壮絶な人生を生きたマルク・ブロックの歴史論で、フェーヴルほど叙情的な文体ではないにしても、歴史に対する情熱は凄いものがある。現代の歴史学の礎となった考え方、旧来の歴史学への反論、歴史とは何か、さらに歴史を体感するとはどういうことか、過去を再構成するとはどういうことかなどが語り尽くされる。
歴史を見る時の根本的な姿勢から説明があり、技術論に留まらない歴史哲学をじっくり味わえる。
現在を理解していなければ過去を知ろうとしてもかなわないp25。生きたものへの理解能力が歴史家の特質だと諭す。この特質は「今日」「現在」と常に接触して鍛え上げる必要があると熱く語る。歴史を再構成するための古い文献から人間の生の微動を蘇らせるのには多大な想像力が必要だからである。ブロックはここで1918年の大戦での勝利を引き合いに出しそこで味わった歓喜の感覚から、歴史に登場する戦勝の本当の意味を理解することができ、過去の再構成に役立てることができたという。ブロックが専門とした農村の歴史についても、今日の農村風景を観察し分析してはじめて、史料を解釈し正しく問題を提起することができる。その際、イメージを完全に固定するのではなく歴史家は変化をとらえる。死者の研究を生者の研究と結びつけることが必要だと説く。
史料に現れる語彙についての検討を深める肝として、それも他の証拠と同様、疑う対象だとしている。その語句の周辺と比較してその時代や環境、作者の用法に照らして意味を検証するp146。時代錯誤から来る誤解に陥っていないかを見定める。ここでは国王の塗油式を挙げ、時代によってその価値の違いを述べている。古い時代に誤って高い価値を見出すと(時代錯誤による誤解)その現象を正しく捉えられず、更には描かれる時代の様子も違ったものになっていくだろう。これは場所によっても同じことが言えるかもしれない。
ただブロックは名前の到来はいつでも大事件だとして、現象を決定的に意識化できた瞬間だとする。そのため名前は現象との適合が不完全であっても現象と結合しているため、よく解釈した上でその名前を使わないとその社会を表現することは出来ないp146。中世にいた自由人とそうでない人々がいたがその史実に沿わないとしてある歴史家は半自由人と名付けた。そのことについてブロックは文献上根拠がないこの造語を批判して、この用語の登場によって自由と隷属の境界をさらに深く研究する機会を奪ったという。自由と隷属の境界は本来不確実なもので時代や集団の偏見によって変化する。自由の概念は時代によって変化し、当然だが現代人が抱く自由の概念とは意味が異なる。名前はその背景となる時代や社会、集団によって意味も変わるしイメージも使われる場面も変わるだろう。歴史における名前ひいては言葉の奥深さを思わずにいられない。
資本主義という用語についてもブロックは言及しているp152。資本主義の出現はいつに設定すべきかと疑問を呈し、ルネサンスにも資本主義のような体制はあったがそれは生産の組織化よりも貸付や商業的投機が強調され、十九世紀の資本主義とは異なるものだった。
このようなことから用語の使用について、歴史家は意味を専制的に広げたり狭めたり歪めたりして自由に用いていると指摘する。歴史家の個人的直観しか拠り所がなく、各人が勝手に名付け定義しているとする。そのため歴史家の団体がよく協議して名付けに関わることを提唱して、実績のある用語を軽率に意味を広げたり別の意味を持たせたり、定義に当たっては皆に役立つようにすべきだとする。ブロックは云う。「バベルの塔は、皮肉な創造主にかなり愉快な光景を見せることができたが、学問にとっては残念な模範になることであろう」と。
歴史においては判断か理解のどちらが必要かについての議論も面白い。ヘロドトスは「あったものを語る(ta eonta legein)」と云ったが歴史への誠実さを求め、さらに歴史には公平さ、再現の試み、分析の試みとしての問題がある。古来歴史家は英雄たちに讃辞か非難を与えて地獄の裁判官の役割を担っていた。日常あるように歴史学においても道徳的な価値によって判断を下していいのだろうか。歴史は様々な時代背景、集団意識にとらわれているのに、現代人による価値基準で良いとか悪いという判断を下せるのか。ブロックは「何世代もの隔たりによってわれわれから離れている異質な意識に入り込むには、自分自身の自我をほとんど脱ぎ捨てる必要がある」と説く。化学のような学問では善悪は入り込めないが、歴史は成功や失敗があるため善悪の古い人間中心主義に陥りやすい。歴史においては判断を下そうとするのではなく、その歴史上の人物の魂を理解することが大切だという。ブロックは「歴史とは人間の多様さの広い経験、人々との長きにわたる出会いである」といい、文献との向き合い方、分析の方法、史料の合理的な秩序付け、合理的な分類、多様な社会現象の観点からの分析など歴史学の方法論を深めていく。
マルク・ブロックはドイツ侵攻中のフランスでレジスタンス活動を行った信念の人物だった。知りたいを満たすだけではない、理解することを歴史に求め、新たな歴史学を切り開いた。剛直な印象の背後には深い洞察、繊細な洞察が隠れていて、本書ではその情熱と繊細さが同居した精神を読み取ることができる。
