Aくんが学校に来るのは、なぜか

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Aくんが学校に来るのは、なぜか、と考えたことがある。



彼にとって、学校とはうるさい先生があれこれと指示命令をし、座る場所まで強要される、おそろしく居心地の悪い場所である。



しかしそれでも、彼は学校に来る。



Aくんは、他の子をつめでひっかいたり、顔をパンチしたりするので、担任の先生から目の敵(かたき)にされていた。

Aくんが教室の一番前の席で、先生ににらまれながら、怒られているところを、私は何度か目撃した。



Aくんに、学校へ行く価値を教えたから、彼は学校に来ているのではない。

彼は、学校がきらいだ、と明言したことがある。

来たくない、と言ったことも、もちろん何度だって、ある。



しかし、彼はめげずに学校へ来ている。









わたしはAくんの担任ではないけれど、Aくんのことで何度も相談を受けたから、Aくんがちっとも折れずに、ちっとも暗くならずに、学校へくることは知っていた。だから、彼がちゃんと学校へ通ってくることに、なんともいえない彼自身の力を感じていた。



ひとつ言えるのは、



〇学校へくると算数ができるようになるよ

〇学校へくるとお友達ができるよ

〇学校へ来ると楽しいドッジボールができるよ

〇学校へくるといいことがあるよ




というような、学校へ来ることの価値を教わったから、来ているのではない、ということ。

彼は、そんな屁のような(押し付けられた)価値を知って学校へ来ているのでは、毛頭ない。



ではなぜ、一見、彼にとっては価値のなさそうに思える学校へ、彼は毎日通ってくるのだろう。





三年寝太郎が、地元に巨大な用水路をつくるために目の前の地面を掘り始めた時、最初、だれも手伝おうとしなかった。大人はだれも、そのことに「価値」を認めようとしなかったからだ。

ところが、子どもたちは手伝う。

用水路とは何か、その価値とはなにか、と子どもは問おうとしないからだろう。



三年寝太郎と子どもたちが、用水路堀りを毎日やるうちに、大人の中にも、そこに参加する人が現れてくる。

日頃あまり、「夢」とか、「価値」とか、「意味」とか、「意義」などを語ろうとしない人たちから、だんだんと参加し始める。



そこが、人間の不思議なところ。







用水路が1割ほどできあがり、堤が目に見えて分かるようになると、それを「意義づけ」る賢い大人がようやく表れる。この用水路づくりには意味がある、と認めるのだ。

そうなってから初めて、参加し始める人たちもいる。





この話から分かるのは、人間は「価値」にとらわれつづける、ということだ。

社会が価値を認める、ということに、われわれ大人はとても敏感になるし、そのことに依存する。





このことを、「人間の価値依存癖Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクションとよぶ。





Aくんが学校をどう評価していても、彼は学校へ来たいのだ。

あるいは、学校へ来たくなくても、毎朝、登校することを選択しているのだ。



そこで、大人が震えながら、なにかを恐れながら、



「学校には価値がある!!」



と叫ばずにいられないこと自体が、なにか病的なのだろう、と思う。



学校の価値を語らずとも、

価値があるかどうかを問わなくても、

Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。



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