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2012-08-16

ミスカトニック大学大学図書館の中の人が『本棚の中のニッポン』を読んだら

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『本棚の中のニッポン: 海外の日本図書館と日本研究』(著: 江上敏哲)は、2012年5月に笠間書院から発売された本です。私自身がアメリカにある大学の大学図書館の日本語コレクションをあつかう部門でアルバイトしていること、それから、大学院でいわゆる「日本研究」の範疇に含まれる研究をしていることから、とても興味ぶかい内容の本でした。このブログにふだんポストしていることとは若干、方向性がちがうような気もしますが、まるっきりはずれているわけでもないので、この本を読んで感じたこと、考えたことをちょっと書いてみようとおもいます。


ところで、感想を書くまえに、すこしおことわりをしておくと……


  • タイトルでは(キャッチーにするために 笑)「中の人」としていますが、私の大学図書館での立場は上にも書いたように「大学院生アルバイト(Graduate hourly)」で、非常にかぎられた業務にしか携わっていません。ウチの図書館の日本語コレクションのほんとうの「中の人」は、私の直接のボスの「日本語/日本研究司書」の人、ということになります。『本棚の中の〜』に登場するライブラリアンコミュニティへの参加、それらとの連携のような仕事も、すべてボスがやっています。
  • 私は図書館学バックグラウンドを持っておらず、司書過程の授業や司書講習といったものを受けたことも、日本、アメリカを問わずありません。アルバイトとしての最低限の研修は受けましたが、図書館学プロパーの方が必修として習得しているような選書論や分類法について学習したことは一度もなく、実際の業務でも選書やカタロギングはしていません。図書館については知らないことだらけです。

さらに、自分自身も「日本研究」の一部をなす研究をしていたり、「日本研究」をしている大学院生の友人がいたり、将来の「日本研究」者をめざす学生に日本語を教える授業をTAとして担当していたこともあったりで、この本があつかっているトピックに対する私の立ち位置というのは、「ライブラリアン」と「利用者」の中間あたりの、とても中途半端なところにあるような気がします。この感想は、そんな場所からの視界であるということを気にとめておいていただけると幸いです。


あ、あと、この感想は、この本の発売に際しておこなわれたイベントについての報告や、その場で行われたであろう質疑、読書会やオンラインでおこなわれたであろう意見交換や、それらのまとめなどに一切、目をとおさずに書いています。読みかたにバイアスがかからないように、といえば聞こえはいいかもしれませんが(笑)、実際のところは時間がなかっただけです。これをポストし終えたら、そういったものを読んで、自分の感想を修正していけたらな、とおもっています。(なので、どこか、これは読むべき、という場所があったら教えてください。)というわけで、既出の感想や意見と重なる部分がたくさん出てくるかもしれませんが、ご容赦ください。(追記: 末尾にはてなブックマークetc. 経由でみつけた関連リンクを追加しました。自分用メモも兼ねて)


と、前置きが妙に長くなってしまいましたが……


まず、本全体について。あつかわれている内容自体は、北米を中心とした「海外の日本図書館」の組織や業務内容、ライブラリアン・コミュニティの活動、日本研究の動向、日本関連資料の入手先や入手にまつわる課題、といったものなので、本業の研究や仕事でちょっと触れたり、見聞きしたりしたことがあるものがほとんどでした*1。(あ、ウチもJPTと紀伊国屋からよく買ってるよ、とか、ウチにも晧星社のデータベース入ってるよ、とか、そういうレベルのものも含めて……) ただ、名前は知っているけど中身や歴史は知らない、というものも多く(特に3章に出てくるライブラリアン・コミュニティや、11章に出てくる日本国内の専門機関の活動内容や歴史など)、ヨーロッパアジアの事情のように、まったく知らなかったことがらもあって、いろいろな新しいことを学ぶこともできました。この本が第一のターゲットとしているのは「海外の日本図書館」に資料や情報を発信する側である日本の図書館、文書館、資料館関係の方々ではありますが、海外で「日本研究」をする学生も、自分がいる研究環境がいかにして整備されてきたか、研究環境にどのような制約が、なぜ存在するのかについての理解を深めるために一読しておくといい書かもしれません。(そのためには、この本で使われているレベルの日本語が読みこなせる必要がありますが。あるいは、あえて対象をいじらずに、本書をそのまま英訳したようなものがあってもおもしろいのかもしれないですね。)


(長いエントリなので折り畳んであります。「続きを読む」をクリックすると開きます。)



それから、5章、8章、9章、12章などで言及されている、「海外での研究スタイル」と「日本側からの資料提供のスタイル」の不一致について。私も、英語の文献に関しては、この本に書かれているように、全文検索、全文ダウンロードができるオンラインソースを頻繁に利用して研究していますし、ILL(Inter Library Loan)の手続きをオンラインでおこなって、そこで注文したもの(デジタル化されていない雑誌記事など)のスキャンデータがEメールで送られてくる、といったようなことも日常的に体験しています。大学図書館のホームページにも数年前に、自館のカタログ、OCLC、各種eジャーナルの横断検索ができるディスカバリー・ツールが追加されました。(まあ、これで東アジア関連の検索をしようとすると、いろいろ工夫しないといけないことがあったりするのですが、それはまた別の話。) 研究グループに協力参加したときに他の大学院生、研究者を観察してみたり、友人の研究スタイルを聞いてみたりしても、似たようなスタイルで研究していることがほとんどです。そういうふうに、自分たちにとっては「あたりまえ」になっていることなのですが、日本ではそれが「あたりまえ」な研究者の日常像というわけではないのですね。このような研究スタイルの違いのようなことも、明示的に伝えて知ってもらう必要があるのだな、と、あらためて気がつきました。


