★というわけで、理屈モードであるにもかかわらず基本的に論争なんかには参加しません。正直自分は、デレデレ馴れ合いモードと、ギスギスいがみ合いモードしかない(ように見える)ネットの世界がどうも好きになれないので、多分コメントにはまともな反応なんかできないでしょう。もう、シニカルな難癖コメントなんかには、ビビって基本的にスルーすることしかしないと思いマス。
★けど反論や疑念の表明の中には、惚れぼれするような素晴らしいものがよくあるんですよねー。こちらのはるか上を行く議論の水準や知識の量を示して、自分の意見が素人意見でしかなかったことを皆にバラしてしまうような…。
★で、そういう有益なコメントに遭遇したときには反論などせずに、基本的にすぐ白旗を揚げて、有難く頂戴しちゃいますよ! 頂戴といってももちろん剽窃などせずに、別の機会にそれを使うときは、ちゃんと出所を明記しますデス。正直、そういうネタや切り口をたくさん得るために、脳内をわざわざ公開しようと決めたようなものなので…
★まぁいずれにせよ、内容的にはいわゆる「中年ノスタルジィや敗残者の恨み言」全開なブログなので、そこのところは生ぬるく見守ってやって下さい…
2009-08-30 「政治/実存」図式の別ヴァージョンの話・他もろもろ

なんてこったい! 上巻をほとんど読み進めていないにもかかわらず、小熊英二『1968』の下巻がもう発売してたのかヨ。ゆっくりした結果がこれだよ! ・・それはさておき、前回のd:id:ashibumi68:20090716#1247722863で論じた、あの有害な「政治/実存」という図式の別ヴァージョン(というより殆どその言い換え)を発見したので、ここにご報告を。
2009-07-16 小熊英二『1968』「著者のことば」に対してコメントをと思ったら

小熊英二『1968年・上』出ましたね。昨日本屋言ったら平積みされてたので、収入が減ってどんどん貯金が突き崩されてく日々が続いているにもかかわらず、思わず衝動買いしてしまいました。税込みでしめて7,140円。あちゃー、買ってから後悔しきりですが、まあ衝動で風俗行ってしまったものと思って諦めナと、まわりから変な仕方で慰められてます。そか、お盛んな世の男性たちは自らの浪費を正当化するためにそんな慰め方をしてたのかw
それはさておき、添付されたパンフの「著者のことば」*1を読んだら、ちょっと疑念というか懸念が湧いてきてしまいました。というわけで、以下それについて少し。まあ、あくまで本文を読む前の、こちらの一方的な懸念なので、読了後は(しかしそれはいったいいつのことになるんだ?)まったく的はずれになるという可能性大ですが。
*1:ネット上にもうpされてました。http://www.shin-yo-sha.co.jp/essay/1968_chosha.htm
hizzz
何度も拙はてダで書いてるけど、「68年革命」なんか単なる西洋基準理念のエリーテシズムでしかないし、それを称揚してる連中の鼻もちならない支配コントロール権を握った優越感はげろげろなんだけど、今更それをいう為に上下巻の言葉を動員するってどゆ動機なのかという疑問が、衝動買欲を阻む大いなる点だったけど、えぇ〜、マジ???ますます意欲が遠のくなぁ。
てか、68年学生運動で「貧困格差解消」がスローガンになったことなんか1度もないし、むしろ当時からエリート都市学生vs貧乏農村出身機動隊っつー構図はささやかれてたし、学生運動騒乱の最中、低学歴赤貧家庭の現世利益を説いて検察と対立攻防してたのは、左翼運動ならぬ創価学会だしね〜。
ま、ロスジェネ論壇とやらが、日本的ニート論=若年高学歴無業者問題に相乗りし、労働組合活動を全面利用したことで、本当の低学歴貧困&男女格差社会を推進した労使協定を含めた社会構造を労働問題から切り離し、「実存承認」問題としていかようにも社会各層に接続できる耳障りのない使い勝手の良いスローガンとしたし。それで二項対立の55年体制を理想的状況として左右がこぞって追求しはじめる悪夢が実際に繰り広げられているし。歴史修正にも程がある。ホント勘弁してほしい。。。
ashibumi68
まぁ、そう性急に切り捨ててしまわなくても・・
