有島武郎研究会

有島武郎研究会の運営する公式ブログです。

第75回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2024年4月16日公開
有島武郎研究会第75回全国大会

有島武郎研究会の第75回全国大会(2024年度春季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2024年6月15日(土)12:00開会
  • 会場 新宿歴史博物館(東京都新宿区)講堂およびオンライン
  • 〔評議員会〕 11:00〜11:30(大会会場に同じ)
  • 開場 11:30

【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(6月13日)までに登録を行なってください。(準備ができ次第、申込URLとプログラム・会報を公開いたします)
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。


                    

  • プログラム:[]
  • 会報第74号:[]

===プログラム===

  • 開会の辞(12:00) 



《研究発表》12:05〜13:05
『カインの末裔』と『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
大野南淀
有島武郎と田中義麿の交流―新資料・田中義麿日記『未央手記』から―
中村建

  • 10分休憩

《特集 有島武郎と近代出版メディアの隆盛》13:15~15:45
 (司会)荒木優太


【報告】13:15~14:35

有島武郎個人雑誌『泉』と左翼的ネットワーク
石井花奈

有島武郎と山田まがね、玉置真吉、草間京平の三人について
内田真木

『泉』と『文藝春秋』のあいだ――有島武郎と菊池寛
掛野剛史

  • 14:35~14:45 休憩・質問募集

【討議】14:45〜15:45


  • 閉会の辞(15:45) 

  • 事務局連絡
  • 総会(15:50)


===発表要旨===
○研究発表

  • 大野南淀「『カインの末裔』と『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』」

 『カインの末裔』を外国文学との関わりにおいて読むのであれば、アメリカ滞在時に親しみ、帰国後に翻訳することとなるウォルト・ホイットマンの『草の葉』がまずもって思い起こされるだろう。実際、有島がホイットマンを称揚する際に見出す「ローファー」像を仁右衛門に見出すことは可能で、既に先行研究が示す通りである。仁右衛門は地主と小作人の社会関係の中で、地主にも小作人組合にも与しない。松川農場を妻と後にする彼らの姿は、「ローファー」と「随伴者」という「自由の中に住む人間の可能性」(「ワルト・ホヰットマン」)と解されることになるだろう。換言するならば、松川農場に入った「瞬間」に「失われた」「自然さ」が回復したということである。だが、もちろんあらゆる制度に属さず、あらゆる言説の外部に措定した「自然」に自己の本質を見出すには、有島武郎はロマン主義から十分すぎるほど隔たっている。先行研究が同時に示す通り、中編の結末は楽天的なものでもない。有島のテクストは安直なロマン主義のみならず自然主義や社会科学に還元されるものでないと考える本発表は、「外部」に措定した「自然」がいかに再度、言説構造と内部関係を生じせしめるかを考察するに、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』に着目したい。『ブリュメール』との直接的な影響関係は実証できないものの、アメリカ滞在時に社会科学に接近した「宣言一つ」の書き手はマルクスを「観念の眼」としてのみ距離を取って評価しており、その距離の淵源はマルクスの農村批判への批判と推しうる。解放することとなる狩太農場の所有者でもあった小説家にとってルイ・ボナパルトの支持母体としての農村批判は度外視できなかったはずであり(無論、ルイ・ボナパルトを肯定しているわけではないが)、それは社会学的問題(セルフメイドマン的松川農場の地主と、労働の主体ではなく土地に地代で束縛される小作人をめぐる関係)としての農村擁護のみならず、『カインの末裔』における主体の在り方、有島が理念とする彼独特の普遍主義への理解をも深めうる。というのも、有島の普遍主義はマルクス主義やキリスト教などの普遍主義からの「逸脱」「残余」を「再普遍化」しようとしたものであり、逆説的かつ必然的に、差異の中で「反普遍主義」をも含むからだ。こうした視座から本発表はなるべく具体的細部に着目しつつ、両テクストの再評価を試みたい。

  • 中村建「有島武郎と田中義麿の交流―新資料・田中義麿日記『未央手記』から―」

 東北帝国大学農科大学教員時代の有島武郎については、一九〇九年から一九一五年頃までのまとまった日記が現存せず、その間の足跡を辿るには書簡のほか周辺人物による回想録などの記述を参照するほかなかった。具体的には、大学の同僚であった吹田順助『旅人の夜の歌―自伝―』(一九五九・一、講談社)や、学生であった鈴木限三『白堊校舎の新しきころ』(一九七〇・一〇、新樹社)、このほか田中義麿の追悼文「或る時代の有島さん」(『文化生活』一九二三・九)などが夙に知られている。田中と有島の関係については佐々木さよ「『宣言』論―自然科学との関連から―」(『文芸と批評』七(一)、一九九〇・四)などで言及されるのみで、『有島武郎事典』(二〇一〇・一二、勉誠出版)でも田中は立項されていない。
 日本における遺伝学の第一人者である田中義麿(一八八四~一九七二)は東北帝大農科大学を卒業後、同大助手、助教授、留学を経て九州帝国大学教授となった。札幌時代には遺伝学の講読会や、日本初の大学における遺伝学の講義を行っていた。その生涯に亙る日記を初めとする関係資料が二〇一七年~一八年に遺族から北海道大学大学文書館に寄贈された。この日記のうち一九〇三年~一九一六年のものが『未央手記』五冊として製本されており、山本美穂子「田中義麿日記「未央手記」をめぐって(一)―日露戦争下における札幌農学校予修科の学生生活」(『北海道大学大学文書館年報』一七、二〇二二・三)が検討を行っている。同日記には、田中の札幌農学校や改編後の東北帝大農科大学での学生・教員としての生活、読書内容に加えて、有島武郎との交流に関する記述も多く、大学教員時代の有島の姿を垣間見ることができる。
 本発表では、『未央手記』から窺える、有島と田中の宗教・思想・芸術に関する会話・議論、吹田順助、足助素一、武者小路実篤らも交えた面会、有島による田中の英語論文の校正といった両者の交流の実態を明らかにするとともに、その意義を示したい。

