ストルガツキーの神様はつらい

「神様はつらい」より引用
訳者 飯田規和氏の解説より

ストルガツキー兄弟の創作には、中篇『脱走への試み』(1962年)の頃からそのテーマに大きな変化がみられる。これは地球の青年が未知の惑星へ行き、そこで封建制とも奴隷制社会ともつかぬ社会に遭遇し、自分らと同じ人間が家畜同然に扱われているのを見て、傍観していることができず、その非人間的な社会制度に干渉しようとして失敗するという筋の物語で、社会発展の歴史的法則の問題、遅れた社会制度を飛躍的に発展させるための方法についての問題、歴史に対する人間の責任の問題などがその思想的内容になっている。人間が他の惑星へ行って遅れた社会制度に出会うというテーマや、現代人あるいは未来の人間がタイム・トラベルの方法で過去の時代にはいりこむというテーマはそれ自体としては決して新しいものではないが、そのテーマをいちじるしく異なる二つの社会体制同士の接触という根本的な観点から取り上げ、それを歴史法則についての認識とヒューマニズム的心情との相克として処理したのは、おそらくストルガツキー兄弟がはじめてであろう。

 このテーマをさらに発展させたのが、この巻に収録されているストルガツキー兄弟の『神様はつらい』(1964年)である。

 

 あるところで、ストルガツキー兄弟は次のように語っている。「私たちの考えでは、現代の文学の課題は、典型的な状況における典型的な人間の研究にとどまるべきものではない。文学は典型的な社会を研究する試みをなすべきである。ということは、人間および人間集団と、人間自身が創りだした第二の自然との間の結びつきの多様性のすべてを検討すべきだということである。現代の世界は非常に複雑で、それを結びつけている糸は数が多く、しかもそれらの糸はひどくもつれているので、文学がその課題を解決するためには、ある種の社会学的な概括化の方法に頼らざるをえず、必要に応じて単純化されていても、特徴的な傾向や法則は保持している社会学的なモデルを組立てるという方法に頼らざるをえない。もちろん、これのモデルのもっとも重要な要素は相変わらず典型的な人間であるが、しかし、その人間は、具体化の方向で典型化された状況においてではなく、傾向を把握する方向で典型化された状況において活動するのである。

②この巻に収録されている「神様はつらい」は、1967年にソ連のSF文集『ファンタスチカ・1966』がおこなったアンケート調査の人気作品の部門で最高点を獲得した作品である。

 最初に、太陽の光が降りそそぐ湖のほとりで二人の少年と一人の少女が中世風の武器をもって遊んでいる場面が出てきたかと思うと、舞台は一変して、血なまぐさい中世の陰気な世界そのものがあらわれる。しかし、そこに登場する中世の貴族ドン・ルマータが、かつてウイリアム・テルの真似をして友人の頭上の標的を射ることさえためらった少年アントンのその後の姿であることがわかるに及んで、事情が少しずつ飲み込めてくる。かれらは地球の実験歴史研究所からこの惑星に派遣されてきた歴史家たちである。すでにこの惑星全体には250人の地球人がいる。かれらのうちの最古参の者はここに来てすでに22年になる。最初の人びとの目的は単にこの惑星の人びとの生活を観察することのみに限定されていた。ルマータ=アントンのグループは恐らくその第二陣で、6年前にこの惑星にやってきた。ルマータたちの任務は、この社会の貴族になりすまして人びとのなかにとけこみながら、消極的に、血を流すことなく、この社会の発展に力を貸すことである。そのためにかれらは、封建制全体主義が渦巻いているようなこの惑星のアルカナルで、殺される運命にあるこの国の知性(作家、医者、詩人など)を生命の危険をおかしながら救おうとしている。

 かれらはこの惑星の住民にとっては全知全能の神である。この神は地球の未来の人間たちであるがゆえに、強力な交通手段と武器をもっていて、どんなに固い防備をもつ暴君でもたちどころに葬るだけの力をもっている。しかし、「全知」でもあるこれらの神は、歴史の発展法則を知っているがゆえに、外部からの暴力をもってしては歴史の歯車を推し進めえないことを知っている。だとすれば、目の前で悪どい陰謀が企てられ、善良な人びとが無残に殺されていくのをただ傍観すべきなのか?この神たちはヒューマニズムが高度な発展を遂げた社会から来た人間である。従って、「神様はつらい」のであり、もっと性格に、この小説の原題通りに言えば、「神様たることは困難」なのである。しかし、本当に神様たることが困難なのではなくて、人間が人間としてとどまりつづけることが困難なのである。そこにこの小説の現代的意義がある。

 

世界SF全集 24 早川書房 絶版 1970年初版より