さすが小熊氏だから、当時の階級構成の実情を数字を出して示したりして、全共闘運動が本当に例外的な少数者のものでしかなった(彼/女たちは大卒であることは確かだけれども、しかしだからと言ってエリートとか金持ちであると簡単には決めつけることができないみたい)ことを鮮明に浮かび上がらせてますよ。それよりも自分が訝しく思うのは、そのようにして日本の68年のイメージと現実との間の乖離をていねいに腑分けしながらも、何で唐突に「現代的不安」の先取りなどということを言わざるを得なくなるのかという点なんですよ。記述の手堅さ(やはり当時の色々な状況への目配りが利いているから、読んでて面白いですよ)と、そういうキャッチーなスローガンとの間に本当に結びつきがあるのかという点は、これはもう通読してみなければわからないことですからね。まぁそういうことを抜きにしても、純粋に歴史書として読んでも面白いと思いますけど。ただし、書かれたもの――記録――しか使わないという方法論に対して、実証研究に詳しい人たちからは色々文句が出てるみたいですが。確かに小熊氏の著作を読むときに体験する、展望が開けてきて視界が明確になるという感じって、司馬遼太郎を読んだときに感じるものとそっくりなんだよナ。一見膨大な資料を客観的に提示しているように見えながらも、実はそれらはすでに、俗受けするような単純な物語の中にスッポリ収められてしまったものでしかなかったのかな? けど、こういう大胆なことができるってのは、やっぱ凄いことだと思いますけど・・
hizzz
>エリートとか金持ちであるとは簡単に決めつけることはできない
68年当時、大学進学し学生運動に集中出来た―世帯家計を支える責務がなく自己課題に集中出来た─のは、確実にアッパーミドル以上の階層。なにより「表現問題」というなら、アンダーグラウンド等のサブカルチャーと「クロスオーバー」したハイカルチャーがヘタウマを気どるのは70年代末で、思想語「スキゾ・パラノ」が第一回新語流行語大賞新語部門銅賞流行語として大衆認知を得たのは84年。様々な統計上&世間実感からも一億総中流化といえるのは、80年代以降ではないでしょうかね。声高な高学歴全共闘/文化左翼の都市中心軌跡をもってして団塊世代および時代としてしまう偏りこそが、そうでない者からすればエリーテシズムなんですわ。
>何で唐突に「現代的不安」の先取りなどということを言わざるを得なくなるのかという点
禿同。
近代文学終焉と二次創作隆盛のワンセットでゼロ年代と70年代後半の批評状況酷似してるという見解↓があるよー。
http://d.hatena.ne.jp/ending/20090527#p2
でもこれはサブカル以外見いだせず、批評伝家の宝刀「サブカル終焉」宣言すら出来ぬ立位置にある「批評家リアル」ってことなんだろうけど…。
>実は俗受けする単純な物語が
だから、この手の人文書としては例外的に売れるんでしょうけどねー。
これも以前書いたように『民主と愛国』に見られた危惧のまま、7千ページの内実がそこに向けているとしたら問題。。。
特にポストモダンが提起した問題多様性を一つ一つ検証吟味するのに疲れた昨今の今北産業・半径ワンクリックの断定志向がまかり通っている中、いくら正義正論だと言を重ねても、それが「キャッチーなスローガン」というみせかけの「明解さ」によって、複雑な問題要素が吹っ飛んで単一抽象化してしまうのではなにもならないしー。
読後感想、激烈に期待してますぅ〜。
ashibumi68
とりあえず第2章(「時代的・世代的背景(下)まで読みました。仕事が忙しくなってこれより先を当分読めそうもないので、ここで簡単なレスを。
> 68年当時、大学進学し学生運動に集中出来た―世帯家計を支える責務がなく自己課題に集中出来た─のは、確実にアッパーミドル以上の階層。
もちろんそうなのだけれど、議論の仕掛けとして敢えてそうではないところに焦点を当てるようになってました。それはまさに、「文化革命」としての
> 「68年革命」なんか単なる西洋基準理念のエリーテシズムでしかない
という点を強調するためだったんですけどね。いわく、(社会学者高橋徹の当時の調査から)「判明したのは、アメリカのニュー・レフト活動家は中上層出身者が多く、豊かな文化的背景を持ち新しい文化にも通じていたの対し、日本の学生活動家は中下層出身者が多く、平均生活費も通常の学生よりも低いため、文化活動をする時間的・経済的余裕がないことであった」(96頁)。つまり運動に専念したコアな活動家は、おもに60年代の後半大学進学率の上昇によって初めて大学に入れるようになった、文化資本に乏しいロウアー・ミドルの者たちだったようです。それに対して豊かな文化資本を持ったアッパー・ミドルの方は、もっぱらその周囲をただうろつくだけの、映画や「GOGO」パーティのついでにデモや集会にも顔を出すフォロワーでしかありませんでした。ところが後年、このフォロワーたちの方がメディアで力を持つことになってしまい、68年を「GOGO」と「デモ」が等価に並んでいた「文化革命」の時代だったとする「神話」を振りまいていくことになったわけですね。そういう者の代表例として、当時豪邸に住んで映画やレコードを集め放題だった四方田犬彦氏が皮肉っぽく挙げられてましたよ(同頁)。そして「1968年の文化革命」と言われる音楽や思想の代わりに、68年の反乱の核心にあったものとして小熊氏が挙げたのが、例の「アイデンティティ・クライシス」というものだったわけなのですが・・
