2011-02-23
テレビ東京「カンブリア宮殿」―『40数年前、“匠の手”上山脳外科医(当時17歳)の進路を決めさせた1冊の本』
人生長生きしていると、思わぬことに遭遇するものです(本年77歳)。でも、いろんなことに驚き楽しんできた私が、こんなにびっくりしたことはない。瞬間固まってしまった。そして、じわりと喜びが走り、広がっていくのを快く感じてました。みなさんはすでにご存知かと思いますが、いま日本人の死因でがん、心疾患に次いで3番目をしめる「脳卒中」。現在150万人以上の患者がいるとされています。その中でも、深刻な病を抱えた、手術不可能と宣告された患者が、1人の医師を頼って集まるという。
上山博康・脳神経外科医。旭川赤十字病院・脳卒中センター長。
年間500件以上の手術をこなす。平均睡眠時間4時間の生活を30年続けられているとか。海外出張して手術されることもあります。患者は彼を“最后の砦”といい、人々は彼のウデを“匠の手”と呼びます。
突然、TV局から電話がかかってきました。
「高名な脳外科医・上山博康さんは、玉井さんの書かれた論文を40数年前の夏に読まれて医者になる決心をされたそうです(当時氏は17歳)。そのとき掲載された雑誌を番組『カンブリア宮殿』(テレビ東京系列/村上龍・小池栄子司会。2月24日(木)22:00−22:54放送)で撮影させてほしい」との依頼でした。即座にOKしたのは当然ですが、とたんにおしりがむずむずしました。「光栄なことです」。
というより、1年半かけて書いたのは、交通事故で惨死した母親(当時74歳)の36日間の昏睡状態(植物状態)ののちボロ布のように死んでいった母親の最期。病院で看取ったときの、早朝の光を想い出していました。
当時28歳の私は売れない“もの書き”をしながら、無頼の生活をしていました。そんな私を母は死の鉄槌をもって戒めました。よほどこたえたのか真人間になって、36日間の病室の対話の中で、「お母ちゃん! このカタキ必ずボクが取ってやる!」と母に約束したように、毎日毎日必死に病院をまわり取材しました。母がいた病院の主治医と話していると、恐るべきことを聞きました。「日本には年間80万人ほどの交通事故の死傷者がいるのに、脳外科医は200人しかいません。それも大学病院と大病院に偏在しています」。関西ではNo.1の名声高い、大阪大学医学部出身の医者とはいえ、先生の方が悔しい思いをされていたことでしょう。母は危篤といわれながら全く死ぬ気配がなく、医師はX線写真をもって母校の教授に意見を求めてくれました。その教授も脳外科医ではなく頭部外傷の手術の経験はゼロでした。私たち家族は手術に頼みの綱をかけました。主治医は教授に聞いてきたとおり未経験のまま手術をしてくれました。手術後の母の両耳の上3〜5センチ上にゴム管が1本ずつ出ていました。手術後すぐ高熱が出て、3日後、動物のようなうなり声をあげて死んでいきました(「亡くなる」という表現では違和感があります)。
それから1年間、病院で頭部外傷の勉強と取材。自賠責保険の取材に没頭。当時、交通事故の負傷者には30万円までの治療費が保障されていたので、「マチ医者は30万円を使いきるまで治療し、あとは大病院、国立病院にたらい廻しされる」という噂がもっぱらでした。私は、東大の医師でアメリカで脳外科の修業をされ日本での事実上の脳外科医第1号と呼ばれた、東大脳神経外科の佐野圭司教授(当時)の話を聞くと同時に、手術室で白衣を着て取材させていただきました。なぜ交通犠牲者は救われていないか、わかってきたような気分になった頃、近藤駿四郎医博(東大脳外科講師を経て東京労災病院長。故人)に論文を読んでもらいました。近藤先生は一読するなり、こう言われた。「玉井君、こんな表通りだけ取材していては現実は見えないよ」と一刀両断。力を奮い起こして、また半年近く取材して書き上げたのが、“匠の手”上山先生の目にとまった、拙稿「交通犠牲者は救われていない―頭部外傷者への対策を急げ―」(朝日ジャーナル1965、Vol.7 No.29 7.18)だったのです。
その後、40数年、私は上山博康先生のことは知らず、TV局の電話で知りました。無性に嬉しかった。光栄だとも思いました。私の論文の骨子は、「交通事故死の7割はアタマをやられている。だが、そのうち3割は、脳外科医の不足や、救急体制の不備のために“犬死に”している。この“犬死に”をなくし、同時に後遺症の悩みを解決するために脳外科医を増やせ」。
