ナショナリズムは近代以降に発生したという近代主義の立場を取っており、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』と並ぶ古典的名著。
10年ぶりぐらいに読んだが、相変わらず分かりにくい書き方をしているなあと感じる一方、その分析の素晴らしさに改めて感動。1983年の本であり、現在では多くのより精緻な検証を行った関連の研究成果が数多く蓄積されているが、それでも現在のナショナリズムの諸問題を考える上で鍵となる方向性や考え方への示唆を与えてくれる本である。
ゲルナーたちの近代主義に基づく分析に批判的だったアントニー・スミスなどの著作と併せて読むと更に面白い。
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民族とナショナリズム 単行本 – 2000/12/22
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英国哲学界の巨人によるナショナリズム論
- ISBN-104000021966
- ISBN-13978-4000021968
- 出版社岩波書店
- 発売日2000/12/22
- 言語日本語
- 本の長さ304ページ
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内容(「MARC」データベースより)
ナショナリズムの本質は何か。この難問に、英国哲学界の巨人ゲルナーが、政治社会学、社会人類学などの該博な知識を駆使して解明を試みる。「第一級のナショナリズム研究書」として高く評価されてきた名著の翻訳。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2000/12/22)
- 発売日 : 2000/12/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 304ページ
- ISBN-10 : 4000021966
- ISBN-13 : 978-4000021968
- Amazon 売れ筋ランキング: - 73,686位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年3月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年7月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本当に名著だった。
分業の進んだ産業社会の構成員は流動的かつ均質的で、この均質性は国家による教育によって保証、再生産される。教育によって育まれた文化はやはり均質性を備えており国民に共有され、人々の職業だったり居住だったりの流動性を確保、維持する。この流動性の限界がおそらく文化の及ぶ範囲というやつで、その範囲内に育まれた共有文化としての歴史を持っている人たちを指して民族(近代的な感じの民族)という。なので、この近代的な意味においての民族が政治的な単位と重なろうとすることをナショナリズムと言うのだろう。
少し難しかったので正しく読み解けているか自信がないが、もし上記の内容が概ね合っているようであれば、かなりお勧めできる。
なぜなら本書では、民族や文化、社会の特性を説明していく上で、かなり的確に現代社会の構造を示してくれているからだ。個人的には、流動性を獲得するための原動力がひたすら関連付けること(言葉とか知識とか)、と筆者がいっていた辺りが特に興味深かった。これと社会の合理性が組み合わさると、証拠として機能しやすく関連付けやすい事実ばかりが集まってきて、さもそれが真実であるかのような振る舞いをしてしまいそうなわけだが、これぞまさしくだな、とやはり興奮した。なぜ極度に構造を単純化された既成事実(たとえばニュースとか、たとえば私たちこそが被害者です、といった歴史問題とか)が横行しやすいのか、その一端を見れた気がしたからだ。そして私たちはそういった均質化の代償として、こういったすばらしい著作を日本語で低価格で読むことが出来るということも忘れてはならないのだろう。
ありがとう、訳者の方。たぶん英語だったら読めなかった。
分業の進んだ産業社会の構成員は流動的かつ均質的で、この均質性は国家による教育によって保証、再生産される。教育によって育まれた文化はやはり均質性を備えており国民に共有され、人々の職業だったり居住だったりの流動性を確保、維持する。この流動性の限界がおそらく文化の及ぶ範囲というやつで、その範囲内に育まれた共有文化としての歴史を持っている人たちを指して民族(近代的な感じの民族)という。なので、この近代的な意味においての民族が政治的な単位と重なろうとすることをナショナリズムと言うのだろう。
少し難しかったので正しく読み解けているか自信がないが、もし上記の内容が概ね合っているようであれば、かなりお勧めできる。
