Hatena::ブログ(Diary)

記憶の残滓 by arkibito

2016-11-01

『JASON BOURNE』 by P・グリーングラス監督

無敵のジェイソン・ボーン

9年ぶりにスクリーンに帰ってきた!


2000年初頭まで、

火薬と筋肉の量でしか競い合いしていなかった

アクションスパイ映画に

リアリティ”という新しい要素を注入し、

金字塔を打ち立てた『ボーン』シリーズ。

非現実的な爆発シーンやドンパチではなく、

現場にあるモノや地形を巧みに利用しながらのアクションや、

手持ちカメラを多用して緊迫したチェイスシーンを演出するなど

新しいアクションの見せ方のリアリティを構築するとともに、

類まれな運動能力や頭脳を持ちながらも、

決して国家をピンチから救うような完全無欠のヒーローでもなく、

アクシデントによって失われた過去の記憶を取り戻しながら、

その記憶によって苦悩し続ける孤独な人間として描かれる

主人公の人間的なリアリティの両面が、

当時は本当に異色の作品だった。

それが、この分野のトップブランドである007でさえも、

その方向性に同調して舵を切る(ブロスナン版⇒クレイブ版)など、

多大なる影響力を及ぼしてきた。


マット・デイモンポール・グリーングラス

最強コンビが再びタッグを組んだ最新作を

見に行かないわけがないということで劇場へ。

前作のラストで自由を得たはずのボーンが、

再びCIAの陰謀に巻き込まれてゆく。

アテネ暴動、スノーデンによる監視暴露事件など、

時事問題をうまく絡めつつ、

緊迫したチェイスや格闘シーンがちりばめられ、流石の一級品。

特に冒頭の、アテネ暴動のさなかに

バイクで追ってから逃げるシーンなどは

一体どうやって誰も無傷で撮影したのというくらい。

そして何よりこのシリーズは毎回脇役が渋いキャスティングで

今回は、いぶし銀トミー・リー・ジョーンズと、

仏映画界きっての曲者で大好きなヴァンサン・カッセルで文句なし。

モニカ・ベルッチと離婚したの知らなかった!)