これで私は交通評論家第1号(朝日新聞)と呼ばれるようになりました。後日、取材ノートを含め、弘文堂から「交通犠牲者」(絶版)として上梓、マスコミを通じ大々的に報道されました。
今週2月24日の「カンブリア宮殿」で、上村先生とTVを通して初対面する私は、今すごく興奮しています。ワクワクしています。興味ある方、どうぞご一緒にTVを見ましょう。
※このブログを書いた後、上山博康先生に近影のお写真をを拝借すべく、お願いしましたところ、ご丁重なご返事とお写真がすぐ送られてきました。
<上山先生のコメント> 私の人生を決めた記事を書いた玉井先生とこのような形で遭遇できたのも、何かの縁なのでしょうか? ブログに掲載していただけること、光栄に思います。早速、写真を添付します。
上山博康
<玉井義臣のお礼のことば> 早速、お写真をお送りいただき、TVより先にご対面となりました。とてもうれしく光栄に存じます。ますます「カンブリア宮殿」の『北の医療に警告! 北の大地の天才脳外科医』を観るのが楽しみになりました。あしなが育英会の学生、あしながさん、関係者のみなさんに最後の瞬間まで宣伝させていただきます。「感想文」も学生から募るつもりです。どうもありがとうございました。
2011-01-24
玉井会長出演 NHK番組「こころの時代」大反響☆
11年1月9日、あしなが運動40年の軌跡と今後の展望をまとめたNHK番組「こころの時代」が、教育テレビで放映されました。「“愛の連鎖”を築く」という題であしなが育英会玉井会長が出演。番組ホームページでは「『幸福の条件の一つは“人の愛”が見えること』『失われた愛は、愛でしか埋められない』と取り組みを続ける玉井さんに『無償の愛をむすぶ活動』の神髄を聞く」と紹介しました。
「魂のこもった学生寮『あしながウガンダ心塾』をつくりたい。ウガンダの教育と日本の『心塾教育』を混ぜ、アフリカの遺児たちが最高水準の英語力をつけて世界の大学へ進学し、母国に戻り母国を建設する。お金を稼ぐだけでなく、世のため人のためという心塾の教えを体得してほしい。教育によって希望につながり、希望が他者を考えられる優しさ、愛というものに変わる。人間は人間がもつ優しさ・愛情というものに気づき、それを行動に移すことが大切。それが私が考える究極の哲学」と、玉井会長は番組を締めくくっています。
放送後、お問い合わせや皆様からご意見をたくさんいただきました。どこかの高校奨学生の楽しいブログを偶然見つけましたので、ご一緒に読んでください。<画像:神戸レインボーハウスで収録時の玉井会長(右)>
====今日(2010.1.9)の朝5:00から6:00、NHK教育テレビで放送された(´;ω;`)
【 "愛の連鎖"を築く 】玉井義臣さんが語った。玉井さんとは、あしなが育英会の会長*お偉いさんっ!笑 テレビを見るまで顔も知らなかったしこの人の家庭環境も知らなかった。もちろん逢った事すらない。名前だけ知ってただけ。でも今回テレビを見て良かったと想う。
玉井さんの自分史なんて貴重だと想うし( ^^ )感動した。そして大好きなあしながについて色んな事知った(´`)あしながにお世話になって2年が経つ。自分は進学しないから今年でつどい(つどいは「奨学生のつどい」のこと)は終わり。つどいにず〜っと行けたらいいのになぁって想う(笑)あしながの高校があったら即転校するってくらい大好き(笑)一昨年のつどいでは自分史は言えなかった。言いたくなかった。でも去年、改めて集いに言って初めて自分史を班員に喋った。聞いて貰いたかった。班員と一緒に居た時間はものすごく短いのにその短期間の中で生まれる「信頼」と「愛情」はすごく大きいもの。一昨年から去年にかけて心境の変化があったかどうかはわからない。けど皆に自分を知って欲しかった。
