当たり前のことをどうしてわざわざ難しい言葉で変な表現で大げさに言っているのか、と思ってしまう本だと思います。いわゆるフランクフルト学派の著作には全体的にその傾向があるように思います。
しかし、むしろなぜ当たり前の事をこうまでして言上げするのかと問うべきでしょう。本書が書かれた1940年代はレビュー時点のおよそ80年前ということになります。そのころの例えば大衆文化の当たり前が現在の当り前のはずは、本来ないでしょう。もちろん本書は、例えば資本論や国家と革命のような、あるいは同時期の日本の哲学書のようなある種の予言の書ではありません。著者らの想像力はそのような未来視には向いていません。私には本書で述べられているファシスト政治家の像が日頃メディアで見かける人々と重なって見え、文化についてのメディアの言説が本書の文化産業論(その揶揄するところ)と重なって見えるわけですが、もしそれが、例えばメディアの操作の結果である場合も含めて何かの勘違いでないとすれば、一度本書に沿って現在を解釈してみることにも価値はあるように思います。
もちろん教条的な使い方はハーバーマス先生に叱られると思いますが。
なお、他のレビューにも指摘がありますが、正直よくできた訳とは言えません。それは本書のあとがきで訳者自身が述べています。少なくとも接続詞は相当補わないと、どうつながるのかわからないところがあります。とはいえそれはおそらく著者の意図にフィルターをかけることであって、読者としてはともかく媒介者としては憚られたとしても不思議はないように感じました。読むのであれば、とりあえず精神的な余裕と根性を用意して、調子の良い時に読むことをお勧めします。
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啓蒙の弁証法: 哲学的随想 (SELECTION21) 単行本 – 1990/3/28
啓蒙によって文明を獲得し,野蛮を克服した人類は,しかし,啓蒙によって新しい野蛮状態へと落ちていく.理性の否定と理性によるユートピアの可能性とを交錯させながら近代を考え抜いた20世紀の古典.
- 本の長さ422ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1990/3/28
- ISBN-104000040545
- ISBN-13978-4000040549
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1990/3/28)
- 発売日 : 1990/3/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 422ページ
- ISBN-10 : 4000040545
- ISBN-13 : 978-4000040549
- Amazon 売れ筋ランキング: - 67,801位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 80位ドイツ・オーストリアの思想
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年2月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難解な本書を数行のレビューで汚すことは避けたい。
また、レビューを読んだだけで本作を理解した気になるのは、本書の論旨に反する。
易きに流れるのが人間であり社会であるが、それが正解だとは思わない。
なんでもかんでも文化産業化している。出版業界も同じことだろう。
くだらないセンチメンタルなマンガ解説で「かんたん」「わかりやすく」して
馬鹿を相手に商売しているようでは終末に近づくだけである。
良書が絶版していく背景には『啓蒙の弁証法』を未読のまま偉そうな顔をしている輩が増えている背景があるのではないだろうか。
また、レビューを読んだだけで本作を理解した気になるのは、本書の論旨に反する。
易きに流れるのが人間であり社会であるが、それが正解だとは思わない。
なんでもかんでも文化産業化している。出版業界も同じことだろう。
くだらないセンチメンタルなマンガ解説で「かんたん」「わかりやすく」して
馬鹿を相手に商売しているようでは終末に近づくだけである。
良書が絶版していく背景には『啓蒙の弁証法』を未読のまま偉そうな顔をしている輩が増えている背景があるのではないだろうか。
2016年2月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
仮借ない批判を行いながら、希望を暗示するという矛盾をあえておかした。それが哲学の使命であると認識していたから。論理展開の面白さもさることながら、こうした態度や信念こそ、この本を味わい深くしている。
2004年1月2日に日本でレビュー済み
ホルクハイマー、アドルノのアメリカ亡命中の作品。
本書の著者らは、人間の理性に対する懐疑の時代を実際に体験した。彼らの内に湧き立つ静かな熱気が本書を並一通りでないものにしている。西洋の思想史を、否定的に俯瞰しながら、しかし、彼らの「思想」に対する批判はいまだ、既存の「思想」の領域内であろうと欲する。そこに著者らの思想の独自性が現れる。