○特集

  • 岡望「発表趣旨」

 有島武郎と雑誌との関わりを考えていくと、まず考えられるのはやはり『白樺』である。白樺派の一人と目される有島とその関係性については、有島武郎研究でも焦点を当てられることが多く、この有島武郎研究会でも数多くの特集が組まれてきた。その結果、生まれた成果も多大であるが、今回の特集ではもう一歩踏み込んで、近代出版メディアの領域にまで展開する。雑誌だけではなく、出版メディアとしたのは新聞や同人誌、機関誌などを含めた多数の媒体にわたって対象にしたいからである。大正期の出版メディアの成熟と共に、それを通した有島の新たな一面を見つけていくことを本特集の目的としたい。
 有島のメディアとの関わりを考えていくと、まず単純に投稿媒体として活用されたことが挙げられるだろう。例えば『白樺』は言うまでもなく、『カインの末裔』は『新小説』に、病気のため中絶したものの『生れ出づる悩み』は『大阪毎日新聞』に連載したことなどである。媒体として注目することがまず考えられる。
 また、論争の場としてメディアが活用されたことも興味深い。「宣言一つ」論争を考えてみると、「宣言一つ」が『改造』に投稿された直後、文壇から数々の反論が飛んだこともあったが、『改造』でそれらの反論の一部がまとめられたこともあった。「宣言一つ」論争は『改造』というメディアを通して形成されてきたところもある。このように文壇との接点として考えることもできよう。
 そして、有島自身が個人雑誌『泉』を創刊したことも取り上げられる。創刊の経緯として、雑誌や新聞の期日に迫られるのが不満であったということもあり、有島の出版メディアそのものの考えを色濃く残している。
 今回の特集は対象とする領域が極めて広範ではあるが、様々な分野と接合しているメディアという性質上、取り上げられる題材は様々な広がりを見せるものだと期待できる。この点で有島研究の新しいアプローチができればと思い、今回の特集に取り組んだ。 

  • 石井花奈「有島武郎個人雑誌『泉』と左翼的ネットワーク」

 本研究は、有島武郎個人雑誌『泉』というメディアの全体像の呈示を目指すと共に、その出版元である叢文閣を中心に形成されていた人的ネットワークに迫ることで、文学史・出版史・社会運動史の結節点として『泉』および叢文閣を位置づけようとする試みである。本発表をその第一歩としたい。既出論文の内容と一部重複することを、あらかじめお断りする。
 足助素一が設立した叢文閣は一九一八年に創業、足助が一九三〇年に没して以後は妻・たつが引継ぎ、少なくとも一九三四年頃までは存続していたことが確認できる。事業としては有島専属の出版社として出発し、白樺派同人やその周辺作家たちの文芸書を手掛けながら、山川均『社会主義者の社会観』(一九一九年一一月)を皮切りに左翼物出版事業へと展開していった。叢文閣の経営期間は、プロレタリア文化運動の盛衰とぴったり重なっているが、その実態はいまだ詳らかでない。『泉』第一巻第二号(一九二二年一一月)末尾にある「出版部のこと」には、佐々木孝丸、村松正俊、平林初之輔、小牧近江、藤森成吉、秋田雨雀らが叢文閣の運営に関与する運びとなった旨の記載がある。一瞥して明らかなように、いずれも『種蒔く人』同人である。したがって叢文閣を中心に形成された人的ネットワークに迫ることは、プロレタリア文化運動の、特に初期の動向に光を当てる作業でもある。
 叢文閣における左翼物出版事業の初期段階を支えていたのは主として有島の著作、特に『泉』であったと推測される。もともと『有島武郎著作集』という特異な出版形態を好んだ有島だが、これと『泉』との大きな違いは定期刊行物という点にある。生活改造以後の有島が、自身の「仕事」や「労働」について度々言及していたことは改めて注目されてよい。月に一度のペースで一定の分量の著作を仕上げることは、それまでの作家生活とは異なる「労働」的生活リズムをつくり出すからである。その収益が叢文閣の事業を支え、ひいては左翼物の発刊・流通を支える—―このような循環の様相を見極めることに本発表の眼目を置きたい。

  • 内田真木「有島武郎と山田まがね、玉置真吉、草間京平の三人について」

 有島武郎と絵葉書作家山田まがね、ダンス王玉置真吉、孔聖・謄写印刷の神様草間京平との関係について報告したい。
山田まがねは絵はがき作家であり、「あきれるばかりに多作な作家である。それだけの人気作家だったはずだが、経歴等まったく不明。」(林宏樹編『ニッポンのろまん絵葉書』、グラフィック社、二〇〇四年、三六二頁)と評される人物である。管見では、まがねの事跡を示す資料は見当たらず、まがねに宛てた有島の書簡はまがねの事跡を示す唯一の資料であるかもしれないのである。
 玉置真吉は社交ダンスの普及に尽力した人物として知られているが、一方で、メロディー社を創立し、浅草オペラの「楽譜」を絵葉書して売り出していた。有島と玉置との交際を示す資料は見当たらないのだが、玉置の生涯には有島との接点が数多く認められる。玉置がキリスト教信者であったこと、沖野岩三郎や大石誠之助等と親しく交わり、大逆事件の被疑者となった経験があること、同郷の西村伊作の要請により文化学院創設の実務を担っていたこと、有島の義妹章との交流があったことなどである。
 草間京平は足助素一の叢文閣で働いていたことが縁で有島の知遇を得る。草間は有島宛に送られた同人誌の下読みをし、謄写版印刷の改良を思い立つのである。草間が黒船工房(一九二三年)を創設する時、有島は創設資金として百五十円を草間に贈与したというのである。
 まがねの「絵葉書」、玉置の「楽譜」、草間の「謄写版印刷」はメディア発展史ではどのように位置づけられるのだろうか。「絵葉書」「楽譜」「謄写版印刷」に共通するのは安価であること、取り扱いが簡便であること、それ故、庶民よって大量に利用されていたことなどが挙げられる。
 戦前までの「絵葉書」は題材や形式が多様であり、発行元も、個人から政府機関まで多岐にわたっていた。また、発行数も大量であり、まがね個人に限っても、約四〇〇の新しい絵葉書を考案していたのである。
 「楽譜」についても、メロディー社からは、一九一六年から一九二一年までに、約一〇〇の新譜が刊行されている。また、「謄写版印刷」の場合も、用具の入手が容易であり、素人でも六〇〇~八〇〇枚の印刷ができる。「絵葉書」や「楽譜」は昭和初期には衰退するが、「謄写版印刷」は、戦後も、定期刊行物や同人誌、学校の印刷教材などに用いられていた。
近代メディア先進国アメリカの留学経験があり、海外情報に通じた人脈を持ち、自家用の電話機を備え、高価な油絵の掛かった応接室でレコードに耳を傾け、息子たちと活動写真に興じていた有島が示したまがねや草間への関心と厚遇の意味を検討したいと考えている。