玉井さんはテレビで自分史を語っていた。そしてあしながについて。あしながって凄いよね。こんなにも人の心を変えれるんだもん。本当は高校入学して奨学金借りてつどいに行くのが嫌だった。自分は2歳の時にお父さんを亡くしてるし奨学金を借りないといけない事も分かってた。経済的余裕もないし兄弟も多い方だしお母さんだけの稼ぎだけでは無理だって分かってたけどつどいには行きたくなかった。はっきり言って自分は人見知りするし苦笑いしか出来ない。愛想も良くない。なんでお父さんがいないだけでそんなつどいなんか行かなきゃいけないの??ってずっと想ってた。その時自分は馬鹿だからお父さんを恨んだんだ。心ん中で毎日毎日なんで自分にはお父さんがいないの??って問い掛けてた。自分では答えを出せなかった。お父さんがいないのはお父さんのせいでもお母さんのせいでもなかったんだよね。
お父さん恨んでごめんなさい。でもね、今はつどいに行って良かったと想うよ。たくさんの仲間が出来た。自分と同じ悩みを持った人達と出会えた。自分の気持ちをわかってくれる人達がいた。それは全部お父さんのおかげです。ありがとうありがとう。そして玉井さんもありがとうございます。あしながさんもありがとうございます。
いま自分が学校に行けてるのはあしながさんのおかげ。あしなが育英会を作ってくれた玉井さんのおかげ。自分は恵まれていないと想ってた。最近気付いた。
自分めっちゃ恵まれてる!(笑)====
この高校奨学生のブログは、あしなが運動の「つどい」で「自分史」を話し合うことが、見事に彼女の性格を楽しくする教育効果があることを示しています。「彼女は、いろんな前向きな機会を与えてあげればぐんぐん伸びるいい子で高校で止まるのはもったいない」、というのが編集室仲間の大方の意見でした。
2011-01-17
機関紙「NEWあしながファミリー」第115-116号・共生(コラム)☆“愛の連鎖”僕の自分史、観て下さい☆
NHKに僕「玉井義臣」の自伝というか「運動の軌跡」を、数年間に亘って克明に追っかけてくれたものを、一時間のドキュメンタリーにしていただいた。
新年(2011)1月9日(日)午前5時から6時までの全国放送だ(再放送あり)。朝の早くから見る人もないと思ったら、何回か出していただいたNHKラジオ深夜便(たしか午前4時から5時迄)も意外に多くの方々に聞いていただいており驚いたものだ。
しかし、今度の番組こころの時代〜宗教・人生〜「“愛の連鎖”を築く」は、実はかくいう僕が一番心待ちにしている。僕は職人の子だから家庭には勉強する雰囲気などなく、大阪府池田市の猪名川と五月山の間に店があり、夏は早朝、薄暗いうちにつけ針(前夜大きなみみずを針につけ一夜待つ)を糸をたぐって上げる。うなぎやなまずがかかる。朝めしを食うと、ふんどし一丁になってその川で泳ぐ。昼めしを食うと昼寝をしてまた川で泳ぐ。3時頃になると丘にあがり、今度は山の竹薮でみみず掘り、蝉の幼虫もとる。
中学の終わり、十一人きょうだいの一番末の僕に、上の兄が学歴がないと勤めててもみじめだ。お前は高校へ行かせてやる、と言った。こちらがびっくりした。でも運好く“共通テスト”で公立池田高校に入った。授業など何も分からん。英語に主語述語があるのも知らず、高校へ行くと、東大出の若い先生が僕を立たせて一時間攻めたてる。旧制中学はさすが違うわいと覚悟をきめて机の前に座り続けた。
おかげで少しずつ各科目がわかるようになったが、国立一期校(旧帝大)は落ち、国立二期校(旧専門学校系)の滋賀大学経済学部に入る。落差が激しくやる気を失い、無頼の徒に。
10年ほど経って食うや食わずの物書きをしている時、母の交通事故死で鉄槌を下され、猛勉強して交通評論家に、遺児救済の社会運動家へ。そして今、最後の仕事として世界最貧アフリカ遺児の進学をあしながメソッドで挑戦する。
50年近い歴史は僕も失念している。ご関心ある方、僕と一緒に観て下さい。歴史の先読みも面白いですよ。(2010・12・26記)<画像:初めてのウガンダ訪問では、盛大な会長コールで寺子屋生徒に迎えられた=10/5>
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2010-12-03
機関紙「NEWあしながファミリー」第114号・共生(コラム)☆“元祖”あしながさん 逝去☆
その人の毎月定期便のように届く現金書留を心ひそかに待つ自分に気付く。
「菜種梅雨もやっとあがり六日ぶりに青空がみられるようになりました。さていよいよゴールデンウィークも始まり楽しい行楽地へと出かけるよい時候となりました。扨(さて)五千円同封しました。物価高の折増額したいと思い乍らも出来ず僅少で何のお役にも立ちませんでしょうが、よろしくお願ひいたします」
