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記憶の残滓 by arkibito

2017-06-30

コトバって大事

その人となりや、育ってきた環境や境遇、思考というものは、

顔に刻まれると同時に、

その人の発する言葉にも乗り移る。


言霊というコトバがあるけれど、

真面目に頭を使って考えている人間からは、そういう言葉が出るし、

品格を重んじてきた人間からは、上品な言葉遣いが発せられる。

自分が師と仰ぐ松本隆さんが紡ぎ出すコトバというのは、

まさしく彼の中で鮮明に描き出された”風街”の風景の

断片そのものであるし、

先日亡くなられた野際陽子さんは自分自身を指していう場合に、

わたし」ではなく「わたくし」と表現してきたのも、

彼女のもつ気品さの表れである。


逆に、人を見下したような人間からは

暴言や汚い言葉が出てくるのは当然だし、

過激右翼思想に呪われた人間からは、

そういったたぐいの過激発言が出る。

コトバというのは勝手に独り歩きして

自分の意思とは無関係に口からに飛び出てくるものではなく、

頭と心と常に三位一体のものであり、

それが表出された一形態であるのだから、

コトバを発した後で、いくら撤回しても全くの無意味である。

コトバに信頼がない人間は、イコール信頼のおけない人間である。

ましてコトバを簡単に取り下げたり、

ごまかしたりするような人間は程度の低い人間である。


困ったことに、そういった忌むべき事態に対して、

その言葉尻だけを揚げ足取りのように言うのはどうか、

それよりももっと大事なことがあるだろうと、

批判をするような人間がワンサカいることに深く失望する。

きっとコトバの重みが何たるかを知らずに

上っ面でしか生きてこなかった可哀そうな人間なのだろうが、

そういう連中には知性も教養もないのだろうか。

そして、そういう人間があまりに増えてしまったから、

己の言葉に責任を持たない、

発言の責任を取らないことがまかり通るのだ。

これは、はっきりと恥じるべき風潮だ。

コトバ以上に大事なものなど、

コトバで言い表せないものくらいしか思いつかない。


そしてこの風潮はさらに悪い影響を及ぼしている。

自分が発言に責任を持たない、持てない人間が

あまりにも蔓延してしまったがために、

ガツンと言いたいことを言い放つような人間が、

まるですごい人間、頼りになる人間に見えてしまい、

それがカリスマ化してしまう。

まるでコトバと責任のアウトソーシングか。

何でもズバズバいうようなTVタレントが

毒舌だのなんだのもてはやされたり、

できもしないホラを平気でいうようなアメリ大統領や、

日本の官邸のアホ連中なんかがいい例だ。

でっかい拡声器をもっていることが正義なのなら世界は暗黒だ。

ペンは剣よりも強しという言葉はもはや死語なのだろうか。


SNSの登場で、確かに誰もが声を上げることができるようになった

というのは喜ばしいことだが、

その結果何が起こったかというと、

大富豪ゲームでいう”革命”のように、価値観の逆転が起こったのだ。

ニュースの最前線に張り付き、目撃をし、

情報を自らの足でつかむメディアの人間は、

詐欺や欺瞞となり、

そのメディアの情報の又聞きを、何の裏付けもなく、

感情にまかせて、無責任に匿名

ネット上に情報を拡散する輩の方の声の方が力を得たのだ。

(そしてそういった輩から新しいメディアの担い手が出てくるからメディアの質が下がる)

彼らは何をもって自分の発言に根拠があるのか、

自分にはまったく理解できない。

ただ感情に身を任せ、欲望に身を任せたコトバたちが

世界を動かしているのだとしたら、

それはもう自分のことを棚に上げて

アベやらなんやらに文句も言えまい。


今、試されているのは

コトバによって導く側の人間だけではなく

コトバによって導かれる側の資質でもある。

そのことにそろそろ気づくべきだ。

今のところ日本の行く末、世界の行く末が見えない。

2017-03-22

ジョナス・メカス×いしいしんじ 『幸せな人生からの拾遺集』 / 『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画 』

