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記憶の残滓 by arkibito

2017-09-20

『Robert Frank:Books and Films,1947-2017』 at KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)

六甲から下山後、そのまま帰らずに神戸へ。

先日のスタンダードでもレコメンドされていた展覧会をのぞきに三宮へ。

神戸港まで歩いて、KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)まで。


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20世紀の写真氏の中でも最も重要な写真家の一人であるロバート・フランク

その貴重なオリジナルプリントは今や世界遺産レベルで保存され、

作品展示が厳しく制限されてしまっています。

その実態に対して、もっと幅広い人々に作品に触れてもらうために

展覧会を実施するにはどうすればよいかが検討された結果、

きわめて安価で、どんな会場でもすぐに設営・撤収可能な

新聞用紙に作品をプリントし展示するというスタイルを取り、

美術市場や投資目的の外側で、展覧会を運営することに成功したのでした。

そのため、これらの展示物はすべて、会期後には廃棄されリサイクルさせるそうで、

展覧会も撮影OKなのだそう。


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1959年に発表された写真集『the Americans』は、

アメリスピリッツを如実に描き出した作品として高く評価され、

以降の写真史の潮流を作り出していくのだが、

ここで極めて重要なのは、ロバート・フランク自身が、

スイスからの移民であるということ、

つまり移民である彼が、まさに”アメリらしさ”を切り取り続け、

印画紙に焼き付けてきたということである。

アウトサイダーからみたアメリという新大陸の人々の有象無象、

その雑然とした人々の生きざまが、

まるで見えない力に導かれるように”アメリらしさ”を纏って

ただ1つのカルチャー、確固たる国家感へと収斂されていく。

その大きなうねりの只中に身を置いて、その光景を記録している合間に、

気づけば彼自身がその中に取り込まれて、

彼自身がまさしくアメリ人、インサイダーとして新たな視点を獲得していく。

それだけアメリという国、

アメリンというカルチャーの持つ大きすぎる包容力が、

写真の端々にからにじみ出てくる。

あらゆる人間を許容し、あらゆるカルチャーを吸収し、

溶け合い混ざりあう、それがアメリ

YES!this is America!

