『耳をすませば』について(11)



 前回は、場所とアイデンティティとが密接な関係を持つということから、風景の問題を提起した。「私が何者であるのか」ということは、「私がどこにいるのか」ということと密接な関係を持っているのである。現代の問題は、それゆえ、場所の喪失によって引き起こされた自己の喪失だと言えるだろう。自分がどこにいるのかが分からなくなった結果、自分が誰なのかも分からなくなったのである。


 こうした点から言えば、僕がしばしばまとめて名前を上げる80年代の三つの作品、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『トップをねらえ!』、『メガゾーン23』もまた、場所とアイデンティティの問題を提起していると言えるだろう。


 『メガゾーン23』で興味深いのは、人工的に作られた80年代の東京の街が宇宙空間を漂っているという設定である。つまり、本来あるべき時間と場所から切り離されて、80年代の東京が、ひとつの宇宙を形成しているわけである。同様のことは、『ビューティフル・ドリーマー』でも、孤島化した友引町という形で示されている。そこでは、場所の永遠化が図られているわけである。


 ウラシマ効果の元にある『浦島太郎』の物語においても、太郎にとって最もショッキングだったのは、村の風景が変わっていた、というところにあるのではないだろうか? つまり、浦島太郎は、自分の帰るべき場所を喪失してしまったわけである。このように考えれば、『トップをねらえ!』のラストシーンに見出されるものは、逆に、まったく期待していなかった故郷の場所がまだ存在していたことの驚きであるだろう。


 帰る場所と風景の問題に関して、重要な問題提起をした作品は、やはり、『新世紀エヴァンゲリオン』であるだろう。その劇場版のラストシーンは、ある意味、この作品に決定的な影響を与えたはずの富野由悠季のいくつかの作品に対する反論であるだろう。つまり、『無敵超人ザンボット3』や『機動戦士ガンダム』のラストシーンにおける帰る場所の発見に対する反論である。


 『エヴァンゲリオン』のラストシーン、浜辺に横たわるシンジとアスカというラストシーンは、『ザンボット3』のラストシーンの風景によく似ている。『ザンボット3』のラストシーンでは、主人公の勝平は、宇宙空間での激闘を終えたあと、地球にぼろぼろになって戻ってきて、幼なじみの女の子の膝の上に横たわる。この光景は、『エヴァ』では、むしろ、人類補完計画の発動の後、綾波レイと共に横たわるシンジという全体化された世界の中で実現しているだろう。


 ここが『エヴァ』における捻りの点である。『ザンボット3』や『ガンダム』においては、主人公たちは旅立ち、故郷に戻ってくる(『ガンダム』の場合、主人公アムロの故郷である宇宙コロニーは失われてしまったが、ホワイトベースという場所が彼の第二の故郷になったわけである)。しかし、『エヴァ』の場合、主人公のシンジは、そもそも、故郷喪失者であり、人類補完計画の発動によって、自分の故郷を再発見するわけだが、その場所から、最後に彼は、再び旅立つのである。その点で、シンジとアスカが戻ってきた場所というのは、元の場所であるはずなのだが、その風景はまったく一変してしまっているのである。


 おそらく、こうした観点から、『機動戦士Zガンダム』のラストシーンについても評価すべきなのだろう。つまり、帰る場所を失ってしまったカミーユか(というよりも、「帰ってこなかったカミーユ」と言ったほうが正確であるが)、今回の劇場版作品で変更されたような、帰る場所を見出したカミーユか、という問題設定である。おそらく、この点は、富野由悠季の中で、結論の定まらない問題なのだろう。『逆襲のシャア』のラストシーンにおけるように、地球を人が住めない場所にしようとするシャアとそれを阻止しようとするアムロという対立は、どちらか一方に集約させることはほとんど不可能であり、その緊張状態が維持しつづけるところに富野作品の力と魅力があるのだろう。


 『エヴァンゲリオン』という作品を帰郷や帰宅という観点から見ていくことは非常に興味深いことである。『エヴァ』という作品は、この「帰る」という主題に満ち満ちている。故郷喪失者であるシンジの問題とは、まさに、「いったい、自分の帰るべき場所はどこにあるのか?」というものだろう。ミサトの家(擬似的な家庭)を出て、環状線にずっと乗り続けるというエピソードがあったが、そんなふうに、問題は、いったいどこの駅で降りればいいのか、ということなのである。


