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鏡映反転――紀元前からの難問を解く 単行本 – 2015/7/16
高野 陽太郎
(著)
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なぜ鏡の中では〈左右〉が反対に見えるのか?――一見、かんたんな問題のようで、実はプラトンの昔から、数多くの哲学者や物理学者の挑戦を退けてきた。しかも、常に「左右が反対に見える」わけではない。誰もが知っている現象なのに、2000年以上も謎でありつづけたこの難問を、科学的な分析と実験によって解決する。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2015/7/16
- 寸法13.5 x 2.1 x 19.5 cm
- ISBN-104000052489
- ISBN-13978-4000052481
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商品の説明
著者について
高野陽太郎(たかの ようたろう)
1950年東京生まれ.1985年Cornell大学心理学部大学院博士課程修了.Virginia大学専任講師,早稲田大学専任講師を経て,現在,東京大学大学院人文社会系研究科教授.専門は認知科学(認知心理学,社会心理学).著書に『「集団主義」という錯覚――日本人論の思い違いとその由来』(新曜社),『認知心理学』(放送大学教育振興会),『心理学研究法――心を見つめる科学のまなざし』(編著;有斐閣),『傾いた図形の謎〈認知科学選書11〉』(東京大学出版会)など.
1950年東京生まれ.1985年Cornell大学心理学部大学院博士課程修了.Virginia大学専任講師,早稲田大学専任講師を経て,現在,東京大学大学院人文社会系研究科教授.専門は認知科学(認知心理学,社会心理学).著書に『「集団主義」という錯覚――日本人論の思い違いとその由来』(新曜社),『認知心理学』(放送大学教育振興会),『心理学研究法――心を見つめる科学のまなざし』(編著;有斐閣),『傾いた図形の謎〈認知科学選書11〉』(東京大学出版会)など.
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2015/7/16)
- 発売日 : 2015/7/16
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 4000052489
- ISBN-13 : 978-4000052481
- 寸法 : 13.5 x 2.1 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 250,864位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 4,435位実用・暮らし・スポーツ
- - 10,733位心理学 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年5月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ノーベル科学賞あげたい。如何に昔の物理学書がいい加減だったか良く分かりました!
2016年1月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もっと単純な理論になるのかと思っていましたが、いくつもの理屈を複合させないと答えにならない、という著者の丁寧な説明に十分納得しました。科学的手法に関する著者の思い入れが随所に出てきて、少しくどいような感じもしましたが、紀元前からの諸説をひっくり返すのだから、無理もないと思いました。
2016年3月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
帯に書いてあるほど、画期的な内容でもありません。
よく言われる「日本人には哲学、心理は得意分野でない」というのがよく分かった。
鏡は鏡、やはり左右反対に写るもの、結論なき主張の連続に過ぎません。「何故そうなるのか?」という命題には迫っていません。
ご興味のある方は「文庫」になってからご購入されることをお勧めします。三千円も金を掛ける値打ちは正直ありません。「岩波書店」ですので、「岩波文庫」がありますので。
よく言われる「日本人には哲学、心理は得意分野でない」というのがよく分かった。
鏡は鏡、やはり左右反対に写るもの、結論なき主張の連続に過ぎません。「何故そうなるのか?」という命題には迫っていません。
ご興味のある方は「文庫」になってからご購入されることをお勧めします。三千円も金を掛ける値打ちは正直ありません。「岩波書店」ですので、「岩波文庫」がありますので。
2015年9月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