> 「表現問題」というなら、アンダーグラウンド等のサブカルチャーと「クロスオーバー」したハイカルチャーがヘタウマを気どるのは70年代末で、思想語「スキゾ・パラノ」が第一回新語流行語大賞新語部門銅賞流行語として大衆認知を得たのは84年。様々な統計上&世間実感からも一億総中流化といえるのは、80年代以降ではないでしょうかね。
確かにそうだと思いますが、しかし小熊氏も言ってるように、
「(全共闘)世代が本格的に作り手になるのは、八〇年代に彼らが作家や学者、コピーライターなどになってからである。その意味では、六〇年代の叛乱の文化より、八〇年代の消費文化のほうが、彼らが創り手として生み出した文化だともいえる」(84頁)
というのが実態だったわけですから、80年代における一種の「文化革命」について考えるなら、受容理論的な視点を取って、仕掛ける側の全共闘世代の思惑と、仕掛けられた側の新人類世代の実感との間の同一性と差異を明らかにしていく必要があるのではないでしょうか。まぁこれと同じことは、90年代中ごろの悪趣味系文化における、青山正明などの、仕組んだ側の新人類世代の思惑と、仕組まれた側のロス・ジェネ世代の実感との間についても言えることだと思いますが・・。
> 近代文学終焉と二次創作隆盛のワンセットでゼロ年代と70年代後半の批評状況酷似してるという見解↓があるよー。
> http://d.hatena.ne.jp/ending/20090527#p2
ゼロアカですか・・・ふぅ。ゼロアカに関しては、70年代末の状況に似ているというよりも、自分としては、大きなパラダイムの終焉を言い立てることによってメタ・レベルに立とうとする、80年代の特権的な批評の制度を延命させようとするあまりに、分析方法と分析対象との間で大きな齟齬をきたしているように見えることの方が気になりますね。そもそも今の時代、「サブカル/純文学」「大きな物語/小さな物語」なんて対立はまったくリアリティがないと思うんだけど、そういう区別にいまだにこだわってる彼らを見ていると、思わず、いったいモマエらは何と戦ってるのか?と言いたくなってしまいますよ。多分そこで優勝するであろう村上裕一という人は、批評の可能性と不可能性とは何だろうかと、いかにもハスミン的なつぶやきをよく弄してるのですが、その分析の対象とするのが、もっぱらニコマスやサンホラでしかなかったりするわけですからね。まぁ彼の最終選考用の作品は、もっと地道に、機械に心は宿るのかというたぐいの、オーソドックスなサイバーパンク的な問題を考えようとするものらしいですが。確かにこれだと、70年代後半〜80年代前半的な想像力が回帰したと言えますけど(しかしPerfumeにしろ初音ミクにしろ、もともとそういう仕掛けが仕込まれていたわけですから、当然と言えば当然なんですが)。
それから、小熊氏が何で唐突に「現代的不安」の先取りなどと言わざるを得なくなったのかという点に関しては、次の仲俣氏の指摘が参考になるかも知れません。
「『1968』は上巻を見るかぎり、「1968年」の「総括」の書であると同時に、一種の大学論、学生論の試みでもあるように思える。小熊英二は現役の大学教員であり、現代の学生に接する機会も多く、いまの大学や大学生が抱える諸問題にも、当然のことながら自覚的なはずだ」。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090713/p1
小熊氏によると、団塊世代の大学生たちは史上初めて受験戦争と大学のマスプロ化に遭遇して、深い無力感と目標喪失にさいなまれ、しかもこれまた史上初めて、世の大人たちから、無気力で幼稚化して、自己中心的で学力が低下し、しかもすぐに傷ついてノイローゼになるだけの、ひ弱な「現代っ子」だとののしられたのだそうです(132-3、140頁など)。現在大学で教えてる者は、この指摘には思わず二ヤリとせざるを得ないでしょうね。というのは、やたら心に問題を抱えてる学生が多くなって、彼らに対するメンタル管理や生活管理でヘトヘトになっているのが常なわけですから。そうか、この種の学生のひ弱さは、あの時代から始まってずっと続いていたのかと、思わず膝を打ってしまう者が続出した筈。これでは68年の学生叛乱の本質をそういうところ――アイデンティティ・クライシスや生きてる実感の喪失――に求めていってしまうのも、さもありなんという気がします。