そして主人公のボーンはというと

回を追うごとにほとんどセリフらしいセリフもなくなって、

段々デューク東郷みたいになってきました。

毎回エスプリの効いたラストだが、今回も健在。

単品でみると、前の三部作からの目新しさはないけれど、

早くも続きが見たい。


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2016-10-25

『君の名は』聖地巡礼

笠ヶ岳を後にし、10:55の濃飛バス北アルプスを離脱。

本当はもっと山に留まりたかったのだけど、

今回はもう1つミッションがあり、次の仕事の素材集めとして

君の名は』の聖地巡礼スポットである飛騨古川へ向かいます。

JR高山線は本数がきわめて少なく、高山BSでバスを乗り換えるのだが、

乗り換え時間が5分しかなく、それを逃すと1時間待たされるので忙しい。

大きなトランクを持ち込んだお客でバスは満載で、

下車に手間取っているうちに、

古川行きのバスが行ってしまう危険性が大いにあったので

機転を利かせて1つ前の国分寺でバスを降りてダッシュし、

どうにか接続に間に合いました。


神岡行きのバスに揺られること40分で飛騨古川駅に到着。

時刻は14:20。

まずは帰りの電車の手配をしておかないと、

特急ひだはめちゃ混み必至。

ということでみどりの窓口へ。

すると、東海道本線木曽川駅付近で事故があり、

そのせいでダイアが乱れていて、

特急ひだは、名古屋まではいかず岐阜止まりか、

車両によって大阪行きしかないとのこと。

とりあえず岐阜まで出れば、名鉄もあるし、どうにかなる。

特急自体が運行するというのを確認して15:35の特急の指定を取る。


飛騨古川駅

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わずか1時間しか滞在できないので

君の名は』の聖地巡礼スポットを一斉取材を早速スタート。

まずは駅前にスポットが集中しているので、そこをささっと。

まずは駅構内にある「ひだくろ」の顔出し看板。

劇中では、看板ではなく着ぐるみでしたが、

主人公たちがはしゃいでいるシーンがありました。


飛騨古川駅構内 ひだくろの看板

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続いて、主人公がヒロインの住む糸守町について

情報収集していた駅前。

そこにタクシーが出てくるのですが、

ちょうど実在する「宮川タクシー」が停まっていました。


飛騨古川駅前 宮川タクシー

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そして、この聖地巡礼の最も象徴的なスポットとして

メディアでも取り上げられている、飛騨古川駅の陸橋からの眺め。

ここはファンの人の人だかりがすごく、

同じショットを撮れるのが1つの窓しかないので、

非常に混雑しています。

ちなみに、これは駅構内の陸橋ではなく、

駅を出たところにある自由通路からの眺めでした。

劇中ではちょうど電車が停車していましたが、

そのタイミングを待っていると時間が惜しいので待ちませんでしたが、

街の方が到着時刻の案内を張り出していたり、

地元では比較的このブームを好意的に受け取っているようです。


飛騨古川の陸橋

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↓陸橋は大賑わい

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↓こんな案内も

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続いては、駅から少し歩いたところにある

飛騨市図書館へ。

ここは、糸守町について主人公たちが調べ物をするシーンで登場します。

本来であれば、公共施設内は撮影禁止のはずですが、

ブームへの理解があって、

受付で申し出たうえで、

通常の利用者に迷惑がかからないように十分配慮すれば撮影OK。

しかもじゃんじゃんSNS等で拡散を希望されていて、

非常に好意的です。

しかも『君の名は』コーナーまで設けられ、

全国各地からたくさんの人が訪れているのがよくわかります。


飛騨市図書館

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↓ウェルカムモード

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↓きれいな館内

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↓特設コーナー

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↓こちらも大賑わい

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続いては、駅と反対側の山のふもとまでダッシュして、

気比若宮神社へ。

ここも主人公たちがヒントを探しているシーンで登場します。

幅広の石畳の階段と、中央の鉄柵が特徴的ですね。

ここにもたくさんのファンがいて、

写真をバシバシ撮っておりました。


↓気比若宮神社

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駆け足でしたが古川駅周辺の巡礼スポットを無事撮り終えたので

お昼ご飯に蕎麦屋に入り、ささっと済ませたら、

もう電車の時間となりました。


飛騨牛冷やしそば

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それにしても正直言ってこんなのどかで静かな山間の小さな町に、

全く不釣合いとしか言いようがない若い人たちが

わらわらと街を歩いていて、ブームの大きさがよくわかります。

この聖地巡礼というのも、ある意味、

形を変えたポケモンGOみたいなものだなと感じます。

正直、自分はあんまし思い入れのある作品でもなくて

(娘と一緒に映画館に観に行ったという意味では思い入れはありますが)

実際、作品の出来も、別にOVAとかわらないようなものだと思うのですが。

嫌いでもないし、それなりにいい作品だと思いますが、

ついこの間地上波でやっていた、ルパンVS複製人間のように、

画は雑でも、奇想天外な物語やキャラクターの個性に

ぐいぐい引き込まれるような名作を見て育ってきた身としては、

ここまで本当に騒ぐものなのかなあという印象が強い。


しかしこれを巻き起こしている現象を考察することは面白いと感じます。

これはきっと、ゆとり世代特有の”ユルい連帯”が

生じさせている現代的な現象なのだと思います。

(ここでいう”ゆとり”とは、いわゆる10〜20代の若者のことではなく、

彼らをゆとりにさせ、彼らのゆとりを許してきた親の世代もまた

所詮ゆとりであるという意味で、

大人になりきれない大人のことを指しています)