なぜなら本書では、民族や文化、社会の特性を説明していく上で、かなり的確に現代社会の構造を示してくれているからだ。個人的には、流動性を獲得するための原動力がひたすら関連付けること(言葉とか知識とか)、と筆者がいっていた辺りが特に興味深かった。これと社会の合理性が組み合わさると、証拠として機能しやすく関連付けやすい事実ばかりが集まってきて、さもそれが真実であるかのような振る舞いをしてしまいそうなわけだが、これぞまさしくだな、とやはり興奮した。なぜ極度に構造を単純化された既成事実(たとえばニュースとか、たとえば私たちこそが被害者です、といった歴史問題とか)が横行しやすいのか、その一端を見れた気がしたからだ。そして私たちはそういった均質化の代償として、こういったすばらしい著作を日本語で低価格で読むことが出来るということも忘れてはならないのだろう。
ありがとう、訳者の方。たぶん英語だったら読めなかった。
2022年6月12日に日本でレビュー済み
ほとんど注が付いていないので、まるで思い付きを一気呵成に書きあげたようにみえるかもしれないが、チェコというナショナリズムの古典的な土地で幼少期を過ごしたゲルナーは、ナショナリズムの歴史と民族に関する思想史を自らの思想に取り込んでいる。例えば、冒頭で民族の暫定的定義を与えているが、文化を共有する人々という本質主義的な定義はヘルダーに、互いに同じ民族と認め合うという構築主義的な定義はルナンに由来する。ゲルナーはメガロマニア帝国という架空の国家とルリタニア人という架空の民族を通じて多民族国家の民族問題を説明しているが、それらがハプスブルク帝国とチェコ人をも含む帝国の諸民族であることも明らかであろう。東欧のナショナリズムの歴史と一緒に読むとゲルナーが一層楽しめるかもしれない。
とはいえゲルナーの理論は歴史研究と相互補完的であることもあれば、歴史によって批判されることもある。ゲルナーによればnationは近代工業社会の産物なのだが、ギリシアの社会学者ニコス・ムゼリスによれば、ギリシアでは、ナショナリズムは工業化に続くのではなく先行したという。(Nicos Mouzelis, Nationalism; restructuring Gellner’s Theory, in: Ernest Gellner and the Contemporary Social Thought, ed. By Siniša Malešević, Mark Haugaard, Cambridge 2007)同様の例はヨーロッパ各地に見ることができる。フィヒテが『ドイツ民族に告ぐ』という講演を行った1807年、プロイセンの経済的課題は工業化よりもむしろ農奴解放であった。皮肉なことに、ゲルナーに厳しく批判されたケドゥーリーの哲学史的アプローチはこの点で歴史と矛盾しない。
ポーランドの思想史家アンジェイ・ヴァリツキの批判も鋭い。「ナショナリズムを近代化の一機能と看做すゲルナーの理論はnationの構築主義的理論を支えることができない」とヴァリツキは指摘する。ハプスブルク帝国の啓蒙的専制君主がドイツ語を行政の言語とし、ドイツ語を教育の言語としたにも関わらず、チェコ人の完全なゲルマン化という結果にならなかったのは何故か、ゲルナーの理論では説明できない。これを説明するためには、民族は構築物であると考えるのではなく、チェコ人が集団的アイデンティティを有する人民として客観的に存在し、それ故、ゲルマン化に抵抗できたのだ、と想定しなくてはならないという。(Andrzej Walicki, Ernest Gellner and the Constructivist Theory of nation, in: Harvard Ukrainian Studies, vol.22, 1998.)
まだ翻訳はないと思うが、ゲルナーにはNationalism, London 1997.という本もある。ここで展開された民族のヘソというアイディアが面白い。母親から生まれたものにはヘソがある。だから神によって直接創造されたアダムにヘソはないはずである。しかしヨーロッパの宗教画においてはアダムにヘソが描かれている。神は初めから完成したものとして世界を創造したからだ、とキリスト教徒は説明する。このアダムのヘソはナショナリストが描く民族のイメージを説明するとゲルナーは言う。ゲルナーによれば、民族は近代工業社会の産物であり、近代以前の歴史を持たないが、ナショナリストはあたかも民族が近代以前から存在したかのように歴史をでっち上げる。これが民族のヘソだ。ゲルナーはチェコスロヴァキア初代大統領マサリクの思想に民族のヘソの一例を見出すが、民族のヘソはホブズボームの『創られた伝統』と高い親和性を持つ。ホブズボームは述べている。ナショナリズムにおいては、「歴史的連続性が創造されなくてはならなかった」と。(The Invention of Tradition, Cambridge 1983, p.7.)
