奏)」によって支えられているように思う。けれども、本当に、ジェンダー/セクシュアリティという視点は新しくないといってしまえるのだろうか? あるいは、すでに達成された何かがあるのだろうか? ジェンダーという言葉を手放せない研究者が存在する限り、ジェンダー/セクシュアリティという視点が目新しくない、あるいはその概念によって「おもしろい読み」を提出できないという指摘は、的外れを通り越して、恥知らずだと思うのだが、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」の変奏は往々にして、「ヘテロセクシストがいる教室」においてはまかり通る。

 多くの場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、ヘテロセクシストがいる教室に座ることから研究を開始する。そうして、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」が交叉する渦中で研究をはじめることになる。しかし、ひとつつけ加えておくべきことは、ヘテロセクシズムに対して批判的な介入を行おうとする研究者自身もまた、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」がせめぎあう中で、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」と思い込んでいることがあるということだ。知っていると思い込んでいたことを実際には知らなかったり、知っているはずだと思い込んでいることを実際には共有できていなかったりということは、十分にありうる。その際に、「わたしは十分に知らないから、知りたい」と明言することは、「ヘテロセクシストがいる教室」でのひとつの重要な立場表明となりうるだろう。だから、わたしは、はっきりと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしているということを示すし、あなたのことをヘテロセクシストだと名づけて(あたし結構怖いことをしてる)議論をはじめる。

クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想環状島=トラウマの地政学愛について―アイデンティティと欲望の政治学構築主義とは何か

*1:ジェイン・ピルチャー・イメルダ・ウィラハン著『ジェンダー・スタディーズ』片山亜紀訳者代表、新曜社、83。「ヘテロセクシズム」についてさらに詳しく知りたい方は、竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」『愛について』、2002、岩波書店と、「「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか」上野千鶴子編『構築主義とは何か』、2001、勁草書房を参照。

*2:ヘテロセクシストな研究者は、ジェンダーやセクシュアリティの話になると、急に女性やセクシュアルマイノリティに話をふることが多い。男性を補うために女性に語らせ、異性愛を補強するためにセクシュアルマイノリティの存在を際だたせようとする戦略をとるようだ。しかし、その場合、「性の多様性」という言葉で、教室にいる、女性やセクシュアルマイノリティの研究者の存在が、ヘテロセクシストな研究者の「ものの見え方」の中で、見たいようにな可視化されるという事態が生じることがある。特に、ヘテロセクシストな研究者が、女性やセクシュアルマイノリティの歴史について一通り知っており、フェミニズムクィア理論の概念や理念について知悉しているときに起こりがちなのは、目の前のひとりの研究者の存在はかえりみられず、ここにもちゃんと女性の研究者がおり、セクシュアルマイノリティの研究者もいますよというように「戯画化」されるという事態だ。そこにいるだけで、あとは喋らないか、望むべき女性、望むべきセクシュアルマイノリティとして話すはずだったトークンマイノリティの研究者が、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛の規範を侵犯するかもしれないとみなされたりする場合、「性の多様性」なんてあったかしらというような勢いで、主要な議論から逸脱している厄介者という烙印が押される。

*3:ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者が感じる困難のひとつに、「ジェンダーとは何か」、「セクシュアリティとは何か」という前提について話していると、いつのまにか持ち時間が終わっており、主要な議論を押しとどめようとする厄介な人という評価が下されているということがあるのではないかと思う。ジェンダーやセクシュアリティについての定義や歴史的な経緯などについて十分に話す訓練を積み、実際に議論の場数を踏んでいる研究者であったとしても、知らないでいたいヘテロセクシストな研究者が聞く耳を持たなかったり、「わたしはもう十分に知っている」という「度しがたいまでの有知」を示した場合、どれだけ話しても聞かれないという事態が生じる。「度しがたいまでの無知」は、たやすく、「もう十分に知っているから知らなくてもよい」という「度しがたいまでの有知」と共謀して、それ以上、話すなと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化する。

*4:この言葉自体は、岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、2000、青土社、132。

*5:イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論』外岡尚美訳、1999、青土社、15,16。セジウィックは、「無知の複数化・特定化」の必要性についても述べている。