ちなみに、実際にアメリカの大学図書館を利用して研究していると、日本で出版された文献が全文検索、全文ダウンロードできないのは不便に感じます。あと、OCLCに参加していない日本の図書館からILLで本を借りる、というのには、なかなか手が出せません。ひとつの理由は、本書にも書かれているように、仕組みがよくわかんないし、自分で手続きができないことが多いから。(司書さんにお願いすれば対応してくれるのでしょうが、だいたい司書さんというのは各言語担当に1人かそれ以下しかいないものなので、全部に即座の対応ができるとは限りません。) もうひとつは、北米の図書館は総体としてみるとけっこう日本語コレクションが充実していて、ほかのOCLC参加館から、わりといろいろなものがワンクリックで取り寄せられるから。あと、私のように日本との人的つながりが濃い場合は、よくわかんない国際ILLを利用するよりも、日本のアマゾンとかで買って、日本の家族や友人から転送してもらうほうが気分的に楽、というのもあります。(これは高価な学術書や貴重書、絶版本では使えない手ですが……) さらに、自分の研究はフィールドワーク(現地調査)を含むものだったので、日本語文献のほとんどは日本でフィールドワークをしているときに、ホストしてくれた日本側の大学の図書館や国立国会図書館で閲覧したり複写したりした、というのもあります。歴史や文学を研究している学生も、研究目的だけだったり、日本語を学ぶついでだったりに日本に行って、そのときに文献や資料を収集してくるケースが多いんじゃないかな。もちろん、国会図書館公文書館が公開しているデジタル化資料も最近は増えてきたので、分野によってはそのへんを頻繁に利用する人もいるとおもいます。(追記: あと早稲田大学の図書館もですね!)


(あと、自分の研究に関係してちょっと愚痴を言うと、ウチの大学図書館は「聞蔵」や「ヨミダス歴史館」のような新聞データベースを入れてくれないんですね。これは伝統的に、ウチの大学で「現代日本」を研究している人が少なくて、研究者が多い歴史、演劇、文学の分野に特化したコレクションをしているからで、しかたがないことなんですが、私の研究にはこれがわりと大きな障壁でした。時々、トライアル契約をして使えるようになっているときもあるんですが、そのタイミングも現代日本をあつかう授業の開講タイミングとあわせたものだったりして、なかなか個人の研究のペースに合致しないことが多いですし。でもまあ、がんばって予算をつけて導入したところで、実際にコンスタントに研究で使う研究者は私をふくめて全学で3、4人ぐらいだろうから、しかたがないんだろうなあ……。日本で似たような時代、分野の研究をしている大学院生の発表を聞くと、だいたい新聞報道の動向をからめた分析をしてたりするので、使える資料の差を感じたりしたものでした。)


もっと細かい部分に目をむけると、図書館の中でよりも外ですごしてきた時間が長いこともあって、図書館サービス的なところよりも、5章であつかわれている「日本研究・資料の現状」が個人的に気になる箇所でした。私はいわゆる「地域研究」(あるいは「東アジア研究」)プロパーの大学院生ではなく、総合的な社会科学分野の学部に所属して日本に関係する研究をしているだけですが、この本で述べられている、海外での「日本研究」が「退潮」傾向にある、あるいは「日本研究」が、日本専門家による日本だけにフォーカスした研究から、地域のつながりの中での「日本」、グローバルな比較の中での「日本」をみる研究に移行しつつある(本書ではそれを「卒業」と読ぼうという提案をしています)、という観察は正しいとおもいます。その理由として、本書でもあげられている「予算がとりやすい」「研究計画がとおしやすい」というのももちろんあるのでしょうが、「『東アジア研究』(特に歴史や文化をあつかった研究)は、東アジアのトランスナショナルな歴史や文化交流を研究するべきであるのに、(ときにナショナリズムとも深くつながった)各国史、各国研究の枠にとらわれてしまっている」という学問分野への自省的な批判も「東アジア」研究者から出されていましたし(これについて私は「東アジア研究序論」的な授業で習いました)、個人的には思想的、学術的にも意味のある進展なのだとおもいます。


また、海外における「日本研究」の「退潮」は、この本にあるように、中国韓国といった他の東アジアの国々にくらべて日本のe-resourceの整備、提供が遅れている、というのも原因のひとつではあるとおもいますが、アメリカにおいては「東アジア」研究者の「世代交代」とも無関係ではないのかもしれないと感じます。第二次世界大戦後のアメリカにおける「地域研究」(「東アジア研究」も含む)は、長いこと、アメリカで言語、文化教育を受けた「アメリカ人」が担ってきました。「地域研究」と軍事、国防的な興味、要請とは深いかかわりがあるとされ、また日本の経済成長が著しかったころには経済的な興味、要請もあって「東アジア研究」は発展してきました。ですが、冷戦体制の崩壊や日本経済の停滞によって、それらの興味、要請(あと予算も)は縮小傾向にあります。また、軍事、国防的な目的から養成された各国のスペシャリストとしての「東アジア」学者の第一世代は退官をむかえるような年齢に達しています。そうした中で、アメリカの大学における「東アジア研究」の担い手は、「アメリカ人」の研究者から、東アジアからの留学生、および留学生出身の研究者に移ってきているようにみえます。(もちろんこれは、中規模の東アジア研究学部しかもたないウチの大学固有の現象である可能性もあります。もっと大きな東アジア研究学部を持っている大学、たとえばハーバード大学あたりだと事情はちがうかも。) ご存知のように中国や韓国からアメリカに渡る留学生の数は増加、日本からアメリカに渡る留学生の数は減少していますし、そもそも日本出身の学生は、なぜか「アメリカで日本を研究する」ことに価値を見いださないことが多く、来たとしても東アジア研究学部に入ることはあまりありません。(「日本語教育」だけはちょっと事情がちがうんですが、その話は蛇足になるのではぶきます。) そのため、まず、必然的に中国、韓国の研究が盛んになります。そして、これら中国、韓国の研究をする中国出身、韓国出身の学生、研究者は、日本占領時代に興味を持っていることがすくなくありません(占領前、占領中の日本との関係が、それらの地域の「近代化」と、とても深く結びついているからです)し、いわゆる韓流ブームのような、東アジア内での文化交流も人気のある研究テーマです。なので、この世代が担うことになるアメリカにおける「東アジア研究」分野では、「日本」という現在の政治的境界線を区切りにした「日本研究」よりも、「東アジアの他地域とのつながりの中の日本」をみる「日本研究」がより盛んになるのかもしれないな、とおもったりもします。