単純な解決は誤っているのみでなく、罪でさえありうる。そういう時代に現実に直面した思想家たちの、矛盾に満ちた感情のほとばしりは、現代の私たちに大きな感動を与える。本書を貫く批判精神は、現代の我々にとっていまだ充分に多くの意義を与えうるが、むしろ頑なに批判的にあろうとした著者らが、なお矛盾に留まろうとするその決意にこそ、我々は多くを学び取るべきなのかもしれない。
本書の著者らは、人間の理性に対する懐疑の時代を実際に体験した。彼らの内に湧き立つ静かな熱気が本書を並一通りでないものにしている。西洋の思想史を、否定的に俯瞰しながら、しかし、彼らの「思想」に対する批判はいまだ、既存の「思想」の領域内であろうと欲する。そこに著者らの思想の独自性が現れる。
単純な解決は誤っているのみでなく、罪でさえありうる。そういう時代に現実に直面した思想家たちの、矛盾に満ちた感情のほとばしりは、現代の私たちに大きな感動を与える。本書を貫く批判精神は、現代の我々にとっていまだ充分に多くの意義を与えうるが、むしろ頑なに批判的にあろうとした著者らが、なお矛盾に留まろうとするその決意にこそ、我々は多くを学び取るべきなのかもしれない。
2021年4月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ユーチューバーの「じゅんちゃん」が番組で推薦していたので、中古ですぐに購入。早速読み始めたが、序文のX(10番)で次のような文章が出てきた。
「もしも学問の自己忘却的な道具化から生じる不都合があるだけならば、社会的な諸問題について、思想は、少なくとも公認の学問に対して反対派的な立場に立つ傾向に結びつけばいいかもしれない。・・・」
この部分を何回読んでも理解ができない。気にせず読み進めるべきか、すぐに BOOKOFF へ直行すべきか迷っている。読み進める場合は、時間の無駄遣いになりそう。
「もしも学問の自己忘却的な道具化から生じる不都合があるだけならば、社会的な諸問題について、思想は、少なくとも公認の学問に対して反対派的な立場に立つ傾向に結びつけばいいかもしれない。・・・」
この部分を何回読んでも理解ができない。気にせず読み進めるべきか、すぐに BOOKOFF へ直行すべきか迷っている。読み進める場合は、時間の無駄遣いになりそう。
2008年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
言わずもがなの古典的名著。んで、その翻訳。
長らく日本語訳がなく、やっとこ、それが出て、
なんと文庫本で読める時代になった。
ナチの時代に直面し、「なんで、こうなった?」ということを、
現在の状況からでは想像できないほど、死ぬほど考えてできた著作です。
まずですね。超難しいです。そもそも原著のドイツ語が晦渋を極める。
よって、その翻訳もまた晦渋を極める。内容を本気で理解するのであれば
しっかりした人に講義をしてもらって読むべし。
単独で読んで、難しいとか、読む必要がない、とか言う人は
単純に勉強が足らんだけですわ。一種の散文なので、裏の意味とか、
背景がわからないと当然わかりません。
某先生の講義で輪読したことがありますが、そのあたりの解説も頂けて、
非常によくわかりました。アドルノが死ぬほど考えて書いた著作を
ストレートに読んで、すんなり全部わかるわけないでしょ。
まずは、格闘する文献。書いてる人が、そうなんだから、そう読む本。
長らく日本語訳がなく、やっとこ、それが出て、
なんと文庫本で読める時代になった。
ナチの時代に直面し、「なんで、こうなった?」ということを、
現在の状況からでは想像できないほど、死ぬほど考えてできた著作です。
まずですね。超難しいです。そもそも原著のドイツ語が晦渋を極める。
よって、その翻訳もまた晦渋を極める。内容を本気で理解するのであれば
しっかりした人に講義をしてもらって読むべし。
単独で読んで、難しいとか、読む必要がない、とか言う人は
単純に勉強が足らんだけですわ。一種の散文なので、裏の意味とか、
背景がわからないと当然わかりません。
某先生の講義で輪読したことがありますが、そのあたりの解説も頂けて、
非常によくわかりました。アドルノが死ぬほど考えて書いた著作を
ストレートに読んで、すんなり全部わかるわけないでしょ。
まずは、格闘する文献。書いてる人が、そうなんだから、そう読む本。
2020年9月5日に日本でレビュー済み
本書が発売になった時、早々に売り切れてしまうかと心配になり、本屋に電話して留め置きしてもらい購入した。しかしながら、数頁でダウンしてしまい、いま13年ぶりにコメントを書いている。あの時よりは少し分かった気がするので、書き留めておきます。
18世紀の啓蒙を、世界の呪術からの解放、神話から科学へという形で捉える進歩史観の時代とする。この史観を啓蒙時代に留めることなく、人類の文明化の過程を貫く原理と著者たちは考えた。それは客体に対する主体の優位であり、自然に対する人間の支配を意味した。この客体と主体、自然と人間の分離は、支配する者と服従する者との分裂を生じさせた。さらに人間は啓蒙、つまり自然支配を推し進めることによって、社会という第二の自然への隷属に陥ることとなった。いつの間にか主体の優位が客体の優位に反転してしまった。