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新版 歴史のための弁明 ― 歴史家の仕事 単行本 – 2004/2/22
- ISBN-104000025309
- ISBN-13978-4000025300
- 出版社岩波書店
- 発売日2004/2/22
- 言語日本語
- 本の長さ216ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
歴史は何を目指し、どのような精神によってこれを達成してゆくのか。レジスタンスに倒れた歴史家の深く透徹した省察を、親密な語り口で伝えた古典的名著の新訳。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2004/2/22)
- 発売日 : 2004/2/22
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 216ページ
- ISBN-10 : 4000025309
- ISBN-13 : 978-4000025300
- Amazon 売れ筋ランキング: - 231,697位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 780位歴史学 (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2018年6月12日に日本でレビュー済み
「しかし歴史には、疑いの余地なく独自の美的な愉楽、その他のいかなる学科のそれとも異なる愉楽がある。なぜなら、歴史の固有の対象をなす人間の諸活動の光景は、その他の何よりも人間の想像力を魅了するものだからである」(本書「序文」から)
本書は、リュシュアン・フェーブル(Lucien Paul Victor Febvre,1878~1956年)とともに、フランスにおける歴史研究に大きな影響を及ぼした「アナール学派(L'école des Annales)」の創始者であるマルク・ブロック(Marc Léopold Benjamin Bloch,1886~1944年)の遺著である。ユダヤ系フランス人であったブロックは、古代史家を父としてリヨンに生まれ、1919年ストラスブール大学の中世史教授となり、ここで如上のフェーブルと会遇し、1929年『アナール』誌を創刊、今日に至る「新しい歴史学」を切り拓いた。そして、第二次大戦勃発に際しては高齢にも関わらず出征、さらにフランス降伏後においてもレジスタンス運動に参加していたが、地元リヨンでナチの手先に捕らわれ、ドイツ軍に銃殺されたのであった。
さて、訳者(松村剛氏)によれば、原著は1949年にフェーブルの手で刊行されたようだが、ブロックの子息(エティエンヌ・ブロック)が再発見された原稿なども踏まえた上で校訂し、新版として本書を上木したようである。ただ、内容的には、戦争を控えた執筆(であろう)と推認されるところから、“未定稿”的な行論も散見され、やや判りづらい面があることは否めない。だが、当書の序文にある有名な問い―パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ―この問いに対する真摯な回答を示そうとするブロックの姿勢に、私は何よりも共感を覚える。そして何より「誤って理解された歴史は、もし気をつけなければ、よりよく理解された歴史への信頼までも最終的には失わせかねない」(序文)という警句に私は惹かれる。
本書を貫くテーマは、人物や事件をメインとした旧来の歴史(学)に替わる新しい「方法序説」を提起していることだ。そのスタンスが学際的な「アナール学派」として結実していくことになる。例えば、資本主義というものを「史的システム」として理解しようとする場合、フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel,1902~1985年)の『 歴史入門 』などが好適な訳だが、ブローデルもフェーブルの跡を継いだコレージュ・ド・パリの歴史学教授であり、所謂「アナール学派」第二世代のリーダーである。こうして脈々とブロックたちの歴史を看る眼が継受されている。そういった文脈で、「アナール学派」の歴史学等に関心のある方は、この「歴史家の仕事」と副題の付いた当書にも目を通してもらいたいと願うものである。
Amazonで購入
「しかし歴史には、疑いの余地なく独自の美的な愉楽、その他のいかなる学科のそれとも異なる愉楽がある。なぜなら、歴史の固有の対象をなす人間の諸活動の光景は、その他の何よりも人間の想像力を魅了するものだからである」(本書「序文」から)
本書は、リュシュアン・フェーブル(Lucien Paul Victor Febvre,1878~1956年)とともに、フランスにおける歴史研究に大きな影響を及ぼした「アナール学派(L'école des Annales)」の創始者であるマルク・ブロック(Marc Léopold Benjamin Bloch,1886~1944年)の遺著である。ユダヤ系フランス人であったブロックは、古代史家を父としてリヨンに生まれ、1919年ストラスブール大学の中世史教授となり、ここで如上のフェーブルと会遇し、1929年『アナール』誌を創刊、今日に至る「新しい歴史学」を切り拓いた。そして、第二次大戦勃発に際しては高齢にも関わらず出征、さらにフランス降伏後においてもレジスタンス運動に参加していたが、地元リヨンでナチの手先に捕らわれ、ドイツ軍に銃殺されたのであった。