日曜日のメインイベントは、毎度おなじみの誠光社さん。

映像作家のジョナス・メカスの2012年の作品

『幸せな人生からの拾遺集(Outtakes from the life of a happy man)』の上映に合わせて

作家のいしいしんじさんが”その場小説”を乗せていき、

しかもそれをほぼ同時通訳という形で並べて投影し、

ブルックリンに住むボニー・エリオットさんが”その場翻訳”。

それをyoutubeで同時世界配信するというライブイベント。


↓誠光社

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ジョナス・メカスリトアニア出身の詩人でしたが、

ナチスロシアの迫害を恐れてアメリへと亡命

たどり着いたニューヨークで16mmのゼンマイフィルムカメラを手に入れ、

そこに詩的かつ私的な日常の風景を撮り始め、

インディペンデントムービーの父と称される映像作家です。

自分が映画製作サークルで映画を撮りまくっていた頃に

とても刺激を受けたアーティストの1人。

今回はそこにおなじみのいしいさんが絡んでどんな化学反応が起こるのか、

とても興味があって参加しました。


↓その場小説中

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小さなスペースにぎっしりのギャラリー

そこに手製のスクリーンを張って、なんともインディペンデントな雰囲気。

いしいさんとも久しぶりにご挨拶。

時間となり、スクリーンに、メカスの映像、

そしていしいさんのタイプスクリーン、

それからエリオットさんの通訳スクリーンを重ね合わせる。

なんとも不思議な感覚でした。


↓いしいさん

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コトバにしても、歌にしても、映像にしても写真にしても、

不可逆的に流れる時間の流れの中で、

その瞬間をFIXして切り取るという行為自体が、

すでに高尚な芸術活動であると信じているが、

ジョナス・メカスの記録映画に映し出される映像の素晴らしさは、

その1シーン1シーンが

彼自身の極めて個人的な日常を切り取ったもので、

彼自身の経験から零れ落ちたものであるはずなのに、

この映像に接した人たち(人種や国や性別を問わない)の

誰もの遠い思い出の中に共通して浮かび上がるような、

記憶とかイメージにおける原始的な”何か”を、

フィルムの中にはっきりと封じ込めているからである。

それはあの日の風であったり、まばゆい光だったり、

子どもたちの甲高い無垢な笑い声だったり、

浜辺に打ち寄せられる波だったり。


何かの機会に、昔を振り返りながら古いアルバムをめくる時、

運動会や誕生日など、特別な行事やイベントの記録のために

撮られた写真たちよりも、

フィルムの余りを使い切るためにだけに

何気なくシャッターを押したショットに偶然に映し出された、

当時のただの日常の風景が切り取られたものに、

強烈なエモーションが湧き上がってくるという経験は誰しもあると思う。

その感覚に近いような映像体験


いしいさんは事前に映像を見ていなかったらしいのだけど、

ちょうど映画のキーワードとなる”波”というフレーズが、

シンクロするように浮かび上がってきて、

ちょっとした奇蹟のような夜でした。


↓翻訳をいただく

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2017-01-24

なんだかなあ

トランプさん就任しましたが、

なんだか、バットマンシリーズでジョーカーがゴッサムシティを牛耳っている様子や、

スターウォーズでダースベーダが宇宙を支配しているのが、

リアルの世界で起こってしまったというような印象を受けます。

映画の中で、彼らカリスマ的なヒールに支配された世界の人々は

どういう扱いを受けていたでしょうかねえ。


結局、大衆というのは愚かなもので、

わかりやすさや勢いに簡単に流されますが、

そのツケを支払わされるのはいつの時代でも弱者だということを

いつまでも学習しない。

そもそも既得権益を破壊すると息巻いているトランプ自体、

既得権益でのし上がった成功者だという矛盾。

本当に倒すべきはこういう私利私欲にまみれた成金なんじゃないの?

若者が古いしきたりや常識をぶっ潰すと革命を起こすならまだしも、

親の金やコネでのし上がった老害が、

末端の弱者に手を差し伸べるなんて発想をするはずもないのに。


自分たちの”外”に敵を作って、

そこに意識を集中させて、大衆を取り込んでコントロールするというのは、

中国や韓国のやってることとなんら変わらない。

自分の息のかかった内輪の人間だけで、

発信したいことを自分たちのツールだけを用いて拡散するというやり方で、

多様性と透明性が果たしてちゃんと担保されるのでしょうかねえ。

まあ、そんなリーダーを選んだのもアメリ国民ですから。

2016-12-12

Kansas City Band ザ・行商2016〜今年も終わりカァ! at 難波屋

金曜日。

待ちに待った夜がやってきた!