どんな方だろう。東京本所局の消印があるだけで、匿名だ。文章から読みとれる漢字、仮名づかい、表現の繊細さからお見受けするとかなり老齢の教養豊かな老婦人とみた。どんなおばあちゃまだろう。僕はいつもそのご婦人のことをメルヘンの世界で空想して楽しんでいた。
ある日、一本の電話を偶然僕が取った。本所消印のご婦人からだ。簡単な問い合わせだった。僕は何度もお礼を述べ、せめて子どもたちの作文集をお送りしたいというと、お名前も笑って答えられなかった。想っていたとおり、品のいい、教養あふれる、優しいオバアチャマだった。老婦人は一言、「毎月、養母の墓参りに行き、近くの郵便局から送るんですよ」とさりげない。「陰徳」という言葉が僕の心に浮かんだが、僕は感動で言葉にならなかった。
1979年春、会の台所は火の車で、奨学金が向こう半年分しかなくなったとき、僕はふと本所のおばあちゃまと合わせて、“夢のある奨学金制度”ができないかと思った。どこかの誰かがどこかの誰かにそっと援助し、お金より“くじけないように頑張って”というエールを送る奨学金で、寄付者と遺児の間の心の交流をはかる制度はないものか。そして、あしながさん奨学金制度が生まれた。同情でなく遺児への優しい励ましとして好評で、たくさんの“あしながさん”が応募してくださった。
2010年7月9日、“元祖”あしながさんこと、上田都美さんが亡くなられた(享年88)。一生独身、歯科医を続けられ、遺産はすべてあしなが育英会に遺贈された。育英会の恩人に深甚なる謝意をこめてご冥福を祈ります。長い間、ありがとうございました。
小説「あしながおじさん」の100回目の誕生日が2012年にやってくる。私たちが“発明”した「あしなが制度」を世界に拡げたい。(2010・11・5記)
<画像:68年以来、毎月ご寄付をくださった上田都美さん=04年2月13日撮影> ※本会機関紙を是非、定期購読ください。お申し込みは、こちらから
2010-08-29
南アフリカ駐日大使と会談 〜マンデラ元大統領との面会を依頼〜
南アフリカ共和国大使館(東京都千代田区)で、2010年8月26日、ガート・グロブラ特命全権大使と「アフリカの遺児を世界の大学に進学させ、クリーンなリーダーを育成しよう」という『あしながアフリカ100年構想』について意見交換をしました。
これは、7月27日に都内で行なわれた玉井義臣著「だから、あしなが運動は素敵だ」の出版を祝う会に出席したガート・グロブラ特命全権大使から8月13日にお礼状をいただいていたこともあり、玉井の南アフリカなどの訪問(10年10月1日〜22日=予定)時にネルソン・マンデラ元大統領との面会を大使館を通じて正式にお願いするためでもありました。
ガート・グロブラ大使は、「アフリカには、あしなが育英会のような団体が欠かせません。日本にある35か国のアフリカ諸国の大使たちが会長のアフリカ100年構想を必ず歓迎するでしょう」とコメント。また、「すべての国はあしながの活動を支援し、南アフリカ大使館としてもどんなことでも支援、協力していきたいと思っています。来年7月18日のネルソン・マンデラの日には、あしなが育英会と共同で何かやりたいとも思っています。マンデラは、2回東京に来ています。初めは91年の南アフリカ解放後、その後、大統領になって来日しました。マンデラと玉井会長は、同じ価値観、同じ目標、同じ視点を持っていますので、有意義な話し合いができるのではないかと思います。玉井会長の南ア訪問に関しては、今後、事務方と密に話しして、マンデラとマンデラ以外の方との面会のアドバイスもできると思います。マンデラは、常にヨハネスブルグにいるわけではなく、自分の故郷にいたり、妻の故郷のモザンビークにいたりします。『ネルソン・マンデラ財団』や『マンデラ子ども基金』などは、子どもと遺児を中心に活動している団体で、この2団体は南アでは非常に高く評価されており、あしなが育英会と今後良いパートナーになると思います。とにかく、ぜひマンデラに会い、2人で今後の世界のことを話し合ってほしいと思います」と語りました。
なお、2010年8月27日から藤村修外務副大臣(本会副会長休職中)が南アフリカなどを訪問されるが、「玉井・マンデラ会談」の実現に向け、南ア政府要人や然るべき方々に「マンデラ面会依頼状」を手渡す予定にしています。