さて、訳者(松村剛氏)によれば、原著は1949年にフェーブルの手で刊行されたようだが、ブロックの子息(エティエンヌ・ブロック)が再発見された原稿なども踏まえた上で校訂し、新版として本書を上木したようである。ただ、内容的には、戦争を控えた執筆(であろう)と推認されるところから、“未定稿”的な行論も散見され、やや判りづらい面があることは否めない。だが、当書の序文にある有名な問い―パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ―この問いに対する真摯な回答を示そうとするブロックの姿勢に、私は何よりも共感を覚える。そして何より「誤って理解された歴史は、もし気をつけなければ、よりよく理解された歴史への信頼までも最終的には失わせかねない」(序文)という警句に私は惹かれる。
本書を貫くテーマは、人物や事件をメインとした旧来の歴史(学)に替わる新しい「方法序説」を提起していることだ。そのスタンスが学際的な「アナール学派」として結実していくことになる。例えば、資本主義というものを「史的システム」として理解しようとする場合、フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel,1902~1985年)の『 歴史入門 』などが好適な訳だが、ブローデルもフェーブルの跡を継いだコレージュ・ド・パリの歴史学教授であり、所謂「アナール学派」第二世代のリーダーである。こうして脈々とブロックたちの歴史を看る眼が継受されている。そういった文脈で、「アナール学派」の歴史学等に関心のある方は、この「歴史家の仕事」と副題の付いた当書にも目を通してもらいたいと願うものである。
2007年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
序文にある「パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ」という
子供の問いは、歴史は役に立ってない(ように見える)という非難でもあります。
この本は、歴史研究に含まれる多種多様な困難を取り上げ、そのために
歴史研究は一筋縄ではいかないのだ、という「弁明」を行っています。
もちろん、それで終わりではなく、様々な困難を認識した上で、
どのように歴史研究を行っていけばよいのかを論じています。
そういう意味で、「本書には綱領の部分がある」と作者が言う通りです。
第二次大戦中に書かれた本なので、今読むと当たり前に思える部分も
ありますが、歴史を学ぶに当たって読んでおきたい基本文献という評価は
妥当だと思います。カーの『歴史とは何か』と合わせて読むと、
両著作が同じような主張をしていたり、補い合っていたりすることに気づくでしょう。
ただ、別の方も触れられている通り、訳はあまりよくないです。
(ちなみに、悪文の例で挙げられているのは20ページの終わりから2行目)
根気があれば読めるレベルだとは思いますが、もう少し
普通の日本語として読めるように訳して欲しいところです。
子供の問いは、歴史は役に立ってない(ように見える)という非難でもあります。
この本は、歴史研究に含まれる多種多様な困難を取り上げ、そのために
歴史研究は一筋縄ではいかないのだ、という「弁明」を行っています。
もちろん、それで終わりではなく、様々な困難を認識した上で、
どのように歴史研究を行っていけばよいのかを論じています。
そういう意味で、「本書には綱領の部分がある」と作者が言う通りです。
第二次大戦中に書かれた本なので、今読むと当たり前に思える部分も
ありますが、歴史を学ぶに当たって読んでおきたい基本文献という評価は
妥当だと思います。カーの『歴史とは何か』と合わせて読むと、
両著作が同じような主張をしていたり、補い合っていたりすることに気づくでしょう。
ただ、別の方も触れられている通り、訳はあまりよくないです。
(ちなみに、悪文の例で挙げられているのは20ページの終わりから2行目)
根気があれば読めるレベルだとは思いますが、もう少し
普通の日本語として読めるように訳して欲しいところです。
2009年7月30日に日本でレビュー済み
リュシアン・フェーブル「歴史のための闘い」の後に読んだが、本書の本文を読み終えてから訳者あとがきを読むと、フェーブルとブロックの間にはなにやら複雑な事情がありそうに思えてくる。1949年に発表されたこの著書の原著初版では、フェーブルによる改竄箇所が少なくとも19箇所あるというのだ。文章の達意を意図したものなのだろうか、そのほかの意図があったのだろうか、何か卓越した学者の間の関係を邪推してしまう。
それはともかく、本書は著者の息子が遺稿に忠実に編纂した原著新版を翻訳したものだという。本来は全七章で纏められるはずの著作が、レジスタンス活動の結果ドイツ軍に処刑されるという結末で未完のまま残されたのが本書で、第五章の最初の部分で途切れてしまっている。
