『ソシュールを読む』は、丸山圭三郎による、フェルディナン・ド・ソシュールの言語学理論を解説した書籍である。ソシュールは、近代言語学の父として知られており、彼の理論は、言語学だけでなく、哲学や社会学など、さまざまな分野に大きな影響を与えている。
本書は、ソシュールの「一般言語学講義」を基に、彼の言語学理論の基本的な概念を解説している。ソシュールによれば、言語は、外部世界を反映したものではなく、社会的な約束によって成り立っているものである。彼は、言語を「記号」として捉え、その構造を研究した。
本書では、ソシュールの言語学理論の以下の3つの柱について解説している。
言語は社会的なものである
言語は差異によって成立している
言語はシステムである
本書は、ソシュールの言語学理論を理解するための入門書として、広く読まれている。
以下に、本書の要点をまとめる。
言語は、外部世界を反映したものではなく、社会的な約束によって成り立っているものである。
言語は「記号」として捉えることができ、記号は「意味」と「音声」という二つの要素から構成されている。
言語は差異によって成立している。同じ音声でも、文脈によって異なる意味を持つことがある。
言語はシステムである。言語の各要素は、互いに関連し合って、一つのシステムを形成している。
本書は、ソシュールの言語学理論をわかりやすく解説した書籍である。言語学や哲学、社会学など、さまざまな分野に関心のある人々におすすめの書籍である。
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ソシュールを読む (岩波セミナーブックス 2) 単行本 – 1983/6/20
丸山 圭三郎
(著)
- 本の長さ334ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1983/6/20
- ISBN-104000048724
- ISBN-13978-4000048729
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1983/6/20)
- 発売日 : 1983/6/20
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 334ページ
- ISBN-10 : 4000048724
- ISBN-13 : 978-4000048729
- Amazon 売れ筋ランキング: - 156,581位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5,888位哲学・思想 (本)
- - 12,053位語学・辞事典・年鑑 (本)
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2023年10月18日に日本でレビュー済み
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2021年2月25日に日本でレビュー済み
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1884年、ソシュールは、友人あての手紙で、「言語学でなし得ることの大きな空しさがわかった」と書き送った。ソシュールのキャリアでは、生前に一冊の著書も公刊しなかったことや、1894年頃からその死までの約20年間、論文をほとんど公表せず、書簡恐怖症と称して手紙も書かなかったという「謎の沈黙」が有名だ。おそらく、ソシュールは、普通の人が看過するような些事にも鋭敏に反応する感受性の持ち主で、第三者には窺い知れない内的な葛藤を抱えていたのだと思う。
・「ここで問題となる同一性というのは、私が十二時五十分発と五時発のナポリ行急行列車の同一性を語る場合と同じ同一性である。またそれは、二回発音された『諸君!』という語の同一性でもある。一見、矛盾しているように思われるであろう、何故なら音的素材は異なっているのだから!」(p149)
・「別の例をもう一つ。ある街路を復旧しても、これは同じ街路である! この同一性は言語の同一性と同じ種類のものなのだ。街路の例では、この街路という単位は何かと問うことができよう。」(同)