多くの研究者によって批判され、また支持されたゲルナーの理論は、ナショナリズムの研究を志す者がまず熟読すべき基本文献だろう。
とはいえゲルナーの理論は歴史研究と相互補完的であることもあれば、歴史によって批判されることもある。ゲルナーによればnationは近代工業社会の産物なのだが、ギリシアの社会学者ニコス・ムゼリスによれば、ギリシアでは、ナショナリズムは工業化に続くのではなく先行したという。(Nicos Mouzelis, Nationalism; restructuring Gellner’s Theory, in: Ernest Gellner and the Contemporary Social Thought, ed. By Siniša Malešević, Mark Haugaard, Cambridge 2007)同様の例はヨーロッパ各地に見ることができる。フィヒテが『ドイツ民族に告ぐ』という講演を行った1807年、プロイセンの経済的課題は工業化よりもむしろ農奴解放であった。皮肉なことに、ゲルナーに厳しく批判されたケドゥーリーの哲学史的アプローチはこの点で歴史と矛盾しない。
ポーランドの思想史家アンジェイ・ヴァリツキの批判も鋭い。「ナショナリズムを近代化の一機能と看做すゲルナーの理論はnationの構築主義的理論を支えることができない」とヴァリツキは指摘する。ハプスブルク帝国の啓蒙的専制君主がドイツ語を行政の言語とし、ドイツ語を教育の言語としたにも関わらず、チェコ人の完全なゲルマン化という結果にならなかったのは何故か、ゲルナーの理論では説明できない。これを説明するためには、民族は構築物であると考えるのではなく、チェコ人が集団的アイデンティティを有する人民として客観的に存在し、それ故、ゲルマン化に抵抗できたのだ、と想定しなくてはならないという。(Andrzej Walicki, Ernest Gellner and the Constructivist Theory of nation, in: Harvard Ukrainian Studies, vol.22, 1998.)
まだ翻訳はないと思うが、ゲルナーにはNationalism, London 1997.という本もある。ここで展開された民族のヘソというアイディアが面白い。母親から生まれたものにはヘソがある。だから神によって直接創造されたアダムにヘソはないはずである。しかしヨーロッパの宗教画においてはアダムにヘソが描かれている。神は初めから完成したものとして世界を創造したからだ、とキリスト教徒は説明する。このアダムのヘソはナショナリストが描く民族のイメージを説明するとゲルナーは言う。ゲルナーによれば、民族は近代工業社会の産物であり、近代以前の歴史を持たないが、ナショナリストはあたかも民族が近代以前から存在したかのように歴史をでっち上げる。これが民族のヘソだ。ゲルナーはチェコスロヴァキア初代大統領マサリクの思想に民族のヘソの一例を見出すが、民族のヘソはホブズボームの『創られた伝統』と高い親和性を持つ。ホブズボームは述べている。ナショナリズムにおいては、「歴史的連続性が創造されなくてはならなかった」と。(The Invention of Tradition, Cambridge 1983, p.7.)