今日、ロバート・フランクが再評価されたり、

あるいは生誕100周年をむかえた画家アンドリュー・ワイエス

再び脚光を浴びるという現象は、

トランプ政権の誕生と世界を席巻する全体主義の猛威によって、

アメリの根幹が揺らぎ始め、

再び”アメリらしさ”をとは何かというものを

人々が模索しはじめているということなのだろうと思う。


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写真とはいわば”間”。

時間という不可逆的な流れの中からそのひと刹那を切り取る瞬間の、

撮影者のまなざしと被写体との”間”。

プリントには映し出されないが、

間違いなくプリントのその先に存在する時代や世界、

それを予感させる余白の”間”。

そしてその写真と対峙する鑑賞者と作品との”間”合い。

それらの”間”のなかに間違いなく存在するシークエンスをいかに表現するか、

そして読み解くかが写真の醍醐味だと思う。

その写真の本質をうまく引き出し、

かつこの開放感あふれる会場の持つ空気感を作品にブレンドしたような

とても心地よい展示方法が施されてあって、

キュレーターが優れた仕事をしているなあと感じました。

なかなか素晴らしい展覧会。


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2017-09-14

『全体主義の起原』 by ハンナ・アーレント

大好きな番組に、NHK教育でやっている「100分で名著」という番組がある。

25分×4回/月で、取り上げた著書を掘り下げて解説するというもので、

進行役の伊集院光さんが、専門家の解説を誰にでもわかりやすい言葉に変換したり、

示唆に富む論点や視点を提供してくれたり、

その考察力と解説力に毎回脱帽する。

自分の中で、最も難解かつ底知れぬ深さを持っていると感じる文章の1つに、

宮沢賢治の『春と修羅』の序文があるのだが、

その時の回のあまりのわかりやすさに、

この番組はすごいと感じたのでした。



今月の題材は、20世紀を代表する政治哲学者である

ハンナ・アーレントの名著『全体主義の起原』。

自分が彼女の著作に触れたのは、大学時代の研究課題として

20世紀をテーマとして取り組んでいた際に、

ホロコーストとそれを指揮していたナチスの親衛隊の

アドルフ・アイヒマンについて学ぶ機会があり、

そこで彼女の著書『イェルサレムアイヒマン』を読んだのが最初。

そこでは、ホロコーストという人類史上まれにみる犯罪を行ったのは

決して特異な悪魔の仕業ではなく、

淡々と己の業務をこなす官僚的で陳腐な小役人であり、

残忍極まりない処刑器具や兵器ではなく、

書類とペンだけで大量殺戮が実践されてきたことを暴露した。

普遍的で凡庸な人間が、自らの罪を意識することなく、

残忍な行為に加担するメカニズムや社会的潮流といったものに、

鋭く迫った名著である。


その彼女が一躍脚光を浴びることになったのが

この『全体主義の起原』である。

自らがユダヤ人として生まれ育ち、

ある時からドイツ国内で明確に異分子であるとして

迫害され、祖国を追われることになったという視点から、

ナチスドイツに代表される「全体主義」がなぜ世界を征服し、

ホロコーストという「あってはならないこと」をもたらすに至ったのか、

国民国家(nation-state)という枠組みが社会的に成立した時代背景や、

第1次世界大戦の敗戦によって生れ出た大量の難民

拡大する貧富の差がもたらした社会的緊張、

あるいは文化的、民族的背景を丁寧に検証しながら、

追究した名著。


なぜ、いまこの著書が改めて評価され、クローズアップされるのか。

それは昨今の世界情勢、そしてまさにこの日本国内でも、

”外敵”の存在によってたきつけられた

民族主義的な発想や全体主義のきざしが影を落としているからである。

単純なスローガンで大衆を扇動し、

国内外に明確な外敵を作り出すことで目標を単純化し、、

評価を得ようとする指導者と、

わかりやすい政治を求め、

白黒はっきりとモノ言う”強い””頼れる”人物

仮想のヒーロー像を重ねる大衆との利害関係が一致したとき、

世論は一気に一方へと傾く。


そもそも政治や外交といったたぐいのものは、

わかりやすいものでも簡単なものではない。

その複雑怪奇で難解な仕事をいかにやってのけるかというのが、

政治家たる手腕が本来問われるべきところで、

国民もまたその複雑さや困難さを理解したうえで

彼らを評価すべきところを、双方がその関係性を放棄し、

既得権益の傘、世論の動向、突発的なムーブメント

ネームバリューといった、

決して政治の本質的ではない部分、

だが、誰もがとてもカンタンに採点できる部分でのみ評価が下される。


本質が置き去りにされてしまった後は、

ただ「勝つ・負ける」「やる・やらない」「変える・変えない」といった

単純な2者択一の世界になり、

つまりそれは右か左かといった極端な構造として定着する。

そのどちらか一方が力をもって一方を駆逐した暁には、

強靭全体主義が形成され、それが現実化した時点で

もはや思考は停止される。

それは決して、強い結びつきで結託した一枚岩という状態ではなく、

強きものが弱きものを従え、持つべき者が持ち、持たざる者が泣きを見る

いびつな社会である。


アメリでは、トランプ政権への反対運動が時間を経るにつれて大きくなっている。

また、ヨーロッパでの右翼系の政党や立候補者への警戒が強まっている。

それはある意味、これまで人類が歩んできた歴史を顧みるにつれて、

今の風潮が続けば起こりうるであろう不幸

(それはすでに人類が経験してきたもの)を予測して、

ある意味、必然的に生れ出てきた良心の現れであろう。


一方、わが日本国はどうだろうか。

政治的なものに対するアレルギーがひどい国民性

ムラ社会としてはぐくまれてきた国家的な性質から脱却できない日本では

政治的な発言や、政治思考をひけらかすだけでも、拒否反応を起こされる。

これではいつまで経っても、政治的に国家は成長できない。

そんな国民をあざ笑うかのように、

様々な政策が失敗しても、様々な疑惑や不祥事が起こっても、

またそれらについてほとんど明快な反省や検証、弁明もされぬまま、

北朝鮮中国といった野蛮な隣人がいるおかげで

アベさんがいまだに生き残り続けているというのはなんとも皮肉だ。




2017-09-05

NEWマシン シェイクダウン!

というタイトルに思わず騙された方がいるかもしれません。

イヒヒ。

NEWマシンはNEWマシンでも、わたくしのではありませんの。

長女がお誕生日にゲットした2018最新のTREKのキッズバイクでござい。

ウハッ。かっちょエエやん?


↓Trek Precaliber 24 21-speed Boy's

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去年からちょこちょこママチャリで近場をサイクリングするようになり、

そろそろ本格的なバイクでお手軽なツーリングがしたいということで

お誕生日におねだり。

本当は女の子向けの型もあったのだけど、

このカラーリングが気に入ったらしく、こちらになりました。

しっかし、初めて自転車に乗れたのが2015年の12月ですからね!

それですでにこんな立派なバイクですからね!

子供の成長は早い!


