元広島アキハバラ塾 塾長ブログ RSSフィード

2012-02-09 平清盛

平清盛を見るときにこんな事を知ってからみたら面白い

日本武将100選 日本史蹟研究会  和歌森太郎 監修

昭和45年に書かれた本にこんな事が書いてある

f:id:artdirect:20120209105400j:image

 左兵衛佐を皮切りに、その後清盛は中務大輔、肥後守

などを歴任し、久安四年(一一四八)には正四位下、安

芸守となり、仁平三年(一一五三)父忠盛の死によって

家をついだ。清盛三十六歳の時である。

 平家開運のきっかけとなった保元・元治の乱はこのあ

とに起った。保元の乱で後白河天皇方について勝った清

盛は播磨守に任ぜられた。それに不満を抱いた源義朝は

平治元年(一一五九)清盛不在のときを狙ってクーデタ

ーを起したが、やがて清盛のまき返しにあって敗れ去っ

た。

 このとき、清盛は敵将義朝の遺児である頼朝、今若、

乙若、牛若らをすべて捕えた。けれども清盛はこれを殺

さなかった。頼朝は清盛の義母池禅尼の嘆願で伊豆の蛭

ケ小島に流され、今若、乙若、牛若は清盛が三人の母の

常磐御前の美貌に魅せられ、その体を代價に助命して寺

に送った。結局はこれがのちに平氏の命取りになるのだ

が、こんなことは源氏にはとてもできないことである。

源氏は敵も無惨に殺すが、一族同士もまた非情に殺し合

う。義朝は父為義と四人の弟を殺し、義賢は甥の義平に

殺され、その子木曾義仲は従兄弟の頼朝に討たれた。頼

朝はさらに範頼、義経などの弟を殺している。のちに源

氏が滅亡するのも、実朝が甥の公暁に殺されたためだ。

これにくらべ、平氏は栄えるときには一門がこぞって栄

え、滅びる時は一門がともに滅びた。

源平二氏を一口で言うならば、平氏は文化的、源氏は野蛮であったともいえる。

広島ブログのランキング、訪問された方はクリックをお願いします