  • 掛野剛史「『泉』と『文藝春秋』のあいだ――有島武郎と菊池寛」

 有島武郎が『泉』を創刊したのは一九二二年一〇月。菊池寛が『文藝春秋』を創刊したのは一九二三年一月。有島と菊池という作家の存在からいえば、そしてそれぞれ雑誌の行く末を知っている現在の目から見れば、二つの雑誌はまったく異なるもののように映るが、当時の出版状況に置いてみると、創刊時期の近接ということ以外に、二誌の存在は意外に近い距離にあったはずだろう。
 「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼ねなしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅ/\してゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。」
 よく知られる『文藝春秋』の「創刊の辞」をここに改めて読むと、有島の「私は毎月雑誌新聞の類に何かを書かねばならなくされる。それが常によい気持ちを以てばかりではない。(略)而して遂に自分一人の雑誌を出して見ようといふ決心に到達した」という「「泉」を創刊するにあたつて」の内容と重なる点が浮かび上がって興味深い。だがあまり紹介されないが、菊池は編集後記にあたる個所では「『局外』と云ふ、高畠素之君一派の雑誌を見てゐると、つひあんな手軽な雑誌を出して見たくなつたが、愈々出して見ると、やつぱり手軽には行かなかつた。」とも書いていた。『局外』は『泉』と同じ一九二二年一〇月創刊の雑誌である。菊池は『局外』に何を見たのだろうか。
 本発表では、菊池の念頭にあった『局外』を『泉』と『文藝春秋』の間に置き、文壇や出版を巡る状況の中で両誌を考えてみたい。そこから有島と菊池という二人の作家の問題についても、あわせて考えることができればと思う。

有島武郎研究会第75回全国大会発表者募集のお知らせ

2024年1月3日公開

  • 有島武郎研究会第75回全国大会の発表者を下記により募集いたします。ふるってご応募ください。
  • 日程 2024年6月15日(土)
  • 会場 新宿歴史博物館(東京都新宿区、予定)

※ハイブリッドにて開催予定です。開催場所が確定次第、改めてお知らせします。

第74回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2023年9月10日公開
2023年10月18日会報第73号を公開
有島武郎研究会第74回全国大会

有島武郎研究会の第74回全国大会(2023年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2023年11月18日(土)13:00開会
  • 会場 オンライン

【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(11月16日)までに登録を行なってください。
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。

申し込みURL  https://forms.gle/cu2YUy7WX1s6tFDZA

                    

===プログラム===

  • 開会の辞(13:00) 

阿部高裕(会長)



《研究発表》13:05〜14:05
嗅覚と「生」―「或る女」第七章の嗅覚喪失をめぐって―
唐銘遠
里見弴「ひえもんとり」論―牙を抜かれる民衆たち―
村松梨央

  • 10分休憩

《特集 有島武郎、ここが面白くない!》14:15~16:45
 (司会)荒木優太


【報告】14:15~15:35

『或る女』って、どこがおもしろいんですか?
渡邉千恵子

有島評論における偽善者の姿勢
何雯

反キリスト小説として読む有島武郎
上牧瀬香

  • 15:35~15:45 休憩・質問募集

【討議】15:45〜16:45


  • 閉会の辞(16:45) 

木村政樹(運営委員長)

  • 事務局連絡
  • 臨時総会(16:50)


===発表要旨===
○研究発表

  • 唐銘遠「嗅覚と「生」―「或る女」第七章の嗅覚喪失をめぐって―」

 有島武郎の文学には、幻像に関わる場面かそれに相当するものが大量に見られる。『或る女』はまさに「夢幻的」場面に富んでいる作品である。『或る女』の「夢幻的」場面に、多くの関心が集まった。
 特に第七章アメリカへ旅立つ直前、葉子が内田を訪問し会えずに帰る途中の、「既視感」、母親の幻像と鼻血などの体験が連鎖して登場する。連続で多くの「夢幻的」体験が密集的に登場し、相互に作用するこの箇所は「夢幻的」場面の中でも非常に複雑で重要である。
 この一連の体験が始まる前に、内田家を出た直後に「鼻の孔が塞がつた」と、葉子の嗅覚の無効化は注目に値する。鼻血はまさに母親の幻像の直後に嗅覚の回復の現れである。鼻詰まりと鼻血、嗅覚の無効化と復旧の過程は葉子の時間軸の解体と復元の過程とはほぼ重なっている。
 世俗世界に対する清算によって想起される内田、「他人の失望」をようやく完全に体験した葉子。内田に対する訪問の前に、社会的死亡という「死」のイメージが充満している。過去に対する総清算として、つまり「死」の代替物として、時間軸の解体が登場する。
 接近感覚でありながら遠隔感覚でもある嗅覚は同時に拒否不可能性と超越性を以て、ここでは感覚の代表として失われ、葉子の精神的生命の代替物の役割を果たした。嗅覚の喪失は精神的な「死」の体験であり、その回復は「復活」の体験として機能する。
 この第七章の「死」と「復活」は葉子の冒険と、冒険における「死」に対する憧憬と試みの下地として持ち出される。また、「死」そのものでない、代替物である嗅覚喪失は「死」と「涅槃」の真偽に打消しの余地を残し、結末の内田への回帰を可能にした。
 本発表は、『或る女』第七章における嗅覚喪失の役割を解明し、第七章の嗅覚喪失が全作品の構造における機能を考察したい。そして、嗅覚感覚と主人公の意識、ないし精神的生命との関係、あるいは嗅覚の抽象的象徴性に手がかりを提供したい。