最後に。主にライブラリアンの/ライブラリアンむけの視点で書かれたこの本で、『本棚の中のニッポン』というタイトルの中の「本棚」がさすものは、第一に「図書館の本棚」です。ですが、「(大学)図書館の本棚」というのは、それぞれの研究者、大学院生が持っている「個人の本棚」と密接につながっていることがよくあります。それは、大学図書館の多くで、専門性の高い分野を担当するライブラリアン(「東アジア研究」、「日本研究」担当もそのひとつです)が、自校でおこなわれている研究を意識したコレクション・ビルディングをしているからでもあるし、その大学で研究をしている教授、学生が使い終わった資料を図書館に寄贈することがあるからだったりもするのでしょう。逆に、研究者や大学院生の「個人の本棚」というものは、それぞれの自宅や研究室の中だけで完結しているわけではない、と言うこともできるとおもいます。彼女ら彼らの「本棚」には、個人で所有している本だけでなく、自校の図書館で利用可能な本、ILLなどを利用して取り寄せることができる本、さらに、いまではe-resourceで検索をして作成したビブリオグラフィーや、e-resourceからダウンロードしてきた論文、資料などが「入っている」わけです。「ニッポン」を研究している研究者のそのような「本棚」には、当然「ニッポン」が入っているでしょう。そして、研究者からの視点でみると、日本の図書館や文書館、資料館などに書籍、資料を請求する行為は、自分の「本棚」を「拡張」したり、「補完」したりするための行為です。


で、ここがちょっと大事なことだとおもうのですが、そのような「ニッポン」研究者の「本棚」に入っている「ニッポン」は、かなりの高確率で「ニッポン人」が知らない「ニッポン」なことがあるのではないか、と私は感じます。(もちろん、日本国内にある「個人の本棚」や「図書館の本棚」の中にも「ニッポン人」が知らない「ニッポン」はたくさん入っているとおもいますけれども。) 特に強くそのことをおもったのは、この夏に、ウチの大学の退官した教授からの寄贈本の整理を任されたときでした。この教授は、戦後日本の大衆演劇を専門に研究していた先生で、その専門的な蔵書には、私がまったく知らなかったような資料が、書籍、脚本、grey literature(パンフレットなどの非正規刊行物)とりまぜて入っていました。もちろん、私がものを知らなさすぎるだけで、その演劇を同時代でみていた人、博覧強記な人、その分野に興味のある人にとっては「当然」なコレクションだったのかもしれません。ですが、この教授の「本棚」の中にあった「ニッポン」は、すくなくとも私は知らなかった「ニッポン」でした。市町村史、移民史、差別史、民間芸能、LGBT研究……。海外にある研究者の「個人の本棚」や、その延長としての「図書館の本棚」には、そんな「ニンジャ・フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」でも、「ノウ・カブキ・ジョウルリ・ウキヨエ」でも、「クールジャパン」でもない「ニッポン」が入っていることがよくあります。『本棚の中のニッポン』を読んで、日本から海外に情報発信をする「援軍」になりたい、なってもいい、とおもわれた方には、そんなこともちょっと心にとめておいていただけるとうれしいな、と、僭越ながら考えたりもします。


蛇足や的外れのことを書いている箇所もあるかとはおもいますが、以上が私が『本棚の中のニッポン』を読んだ、現時点での感想です。これから他の方々の感想や批評なども読んで、感想を修正していきたいとおもっています。この文章に対するご感想、ご批判なんかも、なにかありましたら。


本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究


最後の最後に。実は、私がこの本を「読みたい!」とTwitterで騒いでいたら、友人でフォロワーでもある@さんが本書の著者の江上敏哲氏とつなげてくださり、江上氏から著書のご恵投をいただいてしまいました。これがお礼になっているかどうかはよくわかりませんが、今回はありがとうございました。



関連リンク:

第149回ku-librarians勉強会 : 読まなくてもわかる『本棚の中のニッポン』 - Togetter

『本棚の中のニッポン』Q&A集 #kul149 #本棚の中のニッポン - Togetter

和田敦彦氏×江上敏哲氏・ジュンク堂トークセッション「国境を越えた知の流通 過去・現在・未来―海外の日本図書館から考える」盛況のうちに終了 | 笠間書院 (このジュンク堂池袋店ですね。なつかし)

ふだん意識しない「海外にあって日本語/日本の本・情報を求める人」に気づかせ、できることを考えたくなる本:『本棚の中のニッポン』 - かたつむりは電子図書館の夢をみるか (この感想エントリが、わりと上記の私の感想と「逆」の立場から書かれた感想といえるかも)

「国境を越えた知の流通 過去・現在・未来:海外の日本図書館から考える」和田敦彦×江上敏哲トークセッション(『本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究』 (江上敏哲著 笠間書院)刊行記念) - かたつむりは電子図書館の夢をみるか