 この点で、最初に導き出せる結論とは、TV版最終話の結論、つまり、「僕はここにいていいんだ!」という再発見の身振りであるだろう。ここでの発見というのは、今まで自分の故郷や家だとは思っていなかったような場所が自分の本当の故郷や家だったということを再発見するというものである。これこそが、多くの萌え系作品において提示されている価値観である。『まほらば』や『極上生徒会』などの作品で提示されているのは、間違いなく、互酬性の価値観、つまり、(市場に依らない)助け合いの精神である。資本主義の波が市場化したものを再度取り戻そうというわけである。


 しかし、だからこそ、今日のサブカルチャーにおいて、セカイ系のような極端な選択が出現する余地も存在するわけである。この点において、今日の社会イメージとして最も極端なものは、バトル・ロワイアルという形式だろう。『舞-HiME』や『ローゼンメイデン』のような作品が示しているのは、擬似家族によって営まれる互酬的生活と「勝つか負けるか」という競争社会との間の揺れである。


 バトル・ロワイアルという形式の根本的な問題とは、利己的行為と利他的行為とが共に成立しないところにある。つまり、「私も君も、生き残るために、共に闘おう」と言うことができないわけである。自分の利益は他人の不利益となり、他人の利益は自分の不利益となる。このような状況の中で、露悪的になること(「人間はそもそも利己的なのだから、利己的に振る舞って何が悪い」とあえて言う立場)なく、「正義」を貫くことは可能なのだろうか、という問いが最近のサブカルチャーにおいては特に問題になっているのである。


 こうした問いを、最近のサブカルチャー作品が真剣に考えていることの証左は、安易な解決策を提出することなく、ぎりぎりのところまで決断をしないというモラトリアム状態が、作品の中で、好んで描かれているところにある。例えば、自らの生活世界を失うことを恐れて、魔法少女をやめることができないでいる27歳の魔法少女を描いた『奥さまは魔法少女』などが、まさに、そのような作品である。この作品に終始漂う雰囲気とは、「こんな生活が長く続くわけない」というものである。「いつか、この生活は、終わりを告げる。しかし、そのぎりぎりのところまでは、この生活を続けよう」と。


 この雰囲気は、まさに、頽廃(デカダンス)と呼ぶべきだが、そうした頽廃の雰囲気は、『ローゼンメイデン』という作品から、濃厚に嗅ぎ取ることのできるものである。つまり、そこにあるのは、死の臭いであるわけだが、そうした死の形象としては、人形というモチーフは非常に似つかわしいものだろう。


 加えて、そこに、ひきこもりという現代的なモチーフも入りこんでいるわけだが、ひきこもりが日々聞いているものとは、おそらく、崩壊の足音であるだろう。だが、いったい、どこに脱出口があるのか、ということは、まったく不明確である。『ローゼンメイデン・トロイメント』で、蒼星石というキャラクターが、時計の針を進めようとして、自滅してしまったエピソードは極めて象徴的である。蒼星石は、この崩壊の足音を聞きつづけることに耐えられなかったのであり、死の臭いを嗅ぎつづけるよりは自ら死を求めたほうがましだ、と考えたわけである。


 この点が、まさに、行き詰まりである。勝負に負けるか、勝負をすることを延期し続けるか、その二つしか選択肢がないわけである。もちろん、これは、誤った選択肢であるだろう。しかし、それでは、他にどのような選択肢があるのか、と言えば、その点が不明確なわけである。その点で、闘いを避け続ける真紅の立場は曖昧であるが、しかし、彼女は、単に、勝負を延期しているわけではないだろう。そこで探し求められているのは、第三の選択肢なわけである。


 この点で、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』も、同様の隘路にある作品だと言える。主人公のシン・アスカが体現している価値観は、非常に明確なものだろう。「重要なのは闘いに勝つことだ」というものである(「何か大切なものを守るためには闘いに勝たねばならない。みんな仲良く、などというのは、偽善以外の何ものでもない」等々)。その意見に対して、カガリアスランといったキャラクターは、強い違和感を表明するわけだが、そこでの問題とは、彼らが明確な対抗案を提出できない、というところにある。アスランたちは、シンに向かって、「そうじゃない!」と常に言い続けているが、そこにあるのは、純粋な否定だけである。「そうじゃないなら、他に何があるんだ?」というところが不明確なわけである。


 僕が、ここで、問題にしつづけているのも、まさに、この「そうじゃない」の先を考えていくことである。そして、そのためには、かなりの回り道が必要ではないか、とも考えているわけである。『耳をすませば』という作品を僕が問題にするのも、この作品から新しい問いの形式を導き出すことが絶対にできると信じているからである。


 さて、次回もまた、風景や場所といった観点から、ノスタルジーとファンタジーとの関係を問題にしていきたい。