多くの研究者によって批判され、また支持されたゲルナーの理論は、ナショナリズムの研究を志す者がまず熟読すべき基本文献だろう。
2007年3月27日に日本でレビュー済み
既に大学では古典として扱われるナショナリズムの研究書。
著者は1925年生まれ、プラハ出身です。1939年家族とともに英国に亡命しています。
1983年に出版されました。ただ日本における適用は難しいのではないでしょうか
それは既に小熊英二が明らかにしたように日本では共産党が民族主義を掲げていたという
ことが挙げられます。
民族とナショナリズムの問題は、産業や近代と同じく規定することが難しい問題です。
無論、小熊の研究に反し、日本が単一民族だとすればわからなくもないのですが・・。
学術書としては有益なものだと考えるべきでしょう。
著者は1925年生まれ、プラハ出身です。1939年家族とともに英国に亡命しています。
1983年に出版されました。ただ日本における適用は難しいのではないでしょうか
それは既に小熊英二が明らかにしたように日本では共産党が民族主義を掲げていたという
ことが挙げられます。
民族とナショナリズムの問題は、産業や近代と同じく規定することが難しい問題です。
無論、小熊の研究に反し、日本が単一民族だとすればわからなくもないのですが・・。
学術書としては有益なものだと考えるべきでしょう。
2014年5月21日に日本でレビュー済み
昨今の、日本や世界各国のナショナリズムの「流行」とそれに伴う国際紛争の多発の根本原因を知りたくて、ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体-ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版)とともに、本書にたどり着いた。奇しくもこれらの原著はともに1983年の刊行であるが、ともにナショナリズムの根源を考えるための基本的な手掛かりを提供する古典といえる。
ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。民族(nation)は、同じ文化を持つこと、同じ民族に属すると認知する場合のみ同じ民族に属する。このようなナショナリズムの発生は、人々を均質な労働者や兵士として活用するための教育システムが大きな役割を果たす産業社会において初めて普遍的になった、とするゲルナーの指摘は有名である。ナショナリズムにおけるマスコミュニケーションの役割(アンダーソンによる)と合せると、ナショナリズムは決して自然発生するものではなく、程度の差はあっても常に「官製ナショナリズム」であると考えてよさそうである。
世界には「国民国家」が溢れているのに、国民国家内あるいは国民国家間で、あらたな国民国家作りのための紛争が絶えない(日本も沖縄独立論が勃興しており、無縁でない)。この点については、本書第6章の社会的エントロピーという考え方が参考になる。産業社会は、本来流動的で均質であり、平等を求める流れがある一方で、遺伝的要素や言語など、平等化、均一化を妨げる力(これを著者は耐エントロピーと呼んでいる)もある。日本も含め世界各国で、「国民的統合を求めるための排外主義」という一見矛盾に満ちた運動が盛んになってきたのも、「耐エントロピー」という視点から読み説くことができるかもしれない。
ナショナリズムの問題はまさに「迷宮」であり、ある観念を持って一旦入り込むと抜け出すのが容易ではない。本書は、そのような「迷宮」に入り込まないための枠組みを提供しているといえる。本書にはあまり触れられていない、疑似宗教としてのナショナリズム、領土なきナショナリズムなど、世界を動かす見えない構造を、本書を手掛かりに考えたい。
ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。民族(nation)は、同じ文化を持つこと、同じ民族に属すると認知する場合のみ同じ民族に属する。このようなナショナリズムの発生は、人々を均質な労働者や兵士として活用するための教育システムが大きな役割を果たす産業社会において初めて普遍的になった、とするゲルナーの指摘は有名である。ナショナリズムにおけるマスコミュニケーションの役割(アンダーソンによる)と合せると、ナショナリズムは決して自然発生するものではなく、程度の差はあっても常に「官製ナショナリズム」であると考えてよさそうである。
世界には「国民国家」が溢れているのに、国民国家内あるいは国民国家間で、あらたな国民国家作りのための紛争が絶えない(日本も沖縄独立論が勃興しており、無縁でない)。この点については、本書第6章の社会的エントロピーという考え方が参考になる。産業社会は、本来流動的で均質であり、平等を求める流れがある一方で、遺伝的要素や言語など、平等化、均一化を妨げる力(これを著者は耐エントロピーと呼んでいる)もある。日本も含め世界各国で、「国民的統合を求めるための排外主義」という一見矛盾に満ちた運動が盛んになってきたのも、「耐エントロピー」という視点から読み説くことができるかもしれない。