  • 村松梨央「里見弴「ひえもんとり」論―牙を抜かれる民衆たち―」

 里見弴「ひえもんとり」(『中央公論』一九一七年)は死刑囚の死骸から肝を取り出す競技である「ひえもんとり」を題材とする作品である。本作は、着眼点や筆致が評価されつつも、主題の不在が指摘されていた。それらはいずれも簡単な作品評価にとどまっており、作品研究はおこなわれていない。
 本作発表の一か月前にあたる一九一七年三月一二日は、ロシアの首都ペトログラードで皇帝ニコライ二世を退位に追い込む、通称二月革命が起こっていた。日本国内では、翌年から激化した米騒動に代表されるように、主に農民が第一次世界大戦のあおりを受けていたことは周知の事実である。「ひえもんとり」発表同年一〇月二二日に書かれた原敬の日記にも、民衆による蜂起を警戒するような記述が確認できる。
 こうした同時代状況を鑑みて、本作を、社会の中で民衆が如何にして牙を抜かれ、都合のよい型に流し込まれていくのかを語った、批判的側面のある作品として読み替えることが可能なのではないだろうか。
 そのため本発表では、「施政者」を補助線に、まずテクスト内での特徴的な方言の扱われ方から言語的な支配の構造を明らかにし、その内部で「ひえもんとり」に陶酔するよう仕向けられた村人について検討する。そのうえで、テクスト結末部「全く気がつかなかつたものは、鼻を欠いた梅毒くらゐは未かなことで、……人であつたこと、死んだこと……。」を読む。以上の分析を通し、本作のもつ批評性を明らかにしたい。
○特集

  • 荒木優太「司会者より」

 個人的な話からはじめさせてください。私が初めて有島武郎を読んだのは高校生の頃、『小さき者へ・生れ出づる悩み』の文庫本で、なかなか熱っぽい文章を書く作家がいるんだなと驚き、次に手にとった『惜みなく愛は奪う』で一気に魅了されました。自分もこんなふうに生きたい!と。というわけで、彼の代表作らしい『或る女』をワクワクしながら読み進めたのですが、これがまったく面白くない。可哀想といえば可哀想だけどお前もお前で性格の悪い奴だしな、などと思ったのを克明に覚えています。
 勿論、いくつかの研究書を読んだいまならば、『或る女』の魅力もまったく分からないわけじゃありません。しかしそれでも、あのとき感じたガッカリが、現在の読み方に劣っているとはまるで思わないのです。佐々木信子のことや有島の思想遍歴を事前に知っていれば、なるほど、いくつかの細部が興味深く浮かび上がってきます。にも拘らず、多くの読者は全知の視点から文学テクストを読んだりしません。よくも悪くも、欠けてたり歪んでいたりするのが読みの自然状態であり、そのなかで様々な文化が実際に派生していくと思うのです。テクスト理論とは人間の無知に寄りそうプラグマティズムの方法であると私は考えるのですが、これはまた別の話。
 三〇年以上の歴史を誇る有島武郎研究会は、多くの個人研究会と違い、作家の単なる顕彰・称揚とは異なる批評的な姿勢をとりつづけてきましたし、それが会の魅力の一部でもあったでしょう。いうまでもなく、有島武郎という作家の大きさを否定する人はいません。ただ、その大きさとは批判や疑問を率直にぶつけてもかえって新しい反響で応えてくれる豊かな奥行きをふくんでいたのではないでしょうか。今回、専門的な研究を重ねてきた有島研究者三人に、あえて有島批判をしてもらうという難問をリクエストすることで、研究的風景の刷新を試みます。ぜひ、みなさんのなかの「面白くない!」を頭の隅に置きながら、Zoomにアクセスしてみてください。積極的なご参加をお待ちしております。

  • 渡邉千恵子「『或る女』って、どこがおもしろいんですか?」

 今回の特集テーマは「有島武郎、ここが面白くない!」だと司会の荒木さんから聞かされ、ふと頭をよぎったのが、タイトルに挙げたフレーズである。
 高校の教員になりたての頃、勤務校の一年次の夏休みの読書感想文のリストに、『或る女』が入っていた。毎年リストに『或る女』を入れているとのことだったが、残念ながら長編ということもあり、女子高でも生徒には不人気の小説だった。そうした中、読書好きの生徒の一人が、「『或る女』って、どこがおもしろいんですか?」と聞いてきたのだ。
そのとき私は、自分自身同じ年ごろに『或る女』を読んで、異性の前での葉子の所作に全く共感できなかったこと、そもそも男性作家が女性の嫌な部分を誇張して描いているようで不快だったのを思い出し、生徒に対し、その疑問(不満)も分からないではないとだけ、きわめてあいまいな返答をしたのを思い出す。
 とはいえ、『或る女』は有島武郎の代表作に挙げられ、研究論文も数多く書かれている。必然的に読み返す機会が増えた。それがきっかけで、当研究会のシンポジウムでパネリストとして葉子のセクシャリティがどのような言説で語られているかを分析し、報告したことがあった。たくさんのご質問ご意見をいただいたにもかかわらず、自身の怠慢により論文にしないまま今日に至っている。
 今回の特集テーマは細かい縛りがないので、やり残しの宿題を片付けるようなつもりで、『或る女』に共感できなかったという個人的な問題からテクストを読み返してみたい。
かつて取り上げた五章~七章で語られる「つまづ」き、そして割れる鏡の表象をめぐってさらに考えを深めるつもりである。くわえて今回の発表では、男性作家が、父―息子の関係を描くのであれば違和感を抱かなかったであろうに、母―娘の関係を描いたことについても触れてみたい。