納車は少し前だったのだが、その間に富士登山があったので

シェイクダウンが今週末にずれ込みました。

どこに行こうかなあと考えて、あっちょの家にお邪魔することに。

距離的にも片道25kmとエエ塩梅。

早速、淀川を渡り、新大阪をかすめて、神崎川。

そこから裏道を伝って、天竺川ロードの定番コース。

さすがに今までのチャリと比べたら、全然ペースも快適性も違います。


↓いい感じ

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そうして、1時間ほどで大阪空港の南側に到達。

軽く休憩ということで、

堤防から大迫力で着陸してくる旅客機を眺める。


↓千里川堤防にて

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↓ええ色です

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休憩後、田能遺跡のところから猪名川CRに入る。

向かい風がすごくて、漕いでも漕いでも押し戻される@@@

軍行橋でR176をまたぎ、スポーツキッズであふれる河川敷を横目に

呉服橋まで来て、そこからもう1つ先の中橋で小休止。

ここまで休憩含めて約1時間30分。


↓猪名川CRを北上

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↓中橋から見る新猪名川大橋

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そこから猪名川の川西川を北上し、絹延橋〜鶯の森をすぎて

そこから一気に鶯台への登りにアタック!

小高い丘を直登する形で、なかなかの斜度。

途中の平らなところでインターバルを入れつつも、

どうにか足つきせずに上りきる。エライ!


↓ラストの登り!!

