Все счастливые семьи похожи друг на друга, каждая несчастливая семья несчастлива по-своему.
Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.
「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」

「でもそれってほんとかなあ?」
ロシア語の勉強のために勧められた本を読んでいると、突然ヴィクトルがそんなことを言いだした。
「俺は逆だと思うんだ」
「幸せな家庭はさまざまで、不幸はみんな似てるって?」
「そう。だって結局不幸って、願いが叶わなかったり、生活が成り立たなかったり、病気で苦しんだりってことだろう」
電子辞書を手元に苦心して読んでいた本を閉じる。アンナ・カレーニナ。美しいロシアの貴族夫人が選んで破滅への道を歩む話だ。
「対して幸せは、人によって違う。経済的に困窮していても家族がいれば幸せという人もいるし、成功しなくても挑戦し続けることが楽しいという人もいる」
豊かであることが幸せであるとも限らない、と彼は言う。なるほど、それは確かにそうだ。
成功率の低かったジャンプを練習するのは苦しかったが楽しかったし、莫大な金と引き換えにフィギュアスケートを辞めてくれと言われたら僕はたちまち不幸になる。
「じゃあヴィクトルにとっての幸せと不幸ってなに?」
「知りたい?」
「言いたくなければいいよ」
「わーお、勇利、そういうのはよくないよ。そうやってすぐに引いてしまわないでくれ」
「聞いてほしい?」
「ほしい!」
力いっぱい答えるヴィクトルがおかしくて少し笑ってしまう。
「勇利は俺のこともっと知りたくないの?」
「知りたい!」
くるくると簡単に立場が入れ替わってしまうのも同様だ。
「ヴィクトルにとっての幸せは?」
「俺の家に俺のLifeとLoveがいてくれることかな」
「じゃあ不幸は?」
「俺の家に俺のLifeとLoveがいないこと」
「真面目に!」
「真面目だとも!」
「もー……」
「勇利は、俺のプロフィールをどれだけ知っている?」
「え?」
長年のヴィクトルオタを舐めないでほしい。身長体重年齢生年月日、血液型は非公開、出身地利き手利き足ノービスジュニアシニアの各デビュー年とこれまでの各プログラム、得意なジャンプとスピンとステップ、シューズのメーカーとブレードの種類、好きな食べもの色花音楽衣装ブランド最近感動したものうれしかったこと、スケート以外の趣味特技スポンサーの数来日記録公の場での小ネタ。
指折り数えられる量じゃないボリュームを一気につらつらと並べると、ヴィクトルは「わーお……」と若干呆れを混ぜたような感嘆の声をこぼした。ヴィクトルが聞いたんじゃないか。
「じゃあ勇利、俺の家族のことは知ってる?」
知らなかった。ヴィクトルはどのインタビューでもヤコフコーチやリンクメイトを家族のようなものだと言っていた。回答はいつも優等生で違和感を感じさせないものだったけれど、におわせることすら避けているような様子からヴィクオタの中ではヴィクトル孤児説なんてものがあったくらいだ。
なんて言えばいいのか言葉に困って、黙って首を振る。
「もうひとつ。勇利はLOって知ってる?」
エルオー。
ヴィクトルはローともロウとも発音しなかった。だからLoという名前のものじゃなく、LOおそらくなにかの略称なのだろう。
「Lock On……Local Office、London Overground……Last Order……」
「全部はずれ」
略称がLOになるものを思いつく限り並べてみるけれど、楽しそうに全否定されただけだった。
「もーなに、LOって」
「Lost One」
ヴィクトルはにっこり笑って言った。
「Lost One、だよ。勇利」
Lost One。失われたもの。……なにが?
幸せと不幸せの話をしていたんじゃなかったっけ。失われたものってなに。ヴィクトルのプロフィールや家族の話から、そこへどうつながるの?
エルオー、Lost One。失われたもの。失われたものはなに? ……それとも、だれ?
