『指導死』という言葉
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『指導死』という言葉を聴いた。
指導し、責めて殺す、ということだ。
子どもは、
「おまえのせいだ」
と言われ、何も言えなくなって、死をえらぶ。
「おまえのせい」
とは言っていないにしても、子どもはそう受け取っている。
おまえのせいだ、と言われて、ではどうしたらいいのか、子どもは混乱したまま死を選ぶ。
そこに「指導」とよばれる、「正しいことへのいざない」が隠されているから、初めてこの言葉を聴いた者に、あるショックを与える。
「指導」は、なんのためか。
人が幸福になるための「指導」のはず。
しかし、そうなっていないときがある。
指導によって、人が「責められる」。
責めて、攻めて、責められてどうしようもなくなって、死ぬ。
それが、『指導死』だ。
人を責め、人から指摘されると感情を害する、怒る。
それが、すべての間違いだ。
教員が、子どもに対して、
「責める」
ということがあるはずがない。
ところが、部活の成績、学業の成績、人間関係のいざこざ、
すべて、
「お前が悪い、お前のせいだ」
と、指導するときがある。
どうしたらいいか、手をこまねいているのが生徒であるはず。
ところが、教師が、その生徒を責めつづける。
実は、責める側の教師こそ、困っている。
どうしたらいいのか、わからなくなっている。
自分が何をねがっているのかさえ、分からない。
それで、馬鹿の一つ覚えのように、不安を他人(生徒)にぶつけているだけなのだ。
教師も、何をしたらいいのか、さっぱり分からないのだ。
ただ、教師は、『不安』なのだ。
この世の中の、不安という不安が、身に迫って押し寄せてくるような錯覚に陥っているのだ。
部活で優勝しなければ、自分の教師としての指導力を責められる、と勘違いしている。
ひとりの児童を守るために、もうひとりの児童を責めなければどうしようもない、と思い違いをしている。
親から苦情の電話が入ったら、自分の指導がまずかったのだ、と思うのが当然だと思っている。
教師としても、もっと楽しい部活をしてみたい。
正月くらい、休んでいたい。
夏休みも、もっと楽しく子どもたちと会話したい。
ところが、そんなことをしていたら、子どもたちが練習しなくなるだろう、と見えない幻影に怯えきっている。
本当の教師としての気持ちを抑えて、抑えて、ふたをしまくってきて、相当に歪んでしまったのが教師だ。
その歪んだ教師が、何も手を打てずに、最後に陥るのが、
子どもを責める
という手段なのだ。
教師は、自らが、『コントロールルック』に陥り、『ブレイミングアディション』に陥っていることに気付くべきだ。
救われるべきは、追いつめられた子どもであり、同様に追いつめられている教師である。
この社会は、子どもと教師、そして親たちを追いつめる社会なのだ。
(ヤフーニュースより引用)
教師が子どもを追い詰める―― 「指導死」の現場から
9月12日(月)14時1分配信