つまり、常に誰かと繋がっていたい、世界と繋がっていたいという

一種強迫観念的な深層心理にせつかされながら、

かといってわずらわしいような深い関係性は拒絶する

引きこもり体質という、

二律背反的でわがまま勝手な状況を実現するために、

リアルではなく二次元的あるいは疑似世界の中に逃げ込み、

匿名性という心地よいベールに護られながら、

それを現実として生きていく”ゆとり”の人たちが、

自分たちの正当性を担保するために生み出す”ユルい連帯”。

それは、フェイスブックtwitterLINEやインスタなど

次々形態を変えて登場するSNSの普及や、

猫も杓子ものポケモンGO

毎年次々と生み出されては消えてゆく一発屋芸人のギャグ、

毎年次々と生み出されては消えてゆく、新グルメやスイーツの数々、

メディアで垂れ流される下世話なネタに噛みついて一斉に制裁を加える現象

ここ数年急増したニワカカープファンや、

ただどんちきコスプレをして騒ぐだけのハロウィンの盛り上がり、

あるいは選挙ごとに右へ左へと大きく揺り動かされるムーブメントetc、

すべて同じメカニズムで生じている現象なのだと思います。

自らが何かを創造して道筋をつけていくというのではなく、

余計な労力をかけず大きなムーブメントに心地よく乗っかって

世間との間合いを図ることが大事で、

その現象の一つとして現れたのが、

この『君の名は』ブームなのだと思いますね。

つまり、この作品の良し悪し云々ではなく、

話題になっているということ自体が重要であって、

その流れに乗っかることが、あるいは乗っかれている自分こそが大事、

ということなんでしょう。

この作り手はそのメカニズムや時代的な深層心理を

非常にうまく利用しているという点で

ビジネス的な観点から非常に優秀だと思います。

でもクリエイティブな観点から言えば、

それは結局没個性を助長するにすぎないし、

人を煽動できさえすれ、中身は何もない。

物事の本質を語ることなく、表層の流れにただ身を任せ、

一過性の面白さに満足して、

賞味期限が過ぎると使い捨てをしているうちに、

いつしか己を見失う。

日本は一億総モラトリアムな時代に

突入しているのではないだろうかと危惧してしまいます。


さて、予定通りの時刻となり、高山行きの各停で出発。

20分ほどで高山駅へたどり着くと、

改札前が異常な人だかりでかなりざわついている。

何事かと駅員に聞いてみると、

先ほど古川駅で聞いていた事故の影響が、

予想以上に深刻で、

本来自分が乗るはずだった

特急の車両が事故に遭っていたようで、

しかもその事故で車体が破損してしまったために、

高山まで来て折り返すことができなくなったので

最低でも2時間以上の遅れが発生するとのこと。

そのため1時間後の特急への振り替えのために

みな窓口へ並んでいるのですが、

1つしかないので、長蛇の列と化してしまっていました。


特急の運休で大混乱@@@

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これでは1時間後の特急はもはや絶対に座れないし、

その次の特急はいつになるか目途さえついていないという状況で

帰れない可能性が非常に高くなってきました。

2時間以上待つならそれはそれで、

高山散策でもしてみようかとも思いましたが、

重い荷物をかかえているし、山行と突貫取材で疲れ切っているし、

歩き回れる体力がない。

何よりこういうトラブルの状況は早くに脱するに越したことはない。

何か策はないかと考えた結果、思い浮かんで、濃飛バスターミナルへ。

すると、10分後に、特急岐阜行きのバスがあるではないか!

ただし予約制だったので、受付のお姉さんに聞いてみると、

あと3席まだ空いていますとのこと。

さっそく手配しようと思ったが、その前に、

手元にあるこの特急券を払い戻ししないといけない。

間に合うか!?

とりあえずお姉さんに1席仮押さえをしてもらって、

すぐさまJRの改札へ舞い戻る。

みどりの窓口では到底間に合わないので、

改札の駅員室に話をして即座に払い戻しをしてもらい、

取って返して、バスの窓口へ行って手配完了!