江上敏哲『本棚の中のニッポン』読書メモ - みちくさのみち

『本棚の中のニッポン』blog

本棚のなかのニッポン - みききしたこと。おもうこと。

『本棚の中のニッポン』の感想 - Girls' Talk

taniwataru.blogspot.jp

えがみさんのこと #本棚の中のニッポン - ささくれ

*1:もっとくわしい内容については、笠間書院さんのこちらのページをご参照ください。→ http://kasamashoin.jp/2012/04/post_2268.html

2011-07-26

萌えよ! クトゥルー

| 03:12 | 萌えよ! クトゥルー - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記) を含むブックマーク

以前、このブログ上でも紹介したCOCOさんのクトゥルー本『異形たちによると世界は…』が7月22日に発売になりました。今回、実はフライングゲットする機会を (しかも作者様の生邪神……もとい、生サイン入りで) いただいていたのですが、太平洋を横断したりしているうちに、感想を書くのがおそくなってしまいました。申しわけないです/出版おめでとうございます/ありがとうございました。

異形たちによると世界は…

異形たちによると世界は…


さて、内容については他所でもくわしくレビューされている (こちらこちらこちらこちら) ので、あらためて書くこともないような気もするのですけれども、本書にはルルイエに住むクトゥルーさまを筆頭としたちび邪神さまたちのドタバタを描いた4コマ漫画に加え、ショートストーリー+漫画という形式の短編が8編、収録されています。


で、メインのちびクトゥルーさまたちのかわいさもさることながら、挿入されている短編も、しっかり怖い、エロい、グロい、と、一部で評判をとっているようです。(エロいとグロいはそうでもないか……。ちなみに、エロはどぎつくないですし、グロはほんのちょっとですので、そのあたり苦手というかたもご心配なく。)


ところで、創始者とされるH.P.ラブクラフトの作品群をはじめとして、いわゆる「クトゥルー神話」サイクルの作品群には、「異形」であるものの視点から書かれたものが少ないようにおもえます。(もっとも、これは主観的な感想にすぎないですので、そうではない、という反証があればご指摘いただけると幸いです。あと、『故アーサー・ジャーミン卿とその家系に関する事実』とか『インスマスを覆う影』とかは、例外と言えなくもないかもしれません。) 「異形のものたち」は、あくまでも語り手が遭遇する恐怖の対象として登場し、「異形」である主体の、「異形」であるゆえの苦悩や悲哀 (や喜びや楽しみ) が描かれることはあまりないような気がするのです。まあ、怪物ホラーというジャンルそのものがそんなもんである、と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、でも、『ダニッチの怪』のウィルバー・ウェイトリイは自分の生い立ちと運命について葛藤したことはなかったんだろうか? とか、『ピックマンのモデル』のリチャード・ピックマンはどんな日常生活を送っていたんだろう? とか、そんな空想を遊ばせてみるのも楽しいことですよね。(でもない?)


そのような「『異形』である主体の視点」で書かれた話が多く収録されているのが、この作品の面白いところなのではないか、と、私は勝手におもっていたりします *1 。(4コマ漫画パートも、邪神たちの世界を邪神たちの視点から描いたもの、と言うこともできそうですし。) そういう意味で、ブログ掲載時の『異形の群れ』からリネームされた『異形たちによると世界は…』(The World According to the Damned) というタイトルは、本書にぴったりのものだったのではないか、と個人的にはおもうのです。(さすが、作者ご自身も名状しがたき御姿の持ち……いえ、なんでもありません。)


ちなみに、COCOさんご本人も言っておられましたが、ショートストーリーのほうは、本書に収録されたのはブログで発表されたもののうちの一部です。収録されなかった作品にも面白いものがいくつもあるので (個人的には「使命を果たさないといけないんだけど家に引きこもってしまっているヨグ=ソトースの落とし子」のエピソードが好きだったり)、ぜひ、いつか、本のかたちで読んでみたい! とおもうのですが、どうでしょう。ほかの人のお話 (もちろんクトゥルーもので) にCOCOさんが絵/漫画をつけたものも面白そう、などともおもったり……。まあ、ただのおもいつきなのですが――。



ついでにちょこっとFurther Reading:

邪神さまたちについては作中でも紹介があるのでクトゥルー初心者にも安心してオススメできる本書ですが、書かれていない、説明されていない部分について、もっと知りたい! というむきには、たとえばこのような関連作品はいかがでしょうか。


短編『供物』(p.17-) の語り手の女性があのあとどうなったのか、ほんとうに幸せに暮らしたのか、気になる……というかたは――ラブクラフトの原作を漫画化した『インスマウスの影』などどうでしょう。

インスマウスの影 (クラッシックCOMIC)

インスマウスの影 (クラッシックCOMIC)

そして、さらに興味があったら、うちの過去日記のまとめ (http://d.hatena.ne.jp/asahi-arkham/20070903/1233568319) も読んでいただけると嬉しいなー、などと、こっそり言ってみたり。


それから、なんでクトさまの目覚まし時計は「テケリ・リ」と鳴るの? とか、p.77-あたりでクトさまたちがペンギンを買いに行く「狂気の山脈」ってどこ? というあたりが気になるかたは、このあたりを……。本当にこれが「参考」になるのかは謎ですが……。

狂気の山脈 (クラッシックCOMIC)

狂気の山脈 (クラッシックCOMIC)

うちのメイドは不定形 (スマッシュ文庫)

うちのメイドは不定形 (スマッシュ文庫)