このジュネーヴ大学での講義(『一般言語学講義』)で提示された同一性の問題は、その意味を真剣に考え出すと、並みの神経の持ち主なら精神的な息苦しさを覚えてしまうに違いない。ソシュールは、ここで事物の名称や類概念の曖昧さを指摘しているだけではなく、この現実は言語による認識が可能か、という本質的な問いを発している。彼は、十分な理論武装が可能となるまでの間、この不安神経症的な同一性の問題を講義の場で公表することに逡巡したはずだ。だが、非凡なソシュールは、言語(ラング)を認識論的に考察し、シーニュ(記号)の持つシニフィアンとシニフィエというふたつの側面に気がつく。しかも、個々の単語には意味的な絶対性がなく、差異こそが本質とみなされ、認識の構造が言語(ラング)の体系的な関係性で捉えられる。
・「厳密に言うと、シーニュが在るのではなく、シーニュ間の差異があるだけである。」(p253)
・「そこには差異しかない。実定的(+)な事項は一切存在しない。(……)シニフィアンの働きは差異に基づいている。同様に、シニフィエを考えてみても、そこには聴覚的次元の差異によって条件づけられるであろう差異しかない。」(p254)
以上の引用も、ソシュール自身の言葉だ。恐ろしいことに、認識者のパーソナリティも含めて、万物がアイデンティティを失ったかのように相対化されるのが、ソシュールが到達した世界観だといえよう。しかも、ソシュールの洞察は、過去、だれ一人として気づかなかった、人間の認識の盲点を鮮やかに突いている。そういう驚くべき洞察を講義以外で自ら公表しなかったソシュールには、やはり書簡恐怖症的な葛藤が存在したのだろうと想像される。
言語学者の加藤重広氏は、著者・丸山圭三郎氏のソシュール関係の一連の著作に関し、こうコメントしている。「言語から人間の本質に迫ろうとする哲学的探求は非常に刺激的であるが、ソシュールの解説者というよりは、ソシュールに触発された丸山思想として受け止めるのが妥当だと思う。」(ちくま新書『言語学講義』p255)。本書の全十講のうち、「です・ます調」で書かれた第一講から第八講までの内容は、豊富な引用から窺えるソシュールの思想との不自然な乖離がなく、私は、一読後、哲学的な内容をやさしく水先案内してもらった感じがした。だが、たとえば、第六講の、「ソシュール自身は明示的に区別していませんが、私は、<価値>も<意義>もラングのレヴェルに属し、パロールに属するものは<意味>sensであると考えています。」(p159)といった箇所などは、当然、丸山氏個人の見解といってよいだろう。さらに、「である調」で書かれた第九講・第十講では、明らかに、ソシュールの名を借りて、丸山氏独自の言語観が駆け足で表明されている。第八講までの丸山氏は沈着冷静だったが、この第九講・第十講は、なぜか上滑りな調子で、ソシュール言語学からの逸脱という点でも、むしろないほうがよかった。
私のソシュールの印象は、時代の流行との距離を置いて、孤独な思索の道を歩んだ人であり、学問的な特徴として、心的領域の言語への推論の透明度が非常に高いというものだ。本書を読むことは、言語学の書物の常として簡単ではないが、天才的な人の考え方に触れるという意味で、得がたい読書体験になるだろうと思う。丸山氏は、「ソシュールを読み出すと興奮して眠れない」(p38)というくらい、ソシュールに愛着を持っている。丸山氏ほどではないにしろ、私もソシュールという人が好きになった。
・「ここで問題となる同一性というのは、私が十二時五十分発と五時発のナポリ行急行列車の同一性を語る場合と同じ同一性である。またそれは、二回発音された『諸君!』という語の同一性でもある。一見、矛盾しているように思われるであろう、何故なら音的素材は異なっているのだから!」(p149)
・「別の例をもう一つ。ある街路を復旧しても、これは同じ街路である! この同一性は言語の同一性と同じ種類のものなのだ。街路の例では、この街路という単位は何かと問うことができよう。」(同)
このジュネーヴ大学での講義(『一般言語学講義』)で提示された同一性の問題は、その意味を真剣に考え出すと、並みの神経の持ち主なら精神的な息苦しさを覚えてしまうに違いない。ソシュールは、ここで事物の名称や類概念の曖昧さを指摘しているだけではなく、この現実は言語による認識が可能か、という本質的な問いを発している。彼は、十分な理論武装が可能となるまでの間、この不安神経症的な同一性の問題を講義の場で公表することに逡巡したはずだ。だが、非凡なソシュールは、言語(ラング)を認識論的に考察し、シーニュ(記号)の持つシニフィアンとシニフィエというふたつの側面に気がつく。しかも、個々の単語には意味的な絶対性がなく、差異こそが本質とみなされ、認識の構造が言語(ラング)の体系的な関係性で捉えられる。
・「厳密に言うと、シーニュが在るのではなく、シーニュ間の差異があるだけである。」(p253)