ふぃ〜、バタつくぜ。


高速バスに間一髪切り替え

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こうして16:10発の岐阜行きの特急バスに無事乗り込みました。

この日は朝から、何本もきわどいバスの接続を繰り返して、

もうヘロヘロ@@@

太川さんと蛭子さんがいかに大変か、身に染みてよくわかりました。

2時間ほどバスに寄られて18時ごろに岐阜駅に到着。

するとまだ、ダイヤが乱れていました。

ここでようやく遅延の原因の詳しい情報が得られたのですが、

どうも事故が発生したのは朝の9時台のことだったらしく、

それが今この時間まで回復していないとは、国鉄さんしっかりしてよ!

岐阜駅から、10時台の表示の快速大垣まで行き、

2分しかない乗り換えで鉄橋をダッシュして米原行に乗り換え。

米原駅までたどり着けばそこはもう西日本の管轄。

新快速で帰ることもできたのですが、

もう色々ありすぎて疲労困憊だったので、

ちょっと贅沢に新幹線こだまに乗り換えて帰阪しました。

2016-09-18

『君の名は』 by 新海誠

日曜日。

次の仕事に関連があるので

今話題の『君の名は』を観に。

おっさん一人で行くのもこっ恥ずかしいので長女と一緒に。

webで梅田の劇場を予約しようとしたら

すでにどの回もいっぱいだったので、大日イオンまで。

さすがの人気もあって

なかなかエンターテインメント作品としては楽しめる作品でした。

小学生の娘にもわかりやすい話の内容で、

映像も美しく。

こういう作品が今のメジャーになってきたのだなというのが実感。


ただそれが今後の日本のクリエイティブの発展にとって

いいのか悪いのか。

うまい例えではないけれど、

『津軽海峡冬景色』のような奥深くて抒情的な歌に対する

『恋するフォーチュンクッキー』のような感じというか、

地元の市場で売ってる新鮮で不格好な野菜に対して、

徹底管理されたトップバリュー製品というか、

こういう味付けが濃くて中毒性のある

インスタントなものばかり味わってたら

きっとヤヴァイだろうなあという怖さがあった。

辛口映画評論家としてはちょっと言っておきたい。


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本作の一番の魅力は何といっても背景の精密な描写だろう。

監督の出身地である長野県の諏訪や飛騨地方、

そして東京の風景はまるで本物そっくり。

実際にそのシーンの元になった実物の場所を訪ねる

聖地巡礼も盛んにおこなわれているという。

確かに背景の描写はすごい。

でもそのすごさが、作品の本質である物語の薄っぺらさを

補うというより包み隠す巧妙なすり替えになっていて、

どう、この背景の描き方すごいでしょと

半ばクドイほどの強引さを終始感じた。

背景の描写の精密さというのは、本作に限らず、

日本アニメのお家芸ではある。

でも、例えば宮崎アニメの背景の精巧な描写は、

それ自体が作品の主役なのではなく、

物語をより身近にリアルに感じてもらい、

その世界観へスムーズに導入するための

手段の1つに過ぎなかったはずだ。

または、重厚な物語に耐えられるだけの

ビジュアルのクオリティを追求した結果だろう。

確固たる物語。伝えたいメッセージがまずあって、

その骨組みを確かに肉付けするものでなければ

それは単に風景を模写しただけのことに過ぎない。

模写を自慢するだけだったら、それは映画とはいいがたい。

なぜなら、映画とは総合芸術だからだ。

例えば、英語はコミュニケーションの一手段で