もうずっとずっと好きなカンザス・シティ・バンドのライブに初潜入です。

カントリーやブルース、ジャズ、スイング、ブギといった

アメリ中西部のルーツ音楽と、

日本の昭和歌謡をごった煮にしたようなゴキゲンなバンドなんだぜい!

長い間、一度はぜひ生でと思い続けながら、ようやく念願かなって。


ということで、やってまいりましたのは、

大阪の最深部、西成にある名物立呑み屋、難波屋さん。

久々にこの界隈に足を踏み入れたけど、

やはり夜はちょっとドキドキ。


↓西成 難波屋

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↓カンザス・シティ・バンドだぜぃ!

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激渋の店構えに圧倒されながら

予約内容を伝え、ごった返すカウンターをかき分けて奥へ進むと、

全面黒塗りのでっかいスペースがあり、

ステージがしつらえてありました。

イスを確保したら、早速ガソリン投入して、開演を待つ。

今夜のお題は投げ銭なり。


↓立呑みカウンターの奥にセット

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↓ガソリン用意

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そしていよいよライブスタート!

のっけからノリノリのナンバーが炸裂し、

開場のボルテージが一気に上がる。

お客さんも合いの手というより、もう絶叫してハッスルし、

バンドも負けじと大音量でで迎え撃つ。

これぞ生の醍醐味!

チキチキ、ドン、スパッっとオールドアメリンな小気味良いリズムと、

跳んで弾ける鍵盤の銃弾の嵐、

かき鳴らされるスリリングなギターソロ、

はらわた目がけて直接ぶち込まれるベースの音、

そして時折哀愁を多々酔わせるトランペットの響きと、

圧倒的すぎる下田卓アニキのしゃがれたブルースボイス!

スゲーや!


↓来たぁぁぁ〜!

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↓ノリノリ

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↓西成の手練れたオッチャン相手でも軽快にトーク♪

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↓最高すぐる!!!

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このところ色々なライブを観に行ってその度に素晴らしかったけれど、

今までこんなに剥き出して生々しすぎるライブは初めてで、

音楽の渦に飲み込まれたのもの初めて。

とにかくスゲースゲー!

音楽サイコー!カンザスサイコー!

もうあっという間の2時間でした。

衝撃的。


↓下田アニキだぜぃ!

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2016-11-28

カストロ死す

キューバ革命を起こしたフィデル・カストロ議長が亡くなりました。

それにしても、トランプという21世紀の”革命家”の到来によって

時代がまさに大きく変わろうというその只中で、

なんというタイミングだろう。

まさに一つの時代の終焉と、新たな時代の始まりを告げる象徴的な死です。

合掌。


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20世紀は良くも悪くも、アメリが世界の覇権を握り、

アメリスタンダードによって政治・文化・経済が回っていた時代。

しかしそこにはもちろん明と暗の側面が存在しています。

ソ連共産主義とのし烈な争いは、

世界各国で代理戦争を引き起こすわけですが、

その度にあの手この手で親米派の傀儡政権を樹立させては、

手のひらを返したり、利権を吸い取ったり、

米帝はある意味、強者の理屈を強引に押し付け、

国家として安定を欠く国々からひどい搾取をしてきました。

特に、中南米政策はチリクーデター、グレナダ侵攻、パナマ侵攻etc、

やりたい放題をしてきて、

それらが結果的に反米意識を高めることになるのですが、

そういうアメリンスタンダードの世界に対して真っ向から立ち向かい、

独自路線で半世紀以上国家を運営してきたのがキューバという国であり、

フィデル・カストロという革命家なのです。

もちろん彼自身の独裁にも明と暗はありますが、

アメリ、そしてソ連いう絶対的な大国を相手に

堂々と渡り合ってきた器量というものは計り知れないもので、

間違いなく中南米のアイデンティティを体現するカリスマだったと思います。