・「そこには差異しかない。実定的(+)な事項は一切存在しない。(……)シニフィアンの働きは差異に基づいている。同様に、シニフィエを考えてみても、そこには聴覚的次元の差異によって条件づけられるであろう差異しかない。」(p254)
以上の引用も、ソシュール自身の言葉だ。恐ろしいことに、認識者のパーソナリティも含めて、万物がアイデンティティを失ったかのように相対化されるのが、ソシュールが到達した世界観だといえよう。しかも、ソシュールの洞察は、過去、だれ一人として気づかなかった、人間の認識の盲点を鮮やかに突いている。そういう驚くべき洞察を講義以外で自ら公表しなかったソシュールには、やはり書簡恐怖症的な葛藤が存在したのだろうと想像される。
言語学者の加藤重広氏は、著者・丸山圭三郎氏のソシュール関係の一連の著作に関し、こうコメントしている。「言語から人間の本質に迫ろうとする哲学的探求は非常に刺激的であるが、ソシュールの解説者というよりは、ソシュールに触発された丸山思想として受け止めるのが妥当だと思う。」(ちくま新書『言語学講義』p255)。本書の全十講のうち、「です・ます調」で書かれた第一講から第八講までの内容は、豊富な引用から窺えるソシュールの思想との不自然な乖離がなく、私は、一読後、哲学的な内容をやさしく水先案内してもらった感じがした。だが、たとえば、第六講の、「ソシュール自身は明示的に区別していませんが、私は、<価値>も<意義>もラングのレヴェルに属し、パロールに属するものは<意味>sensであると考えています。」(p159)といった箇所などは、当然、丸山氏個人の見解といってよいだろう。さらに、「である調」で書かれた第九講・第十講では、明らかに、ソシュールの名を借りて、丸山氏独自の言語観が駆け足で表明されている。第八講までの丸山氏は沈着冷静だったが、この第九講・第十講は、なぜか上滑りな調子で、ソシュール言語学からの逸脱という点でも、むしろないほうがよかった。
私のソシュールの印象は、時代の流行との距離を置いて、孤独な思索の道を歩んだ人であり、学問的な特徴として、心的領域の言語への推論の透明度が非常に高いというものだ。本書を読むことは、言語学の書物の常として簡単ではないが、天才的な人の考え方に触れるという意味で、得がたい読書体験になるだろうと思う。丸山氏は、「ソシュールを読み出すと興奮して眠れない」(p38)というくらい、ソシュールに愛着を持っている。丸山氏ほどではないにしろ、私もソシュールという人が好きになった。
2023年1月24日に日本でレビュー済み
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誇張ではなく、4〜5ページに1ヶ所くらいの頻度で自分の思い込みを覆す思考が提示される。
厳密にはソシュールその人の思想ではなく、ソシュール言語学の解釈による著者「丸山圭三郎の思想」のようなものらしい。しかし素人にはソシュールでも、丸山圭三郎でも、厳密な違いは重要でない。
多くの常識や生活感覚が、簡単にひっくり返される。
現代思想の最先端より、100年以上前の、著作を残さなかった現代思想の源流のほうが過激で豊かな可能性を提示するかもしれない。
厳密にはソシュールその人の思想ではなく、ソシュール言語学の解釈による著者「丸山圭三郎の思想」のようなものらしい。しかし素人にはソシュールでも、丸山圭三郎でも、厳密な違いは重要でない。
多くの常識や生活感覚が、簡単にひっくり返される。
現代思想の最先端より、100年以上前の、著作を残さなかった現代思想の源流のほうが過激で豊かな可能性を提示するかもしれない。
2016年6月22日に日本でレビュー済み
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対象の価値を考えるのに、記号論は使える。
差異、関係、意味、記号、文脈
→記号の意味は関係によって生じている
記号に利用されない。記号を利用する。
→記号の「理解」の大切さ。
→つまり、記号として作用する要素を理解する。
自分がしていることが相手にとって何を意味しているのか?
一事が万事。というのは、良くも悪くもあるので、
抑えるべき所は抑えた方が人生楽そう。
遅刻しない。とか当たり前な事の記号性、象徴性。
→逆に些細なことに過度な意味づけをするとしんどいので注意。
ブランドに拘り過ぎたりすることとか。
ある人はAであるのに、自分はAでない。とかを
ひどく気にしたりすることであったり。
差異、関係、意味、記号、文脈
→記号の意味は関係によって生じている
記号に利用されない。記号を利用する。
→記号の「理解」の大切さ。
→つまり、記号として作用する要素を理解する。
自分がしていることが相手にとって何を意味しているのか?