  • 何雯「有島評論における偽善者の姿勢」

 有島武郎の評論は、時事、文芸よりも、自らの内部問題を論ずるものが多かった。「二つの道」(1910・5)において、有島は自らの内部における二元的な思考様式の葛藤を吐露した。それを一元へと統一しようとする志向が、有島のそれ以降の評論の主要なテーマとなっているが、発表者はその思想の紹介の仕方に違和感を抱かざるを得ない。
 例えば、「内部生活の現象」(1914・7~8)の冒頭では、「私は唯私の生活の内部に起る現象を、そのまゝ偽る事なく申上て見たいと思ふだけであります」という、一見謙虚な言い方をしていたが、その後は「魂」という概念を、強く主張した。また、「惜みなく愛は奪ふ」(1920・6)では、最初は「弱い人」、「偽善者」だと強く自己批判をしたが、その次にはニーチェも弱い人だと述べた。弱い人という言葉はそれまでネガティブな意味で使われてきたが、ニーチェを導入した瞬間、ポジティブな意味を担った。それとともに、それまでの自己批判の力強さが薄まり、一種の自己肯定となった。さらに論を進めていくと、有島は最終的に冒頭の自己批判を全面的に裏切って、「奪う愛」と「本能的生活」といった、自己肯定に満ちた思想を提示したのである。
 以上のような、自信のなさや自己批判などの後に続く思想の表明の仕方は、すなわち言説の反転は、例にあげた以外の評論でも見られる。これらの評論の中での、自己批判から自己肯定への急展開は、最初の自己批判を一種の偽善に仕上げてしまったのではないかと考えられる。自己批判を書かずとも論は成立するにもかかわらず、有島はなぜそれを書かなければならなかったのだろうか。本発表は、その偽善的な姿勢が有島の評論群において果たす役割を明らかにしたい。それとともに、その偽善的な姿勢とニーチェ受容との関連性も解明していきたいと思う。

  • 上牧瀬香「反キリスト小説として読む有島武郎」

 有島武郎で卒業論文を書いてから、20年以上が経つ。彼の享年も超えてしまった。何度読んでも新鮮な面白さを与えてくれる有島テクストの、「面白くない!」ところなどあるだろうか。司会の方からほとんど無茶ぶり(?)といえるお題をいただいてからというもの、「面白くない」点を半ば無理やりに見つけ出しては検証する作業を繰り返したが、それはしかし、何度試みても「……やっぱり面白い」に転じてしまう。
 そうしたウダウダを繰り返すうち、自分が「面白くない!」と思うポイントを、意識的に避けながら勉強してきたことに気づいた。それは、「キリスト教」である。「解らない」から「面白くない」のだ、といわれればそれまでであるが、キリスト教とは縁のない生を生きてきた私にとって、離教後の有島とキリスト教の関係は、距離感が掴みにくい。1910年に教会を退会し、1919年には「これから独りで出懸けます。左様なら」(「リビングストン伝」序)と述べながらも、先行研究が明らかにしてきたとおり、亡くなるまでの有島のテクスト群には随所に聖書の言葉やモチーフが見受けられる。
 しかし有島のテクストに描かれるのは、道徳化されたキリスト教を前提として成り立つ近代社会の矛盾した様相や、そこから「悪」と決めつけられ排除される者たちの苦しみであるようにも見える。それはいつも、この社会が根本的に間違っていることへの、そこに生きる自分が見て見ぬふりをしている罪悪感への、鮮烈な気づきをうながしてくれるのだ。
離反したはずの聖書の言葉を使い続けるのはなぜか、編み出されたテクストがキリスト批判の色を帯びるように見えるのはなぜか。「解らない」に挑むことで「面白くない!」と決別し、今度は意識して「面白い」に転じさせる……本発表は、以上のような目標をもって有島のテクストを反キリスト小説として捉えなおすための、ささやかな試みである。

会報業績欄への投稿募集

  • 会員の研究内容・研究動向を把握し、共有することを目的として、会報に、会員研究業績欄を設けております。
  • つきましては、2023年8月末日までに、2022年9月から現在までに発表された研究業績を送っていただきたく存じます。
  • 小さい講演会や読書講座、新聞でのコラム執筆やインタビューなど、どんなものでも結構ですので、どしどしお送りください。業績は有島武郎関係のものに限りません。(なお、想定以上に情報量が多くなった場合は、会報ではなく、ホームページ上での掲載のみにするなど、媒体の変更をする場合もあります。)
  • 投稿にあたっては、下記または別添ファイルに示すフォーマット通りにしていただくようお願いします。
  • 送り先は、arishima-unei-2023コピー後ここに半角アットマークを入力してくださいgooglegroups.comまでお願いします。(メールに直接書かれても、添付ファイルでも結構です)
  • ふるってご投稿をお願いいたします。

会報研究業績欄への投稿フォーマット

  1. 有島武郎研究会会員の業績のうち、2022(令和4)年9月から現在までに発表されたものを収録する。業績は有島武郎関係のものに限らない。
  2. 各業績には記号を付す。単行本はA、雑誌・単行本等収録論文はB、その他(種別としては、「研究ノート」「書評」「口頭発表」「項目執筆」「解題」等)はCとする。Cに関しては、タイトルの前に種別を付す。
  3. Aは書名、出版社、発行年月の順で、Bは論文等タイトル、書名・雑誌名、発行年月の順で、Cは、種別、タイトル、発表媒体・発表会名、発行・発表の年月(日)の順で記す。
  4. 掲載紙誌の巻号は省略する。雑誌・単行本は発行年月のみ、新聞・会報等は発行年月日を記す。
  5. 原則として、Cの種別、執筆項目等の詳細、編者名・発行所名等は、会員の届け出に記載されたものを記す。
  6. 用字は、会員届け出の記載に拠る。
  7. 単行本、雑誌、新聞のタイトルは『 』、それ以外の論文等のタイトルについては「 」とする。
  8. 注記等は( )で示す。
  9. 年月日を表す場合は、漢数字を用いる。年号は西暦に統一する。西暦は下二桁のみを記す。二一年一〇月一一日、といったように表記し、「千」「百」「十」は用いないことに統一する。
  10. ダッシュは「―」とする。