そうそう、このエントリのタイトル『萌えよ! クトゥルー』は、『異形たちによると〜』のオビの背部分の宣伝文句を使わせていただきました。なんかインパクトがあったので。

f:id:asahi-arkham:20110727015811j:image

*1:いちおう、自分でそんな視点から書いてみたものがパブーで公開中のこれですが、出来としてはかなり残念なことになっているので、ぜひ読んでください、とはとても言えません。

Nephren-KaNephren-Ka 2011/07/27 10:27 「異形」の視点から書かれたクトゥルー神話作品は確かに珍しいですね。ダーレスの「ルルイエの印」やリン・カーターの"Dreams from R'lyeh"は視点の主が人間から「異形」へと変化していくという趣向で、「インスマスを覆う影」を踏襲したものといえます。またエディ・C・バーティンの"Darkness, My name Is"は邪神シアエガの視点からの描写があるという風変わりな作品ですが、最初から最後まで徹頭徹尾「異形」の視点で書かれている話となると、ニール・ゲイマンが公式サイトで無償公開している"I Cthulhu"くらいしか思いつきません。

http://www.neilgaiman.com/p/Cool_Stuff/Short_Stories/I_Cthulhu

これはクトゥルーが自分の身の上を語るという一人称の掌編です。物語の最後に「未知なる永劫の果てるときになったら、この惑星の文明を滅ぼし、それから里帰りして子供でも産むか」と将来の予定が語られ、クトゥルーは実は婚姻適齢前の女の子だったという衝撃的な事実が明らかになったりします。非常におもしろく、個人的にはお薦めの一編です。

asahi-arkhamasahi-arkham 2011/07/28 01:33 >Nephren-Kaさま

コメントありがとうございます。『インスマスを覆う影』などは、主人公が最初に「異形」の存在と出会うときにはあくまでも恐怖の対象として出会うので、完全に「異形」視点の作品というわけではないかもしれないですね。

ご紹介くださった "I Cthulhu"、面白く読みました。これもある意味「萌えクトゥルー」作品かもしれないですね。(違うか 笑)

2010-06-23

Some Initial Reactions to HPL's "Supernatural Horror in Literature"

| 01:03 | Some Initial Reactions to HPL's "Supernatural Horror in Literature" - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記) を含むブックマーク

だいぶまえにTwitterでつぶやいた、「高校図書委員会の副委員長がH.P.ラブクラフトの『文学における超自然の恐怖』を読んだら」(あるいは「文芸部における超天然娘の恐怖 (スーパーナチュラル・ホラー)」) のネタを書いてみました。


原典のほうは、まだ Introduction と最終チャプターである "The Modern Masters" しかきちんと読んでいなくて、あとの部分は斜め読みしただけなのですけれども、適切でない解釈/翻訳や引用はしていないとおもいます。(おそらく) (たぶん……) なにかお気づきの点があったらご指摘いただければ幸いです。


とりあえず書いたのは1シーンだけですが、このあとの展開も、いちおう構想は考えてあります。どこかに需要はないでしょうか。ご連絡お待ちしております。(何の?)


追記: 電子書籍発行プラットフォーム『パブー』版も作成してみました。字送り、段落送りなどの関係で、ブラウザからの場合でも、このブログ上で読むより読みやすいかもしれません。また、PDF、ePubといった電子ブックリーダー対応のファイル形式でダウンロードすることもできるようです。(PDF形式はちょっと読みづらいかもしれないですが……) (『パブー』のトップページはこちら → http://p.booklog.jp/)


(以下が本文です。「続きを読む」クリックで全文が展開されます。)


ーーーーー

... while we may justly expect a further subtilisation of technique, we have no reason to think that the general position of the spectral in literature will be altered. It is a narrow though essential branch of human expression, and will chiefly appeal as always to a limited audience with keen special sensibilities. Whatever universal masterpiece of tomorrow may be wrought from phantasm or terror will owe its acceptance rather to a supreme workmanship than to a sympathetic theme. Yet who shall declare the dark theme a positive handicap? Radiant with beauty, the Cup of the Ptolemies was carven of onyx.


……作品に用いられる文章術は、当然ながら、より巧妙なものになっていくだろう。しかし、文学において怪異の果たす役割そのものが変化してしまうとは考え難い。超自然の恐怖は、一般性があるとは決していえないものの、人間の表現活動の重要な一分野であり、ある種の鋭い感性を備えた特定層の読者を、これまでずっと魅了してきたし、これからも魅了しつづけるに違いない。幻視や恐怖といったものから未来の名作が生み出されることになったとしよう。それらの作品は、親しみやすい主題などというものではなく、優れた技巧によって評価されることになるはずだ。暗黒を主題にした作品は評価の上で不利を受ける、と言う人もいるが、私はそうは思わない。プトレマイオスの杯は、漆黒の縞瑪瑙からつくられていたにもかかわらず、周囲にその美しさをふりまいていたというではないか。*1


「そうそう、そうだよねえぇ!」

 最後の一文を読み終えた私は、ふるえる両手を胸の前で握りしめ、心の中で叫んだ。

 ちなみに、叫びを外に出さずにとどめておいたのは、そのときもう時刻はとうに真夜中の12時を過ぎており、そうしないと薄い襖一枚だけで隔てられた隣室で寝ている姉のところから怒声とともにぬいぐるみミサイルが飛来する――あるいは、姉の気分次第では目覚まし時計や漢和辞典が投げつけられる――恐れがあったためにほかならず、その障壁さえなければ、全にして一、一にして全の神に感謝の意を告げる呪言を唱え、起き上がってアヤシゲな踊りのひとつも奉納するところであった。