一事が万事。というのは、良くも悪くもあるので、
抑えるべき所は抑えた方が人生楽そう。
遅刻しない。とか当たり前な事の記号性、象徴性。
→逆に些細なことに過度な意味づけをするとしんどいので注意。
ブランドに拘り過ぎたりすることとか。
ある人はAであるのに、自分はAでない。とかを
ひどく気にしたりすることであったり。
2020年8月7日に日本でレビュー済み
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この本を読んで、自分の感じたことを素人なりに書かせてください。(理解が浅く、間違った解釈も多々あると思いますが…)
まず筆者は、言葉で表現される全てのものや概念は、一定の文化体系のなかだけで機能する関係的存在に過ぎず、よってそこに絶対的価値は存在せず、あるのは差異だけだと指摘しています。つまり言葉は、本来境界など存在していない世界を恣意的に分割し、分割により相対的な対立関係を生み出します。また近代科学の本質も、本来多様な質でしかないものを 、量的な差異 、数量に還元するという営みであり、科学を信仰している私たちは本当の生からズレた世界で生きざるを得なくなっていると批判的に述べています。
その解決策として筆者は2種類の言語学作業を紹介するのですが、1つ目が「言分け構造」による文化現実の本質を理解すること、2つ目が「コスモスとカオスの間の往復をくり返しつつ 、相反する方向をもつ両義的運動を絶えず行うこと」だといいます。
自分は、この2作業がどうして望ましい生き方に繋がるのか、最後まで理解するに至りませんでした。言語の使用という営みから生じている問題を、どうして言語を利用した思考作業によって解決することができるのでしょうか。自分はこれらの方法も、いつまでたっても言語という呪縛から逃れることができないという矛盾を感じてしまいます。また、現代の私たちは確かに言葉や社会によって本当の生からズレた世界で生きているのかもしれません。しかし社会の中に産み落とされるほとんどの現代人にとって、社会(科学や法律を含む)や言葉から逃れて生きることはほぼ不可能です。社会や言語が決定する、あくまで相対的な価値しか持たない規範と、私達は普段からどう向き合い、どう折り合いをつけ、何を大事に生きていけばいいのでしょうか。
ソシュールの考えに基づいて言語の本質に迫っていく部分はとても面白かったです。一方で、その理論を基にどう生きていくべきかという部分の説明は物足りなく感じました。とはいえ、どう生きていくかという題材は一冊の本に明示的に示されるものでは無いとは思うので、この本で学んだことを出発点に、これからもこのトピックと向き合っていきたいと思います。
まず筆者は、言葉で表現される全てのものや概念は、一定の文化体系のなかだけで機能する関係的存在に過ぎず、よってそこに絶対的価値は存在せず、あるのは差異だけだと指摘しています。つまり言葉は、本来境界など存在していない世界を恣意的に分割し、分割により相対的な対立関係を生み出します。また近代科学の本質も、本来多様な質でしかないものを 、量的な差異 、数量に還元するという営みであり、科学を信仰している私たちは本当の生からズレた世界で生きざるを得なくなっていると批判的に述べています。
その解決策として筆者は2種類の言語学作業を紹介するのですが、1つ目が「言分け構造」による文化現実の本質を理解すること、2つ目が「コスモスとカオスの間の往復をくり返しつつ 、相反する方向をもつ両義的運動を絶えず行うこと」だといいます。
自分は、この2作業がどうして望ましい生き方に繋がるのか、最後まで理解するに至りませんでした。言語の使用という営みから生じている問題を、どうして言語を利用した思考作業によって解決することができるのでしょうか。自分はこれらの方法も、いつまでたっても言語という呪縛から逃れることができないという矛盾を感じてしまいます。また、現代の私たちは確かに言葉や社会によって本当の生からズレた世界で生きているのかもしれません。しかし社会の中に産み落とされるほとんどの現代人にとって、社会(科学や法律を含む)や言葉から逃れて生きることはほぼ不可能です。社会や言語が決定する、あくまで相対的な価値しか持たない規範と、私達は普段からどう向き合い、どう折り合いをつけ、何を大事に生きていけばいいのでしょうか。