だからといって中途半端な文章が収録されているのではまったくなく、「歴史が何の役に立つのか」という問題提起に対して、歴史家がどのように資料や出土品を通じて歴史事象に近づき、歴史学的思索を進めていくのかが論じられる。具体的には歴史と人間と時間について、現在から過去へ、過去から現在へと人間の生を辿ることで人間理解を試みることの意義を示し、次いで観察・批判・分析による理解、という歴史解釈とその証明の手順をそれぞれ実例を挙げながら示していく。フェーブルの方法論がある程度美文に見えてくるほど、本書の歴史学方法論は具体的に理解しやすい。翻訳も、そんなにひどいわけではない。
こうして示されたブロックの歴史学方法論は、はじめの問題提起に対してどんな解答を示しているのか、本書の目論見が半ばで中断されただけあって明らかではないが、それはもしかしたら、歴史学はは現在の自分たちの生きる社会をよりよく理解する仕方を教えてくれるということではないかと思う。
歴史の効用について考えるための貴重な一冊だと思う。
それはともかく、本書は著者の息子が遺稿に忠実に編纂した原著新版を翻訳したものだという。本来は全七章で纏められるはずの著作が、レジスタンス活動の結果ドイツ軍に処刑されるという結末で未完のまま残されたのが本書で、第五章の最初の部分で途切れてしまっている。
だからといって中途半端な文章が収録されているのではまったくなく、「歴史が何の役に立つのか」という問題提起に対して、歴史家がどのように資料や出土品を通じて歴史事象に近づき、歴史学的思索を進めていくのかが論じられる。具体的には歴史と人間と時間について、現在から過去へ、過去から現在へと人間の生を辿ることで人間理解を試みることの意義を示し、次いで観察・批判・分析による理解、という歴史解釈とその証明の手順をそれぞれ実例を挙げながら示していく。フェーブルの方法論がある程度美文に見えてくるほど、本書の歴史学方法論は具体的に理解しやすい。翻訳も、そんなにひどいわけではない。
こうして示されたブロックの歴史学方法論は、はじめの問題提起に対してどんな解答を示しているのか、本書の目論見が半ばで中断されただけあって明らかではないが、それはもしかしたら、歴史学はは現在の自分たちの生きる社会をよりよく理解する仕方を教えてくれるということではないかと思う。
歴史の効用について考えるための貴重な一冊だと思う。
2007年7月2日に日本でレビュー済み
戦後の日本歴史界は、マルクス主義・反マルクス主義の不毛な争いを続けてきたように思われる。歴史を学ぼうとするならば、ブロックの次の言葉を充分に心得ておくべきであろう。
「(理解するという言葉は)とりわけ、友情を担った単語である。行動に関してまで、われわれはあまりに判断を下しすぎる。「殺せ」と叫ぶのは容易である。われわれは決して十分に理解しない。われわれとは違う人−外国人・政敵−は、ほとんど必然的に悪人と見なされる。たとえ避けられない闘いを進める場合でさえ、魂をもう少し理解する必要があろう。まだ間に合うとき闘いを避けるためにはなおさらである。」
これこそ、歴史を何のために学ぶかという疑問に対する、明確なる回答ではないか。戦後歴史学が人物の毀誉褒貶ばかりに囚われてきたことを考えると、これはまさに金言というべきではないか?
「(理解するという言葉は)とりわけ、友情を担った単語である。行動に関してまで、われわれはあまりに判断を下しすぎる。「殺せ」と叫ぶのは容易である。われわれは決して十分に理解しない。われわれとは違う人−外国人・政敵−は、ほとんど必然的に悪人と見なされる。たとえ避けられない闘いを進める場合でさえ、魂をもう少し理解する必要があろう。まだ間に合うとき闘いを避けるためにはなおさらである。」
これこそ、歴史を何のために学ぶかという疑問に対する、明確なる回答ではないか。戦後歴史学が人物の毀誉褒貶ばかりに囚われてきたことを考えると、これはまさに金言というべきではないか?
2020年11月6日に日本でレビュー済み
歴史学の基礎文献です。日本史にしか興味がない人には視野の時空を拡げてくれるでしょう。歴史の見方を手解きしているのですが直訳調で読みづらいのが難点でした。しかしながら学問とはそのようなものであると覚悟しておきましょう。
2004年6月18日に日本でレビュー済み
学生が授業中に訳したような文体です。
私は日本語のひどさにイラついて
内容がほとんど頭に入りませんでした。
下に一例を挙げておきます。
「疑いなくいびつであるが、機械に従属した知性をもつ何人もの人に自然なものと映る類推によって、現在の人類の大問題を理解してそれの解決を試みるには、それらの前件を分析しておいても何ら役立たないとも人は考えるだろう」
私は日本語のひどさにイラついて
内容がほとんど頭に入りませんでした。
下に一例を挙げておきます。
「疑いなくいびつであるが、機械に従属した知性をもつ何人もの人に自然なものと映る類推によって、現在の人類の大問題を理解してそれの解決を試みるには、それらの前件を分析しておいても何ら役立たないとも人は考えるだろう」