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そこからゴニョゴニョと住宅街を縫って、

あっちょの家にとうちゃこ。

娘はあっちょ兄妹とすぐに打ち解けてウノしたり遊んだり。

大人は、先日の法佐藤の話題とかで。

奥様が素敵なランチを用意してくれていたので、ごちそうしていただく。

ウマシ。


↓奥様手作りランチ

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本当はもっとゆっくりしていきたかったが、

途中で緊急の電話が入り、急いで帰らなくてはならず、

帰路はあっちょの車に積み込んで送ってもらいました。

まあ、シェイクダウンにはちょっと中途半端な結末でしたが、

あっちょ一家にもあえてよかった。


もう少し寒くなれば、いろいろ親子ツーリングも本格的にできそう。

ただTREKはアメリ産。米式ポンプとか初めてなのでちょっと戸惑い気味。

まずは京都往復とかからはじめよう。


走行距離:25.25km

TOTAL:415.15km

2017-06-30

コトバって大事

その人となりや、育ってきた環境や境遇、思考というものは、

顔に刻まれると同時に、

その人の発する言葉にも乗り移る。


言霊というコトバがあるけれど、

真面目に頭を使って考えている人間からは、そういう言葉が出るし、

品格を重んじてきた人間からは、上品な言葉遣いが発せられる。

自分が師と仰ぐ松本隆さんが紡ぎ出すコトバというのは、

まさしく彼の中で鮮明に描き出された”風街”の風景の

断片そのものであるし、

先日亡くなられた野際陽子さんは自分自身を指していう場合に、

「わたし」ではなく「わたくし」と表現してきたのも、

彼女のもつ気品さの表れである。


逆に、人を見下したような人間からは

暴言や汚い言葉が出てくるのは当然だし、

過激な右翼思想に呪われた人間からは、

そういったたぐいの過激発言が出る。

コトバというのは勝手に独り歩きして

自分の意思とは無関係に口からに飛び出てくるものではなく、

頭と心と常に三位一体のものであり、

それが表出された一形態であるのだから、

コトバを発した後で、いくら撤回しても全くの無意味である。

コトバに信頼がない人間は、イコール信頼のおけない人間である。

ましてコトバを簡単に取り下げたり、

ごまかしたりするような人間は程度の低い人間である。


困ったことに、そういった忌むべき事態に対して、

その言葉尻だけを揚げ足取りのように言うのはどうか、

それよりももっと大事なことがあるだろうと、

批判をするような人間がワンサカいることに深く失望する。

きっとコトバの重みが何たるかを知らずに

上っ面でしか生きてこなかった可哀そうな人間なのだろうが、

そういう連中には知性も教養もないのだろうか。

そして、そういう人間があまりに増えてしまったから、

己の言葉に責任を持たない、

発言の責任を取らないことがまかり通るのだ。

これは、はっきりと恥じるべき風潮だ。

コトバ以上に大事なものなど、

コトバで言い表せないものくらいしか思いつかない。


そしてこの風潮はさらに悪い影響を及ぼしている。

自分が発言に責任を持たない、持てない人間が

あまりにも蔓延してしまったがために、

ガツンと言いたいことを言い放つような人間が、

まるですごい人間、頼りになる人間に見えてしまい、

それがカリスマ化してしまう。

まるでコトバと責任のアウトソーシングか。

何でもズバズバいうようなTVタレントが

毒舌だのなんだのもてはやされたり、

できもしないホラを平気でいうようなアメリの大統領や、

日本の官邸のアホ連中なんかがいい例だ。

でっかい拡声器をもっていることが正義なのなら世界は暗黒だ。

ペンは剣よりも強しという言葉はもはや死語なのだろうか。


SNSの登場で、確かに誰もが声を上げることができるようになった

というのは喜ばしいことだが、

その結果何が起こったかというと、

大富豪ゲームでいう”革命”のように、価値観の逆転が起こったのだ。

ニュースの最前線に張り付き、目撃をし、

情報を自らの足でつかむメディアの人間は、

詐欺や欺瞞となり、

そのメディアの情報の又聞きを、何の裏付けもなく、

感情にまかせて、無責任に匿名で

ネット上に情報を拡散する輩の方の声の方が力を得たのだ。

(そしてそういった輩から新しいメディアの担い手が出てくるからメディアの質が下がる)

彼らは何をもって自分の発言に根拠があるのか、

自分にはまったく理解できない。

ただ感情に身を任せ、欲望に身を任せたコトバたちが

世界を動かしているのだとしたら、

それはもう自分のことを棚に上げて

アベやらなんやらに文句も言えまい。


今、試されているのは

コトバによって導く側の人間だけではなく

コトバによって導かれる側の資質でもある。

そのことにそろそろ気づくべきだ。

今のところ日本の行く末、世界の行く末が見えない。

2017-03-22

ジョナス・メカス×いしいしんじ 『幸せな人生からの拾遺集』 / 『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画 』

日曜日のメインイベントは、毎度おなじみの誠光社さん。

映像作家のジョナス・メカスの2012年の作品

『幸せな人生からの拾遺集(Outtakes from the life of a happy man)』の上映に合わせて

作家のいしいしんじさんが”その場小説”を乗せていき、

しかもそれをほぼ同時通訳という形で並べて投影し、

ブルックリンに住むボニー・エリオットさんが”その場翻訳”。

それをyoutubeで同時世界配信するというライブイベント。


↓誠光社

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ジョナス・メカスはリトアニア出身の詩人でしたが、

ナチスやロシアの迫害を恐れてアメリへと亡命。

たどり着いたニューヨークで16mmのゼンマイ式フィルムカメラを手に入れ、

そこに詩的かつ私的な日常の風景を撮り始め、

インディペンデントムービーの父と称される映像作家です。

自分が映画製作サークルで映画を撮りまくっていた頃に

とても刺激を受けたアーティストの1人。

今回はそこにおなじみのいしいさんが絡んでどんな化学反応が起こるのか、

とても興味があって参加しました。


↓その場小説中

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小さなスペースにぎっしりのギャラリー。

そこに手製のスクリーンを張って、なんともインディペンデントな雰囲気。

いしいさんとも久しぶりにご挨拶。

時間となり、スクリーンに、メカスの映像、

そしていしいさんのタイプスクリーン、

それからエリオットさんの通訳スクリーンを重ね合わせる。

なんとも不思議な感覚でした。


↓いしいさん

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コトバにしても、歌にしても、映像にしても写真にしても、

不可逆的に流れる時間の流れの中で、

その瞬間をFIXして切り取るという行為自体が、

すでに高尚な芸術活動であると信じているが、

ジョナス・メカスの記録映画に映し出される映像の素晴らしさは、

その1シーン1シーンが

彼自身の極めて個人的な日常を切り取ったもので、

彼自身の経験から零れ落ちたものであるはずなのに、

この映像に接した人たち(人種や国や性別を問わない)の

誰もの遠い思い出の中に共通して浮かび上がるような、

記憶とかイメージにおける原始的な”何か”を、

フィルムの中にはっきりと封じ込めているからである。

それはあの日の風であったり、まばゆい光だったり、

子どもたちの甲高い無垢な笑い声だったり、

浜辺に打ち寄せられる波だったり。


何かの機会に、昔を振り返りながら古いアルバムをめくる時、

運動会や誕生日など、特別な行事やイベントの記録のために

撮られた写真たちよりも、

フィルムの余りを使い切るためにだけに

何気なくシャッターを押したショットに偶然に映し出された、

当時のただの日常の風景が切り取られたものに、

強烈なエモーションが湧き上がってくるという経験は誰しもあると思う。

その感覚に近いような映像体験。


いしいさんは事前に映像を見ていなかったらしいのだけど、

ちょうど映画のキーワードとなる”波”というフレーズが、

シンクロするように浮かび上がってきて、

ちょっとした奇蹟のような夜でした。


↓翻訳をいただく

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