ぞわっとした。完全オフの真昼間の穏やかな時間なのに、僕はいきなり氷水をかぶったみたいな気持ちになった。
「『ヴィクトル孤児説』、俺も知ってるよ。みんな面白いこと考えるよね」
いつものようにヴィクトルは笑っている。それがいまは少しこわい。
「経験のない人間がこうやって考えるのはナンセンスだけど……実際に孤児だったら、どれだけよかったか……」
「あ、……あのさ、ヴィクトル」
「うん?」
どくどくと嫌な感じに脈打つ心臓を感じながら、精一杯取り繕って声を出す。
「聞いていいのか、分からないんだけど……」
「どうぞ?」
「……ヴィクトルのご両親って、いま、……どうしてる?」
「健在だよ。普通に働いてるはず」
「あ、そうなんだ……」
一瞬少しほっとしたけれど、すぐにはずってなんだって引っかかった。
そりゃヴィクトルはもう28歳でいい大人で、それでなくてもしっかり稼いで独立してるし忙しいから親に会う機会なんてなかなかないのかもしれない。でもたとえば、電話とかメッセージとかで連絡を取り合ったり……。
「もう何年だろうなあ……えーと、19歳のとき手続き関係で会って……それが最後か。とするともう10年近くになるのか」
「最後ってそのあと一度も会ってないの?」
「そうだね」
「なんで」
「用事がないから」
5年間一度も帰らなかった僕が言えたことではないけれど、でもそんな用事がないから会わないって。ロシアにだって帰省の概念はあるはずだ。
考えが表情に出ていたらしい。ヴィクトルは指先だけでそっと僕の頬を撫でて微笑んだ。
「LOだって言っただろう」
「……そのLOってなんなんだよ……」
「俺から振っておいてなんだけど、楽しい話じゃないよ」
「……このままじゃスピンもステップも失敗する」
「それは困るなあ」
世界一のスピンとステップが崩れるのは見たくない、と諦めたように言って僕の髪をかき混ぜた。
「先に言っておくと、不幸ではないんだ。ヴィクトルかわいそう、と思うような話でもない。ひとつの悲劇の類型ではあるかもしれないけれど、どこにでもよくある話だよ。単純に両親は俺に興味がなかったというだけだ」
それが理解できない。産んだ子供に興味がない親がいるのだろうか。ヴィクトルを疑いはしないけれど、とても信じられない。
「分からない、という顔をしているね。でもありえるんだ。スポンサーがつくまでお金は出してくれたしなにかと世話になった人たちではあるけれど、関わると俺も心穏やかではいられないからできるだけ接触しないようにしている」
体内にある重いものを、周囲にはそうと分からないようにして少しだけ吐き出すようなため息。なにかを諦めているヴィクトルという存在を見るのが初めてで胸が痛い。
「家はごくごく普通の一般家庭で、兄と俺と妹の3人きょうだいだった。両親は長男の兄と末っ子長女の妹がすごくかわいかったんだ。俺も……まあどうでもいいってことはなかっただろうけど、2人に比べるとってことはあったね。長谷津に行って、勇利たち家族を見て触れ合って、本当の一般家庭を俺は初めて知ったよ。普通の家ってこういうものか、って思った」
聞いている、と視線で示すほか、僕にできることはない。頷くのも相槌を打つのも、なにか意見を言うのもいまはできかねた。
「俺も結構頑張ったんだ。あからさまに比べられることはたぶんなかったと思うけど、両親の意識が自分にだけ向いていないというのはずっと分かっていた。だから勉強も運動も、スケートを始めてからはスケートも、両親が俺を誇りに思ってくれるようにって。でも駄目だったんだよ。俺が俺である限り、あの人たちは俺に興味がなかった」
「ああ、駄目なんだな、もうなにも、どんなことが起こってもあの人たちの興味関心が俺に向くことはないんだなって思ったのは……14……いや13歳のときか。体調が悪くてリビングのソファで横になっていたんだ。腹痛もあって、うう、お腹痛い、って少しだけ唸っていた。どうなったと思う? ……父親は無視だ。母親はうるさいからなにも言うなって言ったんだ」
愛する両親からそんなことを言われるなんて13歳の少年にはショックだったから、そのときのことは一生覚えている。
「見返りを期待するわけじゃないけど、注いだ愛情に否定や無関心や文句ばかりを返されていたら嫌にもなるだろう。鋼鉄の心臓でもないんだ。向けた愛情を否定されて止めればよかったって何度思ったか。でも俺はただの少年だった。あのときはたまたまタイミングが悪かったんだって、今度こそって、何度も思った。そのたびに後悔した」

「18歳のとき、もう本当にやめようと決めた。もう、可能な限り関わらないで生きようって。……これだけいろいろあったのに遅いと思う? こんな人たちだったけど俺には唯一の両親だったんだ。……だからやめようやめようって思いながらもなかなか諦められなかったんだ」