*6:この言葉自体は、宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』、2007、みすず書房、144。

2010年11月03日

[]現状認識の具体的な方法について

トラウマについてという記事に懲りず、また長く書いてしまったので、今回も現状認識の具体的な方法については分けてみました。

前半は、こちらから→http://d.hatena.ne.jp/ari1980/20101102

さて、現状認識について、アダルトチャイルドのワークから、実際にわたし自身やってよかったと思う具体的な方法についてふたつ(いずれも、精神的に厳しいので、「疲れたらやめてよい」、「時宜ではないなと思うときはやめてよい」を原則とすることが重要)。

1、鏡を見ること、写真を撮ること、携帯電話の待ち受けなどに自分の写真を登録すること。


トラウマの影響下にある人は恐らく、自分を、自分自身から、他人から、社会から切り離して生きている。というわけで、鏡を見つめることで、ニセのイメージではあるが、自己像の統合プロセスを経てみるとよいような気がする。ただし、最初の三ヶ月くらいは、苦痛で仕方なく、生死に関わるので、カウンセラーなどと相談してから行うとよい。また、トラウマの影響下にある人は、「意識下の固定観念」として、自己像も凍りついていることが多い。しかし、自分の変化を捉える行動(毎日自分の写真を見たりすることなど)を繰り返し行ううちに、絶対に身体は変わらないという固定観念や、完璧な身体という固定観念を突き崩せるように思う。


そうした実践のうちに、トラウマの被害にあったときに凍りついて止まった自己像や身体イメージが氷が溶けるように変容してゆく。そうして自らが変化することを受け入れ、時間が流れ出す瞬間というのが訪れる。特に、性暴力を受けたり、家庭内暴力いじめなどで、不当にけなされて、自分は醜いと思い込んでいる人は、相手が間違っていたのだと知ることが大事。


あなたは美しい。絶対に美しい。何があっても美しい。それが原則です。相手が間違っていたのです。

2、日記をつける。


オーソドックスだけれども、効果的。


書き方としては、1、事実(感情を交えず起こったことを「そのまんま」)書く。→2、その時、自分はどう思ったかを書くという流れがよい。寝る前の10分につけるのがよいのではないかと思う。


日記をつけるのは、書きながら、自分に、「今日はどうだった?」と問う実践であると思う。また、毎日見直し、自分がどのような人か、確かめることによって、自分について記憶する作業ができる。この作業を習慣として行うと、恐ろしいスピードで流れる毎日の生活の中で、自分を繋ぎ止めるための繋ぎ目になる。


さらに、「私は」という主語で書くことも大切。私はどう思ったかが大事。その際に、「〜してうれしかった、〜にわくわくした、〜が大好き、〜でほっとした、〜でよかった、〜がありがたかった」というふうに、プラスの感情で述語をまとめるとよい。


もちろん、怒りや悲しみなどを感じている場合は、早めに解放する方がよい。


その手順は、


1、深呼吸をしたりその場を離れたりし、怒りそのままをぶつけない。

2、具体的に、いつ、誰に、何を、どうして欲しいのかを整理してみる(頭で考えず書き出すこと)。

3、怒りや悲しみを相手に伝える練習をする(自助グループなどでアサーティヴ・コミュニケーションの練習をするのも効果的)。

4、激情がおさまってから、率直に、シンプルに相手に伝える。

5、伝えられないときには、手紙の形式(もちろん、表現方法が歌や絵などの場合そちらで)で表現する*1。この際、表現に検閲を設ける必要はない。自分の感情が醜いのではなく、自分だけがそのような怒りを感じているのではなく、手紙という形で、誰かに伝わるように書き直してみる。その書き直しの中で、怒りがおさまる。


以上の日記の書き方については、アスク・ヒューマンケア研修相談センター編『アダルト・チャイルドが人生を変えていく本』(アスクヒューマン・ケア、1997)を参照した。この本は、アダルト・チャイルドワークをまとめたセラピーの前編『アダルト・チャイルドが自分と向き合う本』(こちらを先に読むとよい)と合わせて手元に置いておいて欲しいとても素晴らしい本だと思う。