習得した英語で何をするのかが大事なはずなのに、

それを学ぶということだけが目的化し、

そのちっぽけなステータスに満足してしまうような小さな人間がいるが、

それと同じような目的と手段の取り違えが大いにある。

背景の描写の精密さというのは作り手も見る側も、

その審査基準が明確でわかりやすいポイントだが、

情熱と労力を注ぐ方向性が割合がどうも違うような気がする。

背景の精密な描写は金と時間をかければ、誰でも実現可能なこと。

それを実際やるかやらないかというのは

確かに大きな差であり、評価されるポイントではある。

でもクリエイターにとって肝要なのは、

現実にあるものを模写することではなく

想像力の豊かさにあふれた物語性や、

誰も考えもつかなかったような世界観を

表現することでなくてはならないと信じたい。


続いて気になったのは演出過多、

特に音楽が雄弁しすぎて、

はっきり言って余計な場面が多かった。

画と音の関係性というのは映画にとっては

おそらくもっとも重要な要素で、

音楽の壮大さで無理やりクライマックスを盛り上げるような

程度の低い作品は、国内外問わず山ほどあるが、

映像にそれらしい音楽を乗っけてさえすれば

もっともらしい作品になるし、

逆にその使い方を誤れば、全く拍子抜けすることもある。

まさに演出のキモ。

本作ではもっと登場人物の感情に寄り添いたい、

感情移入したい感じる場面でも、

いちいち過保護に曲を乗せてきて、

それがインスト曲ではなく、

歌詞付きなので歌が画に勝ってしまって、

感情の余白というか見る側が入り込む隙間が

一切なくなってしまうことがあった。

あれが久石譲さんならもっとうまい塩梅でやるんだろうし、

物語に自信があれば、あえてキモのシーンでは

一切の音をつけずに画に集中させることだってできたはずだ。

何でもかんでも味付けを濃くすればいいというものではないし、

ここでもやはり物語の薄っぺらさをひた隠しているかのような

自信のなさを感じました。

バラエティ番組で、ネタはたいして面白くないのに、

テロップを多めに入れて笑いを盛られているようなあの感覚に近い。

自信がない人ほど音楽に頼る、これ、映画あるあるですね。


あと、意外な問題はそれを見る側のクオリティの低さ、

とくに感動に対する敷居が恐ろしく低い。

これは本を読まないという世代的指向の問題、

スマホでのコミュニケーションが当たり前の世の中では

レスポンスのクイックネスがことさら重要視されるようになったり、

LINEスタンプやインスタ投稿のように

中身ではなくヴィジュアル至上主義になっているという点がやはり大きい。

要は物語の精密さではなく見た目重視、

文脈をじっくり読み解くのではなく、

手っ取り早く面白いということが求められる世の中になったということだ。

見る側の指向のレベルが高くなければ

クリエイターは絶対に成長しないし、

逆に成長しないクリエイターの作品がスタンダード化すれば、

見る側のレベルも高くならない。

今の世の中、双方が面倒くさいプロセスを取っ払って、

横着をしている気がします。

その面倒くさいプロセスこそ面白い醍醐味のはずなのですが…


これは別にアニメに限った話ではなく、

実写の邦画やTV番組、漫画、音楽、そして現代アートの世界ですら…

あらゆるクリエイティブであるべき世界で起こっている現象

実際、映画が始まる前の予告でも、

同じようなテーマ、同じようなキャストが、

2Dか3Dか表現方法が少し違うだけでやっていることは

全く同じことをしている作品のPRばかりで愕然とする。

(胸キュン少女漫画原作を若手実力派俳優と呼ばれる人たちが演じるのばっか)