ということで、68年の学生叛乱の核心を「現代的不安」に求めるのは、やはり事態の客観的認識であるというよりは、特定の視点や立場の選択だったのでしょうね。自分が読んだ範囲では、次のような議論の展開の仕方(というより論の飛躍)が、そのことをよく表していたと思います。――いわく、叛乱を起こした若者たちは、現存の秩序をただ否定するだけで、そのことを通して何を求めているのかよくわからなかった。そのことを表す言葉を持っていなかったからだ。だからこそ、展望もないまま無闇に反抗するしかなかったのだ(160-7頁)。彼らが自分が求めているものを把握できなかったのは、実はそれが従来の「近代的不幸」とはまったく異なる、アイデンティティ・クライシスという新しい「現代的不幸」だったからである。
この議論展開は一見もっともらしいのですが、しかし、否定という行為を何よりも重視する、アドルノからホロウェイに到る西欧左翼の立場からすれば、まったくおかしいということになります。というのは、何かを否定・拒否するとき、そのことを通して代わりに何を求めているのかはっきりしないのは当たり前なことであり、特にそこに矛盾があるわけではないからです。代わりに何を求めるのかはっきりさせることよりも、とにかく否定してしまうことの方が大切なのでした。というのは、否定によって初めて、自分たちを抑圧するものから解放された開かれた空間が生まれてくるからであり、またそういう空間の中で、時間をかけて自分たちが求めるべきものをじっくり考えていけばいいわけだからです。そもそも否定の行為を続けることによって初めて、自分たちが求めていたものがおぼろげながらも見えてくるのであり、しかも人間が求めるものなど、しょせん、そのようにいつまでもおぼろげで曖昧なままにとどまるものでしかありません。こういう考え方からすれば、全共闘運動の失敗は、先が見えないまま闇雲に否定し続けたこと自体にあったのではなく、そういう否定の行為を通して、自分たちの未来を自由に決めていくことができる開かれた空間を維持・創出することができなかったことの方にあったことになります。多分この点が、小熊氏の68年論をめぐる論の焦点になっていくのでしょうね(自分は単純に、否定の行為を重視する左翼の立場に立つわけではありませんけど)。
hizzz
スマソ。重複してたので再up。
>八〇年代の消費文化のほうが、彼らが創り手として生み出した
>受容理論的な視点を取って、仕掛ける側の全共闘世代の思惑と、仕掛けられた側の新人類世代の実感との間の同一性と差異を明らかにしていく必要
「80年代革命」とも言われるけど、またそゆ橋本治とも違ってそれは文脈が歪められて伝わっていることが多々。
昔書いたけど、正確には70年代と80年代では資本&クリエイト側の重大な産業交代劇があり、大衆消費文化に実質的に多大なる影響を与えている。経済・産業を軽視しがちな左派政治社会思想学の方々はそこを無視しがちで自説を立てて単一的に突っ走るから、社会実証と乖離してくるのでは。
>豊かな文化資本を持ったアッパー・ミドル
後の「おたく」原泉はこの者たちが持っていたものであるというのは、6〜80年代のサブカルチャー継承者の出自を見れば一目瞭然。その文化階層を社会に出だした新人類が、80年代以降のサブカル文化としてシャッフルしてしまったという意味で、「新人類は全共闘の忠実な消費者」といえましょう。「クロスオーバー」「へたうま」出来得るのは元々文化資本が有るものであって、それを真似しても「へたへた」クリエイター症候群の死屍累々。。。
しかしそんな 7〜80年代の仕儀を知ろうともしないロスジェネは、90年代後半、後付けでっちあげられた「おたくカルチャー史」をベースとして全共闘活動を無邪気に称揚する始末。だけどそれは全部、いいとこどり消費観念的リアルでしかない遂行的矛盾だから、「実存」はいつもオミソという訳で…
>事態の客観的認識であるというよりは、特定の視点や立場の選択
特に全共闘ものでは、その「特定の視点や立場の選択」からの説ばかり跋扈して、それぞれの「アイデンティティ物語」ニーズに応えてしまって、ちっとも「事態の客観的認識」にも至らないということが多過ぎ。
>否定という行為を何よりも重視する、アドルノからホロウェイに到る西欧左翼の立場
