著者は、本書のあとがきにおいて、本書の主題を以下のように述べている。
「本書のメッセージは、「イスラム」や「西洋」、「日本」や「朝鮮」といった概念には本来、存在論的な安定性などないにもかかわらず、それらが「他者」を断定したり、識別しようとするなかで明確な輪郭をとるようになったことを明らかにすることである」
本書は著者の6つの論文から成っているが、それらはいずれもこの主張が通奏低音となっている。
第一章・第二章においてウェーバー・フーコー・サイードの思想的な繋がりが着目され、「規律」が客体を・オリエンタリズムを生み出していった過程が鮮やかに描き出される。
第三章・第四章では、日本の屈折したオリエンタリズムが歴史的視点で語られる。我が国で「東洋」が語れるとき、無意識に日本がそこに含まれないことが多いが、その濫觴がどこにあったかを解き明かすのである。我が国の対外進出(侵略)について考察するときに、ここで示される視点は極めて重要であろう。
第五章・第六章においては、ウォーラースタインの世界システム論に依拠しつつ、オリエンタリズムの観点をそこに織り交ぜながら現代の世界政治を浮かび上がらせている。「ポスト・コロニアルの時代にも人間の多様性や複合性を隠蔽あるいは排除する支配の様式は清算されていない」ことが見事に示され、脱オリエンタリズムのための知/実践のあり方が提示される。
「<他者>とは誰のことであり、<他者>はどのような言説の機制やシステムを通じて「創造」されてきたのか」、この問いを常に持ち続けることは、現代を見る上で欠いてはならないだろう。そのことによって初めて「オリエンタリズムの彼方をみはるかす地点」が開かれてくるのだ。
本書のような名著に出会えて私は幸せであった。大きな知的満足と刺激を本書は与えてくれるだろう。読み応えのある本である。得るものは非常に大きい。
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オリエンタリズムの彼方へ: 近代文化批判 ハードカバー – 1996/4/26
姜 尚中
(著)
ウェーバー,フーコー,サイードなどの思想的繋がりを足がかりに,〈支配の知〉としてのオリエンタリズムの本質を解明.同時に,近代日本で植民学に手を染めた知識人のアジア観を考察しながら,日本的オリエンタリズムへの鋭い批判を展開する.新たなアイデンティティの形成,〈他者〉認識の兆しを敏感にとらえた問題提起の書.
- 本の長さ245ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1996/4/26
- ISBN-104000002589
- ISBN-13978-4000002585
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ウェーバー、フーコー、サイードなどの思想的な水脈を足がかりに〈支配の知〉としてのオリエンタリズムの本質を解明。新たなアイデンティティの形成、〈他者〉認識の兆しを敏感にとらえた問題提起の書。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1996/4/26)
- 発売日 : 1996/4/26
- 言語 : 日本語
- ハードカバー : 245ページ
- ISBN-10 : 4000002589
- ISBN-13 : 978-4000002585
- Amazon 売れ筋ランキング: - 945,831位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,245位政治学 (本)
- - 135,860位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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姜尚中(カン サンジュン)
1950年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。
東京大学大学院情報学環教授。専攻は政治学・政治思想史。
著書に『マックス・ウェーバーと近代』、『オリエンタリズムの彼方へ』、『ナショナリズム』、『東北アジア共同の家をめざして』、『日朝関係の克服』、『姜尚中の政治学入門』、『ニッポン・サバイバル』『悩む力』ほか。
共著回編者に『ナショナリズムの克服』、『デモクラシーの冒険』、『在日一世の記憶』ほか。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年3月6日に日本でレビュー済み
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この書物の前に、有名なパレスチナ出身の作家 の著作「オリエンタリズム」を読書会で読んだので、それに続いてこちらの書物も読書会のテキストとした読んだ。著者がまだ若い時の作品で、文章がやや生硬で読みづらかったが、熱心さが通じた。
2015年7月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