 明日からは、ここに紹介されていた本を読もう。いっぱい読むんだ。

 私は、ふたたび固く拳を握り、ななめ45度上くらいの虚空を力強く見据えながら誓いを立てた。それからペーパーバックを閉じ、かけていた眼鏡をはずして置いた。"The Annotated Supernatural Horror in Literature" と印字されている表紙の上に。


*****


「えーっと、『新たなる神話大系の創成者であり、驚異に満ちた民話の紡ぎ手でもあるロード・ダンセイニは、幻想的な美にあふれる異界の描写に全力をかたむけ、日常的な現実の粗野さ、醜悪さに対して宣戦を布告した。彼の作品は、これまでに書かれた文学作品の中で最も宇宙的な視点を持っている……*2』すごいなあぁ」

 翌日の放課後。

 私は、あちらこちらに貼られた付箋でイソギンチャクのようになったペーパーバックの洋書とバインダーボードをかかえ、図書室の本棚を巡っていた。

「でも、このひとの本は一冊もなし、か。足しとこう」


 六時限めの授業のあと、図書室の事務スペースに行くと、片目が隠れるほど長い黒髪の持ち主で、ワイシャツに赤のおしゃれネクタイをあわせ、その上にカーディガンを羽織った若い女性――「若い」といっても、もちろん生徒である私よりは年上だけれど――がひとりで机にむかい、コーヒーを飲んでいるところだった。司書教諭で、つまり私たち図書委員会のボスでもある阿弥陀寺先生だ。

「今日の当番は福良 (ふくら) さん?」

 はい、そうです。私が答えると、先生は、ちょうどよかった、これ、やらない? と、私にバインダーボードに挟んだ用紙を渡してきた。

「なんですか、これ?」

「今学期のぶんの購入希望図書リスト」

「リストってわりには、まだ全部空欄みたいですけど」

「うん。適当に買いたい本で埋めちゃっていいよ。ほんとうは各クラスの図書委員が学級内の要望を取りまとめて持ってきて、重複がないか確認して、委員会で優先順位を決めて、とかやることになってるんだけど、だいたい誰も真面目にやんないし、一冊も要望取ってこないことがほとんどだから」

 あの、どんな本でもいいんですか? そう質問した私の声は、よほど期待に満ちあふれて聞こえたらしい。もしかすると、目を貪欲に光らせていたのにも気づかれてしまったかもしれない。やっぱり、あなたにお願いして正解だったわ、やる気があるひとにやってもらわないとね、と先生は言い、それからこう付け加えた。

「なんでも好きな本でいいけど、そのかわり、いまある蔵書とかぶらないかのチェックは自分でしてきてね。あ、それから、Hな本は許可が出ないから」

 

 そういうわけで、私は放課後の図書室を巡邏していたのだった。

「『……巧みな証言の対比によって、この女性がヘレン・ボウンであったことが明らかになってゆく。彼女こそが、脳手術実験を受けた娘が――人ではない存在とのあいだに――もうけた子だったのだ。彼女は忌わしき神パンの血を引いていた。物語の最後で、彼女は、性別の転換、原初の生命形態への退化といった恐ろしい肉体の変形を経て死に至る……*3』おもしろそうだよね。アーサー・マッケンの『パンの大神』か。これもないからリストに足して、と……」

 いちばん窓よりの列を見終えて、次の本棚の並びに足を踏み入れながら、私はメモを取ろうと夏服の胸ポケットに差していたシャープペンシルに手を伸ばした。そのときだった。

「ふわぁっ」

 上のほうから悲鳴 (おそらく) が聞こえた。

 目をむけると、本棚の5段めくらいの高さに浮かんでいる白いセーラー服姿の人物が見えた。

 もちろん、魔法や怪異の力を借りているわけではないから、ほんとうに宙を浮遊しているのではない。

 彼女は落ちてくるところだった。私が立っている、まさにその場所に。 

 私はとっさに両手を広げ、足を開いて身構えた。

 けれども、それしきの対策では、質量的にも――彼女の名誉のために言っておくと、彼女が重かったというわけでは決してない。ただ、私がどちらかというと平均よりも小柄だというだけである――位置エネルギー的にもアドバンテージのある落下体の運動を受け止めることは不可能だった。

 ずしん、という衝撃とともに、私は床に押し倒された。


 まず私がとった行動は、自分の顔の目の付近の一帯を手でなぞることだった。眼鏡は、ちゃんとそこにとどまっていた。幸いなことに。

 次に私は立ち上がろうとした。けれども、胸から下のあたりにかかる重量が、それを妨げた。

 どういうことになっているのか、首と目だけを動かして視点を移動させて様子を見ると、私は、空中から降ってきた女子生徒にのしかかられているのだった。

 そして、彼女の白くて柔らかそうな頬は、むぎゅり、と押しつけられていた。夏用セーラー服の白い布地ごしに、私の右の胸に。さらには彼女の右の手のひらが、私の左胸の上にぴったり乗っかっている。

 同性だとはいえ――それから、いかに私のその部分が平板であるとはいえ――これはさすがに困惑する。

「ちょっと、ちょっと」

 私が自由になっている手で彼女の肩を揺さぶると、彼女は、ふにゃ、と間の抜けた声を出して目を開けた。

 そのまま彼女が上半身を起こしたので、ちょうど彼女が私の太腿のところにまたがっているような体勢になる。

 彼女には見覚えがあった。

 前髪を額の上でまっすぐに切りそろえた、おかっぱのような髪型。すこし垂れぎみになっている太い眉。二重のまぶたと長い睫毛。文芸部員の2年生――ということは、私と同学年だ――で、外 (そと) ほとか、という名前だったはず。

 活動内容の関係で、文芸部員は、よく図書室を利用しにやってくる。図書カードには氏名も記載されているから、何度も貸し出しをする相手の顔と名前には自然と馴染みになっていた。