以上の分析から啓蒙を「自然支配」からスタートすると、人間も内なる自然を持っていることが問題となる。その内なる自然を支配するとはどういうことか。そんなことをすれば、生きる目的そのものが分からなくなってしまう。また、啓蒙に問題があるとすれば、啓蒙の反対である野蛮に逆転するかもしれない。
啓蒙は今の用語でいえばリベラルに置き換えられないだろうか。啓蒙もリベラルもいろいろ問題がありそうだが、それでも理性的に自己批判しながら、あくまでも理性的に振舞おうとしている。
そんな態度に我慢できない人びとは、大衆文化(ポピュリズム)や単純な思想(イデオロギー)に、そして啓蒙が嫌った神話に、退行しようとする。本書『啓蒙の弁証法』はナチス批判の書でもある。この道をナチスは選んだ。
アメリカのトランプ大統領は、この同じ道を歩んでいるように見える。どうか私の杞憂で終わることを祈る。
18世紀の啓蒙を、世界の呪術からの解放、神話から科学へという形で捉える進歩史観の時代とする。この史観を啓蒙時代に留めることなく、人類の文明化の過程を貫く原理と著者たちは考えた。それは客体に対する主体の優位であり、自然に対する人間の支配を意味した。この客体と主体、自然と人間の分離は、支配する者と服従する者との分裂を生じさせた。さらに人間は啓蒙、つまり自然支配を推し進めることによって、社会という第二の自然への隷属に陥ることとなった。いつの間にか主体の優位が客体の優位に反転してしまった。
以上の分析から啓蒙を「自然支配」からスタートすると、人間も内なる自然を持っていることが問題となる。その内なる自然を支配するとはどういうことか。そんなことをすれば、生きる目的そのものが分からなくなってしまう。また、啓蒙に問題があるとすれば、啓蒙の反対である野蛮に逆転するかもしれない。
啓蒙は今の用語でいえばリベラルに置き換えられないだろうか。啓蒙もリベラルもいろいろ問題がありそうだが、それでも理性的に自己批判しながら、あくまでも理性的に振舞おうとしている。
そんな態度に我慢できない人びとは、大衆文化(ポピュリズム)や単純な思想(イデオロギー)に、そして啓蒙が嫌った神話に、退行しようとする。本書『啓蒙の弁証法』はナチス批判の書でもある。この道をナチスは選んだ。
アメリカのトランプ大統領は、この同じ道を歩んでいるように見える。どうか私の杞憂で終わることを祈る。
2006年10月11日に日本でレビュー済み
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人は自分の価値観や基準にしたがって世界を把握したり、
国を治めたりしようとすれば自ずとその基準からもれる人や価値
を排除してしまうことになる。しかし、人の夢(無意識)を覗けば
明らかなように自分自身の中にも複数の情報が対立して存在している。
西洋の哲学はこの「同一性」に基づいた体系を重視するあまり、
ここからずれる差異(非同一性)を無視し、時には抑圧して成立した。
いうまでもなくこうした徹底的な合理性を追求する態度が、逆説的に
ファシズムによるユダヤ人迫害・虐殺をもたらしたのである。
したがって、人間の理性がこれを防ぐためには、自己の限界を知り、
その上であくまで他者(自分と価値を共有しない者)を解明し続ける
啓蒙主義的態度が不可欠である。本書の言葉でいえば、他人に対する
啓蒙は、自分の理性に対する啓蒙に向かわなければならない。
たとえば科学はまず自ら仮説を立て、次にこれを実践(実験)に
よって証明する。それによって徐々に不可知な領域への認識を拡張
していくことができる。かくして理性が自ら問いを掲げ、それに
よって自己を不断に拡張していこうとする自己への啓蒙にこそ
「啓蒙の弁証法」の核心がある。
ではアドルノが「アウシュヴィッツ以後」を自らの哲学の原点にし
たように、「ヒロシマ・ナガサキ以後」を原点にした日本の哲学が生
まれないのは何故か。日本人が平和憲法を守るべきだと主張する前に、
このことの意味を知識人は深く考えるべきではないだろうか。
国を治めたりしようとすれば自ずとその基準からもれる人や価値
を排除してしまうことになる。しかし、人の夢(無意識)を覗けば
明らかなように自分自身の中にも複数の情報が対立して存在している。
西洋の哲学はこの「同一性」に基づいた体系を重視するあまり、
ここからずれる差異(非同一性)を無視し、時には抑圧して成立した。
いうまでもなくこうした徹底的な合理性を追求する態度が、逆説的に
ファシズムによるユダヤ人迫害・虐殺をもたらしたのである。
したがって、人間の理性がこれを防ぐためには、自己の限界を知り、
その上であくまで他者(自分と価値を共有しない者)を解明し続ける
啓蒙主義的態度が不可欠である。本書の言葉でいえば、他人に対する
啓蒙は、自分の理性に対する啓蒙に向かわなければならない。
たとえば科学はまず自ら仮説を立て、次にこれを実践(実験)に
よって証明する。それによって徐々に不可知な領域への認識を拡張
していくことができる。かくして理性が自ら問いを掲げ、それに
よって自己を不断に拡張していこうとする自己への啓蒙にこそ
「啓蒙の弁証法」の核心がある。
ではアドルノが「アウシュヴィッツ以後」を自らの哲学の原点にし
たように、「ヒロシマ・ナガサキ以後」を原点にした日本の哲学が生
まれないのは何故か。日本人が平和憲法を守るべきだと主張する前に、
このことの意味を知識人は深く考えるべきではないだろうか。