ふふふ。いやだから、「否定」さえしていれば「アイデンティティ物語」で癒される自己という観念至上的立場こそが、どうしたら夜露しのいで飯を食っていけるかの赤貧人からすれば、まさに「プチブル」そのものなんでわ〜。
>全共闘運動の失敗は、先が見えないまま闇雲に否定し続けたこと自体にあったのではなく、そういう否定の行為を通して、自分たちの未来を自由に決めていくことができる開かれた空間を維持・創出することができなかったこと
いけいけどんどんで膨らんでいった闘争理念での失敗を後付けの観念的物語で補うことで、団塊の世代・全共闘という確固たるブランド・アイデンティティを後世代に植え付けたという点で、彼らの「アイデンティティ物語」は成功し続けるのでしょーね。理念は現実的失敗することで、世俗により崇高な正義を観念付けるアイデンティティ政治。それこそが、ヘーゲル〜コジューヴ歴史観的「政治」とモダンを欠いたプレモダンな「実存」の遂行的矛盾なのでは。その構造ループをきっちり明らかにするのか、落とし所に押し込んで三世代同居な理念継承に奉仕するのか、それ以外なのか、これ以上は通読しなければ判らないことだけど。
…てなところで、時代当事者として考えればキリがないんだけど(確かに68年から現在に渡って傍証を腑別していけば、上下巻になるわ)、予告は未定な次回うp、首を長〜くして期待してますです〜。
ウェルダン穂積
>そのなかで若者たちは、政治的効果など二の次で、機動隊の楯の前で自分たちの「実存」を確かめるべくゲバ棒をふるい、生の実感を味わう解放区をもとめてバリケードを作った。いわばあの叛乱は、「近代」から「現代」への転換点で、「現代的不幸」に初めて集団的に直面した若者たちが、どう反応し、どう失敗したかの先例となったのである。
個的には、この小熊認識で、ほぼ腑に落ちますけどね。。。
2008-06-12 幼稚さと絶望、あるいはそれらの分けがたさについて
前回のエントリーの続きです。
■孤立スパイラル

「書き込み、誰も見てくれない」
http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806110311.html
ネット犯行予告、警察通報を期待
http://mainichi.jp/select/today/news/20080612k0000m040171000c.html
何この孤立スパイラル…。どうしてこんな素直な奴が孤立しなければならないのか。というより素直だから孤立してしまったのか。あるいは、孤立したからこそ、こんな素直な反応しかできなくなるのか。どうも、自殺したた女性アナは前者に、この容疑者は後者のパターンに陥っていたような気がしてならない。ちなみに容疑者が実際に物理的に孤立を強いられていたことは、すでに方々でリンクが張られていた、
人間までカンバン方式
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610
を参照(トヨタですか、やっぱりそうですか…)*1。正直言って、こんな素直な奴にはこっちも素直な共感しかできなくなる。凶悪な犯罪を犯したことに対する度し難い許しがたさと、この素直な共感との間とのギャップ、両立のし難さはもはや誰も埋めることができないのでは? せめて、このギャップに対する適切な耐え忍び方を誰かに教えて貰いたい。
*1:ちなみに、派遣労働の悲惨さに事件の背景を求めつつも、マス・メディアの認識がまだまだであるというのは、http://www.news.janjan.jp/living/0806/0806189981/1.php参照(6/20補足)。
hizzz
ワタクシ的には「おたく」は、たんなる趣味・ライフスタイルの形態のひとつなんですがね。アニメに限らずアートでも音楽でもなんでもいいですが、なんでただ無心に遊ぶ・趣味といった「手ぐさみ」状態でなく、自己存在を賭けてそんなに求道的にしちゃうのでしょうかね。
まえに本田透のことでも書きましたが、ジェンダーやセクシャリティ問題の根底にある「言いたいのは親の悪口」=自己確立価値観(モダン)構築の失敗=幼稚に対して、「萌え」「非モテ」を包摂した「おたく」概念=ポストモダンで「逃走」スルーする手段だった(=東浩紀)ハズが、それを内面を突き詰めること=別の可能性を次々と捨てて目の前の最適合理性に生真面目に飛びつくことによって出てきてしまう、手段=方便を目的化=リア充願望したマズさがなによりもあるから、東ならずとも当のおたく達のこの事件への切断操作となるのでは?