ナショナリズムの問題はまさに「迷宮」であり、ある観念を持って一旦入り込むと抜け出すのが容易ではない。本書は、そのような「迷宮」に入り込まないための枠組みを提供しているといえる。本書にはあまり触れられていない、疑似宗教としてのナショナリズム、領土なきナショナリズムなど、世界を動かす見えない構造を、本書を手掛かりに考えたい。
2007年11月13日に日本でレビュー済み
「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位が一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。」といきなり<結論>の提示からはじまる研究書。本書がもたらした成果とその地位は、今や揺るぎないものとなっている。
ナショナリズムという言葉は、まず日本語にどう翻訳するかの時点で議論がまきおこってしまうと思うが、それは他に任せるとして、ゲルナーは人間社会の歴史を「前農耕社会」「農耕社会」「産業社会」と3段階に分け、各々の時代の特徴、それがどうナショナリズムの発生の一部分として変化して関わりあってきたのかを論じており、全体を通して、ナショナリズムは決して「人間の本能」「自然発生的」といったものではなく、近代がもたらした「コミュニケーションの発達」「平等化」「合理化」「読み書き能力の発達」といった、様々な要素が偶発的に絡み合った近代の産物であると盛んに強調されている。また、「ナショナリズムは単なる押し付けだ」という主張を退け、産業社会は、流動的な社会であるからこそ、逆に疎外を避けるために人々が集合し、そこに休息する場所を求める、つまり人は自らナショナリズを利用して統一感や安心感を得る方向に進むと指摘するなど、どちらかに偏重することはなく、冷静にバランスのとれた論理が結論まで貫かれている。
最後に「じゃあ、この内容を実際どこまで各地に適用できるのか?」という疑問は避けて通れない。そして、やはりそれは各地の歴史と社会変動に即して研究せざるを得ないが、本書に重要なキーワードはそろっていると思う。当然、本書をひとつのナショナリズム論の教科書として、たたき台として利用しない手はない。また、ナショナリズムの善悪だけを語るだけで満足することなく、もう一段深くナショナリズムへの視点を掘り下げるためにも必読である。なぜなら自国と自己を知り、両者の関係を再認識する客観的判断を獲得できるからである。
ナショナリズムという言葉は、まず日本語にどう翻訳するかの時点で議論がまきおこってしまうと思うが、それは他に任せるとして、ゲルナーは人間社会の歴史を「前農耕社会」「農耕社会」「産業社会」と3段階に分け、各々の時代の特徴、それがどうナショナリズムの発生の一部分として変化して関わりあってきたのかを論じており、全体を通して、ナショナリズムは決して「人間の本能」「自然発生的」といったものではなく、近代がもたらした「コミュニケーションの発達」「平等化」「合理化」「読み書き能力の発達」といった、様々な要素が偶発的に絡み合った近代の産物であると盛んに強調されている。また、「ナショナリズムは単なる押し付けだ」という主張を退け、産業社会は、流動的な社会であるからこそ、逆に疎外を避けるために人々が集合し、そこに休息する場所を求める、つまり人は自らナショナリズを利用して統一感や安心感を得る方向に進むと指摘するなど、どちらかに偏重することはなく、冷静にバランスのとれた論理が結論まで貫かれている。
最後に「じゃあ、この内容を実際どこまで各地に適用できるのか?」という疑問は避けて通れない。そして、やはりそれは各地の歴史と社会変動に即して研究せざるを得ないが、本書に重要なキーワードはそろっていると思う。当然、本書をひとつのナショナリズム論の教科書として、たたき台として利用しない手はない。また、ナショナリズムの善悪だけを語るだけで満足することなく、もう一段深くナショナリズムへの視点を掘り下げるためにも必読である。なぜなら自国と自己を知り、両者の関係を再認識する客観的判断を獲得できるからである。
2005年12月19日に日本でレビュー済み
学術書だ(と思う)が、読み物としても面白く書かれている。これは翻訳の力も大きいとは思うが、非常に読みやすい。ゲルナーの論の精度には異論がある人も多いだろうし、それは妥当だ。だが、彼の論はあくまで社会の類型が持つ「指向」を扱ったものであって、それがどの程度現実社会において実現できているか、という問題とはまた別ではないかとも思う。ナショナリズムを考える上で必読の書物であるのは間違いないだろう。また、この読みやすさゆえ、研究者以外にもお勧めしたい。安易に「国」や「国民」といった言葉を使う風潮がいかに皮浅なものかが分かると思う。