力作なのだとは思うが、自分の生の言葉で語ってほしいと感じた。フーコーやサイードの術後を安易に用いすぎると思う。学者同士で通じたとしても(いやたぶん通じないだろう)、一般市民にはほとんど理解不可能である。こういうところに、フランス現代思想などの悪しき影響を感じる。また、いくつもの論文を集めたせいか、なぜこの章が必要なのか?と感じたことも多い。論文の寄せ集は、安易にすべきではない。著者はもちろん編集者の姿勢を疑わざるをえない。正直に言って、この著者のものは細部にこだわらずに読むしかないと痛感した。この本を読むのなら、フーコーやサイードそれ自体を読んだ方がずっとよいのではないか? それでも日本の現状を意識した部分があるので救われるが、いずれにせよもっと読みやすい本を書いてほしいと願わざるをえない。
2007年12月6日に日本でレビュー済み
学術的な著作と言うよりはかなり思い入れの強い書物です。たとえば
181ページにおいて著者は「ボスニアにおける自滅的なナショナリズムの拮抗」(著者は現在なら民族主義による虐殺というはずだが・・・)は、「ヨーロッパ合衆国のなかでアメリカ合衆国の黒人やヒスパニック系諸民族の地位に転落するのではないかという不安に駆られたとしても、決して不思議ではない」と述べています。
それはないでしょう。そもそもマケドニアが台湾と国交を結んだため、キレタ中国が、国交を結んだ翌日、国連軍撤退を強硬に主張し、撤退したため虐殺がおこったのですから。
ですが議論は世界システムと反システムに収斂され、プロレタリア化の話に進んでいきます。
本書はそもそも1996年に出ているのですがこの文庫版ではなぜか、ソ連の飛行機を利用した経験が語られ、ソ連のシステムが崩壊することを予感していた、旨が述べられます。
その後イランで「アメリカに死を!」と叫ぶ群衆に対して、「恐ろしさを感じるかもしれない」が、生き生きと議論するドイツ在のイラン「留学生(?)」を見てイメージが壊れたのだという。
更にイラン革命による治安部隊による虐殺のなまなましさが日本では報道されていないことに注意を促す。が、それをしなかったのは左派メディアなのだが・・・。
無論それらのメディアは文革やスターリンの所業についても報道していないのだが。
まだ論点は多いが、ところどころにはさまれる世界情勢に対する解釈がアクロバティックだ。それらが正しいとするなら世界的大発見といえるであろうしもはやマルクス、ヴェーバーの域であろう。
ドイツに行くだけでなくほかの世界にも目を通していただきたいと感じた。
181ページにおいて著者は「ボスニアにおける自滅的なナショナリズムの拮抗」(著者は現在なら民族主義による虐殺というはずだが・・・)は、「ヨーロッパ合衆国のなかでアメリカ合衆国の黒人やヒスパニック系諸民族の地位に転落するのではないかという不安に駆られたとしても、決して不思議ではない」と述べています。
それはないでしょう。そもそもマケドニアが台湾と国交を結んだため、キレタ中国が、国交を結んだ翌日、国連軍撤退を強硬に主張し、撤退したため虐殺がおこったのですから。
ですが議論は世界システムと反システムに収斂され、プロレタリア化の話に進んでいきます。
本書はそもそも1996年に出ているのですがこの文庫版ではなぜか、ソ連の飛行機を利用した経験が語られ、ソ連のシステムが崩壊することを予感していた、旨が述べられます。
その後イランで「アメリカに死を!」と叫ぶ群衆に対して、「恐ろしさを感じるかもしれない」が、生き生きと議論するドイツ在のイラン「留学生(?)」を見てイメージが壊れたのだという。
更にイラン革命による治安部隊による虐殺のなまなましさが日本では報道されていないことに注意を促す。が、それをしなかったのは左派メディアなのだが・・・。
無論それらのメディアは文革やスターリンの所業についても報道していないのだが。
まだ論点は多いが、ところどころにはさまれる世界情勢に対する解釈がアクロバティックだ。それらが正しいとするなら世界的大発見といえるであろうしもはやマルクス、ヴェーバーの域であろう。
ドイツに行くだけでなくほかの世界にも目を通していただきたいと感じた。
2006年4月30日に日本でレビュー済み
以前、柄谷行人は『批評空間』の編集後記で、次のように述べたことがある。
「最近気づいたのは、アメリカの学者が理論的でなくなってしまつたことだ。理論的な格好をするが――つまり既成の理論をそこそこ器用に使いはするが――、本当は経験論的・実証主義的なアカデミズムに戻っている。(略)それは一つにはフーコーやサイードの影響によるが、彼らと似て非なるものである。頭の悪い下部構造に規定されながら、上部構造において相対的な自律性をもつといった程度の学者が、いよいよその下部構造の根本的規定性を露出してきただけである。」
ここで言われていることは、この本にもそのまま当てはまる。そこには理論の適用があるのみで、理論に還元不可能な歴史性との遭遇などいささかも生起することはない。ひたすら退屈な官僚的な思考体制があるばかりだ。スリリングな知性と出会いたい人にとって、この本は時間と金の無駄になるだけだと私は思う。
「最近気づいたのは、アメリカの学者が理論的でなくなってしまつたことだ。理論的な格好をするが――つまり既成の理論をそこそこ器用に使いはするが――、本当は経験論的・実証主義的なアカデミズムに戻っている。(略)それは一つにはフーコーやサイードの影響によるが、彼らと似て非なるものである。頭の悪い下部構造に規定されながら、上部構造において相対的な自律性をもつといった程度の学者が、いよいよその下部構造の根本的規定性を露出してきただけである。」
ここで言われていることは、この本にもそのまま当てはまる。そこには理論の適用があるのみで、理論に還元不可能な歴史性との遭遇などいささかも生起することはない。ひたすら退屈な官僚的な思考体制があるばかりだ。スリリングな知性と出会いたい人にとって、この本は時間と金の無駄になるだけだと私は思う。