鏡に映して見ると、上下は反転しないのに、何故左右は反転するのか ? 単純な問題の様でいて、実は古代ギリシャのプラトン以来、現代でも解けていない(定説がない)謎なのである。本書はこの問題を物理学的(光学的)知識なしに<知的パズル>として解こうと試みた大変楽しい本である。まず第一章で、鏡映によって左右が「物理的に反転」するのではなく、「反転している様に見える」事をズバッと指摘する。即ち、これは物理学的問題ではなく、「人間の<認知>」の問題なのである。この第一章を読んだだけでも、頭が良い意味でのショックを受けて得した気分になる。
第二章は過去において提唱された説及びそれに対する反駁の紹介(定説がない事の確認である)。第三章でやっと著者の説が披歴される。この章はやや難解で、繰り返し読んで、ようやく<視点変換>という著者のアイデアを理解出来た。第四章は著者の説の実証実験で、軽く済むかと思っていたら、意外や意外、被験者の約1/3が"自分自身の鏡映反転"を認知しないという結果には驚いた。実はこれは著者の説の裏付けともなっているのだが、科学における"思い込み"の怖さを身に染みて感じた。第五章は本書の纏めである。上では省いたが、著者は「鏡映反転」を「表象反転」、「視点反転」及び「光学反転」の組合せ(多重プロセス)と考えているのである。上述した"自分自身の鏡映反転"とは主に「視点反転」に依る。一方、文字等の「表象反転」に関しては、認知しなかった被験者はゼロ(!)だったのである。「視点反転」と「表象反転」のメカニズムの相違を浮き彫りにしている。第六~七章は著者の説を踏まえた上での、従来の説への再度の反駁。他説と闘う著者の姿が浮かび上がって来る。
<知的パズル>と称するには深い内容の書だが、頭のリフレッシュには最適の好著。ただし、<認知>の過程でどうして<視点変換>が必要となる(上述した通り、<視点変換>しない被験者も存在した)のか最後まで理解出来なかった。これは認知工学の問題で、これからの課題という事であろうか。
第二章は過去において提唱された説及びそれに対する反駁の紹介(定説がない事の確認である)。第三章でやっと著者の説が披歴される。この章はやや難解で、繰り返し読んで、ようやく<視点変換>という著者のアイデアを理解出来た。第四章は著者の説の実証実験で、軽く済むかと思っていたら、意外や意外、被験者の約1/3が"自分自身の鏡映反転"を認知しないという結果には驚いた。実はこれは著者の説の裏付けともなっているのだが、科学における"思い込み"の怖さを身に染みて感じた。第五章は本書の纏めである。上では省いたが、著者は「鏡映反転」を「表象反転」、「視点反転」及び「光学反転」の組合せ(多重プロセス)と考えているのである。上述した"自分自身の鏡映反転"とは主に「視点反転」に依る。一方、文字等の「表象反転」に関しては、認知しなかった被験者はゼロ(!)だったのである。「視点反転」と「表象反転」のメカニズムの相違を浮き彫りにしている。第六~七章は著者の説を踏まえた上での、従来の説への再度の反駁。他説と闘う著者の姿が浮かび上がって来る。
<知的パズル>と称するには深い内容の書だが、頭のリフレッシュには最適の好著。ただし、<認知>の過程でどうして<視点変換>が必要となる(上述した通り、<視点変換>しない被験者も存在した)のか最後まで理解出来なかった。これは認知工学の問題で、これからの課題という事であろうか。
2016年4月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
幾何の用語のような書名ですが幾何の本ではありません。
幾何で使われる用語「鏡映」「反転」をキーワードに本書にたどり着き、読み始めてがっかり期待外れということになりかねません。本書は、Amazonでは科学・テクノロジー(=数学・物理学・工学など自然科学の分野)に分類されていますが、本来なら人文科学の中の心理学に分類するべきものです。
本書は、心理学の観点で、人はなぜ鏡に映ったものが右左逆になっていると認識するのか、人はどのように右と左を認識しているのか、そもそもなぜ右と左とを認識する必要があるのか、一冊約200ページを使って説明しているのです。
幾何で使われる用語「鏡映」「反転」をキーワードに本書にたどり着き、読み始めてがっかり期待外れということになりかねません。本書は、Amazonでは科学・テクノロジー(=数学・物理学・工学など自然科学の分野)に分類されていますが、本来なら人文科学の中の心理学に分類するべきものです。
本書は、心理学の観点で、人はなぜ鏡に映ったものが右左逆になっていると認識するのか、人はどのように右と左を認識しているのか、そもそもなぜ右と左とを認識する必要があるのか、一冊約200ページを使って説明しているのです。
2022年11月14日に日本でレビュー済み
