秘密の質問「車と葱を売って成功した実業家は?」カーネギー

asaibomb2008-07-15

志村貴子モノいくつか出てたの書けてなかったんでまとめていきます。
■マンガ・エロティクスFvol.52
青い花』。演劇祭に向けて上田良子さん勧誘。そして今年はあーちゃん更にふみちゃんまで登壇?!という流れで上田さんとふみちゃんも初対面、その様子を目にしたあーちゃんの心境ドキッ?!と。しかし志村さんの描く正面顔は鼻筋クッキリしとるね。いいけど青花で16ページだとすげえ少なく感じてしまうな。
エロFその他。柘植文『僕とおませちゃん』すぐ横が小田扉の単行本広告ページなのが示唆するようなほのぼのショートギャグ新連載。バカエロいいね。ここ何号かのエロF新連載陣、阿仁谷ユイジも河内遥もいい流れに程よいゆるさが加わったなあ。
代替文
絵はフチザキさん(。どこかの現場でお会いしてるのかな……。コミティアでチェックしてた覚えはあるのだが)憧れてみました。こういうのナチュラルで描けたいなあ。自分に節操ないのは長所だと信じている。萩原一至先生の画集でのインタビュー「Q.好きな女の子のタイプは?A.彼氏のいない女の子全てが好きだ。いても好きだ。」という言葉を座右の銘にしております。あとこういう絵柄お試しなんかの機会につけて、青花キャラの造形的な(いい意味での)記号化の高さを感じる。
コミックビーム8月号
放浪息子』。高槻さんんっっ。タカツキヨシノサンノケツイ再び(reprise)。というわけで遂に男子制服で登校するの巻。考えるまでもなく、服装自由な小学校とは意味合いが大きく違うもんねえ。高らかに宣言て感じですな。僕として僕は行く。←コレは中村一義なので別ですが。高槻さんは(自分でも言ってるけど)一人称・僕じゃないのがポイント高いよね。高槻さんんっっ(二度目)。表情が絶妙に素晴らしすぎる。ああこの見上げた先に大きく青い空が広がる感じはTAGRO先生の『マフィアとルアー』にも通じるかもしんない。あと「二鳥くんデートしよう」はちょっと「カ〜ンチ、セックスしよ!」思い出す(スマンコ)。
代替文
そーいや先月7月号は休載だったのだが描き下ろしお詫びイラストあったので買ったのだった。と、メモっておく。ビームは(エロFも)他にも面白い漫画たくさんあるので助かる。先月に続いて上野顕太郎の○休祭(一休さんを色んなマンガのパロディで仕立てる)おもしれかった。『一休の小規模な頓知』。でもウエケンの模写力をもってしても福満妻のかわいさはやはり本人にしか表現しきれないな。
■それから雑誌『spoon.8月号』()が本についての特集で「少女マンガをもう一度」というコーナーでは志村貴子(メール)インタビューもあるので買ってみた。青い花について、まあ取り立てて新しい発言は無いかな?作品紹介として抜粋されてるページが2巻9p.(あーちゃんモノローグ「2人が互いに好きあっていてそれで悲しい思いをする人がいるなんて考えたこともなかった」)なのは興味深い。そんな派手なシーンじゃないもんねえ。
「女の子のための男子マンガセレクション」コーナーでは「チーム男子」とかいってるし。はやってるのか?しかし普段馴染み薄い雑誌たまに見るのも面白いもんだね。きれいなモデルさんの写真なんかもいっぱい載ってるし。Yurikoさん(DUALISM)て人かわいい。あと依布サラサさんてのがいいメガネさんだったのでメモる→井上陽水石川セリの娘だって。眼鏡といえば「夏に読みたい3冊」てコーナーに曽我部恵一が眼鏡かけて出とるのだが!ちょwおしゃれめさるなwww。髪型もさわやかなりやがって……ベーヤン……。七尾旅人とのライブ行けたかったなあ(グダグダだったっぽいけど)。『24時』発売('98.7.15.)十年記念やらないのかしら。
志村貴子作品に戻りまして、この前メガネキャラまとめてみたのに続いてタバコキャラも割と多い気したのでまとめてみる。
敷居の住人』本田くん。本田父。本田母。本田祖母。兼田先生(今思ったけど放浪の時点では吸ってなかったりしても面白いねサングラスが帽子に変わった(?)ように)。
青い花』杉本公理さん。
『どうにかなる日々scene1』スズキヨリコさん。田辺さん。『scene3』主役女子『scene5』あやさん。
『楽園に行こう』幼馴染男。『アケミのテーマ』ハルオ。『花』岡本さん。
こんなもんかな?『変身』(ease2号)の寺島京子さんもだな。

ボーヴォワール『人間について』

きっと、この世の富は、人間がそれを拒むことが出来るという理由によってのみ、善いものなのでしょう。

革命家は、革命が勝利を得るであろう日、その場にもう自分はいなかろうが、そんなことは頓着しません。

若しもわれわれが自分たちのことを本気で心配するなら、われわれは、《悪い理由》で、つまり、われわれのでない幸福を介して、愛してもらうことも、讃めてもらうことも拒絶するでしょう。かようにして、或る女たちは、化粧ぬきで愛されることを欲し、或る男たちは、匿名で愛されることを欲します。

若しもわたくしが人に讃められるようなちょいとした詩でも作ろうものなら、わたくしは自分の食い方、眠り方に至るまで自分を必要なものだと心から思い込みます。それは、わたくしの自我が散らばっていると同時に一つだからです。この自我は、徹頭徹尾、未開人のマナに似ています。そして、未開人というのは、若し自分の髪の毛ただ一本を押えられても、自分のマナ全部を押えられていると思い込むように、それと同じく、われわれの行為の一つに与えられた賞賛は、われわれの全存在を證據だてているのだと、われわれは信じてしまいます。この理由によって、われわれは自分が名前をつけられることを望むのです。名前というのは、相手の中に魔術的に集合された、わたくしの総存在なのです。然し、実際は、われわれの行為はバラバラに切離されているのです。われわれが他人のために存在するといっても、それは、われわれが自分たちの行為に於て現存している範囲に於てのみで、だから、われわれの分裂の中に於てです。

愛情、恐怖、嘆賞、尊敬などの魔術は、一人の人間を、神にかえることが出来ます。つつましい崇拝者は物体以外の何ものでもありません。そして、彼の偶像は誰の前でも物体ではりません。この至高の純然たる自由性を、人は誰に向って超越することが出来ましょうか?向側には何んにもないのです。