「あ、図書委員会の副委員長さんですよね」

 そう言ってきたということは、どうやら彼女のほうも私の顔を覚えていたらしい。

 ごめんなさい。怪我はないですか。脚立に乗っていて、ちょっと離れたところにある本を取ろうとしたら、足が滑ってしまったんです。大きな身振り手振りの混じる彼女の説明を聞きながら、私は、むしろ早く体の上からどいてくれないだろうか、とおもっていた。

「あ、そういえば、これ、落としましたよ」

 説明を終えた彼女は、私に馬乗りになったままで上体をひねり、私の左脚のかたわらに転がっていた洋書に手を伸ばす。

 厚意はうれしいけれど、その本を見られるのはすこし恥ずかしい気がして、私は彼女よりも先にそれを拾い上げようとした。けれども、下半身を押さえつけられたままではおもいどおりに動けるわけもなく、本は彼女にさらわれてしまう。

「なんの本ですか?」

 私に訊ねながら彼女は表紙に目をとおし、らぶ、くらふと? と、ひとりごとのようにつぶやいた。

「らぶ……? 副委員長さんもロマンスとか読むんですか?」

「ち、違う、違う!」

 私はあわてて彼女の手からペーパーバックを奪い返した。

「H.P.ラブクラフトは人物名だってば。20世紀初頭のアメリカの作家で、ロマンスなんかとは正反対の、こう、ぬるぬるぐちょぐちょした邪神とか、粘液をしたたらせる怪物とか、魚みたいなかたちをした異形のものとかが出てくる小説を書いたの。そういう、『クトゥルフ神話』とか『クトゥルー神話』と呼ばれてる世界観を最初に考えたひとなんだよ」

「ほえー、そうなんですか」

 うなずいたあと、なにか気になることがあるのか彼女は首をかしげ、ぬるぬる、粘液、触手……、と、ちいさな声で数回復唱した。

 それから、はた、と両手を打った。

「それは、あれですか? えっと、なんて言うんでしたっけ。あ、ヘンタイもの?」

「違うぅー」


*****


「どうしたの?」

 事務スペースに戻ると、私の顔に浮かんだ疲労に気づいたのか、阿弥陀寺先生がそう訊いてきた。

 私は大きなため息をひとつつき、こう答えた。

「いまそこで、『超天然ボケの恐怖 (スーパーナチュラル・ホラー)』に遭遇しました」



<了>


ーーーーー

文中に出てくる "The Annotated Supernatural Horror in Literature" は、この本です。

The Annotated Supernatural Horror in Literature

The Annotated Supernatural Horror in Literature

日本語訳は、昨年出版されたこれがあります。

文学における超自然の恐怖

文学における超自然の恐怖


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*1:Lovecraft, H.P. (1938) "The Modern Masters" in Supernatural Horror in Literature. Text from Wikisource (http://en.wikisource.org/wiki/Supernatural_Horror_in_Literature/The_Modern_Masters). 翻訳文は筆者による。

*2:ibid.

*3:ibid.

2010-06-02

わたしはこれで苦手を克服しました

| 02:30 | わたしはこれで苦手を克服しました - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記) を含むブックマーク

ラジオドラマやドラマCDを聞かなくなってからずいぶん経っていたので、ついうっかり忘れていたのですが、わたしは、映像の手助けなしで人の声を聞き分けたり、それぞれの人物の声を記憶することが、昔から致命的にできないんでした。アニメにすこしだけはまっていた中学生時代には、「これは○○の声」と出演している声優さんを百発百中で言い当てることができる友人を、羨望の眼差しで見ていたものでした。


そんなわたしですが、このドラマCDだけは違いました。『今日の早川さん』ドラマCD。原作の雰囲気やエピソードを生かした脚本になっているうえ、早川さん、帆掛さん、岩波さん、富士見さん、国生さん、てん子、といった登場人物と、声をあてておられる声優さんがたの演技がばっちりマッチしているので、声の聞き分けができない、どれが誰の声だったかすぐに忘れてしまう、といったようなマイナス点 (ドラマCDの、ではなく、自分の、ですが) も忘れて、最初から最後まで楽しむことができました。(もちろん、わたしが原作を何度も読み返して、ほとんどのエピソードの展開やオチをなんとなく覚えているから、というのも理由の一部だとおもいますけれども。)


……と、なぜか怪しい宣伝記事のような文体でここまで書いてしまいましたが、別に手練手管を弄してCDを売りつけようとする記事では決してありませんのでご安心ください。(よけいに怪しい? 笑) あと、ネタ文体で書いてはいますが、上述のドラマCDに対する感想は、誇張などではなく、わたしが感じた正直なものです。下にアマゾンの紹介リンクを入れましたが、これもアフィリエート・リンクではありませんので……。

2010-05-24

ビブリオファイルは電子書籍の夢を見るか

| 03:42 | ビブリオファイルは電子書籍の夢を見るか - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記) を含むブックマーク

昨日の『今日の早川さん』の更新 (「存在の耐えられない軽さ」) を読んでいたら、こんな未来がおもい浮かびました。(絵にしたら1コマで表現できるネタのような気もするのですが、描けなかったので中途半端な文章ネタです。)


(全文は「続きを読む」をクリックで展開します。)


ーーーーー

 インターホンのボタンを押すと、すぐに中からドアが開いて、姉が顔を出した。

 大学生のころはショートカットにしていた髪を、いまはまた伸ばそうとしているらしい。といっても、高校時代のような二本お下げにするつもりは、もうなさそうだけれど。

 その髪型と、社会人になってからかけるようになったという濃い赤色のセルフレームの眼鏡のせいか、見慣れたはずの姉の顔が一瞬別人のもののようにおもえて、僕はどきりとした。職場から帰宅して間もないということで、以前はあまりしていなかった目のまわりや頬のあたりの化粧をまとったままだったから、というのもあるかもしれない。