ダメの概念は重要ですが、又そのダメさにしがみ付いてそれの追及&状態の自己正当化でどんどんダメになっていっても、当人的には自己保身というとりあえずの最適合理性である訳ですね。
ならば、むしろ安易な「すでに確固とした社会的産物と化している」という説でアイデンティファイされてきたもの・しようとしたことを見つけるのが、ジェンダーやセクシュアリティといったアイデンティティの呪縛から、「絶望」という超安易な切断操作に向かわない為にも、自己を解き放って複数の方法論に向かうことかと。
2008-06-11 ギブアップ、あるいはどうしようもない生真面目さについて
*一度削除したものを、訂正・加筆のうえ再アップしました。
■二人の生真面目さ

基本的に時事ネタやトピックには反応しないんですが、今回だけはもうギブアップ。2週間前に自殺した、華やかな女性アナの世界を体現していたかのような某フリー・アナの、(死ぬまでは知らなかった)いかにも努力が空回りしがちな、不器用で頑なな生真面目さを知るにつけ、身近なところでいろいろ思い当たる節があったので複雑な感慨にふけっていたところ、また今回の悲惨な事件が起こってしまった。メディアからの断片的な情報では、どうやら容疑者の彼も極めて地味で目立たず、生真面目に見える者だったらしい。また識者によれば、彼のやったことは、生真面目な者の暴発として間々起こる、周りを巻き込む「間接自殺」ということだそうだ。
2008-05-01 ちょっと借りマス
■ミクシ日記より

友人からミクシ日記にコメントしてくれと言われたんだけど、いつもの癖で泥沼モードになってしまったので、ここを借りマス。
元の日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=789308607&owner_id=15165943
日記の内容は一言で言えば、「クリエイティヴ・イデオロギー」という恐ろしい言葉を知ることによって、自分が蓮実重彦(ハスミン)流のハイ・アート志向、卓越性志向にどう騙されていかたかが初めて分かったという感じかナ。ちなみに「クリエイティヴ・イデオロギー」というのは、現代では多くの若者がクリエイティヴな表現欲求や自己実現欲求に駆られて、アート系の専門学校や大学に言って種々のアーティストを目指すようになったんだけど、結局はその殆どがモノにならないから、ただ底辺の不安定な非正規労働に追いやられ、バカを見るだけになるという事態を表した言葉のことデス。つまりこの言葉は、ポスト・フォーディズム体制下での資本が、若者たちのクリエイティヴ信仰を煽って言わば騙すことによって、体制維持に不可欠な、使い捨てられるだけの不安的な非正規労働者(プレカリアート)を絶えず新たに供給し続けているというカラクリを指しているわけですネ。
zyosyu
なるほど、多少難解でしたがお話は、痒いところに手が届いたという気もして、わかったような気がします。ただ、自分は選民意識というのは、若かりしころはどうでアレ今は持っていませんよ。ただ、
クリエイティヴ。イデオロギーという言葉を知って自分の20年ぐらいが(個人的な話になるので今度mixyの日記に書きたいんですが)、根こそぎわかったというか、痛みは伴いましたが、爽快な気分に捉えられたので、感動したということもあります。まあ、それも自分の勉強不足ということもあるんでしょうけど。
ashibumi68
そうですね。選民意識なんてあまり大した問題ではないのかも。選民意識というのは言い換えれば「ナンバーワン幻想」と言い換えられるけど、こんなものは揉まれればすぐについえ去ってしまうのでしょう。それに対して、“自分には他の誰もが持っていない独自なものを持っている”という「オンリーワン幻想」や、“自分の中には素晴らしいダイヤモンドの原石が眠っていて、それを発見しさえすれば全てうまくいく”という「自己実現」幻想の方が執拗に残り続け、世間で「クリエイティヴ・イデオロギー」が強く叩かれるのは、むしろこちらの方を肥大化させると受け取られたからですよネ。「ハスミン的な選民批評」と区別された「東京モード学園的イデオロギー」というものの正体は、むしろこのことだったわけですナ。もちろんここには学歴や階級・出自の問題というものがはっきりと顔を出していて、現在、(大卒的な)ハスミン的選民意識ではなく、むしろそれこそ「東京モード学園」的な(つまり専門学校的な)オンリーワン幻想、自己実現幻想の方を煽られたため、結果として否応なく底辺へと追いやられてしまった者たち(ゼロ年代の「アート難民」)の怒りは本当に深くなっていると思いマス。まったくシャレにならない(つまり、まったく「溜め」というものが存在しない)「貧困」の問題と日々格闘せざるを得なくなったわけですからネ。それと比べれば、ハスミン的なものが解き放った自意識のゲームなんて、大卒中産階級たちのカルトの中でのことでしかなかったから、しょせん…(以下略。