ソシュールの考えに基づいて言語の本質に迫っていく部分はとても面白かったです。一方で、その理論を基にどう生きていくべきかという部分の説明は物足りなく感じました。とはいえ、どう生きていくかという題材は一冊の本に明示的に示されるものでは無いとは思うので、この本で学んだことを出発点に、これからもこのトピックと向き合っていきたいと思います。
2018年5月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
過日、JR大宮駅前のジュンク堂にぶらっと寄って、たまたま丸山圭三郎さんの『言葉とは何か』という本に行き当たり、これが面白くて、ソシュール記号学をもうちょっと知ろうというつもりになりました。
言語というものの現代的かつ基本的な理解ができると思います。
個人の発語行為が、コミュニケーションの一方通行を引き起こさないための手引書とも読めそうです。
言語というものの現代的かつ基本的な理解ができると思います。
個人の発語行為が、コミュニケーションの一方通行を引き起こさないための手引書とも読めそうです。
2016年8月5日に日本でレビュー済み
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本は書き込みもなくきれいで読みやすい
本は書き込みもなくきれいで読みやすい
思った以上に面白かった
言語学必修
本は書き込みもなくきれいで読みやすい
思った以上に面白かった
言語学必修
2012年7月14日に日本でレビュー済み
1983年岩波書店から刊行された書の文庫版である。
1〜8章は、これでもか、というくらい何度も「記号学的還元」について論じている。
これはウィトゲンシュタインの「言語論的転回」とほぼ同じであろう。
概念が先にあって、それに音や文字がくっつくのではなく、
概念が成立するのは、音や文字による差異化と同時であるという主張である。
この業績をもって、筆者はソシュールのことを「プラトン以降のヨーロッパ的思考を
根底から批判した〈異議申し立て者〉であった」(18頁)とする。
ソシュールを激賞する筆者は、その批判者である、リクール(170頁)チョムスキー(187頁)
バンヴェニスト(217〜8頁)に対して手厳しい。
一方で、時としてソシュール自身もシーニュとシニフィアンを混同すると述べるなど(220頁)
ソシュールに対して無批判でないところは面白い。
また、「ソシュールの言いたかったのは、ラングという共同幻想が、いかに私たちを
規制しているか、そしていかに惰性化が強いものであるか、という記号の世界の
恐ろしさにほかなりません」(144頁)と述べる。
この視角から筆者は、
「人間が動物と同じようにコトバ以前の感覚=運動的なものを保有しながらも、
これが破綻してしまって、二重、三重に自然から引離されてしまっていることを、
冷徹な眼で見極めねばならない」(224頁)
と主張する。最後の2章はこの主張の強化に当てられている。
この書における社会的な主張はやや左翼的(?)であって、評者の好みではないが、
享年60は若く、もっと長生きして、さらなる哲学を紡いで欲しかった学者である。
1〜8章は、これでもか、というくらい何度も「記号学的還元」について論じている。
これはウィトゲンシュタインの「言語論的転回」とほぼ同じであろう。
概念が先にあって、それに音や文字がくっつくのではなく、
概念が成立するのは、音や文字による差異化と同時であるという主張である。
この業績をもって、筆者はソシュールのことを「プラトン以降のヨーロッパ的思考を
根底から批判した〈異議申し立て者〉であった」(18頁)とする。
ソシュールを激賞する筆者は、その批判者である、リクール(170頁)チョムスキー(187頁)
バンヴェニスト(217〜8頁)に対して手厳しい。
一方で、時としてソシュール自身もシーニュとシニフィアンを混同すると述べるなど(220頁)
ソシュールに対して無批判でないところは面白い。
また、「ソシュールの言いたかったのは、ラングという共同幻想が、いかに私たちを
規制しているか、そしていかに惰性化が強いものであるか、という記号の世界の
恐ろしさにほかなりません」(144頁)と述べる。
この視角から筆者は、
「人間が動物と同じようにコトバ以前の感覚=運動的なものを保有しながらも、
これが破綻してしまって、二重、三重に自然から引離されてしまっていることを、
冷徹な眼で見極めねばならない」(224頁)
と主張する。最後の2章はこの主張の強化に当てられている。
この書における社会的な主張はやや左翼的(?)であって、評者の好みではないが、
享年60は若く、もっと長生きして、さらなる哲学を紡いで欲しかった学者である。