↓アスクヒューマンケアについてはこちらから。

http://www.a-h-c.jp/access.html

これらふたつの方法は、「自己史連続感覚」をかたちづくるためのやり方の具体的な例だ。これらの方法を毎日ゆっくりと、自分がやっていることを侮蔑せずに続けているうちに、季節と暦の中に自分が生きていると思えるようになり、誰かと一緒に生きる世界へと戻ってこられる。

以上、現状認識をするということについて書いた。まだ、構想段階なので、何か助言をいただけたらうれしい。とりわけ、私は、「信頼」ということが、現状認識において必要なのではないかと思っている。失敗できない環境にいると、経験も積めないから、幾つになっても、現状認識ワークをはじめる人は、「間違ってもよい、失敗してもよい」という、その原則からはじめるのがよい。

過去と向き合う手紙を送るのは、現状を見ることを妨げる外傷的な記憶と対峙することを意味する。過去を過去として見つめると、その時代で止まってしまった、子どものようだった自分が手を振って過去へと帰り、今目の前にいる自分以外の人びとと再び繋がりを取り戻してゆく瞬間に立ち会うこと。そうして、対峙し、距離を置いていた記憶が、多くの記憶の中のひとつだと捉えられるようになったとき、「意識下の固定観念」であった外傷的な記憶は、刻々と動いてゆく「今」と区別した、歴史的な過去となる。その時こそ、現状を認識したと言えるのだと思う。

*1:これは「グリーフワーク」といって、過去の癒されていない悲しみや苦しみ、怒り、辛い出来事について、悲しみきれなかった分を存分に悲しみ、自分を癒す作業のひとつでもあると思う。その中でも特に、「グリーフレター」といって、過去の出来事をそのまま書き、それに対して、自分の気持ちや消化しきれなかった感情を描いてゆくことで、現在から過去を整理する方法がある。それが応用されているのが、この手紙。どのような手紙を書いても、年齢に相応しくないと考える必要はない。過去のあなたがやり残したことを今現在すればよい。

2010年11月02日

[]現状認識と外傷性の記憶

最近、現状認識とは何かということについて考えている。

中井久夫さんが、個人において、三歳以後の人生が連続していると感じることについて、「自己史連続感覚」という卓抜な命名を行った*1

実際には、忘却や空隙があるにもかかわらず、私たちは、自分の生きてきた人生は連続したものだと感じる。しかし、トラウマの影響下にある人にとっては、人生の時間は断片的であるか、永劫回帰にすぎないことがある。その場合、「未来」についてもまた具体的なイメージを持てず、トラウマを負った瞬間で時間が止まってしまうということになる*2

現状認識とは、実際には、現在のことだけで成り立つのものではなく、過去の記憶の上に成り立っている現在に対する意味づけのようなことかと思う。「自己史」をつくり、その歴史を経て現状認識が可能になるならば、過去から連続しているという自己の歴史の連続した感覚が失われている場合、現状を認識しようにも、判断基準や材料に乏しく、現状とは、その言葉の通り、今この瞬間という一点のことに集中してしまう*3

では、何故、「自己史連続感覚」が失われるのか。私は、ジュディス・L・ハーマンがいうように、外傷的な経験を、言語と記憶から切り離そうとする心の機制と関係があるのではないかと考えている。

外傷的な経験に出会うと、人の心は、防御機能として解離や否認を行うことがある。そうして、外傷的な出来事をやりすごそうとする。その機制自体は、その時点での生き延びるために必要であるかもしれない。しかし、ハーマンが、『心的外傷と回復 増補版』(中井久夫訳、1999、みすず書房)の中で、多くの臨床家が解離という機能を評価しすぎたことについて、「解離というのはありがたい保護であり、圧倒的な恐怖に対する適応性で創造的でさえある心理的防衛であると見なしていた」(pp.382)が、「解離は、強烈な感覚的体験と情動的体験とを、言語と記憶という社会につながる領域から切り離す機制」(pp.383))でもあると述べているように、「恐怖からの猶予期間の入手価格」はあまりにも高く、解離によって、社会とのつながりが断ち切られてしまう側面があることは考えていた方がよい。