hizzz
80年代感性「へたうま」アートの出現で、「クリエイテター」だの「アーティスト」だのを自称する人が多くなったんですが、その人たちは「作品」に自己を投企するんじゃあなくって、自己の感性そのまんまがアートになると勘違いした人々だったんすね。そもそも「へたうま」は、素地に構築した「うま」の部分の下支えがあった過程でのハナシだから、「うま」を構築しないまま「へたうま」感性をきどっても、それは「へたへた」でよくて、「1発芸」に終わる死屍累々ですわ。>マルチカルチュラリズム
大体、68年革命だかなんだか知りませんが、なんで21世紀になって反戦デモのビジュアライズ=社会派アート?にジョン・レノンや岡本太郎なんすか?それのドコがクリエイティヴなんだか。。。ゼロ年代の「アート難民」<悪い円環
業界実務屋としていわせてもらえば、「四の五のいう前に300でも400でも、作品をつくってこい!」そのくらいやれば、自分が何者かようやくわかるのです。土佐信道がいうようにコンセプト実現には、周到な造形構築と柔軟な生身が必要ですが、<個>になりえないまま内輪の論理でつるんで「サロン化したらオタク文化は廃退する」@ボーメなのは過去の「芸術運動」をみれば一目瞭然で、「立派な芸術論語るようになったら作家はお終い」@合田誠なんです。
ashibumi68
>hizzzさん
どうもです。
>業界実務屋としていわせてもらえば、「四の五のいう前に300でも400でも、作品をつくってこい!」そのくらいやれば、自分が何者かようやくわかるのです。
これは普遍的真理だと思いますよ。問題はそういうディシプリン=地道な作業をどこでやるかということだと思うんですが…。たとえ素人や趣味の世界でも、そういう努力をしない者は相手にされなくなるわけですから。要は自分がそういう努力をしやすい世界を自由に選べるような環境の創出が必要ということなんでしょうね(言わば合理的機能分化と言うべきか。プロ志向の者はプロの世界で思い切り頑張ることができ、プロの世界の激しい競争の世界に合わない者も、たとえそこから降りても引き続き表現し続けられるような)。
> <個>になりえないまま内輪の論理でつるんで「サロン化したらオタク文化は廃退する」@ボーメなのは過去の「芸術運動」をみれば一目瞭然で、「立派な芸術論語るようになったら作家はお終い」@合田誠なんです。
まさにここが自分のこだわりですネ。<集団化=個を抑圧する馴れ合い化/<個>の析出=卓越化、商業的な通用、成功、有名化>という構図を逃れるようなノリをはっきりと見たくてたまらないんですよねー。もちろんそれはないものねだりでしかないのでしょうけど、「過去の芸術運動」の歴史って、そういうないものねだりをし続けて失敗・挫折し続けた歴史だったと思いますヨ。自分が「立派な芸術論」に期待するのは、その種の失敗・挫折の分析とその蓄積化以外にはあり得ないのですが、なかなかそういうものがないから困ってマス(20世紀の芸術運動に関しては、ようやくその歴史を忠実になぞる仕事が出始めた段階みたいですし)。
それからこれは軽く聞き流してもらいたいんですが、この会田誠の言葉って、自分からすればそれこそ「立派な芸術家」の言葉のように聞こえてしまうんですよねー。昔彼の個展を見に行ったとき、比較的大きな彼の作品の全面を、会田が教えていた専門学校生たちが描いた絵やイラストが覆っていたのだけれど、それらがあまりにも下手で稚拙だったので、すごく驚いたことがありました。正直、すごく嫌な感じがしましたよ。ちゃんとした美術教育を受けてテクのあるプロの「へたうま」アーティストが、テクがなくてただの「へた」な奴らを使って、自らの「へたうま」性を権威づけているだけなんじゃないのか、こんなのはインスタレーションやコラボではなくただの搾取に過ぎないのではとか何とか、傍らにいた美大出の知り合いにまくしたてた記憶がありマス。当然通じてないようでしたが…。まあこんな感想も、あくまで外側からの人間の印象論に過ぎないのでしょうけど…。
>なんで21世紀になって反戦デモのビジュアライズ=社会派アート?にジョン・レノンや岡本太郎なんすか?