それらには、何かを表現したいとか、何かを生み出したいとか、

やりたいことをとことんやるという

自分の内面から湧き上がってくるパッションではなく、

何が売れるか、何がウケるかという

他人からの評価を出発点とする打算しか感じ取れない。

そこにイマジネーションはあるのか。

そこにクリエイティビティはあるのか。

面白ければ、話題性や興行がよければ名作というわけでは決してない。

残念ながら、同じアプローチを続けるようなら新海さんや細田守さんは、

宮崎駿や押井守にはなれそうにない。

2016-08-30

『シン・ゴジラ』 by 庵野秀明

久々に映画に行ってきました。

今話題の『シン・ゴジラ』です。


娘と参加している「アンサンブルズ東京」では東京駅が題材なのですが、

ちょうどこの映画にも東京駅が出てくるので、

この間のワークショップでも話題となって、

いしいさんからも観に行ける人はぜひ観て!とおすすめされていました。

この間はじめて東京駅を訪れた娘はもちろん、

自分も出張や旅行の時に慌ただしく乗り換えるだけで、

あんまり東京駅についての情報をもちあわせていないので、

少しでも参考になればということで早速観に行くことにしました。


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結論から言えば、すごい!

庵野さんといえば、言わずと知れたエヴァンゲリオンシリーズですが、

そのEVAすら、このゴジラをやりたかったがための踏み台でしかないというくらい

今までの庵野ワールドを全て注ぎ込んだ力作でした。

物語はもう単純明快で、東京湾に突如ナゾの巨大生物が現れ、

それが徐々に進化しながら、首都東京を襲い、

それに対して日本国民がどのようにして立ち向かうのかというのが

ひたすら描かれています。


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その描写は、いつもの庵野作品に見られる

個人的な深層心理へと深くダイブしていくような局地的なものではなくて、

むしろ『突入せよ! あさま山荘事件』『日本のいちばん長い日』を手がけた

原田眞人監督が得意とする、多角的な視点からめまぐるしく展開する群像劇のようで、

非常に面白かった。

特に、初動態勢で、政府首脳たちが暢気に構えたり、

自分の管轄部署の利権や縦割りの慣習に固辞したり、

結局は米帝の子飼いでしかない政府の無力さだったり、

あるいはこの危機的な状況の中でも、

自らの出世の野望をむき出しにするさまだったり、

刻々と変化する状況の中で、把握しきれないほどの登場人物が入れ替わり立ち代わり

それぞれの立場、意見をぶつけ合っていく、

その有象無象の様をリアルにスリリングに描き出している。

震災とかの有事ではこんな笑うに笑えないやり取りが実際にあるんだろうな。

欲を言えば、その対象が政府関係機関にだけに限定されていたことが残念。

もっと実際にゴジラが上陸して被害をこうむった

一井の人たちの側からの視点が十分だったら

なお作品に厚みが出ただろうと思うのだが。


さて、ゴジラというのは、本作に限らず、シリーズの一番最初から、

象徴以上の何物でもない存在=神なわけで、

ゴジラ自体のキャラクターに魅力があろうがなかろうが本来どっちでもよいのです。

庵野風に言えばまさしく使徒ですね。

(余談ですが、EVAでは使徒の描写が滑稽なほどにシンプルですが、

あれは庵野さんは描くべき本質をよくわかっている証拠です。

だからこそゴジラ新シリーズの監督にふさわしい!)

