志村貴子『放浪息子12巻』

ぼくたちの、ゆくさき。中学3年生の文化祭、年越し、受験を経て卒業、高校生へ。ハイライトはやっぱり文化祭ファッションショーでのシュウ君高槻さん並び立ちかな。ユキさんしーちゃんの目の前ってのも含めて、最終回でも通用するかもしれない。
その他の感想は連載で読んでた通り……といいつつ実はここ二ヶ月ほどビーム買ってないのだった。ストーリーもページ数も進行ゆっくりすぎて。今回コミックスでまとめて読んで、単行本待ちでいいかなと確認。面白いのは変わらないんだけどね。
絵的なトピックとしてはやはり99話でのデジタル仕上げ!時間に追われての対処っぽかったの単行本でもそのまま載せてるけど、元々の画風的にも他のページと比較してもそんな違和感ないし、今後も状況によってアリなんじゃないですかね。後書きとかのページではどんどん使ってるし。
小ネタとしては喫茶店の名前「Cafe KIKUCHI」 って、青い花第1話でふみちゃんのブックカバーの書店名「BOOKS KIKUCHI」思い出す。何気に志村作品「キクチ」づいてる(キクチナナコは言わずもがな)。
そうそう、今回の書店特典はアニメイトで描きおろし漫画ペーパーってことで無事ゲット。宇都宮も対象店舗に入ってて助かった〜。漫画の内容はシュウ君(5歳)とユキさん(17歳)兄弟ってことで、夢オチではあったけど年齢(差)は実際の設定通りと考えていいのかな?とするとシュウ君15歳ユキさん27歳。それにしてもちびっこシュウ君の絵はヘタリアの影響感じるな〜とかいって。
巻末にはお手伝いのお二人のオマケ漫画も収録。オガツカヅオ『たぶん保健室の座敷童』は「人間の心の傷が主食」の妖怪がこれまで「食べて」きたシュウ君を見て、その成長した姿に「もう食べられない」かなと気付く話。「でもよかったわ」「今までありがとう」と。とてもよい。冨樫義博『部屋に咲く花』(安西信行の同人誌に寄稿した漫画。すごくよい)彷彿。オガツ氏もう一本『西ケ丘中学校のかいだんの踊り場』は次巻のネタバレネタ。絵が細密で上手いなーと思ってたら最後に大ゴマで効果的。イシデ電『みりんの工場見学』は得意の猫ネタ。考えてみたら志村作品のあっさり具合に対してこのお二人の作風は泥臭さ強い気もするけど、オガツ氏の繊細さとイシデ氏の豪快さが丁度いいバランス加えてるのかもしれない。
あと、どうでもいいことだが奥付の著作権表示が細かくなってた。ネットへのアップも禁止とかそういう。大変だなあ。奇しくも著者近況でまどか☆マギカ描いててマルシー付いてるのがなんか面白かった。(もちろん別問題なのは百も承知です)。
そんなとこかな。以下は連載時の感想絵をまとめたもの……をイラレでソレっぽくしてみた。楽しい!言うまでもなく「青い花通信」のマネっこである。

放浪息子 12 (ビームコミックス)

放浪息子 12 (ビームコミックス)

埴谷雄高『深淵』

――そうだ。権力は理論ではない。それは相反するものを容れる容器だ。それは理論の矛盾など恐れない。一言でいえば、その容器は持続された時間なのだ。俺の右手はいま除かれていてもやがて左手と並んでそこにはいるようになるかもしれない。だが、死者はそこへはいれない……そうだ。死者はそこへはいれない……。いいか。君と話しているうちに俺にはっきりしてきたことがある。危いかな、俺もまた自ら気づかず、使者を目指していたのだった。俺がよく思い浮かべるイメーヂのなかの渇望は、君の死者の理論の完璧性とまったく同じ渇望の意味をもっていたのだ。いいか。闘いに疲れて膝をかかえて俯くとき、俺にはいつもこういうイメーヂがうかんだのだ。……われわれは認識者となったゴリラである。試行錯誤のあと食物に到達したゴリラである。そして食し性交したあと憂愁の裡に認識者となったゴリラの苦悩の顔を脳裡に描いた。認識者となったゴリラの逞しい手と足は思い浮かばなかったのだ。おそらく、俺の右手の敗北は、いつも闘いに疲れて膝を抱えて俯向くときのこの苦悩への陶酔に根ざしている。俺はそれをいま悟ったのだ。いまは、俺は還ってゆかねばならない。逞しい手と足をふるう闘うゴリラをひきつれて。

――ここにある種のガスがあります。
――ガス……?それが処分ですか。
――そうです。そのガスを知らずに呼吸している裡に、そのひとに自然なほんとうの発狂状態がやってくるのです。