ゴミの生活(四代目)

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スーパーなのかポストなのか ――広井良典『ポスト資本主義』(岩波新書)

大きなビジョンを描いている。人類が今まで経験してきたサイクル(拡大・成長→限界→技術的ブレイクスルー・精神的変化)。狩猟採集、農耕、産業革命の3つに続き、今、4つ目のサイクルに突入しているのではないか? 到達点はポスト資本主義なのではないか? が本書の主張。


筆者は、資本主義と近代科学が根っこが同じものと考えている。資本主義は市場経済+限りない成長・拡大を志向するシステム。資本主義=市場ではない。市場には透明な交換があるが、資本主義にはそれがない。資本主義では成長・拡大が求められ、個人一人一人が経済活動に参加する。個人とは独立した意思決定主体であるという前提がある。近代科学は法則の追及と機能的な合理性からなる。前者は自然支配であり、資本主義の成長・拡大路線と重なる。後者は共同体から個人の独立を促す。近代科学は資本主義と並走してきた。


ポスト資本主義とは? 資本主義が目指す拡大・成長は時間的拡大、空間的拡大のことである。資本主義が成熟した21世紀には、時間的・空間的な拡大は望めない(異なる方向性を求めるべきだ)。時間を分母に考えると(単位時間で考えると)、効率性が求められ、しかし効率性が求められても仕事はいっこうになくならない。というのも、仕事が効率化されれば無職が大量に発生するからだ(楽園のパラドックス)。BI(ベーシックインカム)が導入されていればともかく、労働しないと賃金は手に入らない。かつてに比べて労働のあらゆる側面がテクノロジーにより効率化されながらも、労働環境(労働時間)が改善されないのは、効率追求のパラドックスだろう。時間を分母にしない、というのはポスト資本主義の重要な考え方。


また資本主義の拡大・成長を求めてきた個人。この個人は自然や共同体から切り離された合理的経済人としての、あるいはデカルトの自我をソフトウェアとする人間だ。これを、もっと切断する、それこそAIによるシンギュライティのように、人間精神を人間身体から解き放とうとするのがスーパー資本主義的の動きだとして、いまいちど、自然と共同体に個人を軟着陸させるのがポスト資本主義のやらんとすることだ。


キーワードは「定常化」。これは「脱成長」とどう違うのだろうか? 同じ? しかし成長しない、イノベーションが起こらない社会というのは、それはそれで地獄だ。ものは常に劣化していくし、減価償却されるわけで、現状を維持するのにも労働努力は必要だ。そこにイノベーションがない、というのはどんな社会なのだろうか? ちまたにはやる「脱成長論(特に年長の論者が好きだ)」への牽制は必要ではないか。


テクノロジーが十分進歩し、労働が効率化されれば、労働が一種の趣味のようになるということはいえる。生きるために労働し、そのために労働の奴隷になる、ということは避けられる。しかし、何もしないのも暇だし、賃金が得られないので、ゆったりとあたかも時間潰しのように、自然+共同体の内部で労働する。そんなビジョンがポスト資本主義なのだ。環境負荷を考え、労働者の労働時間を考える。


説得力があるかどうかはともかく、大きなビジョンを提示するその野心は非常に面白い。単位時間の呪縛に私たちが取り付かれていることを改めて認識できた。だがしかし、ポスト資本主義はうまく想像できないのだ。テクノロジー(近代科学)と資本主義を双子と定義することも納得できるが、それゆえにテクノロジーの恩恵を受ける私たちは単位時間の呪いから、決して自由になんてなれないのではないか、と思ってしまう(瞬間がある)。