それはさておいて、ゴジラ=圧倒的な相手あるいはクライシスに対して、

人類が、日本人がどう立ち向かっていくのかというところが肝心なわけです。

昔であればそれは、戦後復興、核武装による冷戦危機の代弁であり、

現代であれば、震災復興、福島原発のそれに当てはまります。

まさに日本という国の歩みの縮図であり、

スクラップ&ビルドで成長をしてきたこの国が生み出した名作なのです。


それにしても、ゴジラが首都を破壊していく描写が

リアリティもくそもなく、もう徹底的にやりたい放題なので、

観ているこちらも清々する。

あの遠慮のなさはアッパレ。

特に、ミリタリーとか乗り物とかドボクとか、

庵野さんの大好物がマニアックなほどに大量投入されているので、

それらを見るだけでも面白い。

2016-02-04

パンターニ 海賊と呼ばれたサイクリスト

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マルコ・パンターニ。

スキンヘッドに口髭を蓄えた型破りな容姿。

魔の山に単騎突進し、

スーパーマンのようにヒルクライムを駆け抜けたその超攻撃的なスタイル。

豪快さと力強さに加え、どことなく漂う危うさと脆さを兼ね備え、

長いロードレース史上でも稀有なユニークさで、

世界中を魅了した愛すべき海賊(ピラータ)。

その栄光と影の歴史である。


90年代フジテレビが毎年放映していた時代に

もっとも熱狂的にロードレースに熱をあげ、

もっとも自転車にのめり込んでいた自分にとってはもちろん、

あの時代を知っている人ならおそらく誰でも

パンターニは憧れのヒーローの一人だ。

インデュラインの登場で、ロードレースは個人と個人のぶつかり合いから、

システマティックな戦術によって戦うという方式へと変わり、

その戦術はのちにランスによって不動の方程式となるのだが、

そういった形式的で、組織的なやり方ではなく、

情熱的で人情味にあふれ、

無鉄砲で型破りな一匹狼を人は愛するものだ。

時に後先も考えずに麓から容赦なくアタックを繰り返し、

ついには圧倒的な差で山頂ゴールをする。

独特の無茶な姿勢で自殺的とも思えるような猛スピードで山を駆け下りるその姿。

かと思えば山ではあれだけ無敵を誇りながらも、平地のTTはからきしダメという、

そういう欠点さえもがチャーミングに思えてしまう。

例えば、完璧なシューマッハよりも

セナやマンセルの方が魅力的だったりするのと同じで、

その人間臭さが誰もを魅了したのだ。

だから2004年に彼がオーバードーズで亡くなったと聞いたときは

かなりショックを受けたことを今でもはっきり覚えている。

それが直接の原因ということでもないけれど、

自分はちょうどこのころから自転車を降り、

30代になるまでの長い間自転車に興味を失ってしまうことになった。


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選手時代に果たして本当に彼がドーピングに手を染めていたかどうかはわからないし、

この映画もどちらかというと遺族側の視点に立っているので少し公平性を欠くから、

どうかははっきりしない。(でも、ないと信じたい)

時代背景を考えると、

98年にフェスティナ事件という未曽有の大スキャンダルが起こり、

そこから数年は異常とも思えるほどの

ドーピング対策&ドーピングスキャンダルの嵐だった。

ツール・ド・フランス自体が大会存続の危機に瀕し、

UCIもASOもクリーンなイメージを打ち出す必要性と、

自らの正当性をアピールする必要があったし、

そのためには見せしめ的に誰かを吊し上げる必要があったのも事実。

組織に準じないパンターニは絶好のカモだったともいえる。


そしてチーム。

ロードレースに限らず、スポーツには常に2つの側面が存在する。

ひとつは、純粋に個人あるいはチームとしての力量を比べ、

速さと技、強さを極限まで追求し、勝利を目指す競技としての側面。

そして、もう一つは、それらを運営し管理し、

利益を生み出していくビジネスの側面。

国際的に巨額のマネーが動き出せばロクなことはない。

スポンサー様のために勝つ=儲けるためには、あらゆる手段を使う。

そこで導き出した一つの答えが、ドーピングであり、

そのドーピングシステムはより巧妙により組織的に構築されてきたというのは

明確に暴かれた事実である。


そして悲しいかな結果的に当時の多くの有力選手たちが、こののち、

悪しきドーピングシステムに従って薬物に手を染めたことを告白し、

ある者はペナルティーを受け、

ある者は引退に追い込まれる事態になったのも事実。

主催者側も、チームも、個人も、

どのレベルにあっても当時(そして今も?)はグレーゾーンであり、

自己保身に躍起になっていた。

そんななかで、時のスターだったパンターニは

様々な面で矢面に立たされてしまうこととなる。


ドーピングの真偽はいったん置いておくとして、

結果的に当時のすさまじいドーピングバッシングの真っ只中に放り込まれ、

警察につけまわされ、マスコミに追い立てられ、

しまいには世間から裏切り者とののしられる日々の中で、

誰からも味方されず、

仲間であるはずのプロトンからも卑下され(ランスからのひどい悪態)、

愛すべき自転車への情熱さえも失って、

いかばかりの闇を抱え込んだのかと想像してしまう。

そしてついにはその弱さに漬け込む悪魔の誘いに乗って、

本当に薬に手を出してしまったことは

(ジャストタイミングの清ちゃんのニュースが泣ける…)