例)
鈴木太郎

  • A『有島武郎の文学』●●社、二二年九月
  • B「『或る女』論―葉子に注目して―」『●●大学紀要』、二二年一〇月
  • B「『或る女』に関する試論」●●編『有島武郎と近代日本』●●社、二二年一〇月
  • C口頭発表「有島武郎の文学」(●●年度●●学会全国大会 於●●大学)、二三年一月一日

会報研究業績欄への投稿要領

  1. 会員研究業績欄フォーマットのダウンロード 
  2. 投稿締切 2023年8月末日
  3. 送り先 arishima-unei-2023コピー後ここに半角アットマークを入力してくださいgooglegroups.com

2023〜2024年度役員・委員一覧

1.会長 阿部高裕
2.幹事会 阿部高裕(代表幹事)、木村政樹、上牧瀬香、何雯
3.運営委員会 木村政樹(運営委員長)、荒木優太、岡望、奥田浩司、梶谷崇、竹内瑞穂、中村建、山田順子
4.編集委員会 上牧瀬香(編集委員長)、今井克佳、掛野剛史、杉淵洋一、中村三春、村田裕和、吉本弥生、渡邉千恵子
5.会計 何雯
6.会計監査 中島礼子

『有島武郎研究』第25号PDF(2022年5月発行)

事項 ファイル名
表紙 2501表紙.pdf
[論文]『青鞜』発刊の辞における「自然」と「潜める天才」 山田(野呂)順子 2502『青鞜』発刊の辞における「自然」と「潜める天才」.pdf
[論文]デモクラシーと性=政治―ホイットマンの翻訳を中心に 坪井秀人 2503デモクラシーと性=政治.pdf
[論文]「大正文学研究会」と「ジッテ(Sitte)」―学問史/〈翻訳〉の視点から― 中山弘明 2504「大正文学研究会」と「ジッテ(Sitte)」.pdf
[論文]『或る女』におけるコケットとしての葉子像 盧昱安 2505『或る女』におけるコケットとしての葉子像.pdf
[論文]有島武郎『星座』研究史―晩年像を再考する視座として 石井花奈 2506有島武郎『星座』研究史.pdf
[資料紹介]『有島武郎全集』未収録・有島武郎の大森時吉宛はがきについて 内田真木 2506『有島武郎全集』未収録・有島武郎の大森時吉宛はがきについて.pdf
彙報 2508彙報.pdf
編集後記・奥付 2509編集後記・奥付.pdf
有島武郎研究会会則 2510有島武郎研究会会則.pdf
裏表紙 2511裏表紙.pdf

『有島武郎研究』第26号(2023年5月発行)

『有島武郎研究』第26号が発刊されました。
購入ご希望の方は、◇機関誌『有島武郎研究』購入方法をごらんください。

『有島武郎研究』第26号目次

特集 白樺派の文学と〈動物〉表象

  • [論文]有島武郎「凱旋」論―反軍的文芸として―/中村建
  • [論文]〈犬〉によって育まれるテクスト―志賀直哉文学における動物表象―/下岡友加
  • [論文]武者小路実篤「人間万歳」と人類/動物表象―ポスト・ヒューマニズム/アニマル・スタディーズの観点から―」/瀧田浩



小特集 有島武郎と生活―「宣言一つ」一〇〇年から振り返る

  • [講演]「卑怯者」から読む「宣言一つ」/山田俊治
  • [論文]生活より生存へ―有島武郎の森本厚吉批判―/荒木優太


  • [論文]有島武郎「聖フランシスの生地」と和辻哲郎「法華寺阿弥陀三尊」について―スペイン風邪を視座に加えて―/内田真木
  • [ノート]戦後農地改革と有島農場 覚書―戦後占領期『週刊朝日』北海道版および『農業朝日』掲載記事から/石井花奈


  • [資料紹介]有島武郎はがき・書簡二通と有島武書簡一通について/内田真木
  • [資料紹介]有島章に関する岡田牧子氏の証言と『有島武郎全集』未収録・有島武郎の伊藤松雄宛書簡の紹介/内田真木


  • [書評]木村政樹著『革命的知識人の群像』/大久保健治
  • [書評]「種蒔く人」顕彰会編『『種蒔く人』の射程―一〇〇年の時空を超えて―』/團野光晴
  • [書評]下岡友加・柳瀬善治編『『台湾愛国夫人』研究論文集―〈帝国〉日本・女性・メディア―』/石田仁志


  • [彙報]活動記録

第73回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2023年3月26日公開
2023年4月28日会報第72号を公開
有島武郎研究会没後100周年第73回全国大会
《特集 没後100周年―有島武郎晩年の思想》

有島武郎研究会の第73回全国大会(2023年度春季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2023年6月3日(土)10:30開会
  • 会場 軽井沢町中央公民館

およびZoomでの開催(ハイブリッド形式)
【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(6月1日)までに登録を行なってください。
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。

申し込みURL  https://forms.gle/8bpwhpfHQEcGLEvYA

                    

===プログラム===

  • 開会の辞(10:30) 