これは納得。社会派アートはいろいろあるからともかくとして(ドイツのコンセプチャルなパブリック・アートは、アートとしてはどうか知らないけど、自分としてはかなり面白いと思いますが)、こういうこと言うと怒る人もいるけど、ジョン・レノンの曲や詞は確かにいいけど、その思想や生き方の方はなんか持ち上げられ過ぎのような気がするナー。また岡本太郎の方は、確かに言ってることは刺激的で大変面白いだけど、正直作品の方は、素人目でも…(以下略。
いずれにせよ、「芸術運動」に関しては、イギリスのモダン・デザインなど、商業志向や反商業志向の区別を問わず、これから色々勉強したいと思ってます(多分老後の楽しみにしかならないのでしょうが)。
hizzz
ディシプリン<おお、まさにそうです。映画監督の野貴雄は「あらゆる職業の基本は
「ゲロとウンコを掃除すること」である。」と。小説が「私小説」になるのと同じく、<個>にむかわんと<私>にいってしまう、「私アート」に流れてしまう「主体取得の失敗」という明治以来の傾向は関係してるでしょうね。
「立派な芸術論語るようになったら作家はお終い」というのは、作家ならなによりも作品で語れということで、エクスキューズが必要な作品は、その分だけ未熟だということです。「社会派アート」や「パブリックアート」が、アート全体からみると鬼っ子であるところは、そのように作品として自律してないところ=作品力の弱さです。逆にそうだからこそ、使いやすい・語り易いという面はあるやもしれません。
ジョン・レノンや岡本太郎個人の作家性評価ということ以上に、21世紀のアート&クリエイティヴは、その2人を超えるものを生み出していないと自分たちで白旗上げてるよーなものだと。>「社会派アート」や「パブリックアート」
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↑映画監督の野貴雄>中野貴雄 です。
>単なる「労働運動」より守備範囲が広い「生存運動」
欧米と違って「社民」的な実証実務から離れて、許容しがたい現実改編よりあるべき理想に各自耽溺するという解釈文芸に邁進した「学生運動」以降、もはやナニをどーいおうが所詮「学歴分断社会」の象徴でしかない高学歴都市サブカル生活=資本余剰付加価値的関係関連性を礎とした「文化左翼」が、ホントに広く社会多様性の琴線に触れる為の残されたツールが、メンヘルを含んだ実存問題しか残ってなかったといっても過言はないのではないでしょーか。
しかし「非コミュ/非知」の味方をする「文化左翼」=高学歴知識/文化資本保持者がその社会有用を考え切磋琢磨せずに、知をひけらかし社会批判をしておきながらさっさと自らを非知主義者的立場に於いて素人的「非コミュ」に籠って既知責任解除することは、知識階級のダブスダという自己疑満では。そこで、中途半端な知だけでは数多の現実に対応出来得ず複雑骨折してしまった知的メンヘル増産されるのでしょうが、あぁ、やっかい。「大学のマスプロ化(〜高度成長による見せかけの均一文化)」そこに小熊本がどれだけメスをいれているかは不明ですが、その「知の在り方」というのは、文化資本知者自身に戻され揉まれるべきことでしょう。
その意味においても、68年学生運動〜文化左翼も80年以降サブカル(大学解体〜カルスタ学問再編)隆盛もF労も、個々の主観的意義意図断片ではなく全体的時代状況マトリクスの中で自らの「失敗」を後世にフィードバックさせることこそが重要不可欠な仕事でありましょう。そうした総括という知の情報伝播ない為に、数多の善意の活動家が同じ失敗を繰り返す島宇宙ループで実存問題がPCでなんとかそこそこクリアできたように見えるのは、それこそ高度経済成長で社会資本〜家族資本に余裕があったからの食うには困らない「良い時代」消費の放蕩ハナシならではでしょう。
その例にたがわず、政策提言参画するNPO・NGOといった自律的組織を持たず、重層的スティークホールダー間の利害調整やフィードバック機能を欠いた日本の素朴な単一的オルタ・反グロ運動は、自分たちの主張行動に社会的責任を追わせられないまま散逸する、均一日本の「<癒し>のアマチュアリズム」に現状とどまっていますよね。
いまこそ秩序回復として55年体制的イデオローグ支配を狙うゴリゴリ左翼でも、政治的実存としての「生存運動」当事者主義に突き進むサブカル左翼でも、保守主義を「飼いならす」とする00年代的保守合同ノリでも、モダニティの根幹である「個人」自律をすっ飛ばして「抵抗言説」のみで同調関係性連帯を強いるダケなら、自分たちと他の形態をとっている数多の多様な「民衆」を見失っていることだし、結局は二項対立封建形態以外の創造性をなんら見出していないのではないでしょうか。
>承認、疎外という論点は、民衆が、政治的〈主体〉として自分たちに何ができるかを考えるための舞台を最初から除外してしまう
これは常々ワタクシいってきたど〜。「社会的なもの/政治的なもの」ったって、これも結局はその基になる「個人」自律がなされているという大前提がなきゃ、絵にかいたモチ。
日本で「社民」(現・社民党ではナイ)的実証実務が軽視され続けてきた、とゆーか、トライ&エラーの地味な現実的作業を遠ざける為に持ち出される実存的政治的派手な言説=ワンプレーズ・ポリティクスが、限りなくメンヘル的当事者主義島宇宙を形成してワクをより強化し塀を高くして現実バナレして閉塞してまう解釈文芸運動ならではの大要因が、そこにありはしませんか。