ラヴェルに奏でられる、絶望の中の「光」:"Biutiful."

昨日のニューヨークは、朝から雪がちらつき春は未だ遠くに思われたが、今日はスッキリと暖かい。そして今年もあっと云う間に1/4が終わり、震災から3週間が経ったが、その出口は未だ見えない侭だ。

先日此方でNHKを観ていたら、被災地での中学校の卒業式の模様を放映していた。

俯きがちな顔で、しかし確りと歩いて校長の前に立ち、卒業証書を受取る子供達。そして「答辞」を述べる男の子は、頬に涙を流しながらも、歯を食い縛りながら最後迄頑張って「答辞」を読み切った。

何とも悲しいシーンでも有り切なくも為ったが、しかしこの子供達に、日本の将来に関する一筋の「光」を見たのも事実で、それは、この子達が大人に為った時には、今の20代・30代の我慢が出来ない、甘やかされた、家族を蔑ろにし、人とコミュニケート出来ない、内向きな若者とは正反対に、我慢強く、人を思いやり、自ら進んで声を掛け、助け合って働き、家族を大切にする人間に成長するのでは無いか、この子達が将来の新生日本を背負って立つのでは無いか、と云う「光」である。歯を食い縛る生徒を見て不覚にも涙した筆者は、今我々が考えねばいけない最も重要な「使命」は、その時迄何とかこの国を維持し、生き延びる事である、と確信したのだった。

さて、前評判の高かったハビエル・バルデム主演、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督のメキシコ映画、「Biutiful」をやっと観る事が出来た。

この映画は一口で云うと、何しろ暗い、重い、深い、しかし大変に美しい。アメナーバル時代から大好きな俳優ハビエルは、例えば「Mar Adentro」(邦題:「海を飛ぶ夢」)で見せた様な素晴しい演技を此処でも見せ、イニャリトゥは「バベル」の時よりも、より「美しい」画面を提供する。

彷徨える死者を見、会話をする事の出来る主人公(ハビエル)、ゲイの中国人カップルや、身持ちの悪い元女房、不法入国のアフリカ人ストリート・ヴェンダー、そしてバルセロナダウンタウンを舞台に繰り広げられる「悲劇に次ぐ悲劇」には眼を覆いたくなるが、しかしそれでもこの作品は美しく、それは、裏家業で生き、2人の子供を抱えながらも後数ヶ月しか命が持たない主人公が、受け入れる事の出来ない余りにも過酷な「現実」を、「死」を以てして受け入れざるを得なくなる時に、其処で最後に見る「光」が、唯一「自分には『家族』があった」と云う事だからなのである。

自分の親を産み直ぐ死んでしまった、会った事の無い祖父、別れた後も自分の兄弟と寝ている元妻、その情事を隠す兄弟、そして癌で死に行く為に残さざるを得ない二人の幼い子供達…自分の余りにも早い死期を知った主人公は、祖父を弔い直し、自分を裏切った家族を許すが、自分の「善意」が中国人不法移民労働者の集団事故死を産み、その贖罪を神に願う。そして主人公は、自分が死を目前にした絶望の中に最後に見つけた「極限的な幸福」、「自分には家族が有ったのだ」と云う事実に救われ、神に召されていく。

主人公が娘に最後の別れを告げるシーンは、涙無くしては到底観れないが、しかしこの映画の冒頭とラストにリフレインされて描かれる、「囁き声」「指」「雪」の描写は余りにも美しく秀逸で、ハビエルの凄みの有る深い演技と共に、イニャリトゥの類稀な才能を感じさせる。

また、もう一点忘れられないのが音楽で、各所にバリー・ホワイトやアンダー・ワールド等の良い曲が使用されているのだが、やはりラストに使われるラヴェルの「ピアノ・コンチェルト 第2楽章」の美しさは際立ち、これだけ悲惨な映画を観た後でさえも、鑑賞者に清清しい「光」を残す。

絶望の中にも、必ず「光」は存在する。そして、それを見つける事が人間の「努め」なのだ。