決して許されるべきではない事実で、

言い訳にもならないのだけれど、

自転車と薬という切っても切れないロードレース界の闇の

スケープゴートになってしまったことは無念でならない。

そしてこの闇は今なおロードレース界に暗い影を落としたままなのだ…


この映画を見て決定的に悲しいのは、

作中に登場する人物のほとんどが薬物疑惑にまみれ、

実際に薬物使用によってペナルティーを受けることになる人たちばかりだということ。

1998年のあの忌まわしいフェスティナ事件のニュース映像で、

大粒の涙を流して悔しがったリシャール・ビランクも、

その騒動の最中、選手の代表として主催者側と毅然と戦ったローラン・ジャラベールも、

結局は猿芝居だったのだし、

当時(インデュライン時代とランス時代の狭間)総合を争ったライバルたち、

つまりヤン・ウルリッヒやビャルヌ・リースといった面々もみな

見せかけの強さを晒していたに過ぎない。

そして極めつけは、大金と名声に目がくらみ自ら進んで道化役を買って出た

忌まわしきランス・アームストロングという悪魔。

奴は白でさえも黒に染め、すべてを茶番へと陥れた。

極めて悲しいことだが、

これもまたロードレースの歩んできた紛れもない歴史なのだ。

歴史は歴史として受け止めざるを得ないが、

自転車を愛するものとしては心底悲しい事実である。


とはいえパンターニが残した超人的な記録、

つまりラルプ・デュエズ最速記録や、

史上7人目そして現時点では最後のダブルツール達成は今でも色あせることはない。

ただ…

もし、あのスキャンダルの中で一人でも支えれあげる人がいればどうだったろう?

もし、あの99年のジロで追放されずにマリアローザを獲得していたらどうだったろう?

もし、彼が欲望と疑惑にまみれたプロレーサーの道を進まなかったらどうだったろう?

大好きだった自転車競技を大好きなままでいてくれたであろうか。

邦題に、”ロードレーサー”ではなく”サイクリスト”と記されているところに、

製作側のパンターニへの厚い愛情を感じる。

つまり、純粋に速さと強さだけを追い求める自転車少年として…

享年34歳。

あまりに若すぎる、そして惜しい死だ。


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最後に、話は少しそれるけれど、一番の驚きは、

あれだけハイペースな戦いをしていて、

ガードレールもないダウンヒルであんな無茶な姿勢でスピードを出しているのに

当時はヘルメットなし!

今なら完全にありえないだろうなあ。


↓第七藝術劇場

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さて、今回久々に十三にある第七藝術劇場を訪れたのだが、

ここは思い入れのある映画館。

自分が学生のころは、

「トレスポ」「アメリ」といったミニシアター系映画がヒットし、

小劇場が盛況だったのだが、そのブームも去るころになると、

体力のない劇場が次々と閉鎖に追い込まれた。

この第七藝術劇場も一時休館に追い込まれたのだが、

その間、貸しスペースとして提供されていて、

何度かイベントをさせていただいた。

複数の大学の団体と一緒に学生映画の自主映画祭などもして、

自分の作品もこのスクリーンで流されたこともある。

あの時はゲストに犬童一心監督が来ていて、コメントももらった気がする。

立地的にはちょっと怪しいところにあるのだが、

細々とでもずっと営業を続けているのは素晴らしいですね。