「お邪魔します」

 玄関で靴を脱ぎながら僕はそう口にして、姉に、なんだかよそよそしいね、と笑われる。

「駅からは迷わないで来られた?」

「うん」

 姉の新しい部屋に入るのは、今日がはじめてだ。

 大学に行っていたときにも姉はひとり暮らしだったのだが、そのアパートは実家からも遠くなかったので、僕もたびたび足を運んでいた。

 けれども、卒業後に彼女が就職した先は地元から離れた都市にある企業で、これまで訪れる機会がなかった。

 荷物はここに置いて、と言われたとおりに、ノートパソコンが設置してあるデスクの脇の、艶のあるフローリングの床の上にスポーツバッグを下ろす。

 部屋は3畳ほどのキッチンエリアの奥に6畳ほどの一間がつながったワンルームタイプで、入居したときには新築だったというだけあって、壁紙も、キッチンのシンクやガス台も、すべてがみんな、ぴかぴかしていた。

「準備はバッチリ?」

「うーん。どうかなあ……」

 僕が受けようとしている大学の入学試験が翌日に迫っていた。

 すぐ近く、というわけではないけれど、実家から向かうよりは近いから、という理由で、今夜は姉のところに泊めてもらうことになったのだった。

「とりあえず、ご飯たべに行っちゃおうか」

 その前に着替えるから、ちょっと待って。そう僕に告げて姉はバスルームに入り、ひとり残された僕は、壁際にいくつか並んだ棚に、見るとはなしに目を向けた。

 最近はもう電子書籍ばっかり買ってるから、新居には本棚を置かないで、オシャレなインテリアにするんだ。

 以前住んでいたアパートを引き払うときに、姉はそう豪語していた。

 結局、そのとき処分しきれなかったぶんを実家に送り返してきて、文庫やハードカバーやソフトカバーが詰まった大量の段ボールが、いま、かつて姉の寝室だった一室を占拠しているのだが、ま、それはまた別の話として、この部屋に置かれている金属フレームのシェルフのひとつにも、いろいろな色の背表紙が、ぎっしり詰まっていた。

 姉ちゃんらしいな。

 僕は棚の左端から、黒い人工皮革で装丁された一冊を抜き出した。

 薄い雑誌ほどしかない厚みのわりに、ずっしりとした重さがある本だ。

 表にも、裏にも、題名らしきもの、いや、それどころか、文字のひとつも印刷されていない。

 やや不審におもいながら、僕は表紙をめくった。

 あらわれたのは、白いプラスチックに囲われた、なんとなく古めの電卓の背景を連想させる、グレーっぽい色の液晶画面だった。上のベゼルには、有名なオンライン書店のロゴマークが黒い字で入っている。

 なんだ。ケースに入れただけで、電子書籍の端末なんだ。

 それを元にあった場所に戻し、僕は隣の本を手に取った。

 今度のものには、明るいグリーンの、ビニールのような素材のカバーがかけられている。縦横のサイズも、感じる重量も、さきほどとほとんど変わらない。

 もしや、と開いてみると、中はやはり、電子書籍の端末。フレームが丸っこくて、白黒の画面の下に光沢のある横長の画面がもうひとつはまっていることを除けば、たいした違いはないように感じられた。

「それは『ズック』だよ」

 背後から声をかけられて振り向くと、ブラウスとスカートからセーターとジーンズに着替えた姉が立っている。

「んで、これが『トウィードルダム』で、これが『いいリーダー』で、これがレプリカントOS搭載のネットパッドでしょ」

「電子ブックにしたら、本棚はいらないって言ってなかったっけ」

「そうおもってたんだけどね。だけど、ビビビ文庫は『いいリーダー』でしかダウンロード販売してないし、エスエフNシリーズはサニーの端末にしか対応してないし、あと、英字フォントは『トウィードルダム』とかのほうが読みやすかったり、『今日のココさん』はカラー画面で読みたいし」

「これとこれは、まったくおんなじに見えるよ?」

「それは、容量が足りなくなったから、もうひとつ買っちゃったんだよね。もう売ってないし、対応オンラインショップもサービス終了してるんだけど、サンリオの復刊があったのがそこだけでさ……」


***


「弟とご飯なう、っと」

 とんかつ屋のテーブル席で向かいに座った姉は、そうひとりごとを言いながら携帯電話のタッチパネルに文字を打ちこんだ。

「なに?」

「ツブヤイター」

 僕に答えながら、姉は画面に目を落とす。

「あ、食いつきはやいなー。『ひとりじめかよう。私も呼べー!』これ、早川さんからね」

 私が帰ってるんじゃなくて、弟がこっちに来てるんですよ。姉が返信を書くと、数分のうちに、その上に新しいメッセージが表示される。

「『じゃあ、いま電話する!』だって。弟は明日受験なのでダメです。惑わさないでください、と」

「いつも、そんな感じ?」

「うん。ほかの3人もやってるし、いつも、こんなだよ」

「変わってないんだね」

「昔といっしょだよ」

「あ、でも、ねーちゃんは、なんかいろいろ悪化してるような気もするけど……いてててて」



ーーーーー

* 姉弟の年齢差など、下調べを厳密にしなかったところがあるので、整合性のおかしい箇所があるかもしれませんが、ご容赦いただけると幸いです。

* 登場する団体、商品名などは実在のものとは一切関係ありませんのでご了承ください。



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