瀧田浩



《研究発表》10:40〜11:15
有島武郎『迷路』論―Aの身体性をめぐって―
中村建

  • 11:15 昼食休憩
  • 11:20~ 評議員会


《講演》12:00〜13:05
 (司会)梶谷崇
有島武郎と子どもの現代芸術
中村三春(北海道大学大学院教授)
※中村氏の講演はオンライン配信となります



《特集 没後100周年-有島武郎晩年の思想》13:25~14:45
 (司会)奥田浩司


【報告】13:30~14:45

「新興芸術」前夜―有島武郎「或る施療患者」論
石井花奈

階級について語るとはいかなることか―有島武郎と平野謙をめぐって―
木村政樹

有島武郎における思想としての〈晩年〉
村田裕和


【討議】15:00〜15:50


  • 閉会の辞(15:50) 

今井克佳(会長)

  • 2023年度総会(16:00)


===発表要旨===

  • 中村建「有島武郎『迷路』論―Aの身体性をめぐって―」

『迷路』(大七・六)は、有島武郎の小説の中で最も研究されているものの一つであるが、その評価は現在まで定まっていない。それは、『迷路』が、社会/人種/性など様々な問題を含んで錯綜した内容であることもさることながら、P夫人の懐妊が実は虚構であったという設定があるからである。『迷路』の研究は、その懐妊に関する解釈が中心を占め、「妊娠小説」(斎藤美奈子)としての研究史であったと言える。主人公のAはP夫人の懐妊に困惑するかと思えば、ヂュリヤとフロラへの恋愛が失敗すると、今度は胎児に執着するなど、その内面は、混迷を極めている。そのようなAの錯綜ぶりには否定的な評価が多い。
 しかし、そのような混迷は、主語と目的語を明確に示す所謂欧文脈の文体によって、Aの精神の遍歴を丹念に追うことでもたらされるものであり、また、Aの内面と共に彼の身体の変化をも描き出している。ところで、近代の学問が男性を精神/理性、女性を肉体/自然として、男性の身体を普遍的な存在とし、そうではない女性の身体を客体化、特殊化していたことは夙に指摘されている。『迷路』は一見、男性知識人の青年の遍歴という日本近代の男性による文学にありがちな題材ではあるが、Aは決して特権的な地位にはおかれず、むしろ相対化される。つまり、Aの精神の変化と身体の変化は密接に繫がっており、さらに、女性ではないことによって胎児をめぐる情報はP夫人に頼るほかないために混迷を極めることになるのである。
本発表ではAの身体に関する描写を分析しながら、彼の身体と心理状態の連関を指摘し、『迷路』が女性ではない男性の身体に密着した小説であると考える。『或る女』が葉子という子宮を持った女性の身体を描いた小説である一方、『迷路』は子宮を持たない男性の身体をめぐる小説であり、男性の身体こそが普遍的な存在であるということを相対化させるものであると結論づけたい。

  • 中村三春「有島武郎と子どもの現代芸術」

談話「子供の世界」(『報知新聞』一九二二・五・六、七付)において、有島武郎は「大人の僻見」を認め、「私たちは明かに子供と同じ考へ方感じ方をすることは出来ない」と断言している。これは、「一房の葡萄」(『赤い鳥』一九二〇・八)の執筆動機について、「子供の立場から子供の心理を書くといふのにありました」という古川光太郎宛書簡(一九二一・六・九付)で述べた論理の否定であり、その間に発表された「宣言一つ」(『改造』一九二二・一)と軌を一にする自己批判とも受け取れる。「子供の世界」でいう「子供」は、「宣言一つ」の第四階級者に相当する。従って、前者で大人や教師が「子供の世界の中に驚くべき不思議を見出すだらう」と述べるのは、後者の姉妹編である「芸術について思ふこと」(『大観』一九二二・一)において、新興芸術の代名詞としての表現主義の担い手に、「新興の第四階級を予想する」と書いたのと同じような意味を持つことになる。
 子どもを階級としてとらえると言えば大方は疑問を覚えることだろうが、似たような論理は広く一般に受け入れられている。それは、成長という概念である。「一房の葡萄」の結末で、「僕はその時から前より少しいゝ子になり、少しはにかみ屋でなくなつたやうです」の一文を読む時、ああ、この子は「少し」成長したのだな、と読者は感じ取ることだろう。成長する前と成長した後とを別人としてとらえるならば、子どもと大人とは互いに他者であり、比喩的にそれらを階級と見なすこともできなくはないだろう。しかし、本当にそのようなことがあるだろうか。私たちは皆、成長についても階級についても、旧弊な感覚のままに日々を過ごしているのではないだろうか。
 小川洋子の『原稿零枚日記』(二〇一〇・八、集英社)で、八歳の時に私はいったん死に、その「死んだ私は私の中にいるのだ。私は死者となった私と一緒にいるのだ」と語られる。そもそも、子ども、大人、プロレタリアート、ブルジョワジーは、それぞれ一枚岩ではない。それぞれの内部的または外部的に、相互に他者とも、また同胞とも言える。特に、人は皆最初は子どもであったというのが正しいのであれば、その子どもはいったん死んだかも知れないが、今の私の中に一緒にいるのである。子どもを描くことは大人にもでき、現代芸術を展開することは芸術家の出自にかかわらずできるのだ。しかも、それらはいずれも他者(同胞)から何かを奪って行う営為にほかならない。「一房の葡萄」の僕は、ジムから絵具を奪ったではないか。「惜みなく愛は奪ふ」と主張したのは、いったい誰だったのだろうか。
 一八七八年生まれの有島武郎は、画家・音楽家のパウル・クレーより一歳年長の同時代人であった。一九四〇年に病死したクレーも長生したわけではないが、大胆に子どもの感性をも開花させて現代アートを展開した。現代芸術は、いわば子どもの芸術である。有島武郎に一九三〇年代は訪れなかった。本講演では、子どもと現代芸術を二つの焦点とする楕円として、有島武郎の様式について再検討する。これは、論者自身の『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』(二〇一一・二、ひつじ書房)の論旨に対する自己批判であり、また展開への契機でもある。