外傷的な出来事から「日常生活」へと戻ったときに、「恐怖からの猶予期間」としての解離は続き、現実に自分がいる時間や空間から自らを切り離したまま生きてゆくことになるので、「現状認識」もまた、外傷的な記憶(これをジャネは「意識下の固定観念」と呼んだ)によって支配されてしまうことがある。外傷的な記憶の鮮明さや変形加工のしにくさを考えると、外傷的な出来事は、トラウマを負った人を捉えて放さないということになる。

私はずっと、「自己史」ということについて考えるとき、単線的で、成熟してゆくような時間の軸を想定し、言語によって回復するということが「正統」であると捉えていた。しかし、ある時、萩原朔太郎の詩を読む授業でご一緒していた、私もこんな風に生きてゆきたいと思わせる尊敬してやまない先輩(もちろん、女性の研究者ですよ)が、「時間って真っ直ぐなのかしら」というようなことを問うてくれた。その時に、外傷性の記憶(意識下の固定観念)とどのように生きてゆくのかについて、真っ直ぐではない歴史を思い浮かべる可能性を思い描けばよいのではないかというふうに思うようになった。

トラウマの影響下にある人を、単線的な時間軸に沿ってつくる「自己史」に統合しようとするのは、「きんだいてきなにんげんのあるべき姿(「規範的な人間像」)(ちょっとひらたくまとめすぎていますね、わたし・・・)」に基づいている。しかし、複線的で錯時的な歴史もまた、「自己史」なのではないか。それならば、トラウマの回復と「自己史」について考えるとき、すでに多くの研究者*4によって指摘されているが、いかに記憶を物語として編んでゆくのかという、歴史や文学や言語のレベル*5での理解が不可欠だと思う。単線的な時間や、年齢という都合のよい区切りでもって、トラウマの影響下にある人を何のケアもなしに規範的な時間軸に戻そうとするのは、「恐怖からの猶予期間」にある人を再度、恐怖へと突き落とすことにほかならない。

現状を正しく見ろということは、トラウマの影響下にある人にとって、時には、あなたを加害した社会をしっかりと見ろということになる。ドメスティック・バイオレンスや性暴力の場合には、目撃者もなく、「真実」を言っているのかどうかさえも疑われることがある。しかし、証言の積み重なりは、加害者が一番望む、「加害の忘却」を阻止する方向へと社会を変えてきたし、これまで、証言の真実味が吟味されてきた証言者への負荷は、聴く方のリテラシーへの問いへと変化しはじめている*6

証言がどれだけ本当でも、聴く耳を持たぬ人ばかりだと、言葉は届かない。私は、現状認識をするために、最低限、自分を信じている人がいるという信頼感が必要だと思う。そうしないと、私の過去をかたちづくる大文字の歴史をも信頼できないから。同じくらい、大文字の歴史にあらわれない歴史こそが、私の人生をつくる物語となるかもしれない。そうして、自分が生きている社会について、世界について、複数の歴史を担保している限りにおいて、現状認識は可能になるし、これから生きていく未来を想像することもできると、私は思う。

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

心的外傷と回復 〈増補版〉

心的外傷と回復 〈増補版〉

*1中井久夫「外傷性記憶とその治療――一つの方針」『記憶・外傷・徴候』みすず書房、168pp。

*2:このことについては、先日の一橋大学でのシンポジウムで、ThomさんとMikeさんが、幼児期の虐待によってその時の外傷的な記憶の影響下にある人について、「インナーチャイルドは比喩ではなく、本当に子どものままで時間が止まってしまっている」と述べておられた(http://d.hatena.ne.jp/ari1980/20101016)。退行ということも考えると、成人してからでもトラウマの被害にあうと、防御機能として、子どもに戻るのかもしれない。そうして、「自己史連続感覚」は一時的に失われるか、必要十分には機能しにくくなる。

*3:未来についても、記憶のメカニズムの方で、先に進まないように強いる作用をすると思う。

*4:ハーマンや中井久夫さん、宮地尚子さんは、絵や音楽、詩などに触れているし、人文学ということに触れている。

*5:広く取れば、「人文学のレベル」といってよいかと思う。ただし、どのような人文学を思い描くのかについても考えておく必要がある

*6:女性史・ジェンダー史、あるいは、民衆史や社会史などの積み重ねによるものと理解している