  • 石井花奈「「新興芸術」前夜―有島武郎「或る施療患者」論」

『泉』第二巻第二号(一九二三年二月、叢文閣)に掲載された「或る施療患者」は、有島武郎が活動の場を個人雑誌に移してから第二作目となる小説である。本作は「乱世」に翻弄される原亀吉の一人称視点の物語であるが、作品末尾の付記において筆記者「私」の存在が唐突に明かされる。目次に「小説」「創作」と明記された作品のいずれにも作家自身を想起させずにはおかない人物が登場するのに対し、「或る施療患者」の「私」は筆記者として物語の外に位置しているのであり、本作はその構造からして他の掲載作品とは位相を異にする。
この額縁小説の形式がとられていたのが、中絶された「運命の訴へ」(一九二〇年八月起稿・九月中絶、生前未発表)である。上総国の宿屋で泊まり合わせた青年・佐間田信次が遺していった「ノート・ブック」の「不思議な記録」を、小説家である「私」が「転載」するという形式の物語で、その手記には彼の生家がある農村「谷(やと)」の「十軒の百姓家で起つた忌はしいこと」(その内、原稿に記されたのは四軒)と、彼自身の家族の悲惨な「運命」とが記されている。
本発表は、「運命」の超克というテーマ、それを描くためのモチーフに「略奪」の論理、伝染病、童心の喪失があることから、「運命の訴へ」における試みを多分に引き継いだ作品として「或る施療患者」を位置づけようとするものである。「運命の訴へ」中絶によってそれまでの創作理念を決定的に失ったはずの有島は、その後いかにして作品を書き、そこで何を試みていたのか。「第四階級」(「宣言一つ」一九二二年一月)の問題を文学としていかに扱おうとしていたのか。有島武郎晩年の思想をこのような観点から考える契機となるよう努めたい。

  • 木村政樹「階級について語るとはいかなることか―有島武郎と平野謙をめぐって―」

文芸批評史の研究においては一般に、作家が何を具体的に問題化したのかを特定することが重要である。だが、そうしたアプローチは、往々にして周辺との関係を分析することに留まってしまう。個人やグループといった単位に限定せずに批評史を記述するためには、たとえば遂行的に示された問いの所在を読み取ることが有効なのではないか。
 そこで本発表では、晩年の有島武郎が、《階級について語るとはいかなることか》という問いを示したという説を提出したい。また、有島没後の有島論/階級論の連関を追いつつ、その記念碑的なメルクマールとして、「「政治の優位性」とは何か」などの平野の戦後批評を同様の観点から取り上げたい。
 有島は「宣言一つ」その他の論考で、階級について語るというゲームのルールを、身をもって生きた。その営為が孕む屈曲には、ゲームのルールについての問いが(非‐主題的に)示されているように思う。他方、平野はプロレタリア文学の批判的検討を行なったが、それもまた別の形で階級論のルールを問うたものであった。平野の論の構えはいわゆる「日本近代文学研究」の方法にも通じるものであり、過ぎ去った運動を再解釈する行為を伴っていた。
 一見したところ、両者のテクストは別の属性に区分されるかもしれない。たとえば、有島が書いたものは文芸批評/知識人論であるのに対し、平野のそれは文学研究/文学史である、というように。だが、両者の実践はともに、階級概念を運用して自己を形作ろうとしたものであり、そのプロセスには知と主体をめぐるネットワークの回路が成立していた。ここで重要なのは、見かけ上のジャンル的な差異に還元せずに、自己や主体に関わる言説を対象領域として取り出すことである。こうした言説研究の理論的な問題についてもまた、有島と平野のテクストを通して吟味してみたい。

  • 村田裕和「有島武郎における思想としての〈晩年〉」

有島武郎に字義通りの晩年があったのか。晩年を「老齢期」と解釈するなら、四五歳で自死した人物に晩年を認めることは難しい。一方、事後的かつ相対的に「死に近い時期」を晩年とするなら、有島にも若すぎた晩年があったといえよう。作家の生涯や作品の全体を、前期・中期・後期などと区分することはよくあり、当会でも第七〇回大会でこの三区分をふまえたパネル発表が行われた(『会報』第六九号参照)。有島に晩年があり得るとすれば「後期」がそれに近いわけだが、「晩年」という言葉には「後期」の言い換え以上の何かがつきまとう。
 たとえば、虐殺された平沢計七や小林多喜二に晩年を認めることはためらわれる。強いられた死を是認するように感じられるからだろう。また、震災で亡くなった厨川白村や事故死した渡辺温のように、差し迫った死を予見できずに死んだ人物の晩年を議論することはナンセンスではないか。事後的・相対的に「死に近い時期」であるにせよ、当人が自己の死を遠くない未来のものとして生々しく意識する時間が「晩年」には必要であり、少なくともそのような時間の厚みにおいて、自死であれ病死であれ当事者が自身の死を所有していたと想像し得る場合にのみ、私たちはその人物の「晩年」を語ることができるのではなかろうか。
 ところが周知の通り、有島のテクストには、「小さき者へ」のように親から子に残された言葉があり、「死と其前後」のように親の死を描きつつ、子を失う親という要素が内包された戯曲もある。農場解放にあたって示された「小作人への告別」もいわば遺言であった。このように、有島は繰り返し次世代への遺言を語り、遺産相続の可能性と不可能性をめぐる思考を展開していた。最初の短篇集を『晩年』と称した太宰治のように、有島もまた仮構された〈晩年〉を自覚的に生きていたようにさえ見える。本発表では、有島武郎における思想としての〈晩年〉について考察する。

有島武郎研究会第73回全国大会発表者募集のお知らせ

2023年1月2日公開

  • 有島武郎研究会第73回全国大会の発表者を下記により募集いたします。ふるってご応募ください。
  • 日程 2023年6月3日(土)
  • 会場 長野県北佐久郡軽井沢町(現在調整中)

※ハイブリッドにて開催予定です。開催場所が確定次第、改めてお知らせします。