本書のすべてに目を通していませんが、著者の提唱した理論について私見を述べさせていただきます。著者が「視点」を導入し、観察者の主観に注目したことにういては大いに、高く評価できますが、一方で光学系を無視したことは誤りです。鏡像が生じる現象は鏡と観察者の目を含む光学系がなければ存在しえないのです。簡単に言えば、鏡像の位置に鏡像と同じ外観をした物体、例えば実物と同形の双子か動かせる人形に鏡像と同じ姿勢をとらせ、鏡を透明なガラス板で置き換えた場合も著者の説明が可能です、それはもはや鏡像の問題(鏡映反転)ではないのです。この点についてはグレゴリー説も同様です。宣伝になりますが、この9月に刊行された私の新著「Resolution of Mirror Problem」(Lambert Academic Publishing)では光学系の解明と併せて認識論の面からも掘り下げています。
2016年2月21日に日本でレビュー済み
「鏡に映ると、上下は反転して見えないのに、どうして左右は反転して見えるのか」。本書は、古来より人々を悩ませてきたその難問に、心理学者が挑んだ渾身の1冊である。
さて、自分が鏡の真正面に立った(正対した)ときのことを考えてみよう。まずポイントは、じつは光学的には、そのときの鏡像は左右に反転していないという事実である。鏡はその表面に垂直な方向だけを反転するのであり、したがって、いまのケースでは前後方向だけが反転している。左右が反転していない証拠として、かりに自分が左腕に時計をしていたとしたら、その実物の時計は(自分から見て)左側にあると同時に、鏡像の時計も(自分から見て)左側にあるだろう。よって、「光学的にいえば、対象が鏡と正対しているとき、前後は反転するが、上下はもとより、左右も反転しないのである。したがって、純粋に物理学的な観点からみれば、『鏡が左右を反転するのはなぜか?』などという問題は存在しないのだ、ともいえる」(15頁)。
しかし、そうはいいつつも、あなたが鏡の正面に立ったとしたら、やはりその鏡像は左右が反転しているように思われるのではないだろうか。鏡と正対したとき、その鏡像は光学的に左右反転していないにもかかわらず、しかしわたしたち(の多く)には、左右が反転しているように思われる。だとすれば、それは光学的な問題ではなくて、わたしたちの心理の問題であろう。「鏡映反転というのは、物理の問題ではなく、認知の問題だ」(15頁)と著者がいうのは、そのような意味においてである。
ここで、本書の議論の理解促進をねらって、「認知する」という言葉の使われ方について言及しておこう。本書では、「鏡映反転を認知する」や「鏡像が左右反転しているように認知する」といった言い回しが頻繁に登場する。そしておそらく、その言い回しで何を意味しているのかが理解できれば、読者も著者の論点をずいぶん簡単に理解できるようになるだろう(わたしの場合がまさにそうだった)。「鏡映反転を認知する」という表現と反対の意味で用いられているのは、「鏡映反転を否認する」という表現である。「鏡映反転を否認する」というのは、「鏡像(のたとえば左右)が反転していないと思っている」ことであり、また、「『鏡像(の左右)は反転していますか?』と質問されたときに『いいえ』と答える」ことである。それゆえ、「鏡映反転を認知する」というのは、「鏡像(の左右)が反転していると思っている」ことであり、「『鏡像(の左右)は反転していますか?』と尋ねられたときに『はい』と答える」ことにほかならない。前述のように、鏡と正対したとき、その鏡像は光学的には左右反転していない。しかしそれでも、わたしたちの多くは、鏡像が左右反転していると思っている。それこそまさに、(鏡像は光学的に左右反転していないのに)「鏡映反転を認知する」という状態である。
というのが、本書の議論の前提である。ではそれなら、どうしてわたしたちは鏡映反転を認知するのか。どうして(光学的には左右反転していない場合でも)鏡像が左右反転していると思ってしまうのか。著者はその点の解明に向けて自説を練り上げていく。
おもしろいのは、著者が鏡映反転(の認知)を単一の事象だとは捉えていないという点だ。じつは、鏡像と何(実物 or 表象)を比較するかによって、また、比較する対象と鏡像とのあいだに方向の逆転があるかないかによって、鏡映反転は複数のタイプに分けられるという。そして著者は、鏡映反転を引き起こす成分として、3つの「変換」を抽出する。そのひとつは、すでに述べた「光学変換」。もうひとつは、文字などを鏡に映したとき、その実物と観察者の表象とのあいだで起こる「対象−表象変換」。最後は、自らが鏡の前に立ったときなどに行われる、視点(座標系)を入れ換えるという「視点変換」である。そして著者によれば、以上3つの変換の組み合わせによって、鏡映反転にも3つのタイプがあるという。それが「光学反転」「表象反転」「視点反転」であり、それら3つの反転を提唱する理論は「多重プロセス理論」と呼ばれる。
「鏡映反転にはじつは3つのタイプがある」といわれても、にわかには信じがたいかもしれない。そこで著者は、自説を検証するべく、それをさまざまな実験のふるいにかけていく。多重プロセス理論はそうした実験結果をうまく説明できるのか、また何より、その理論は実験結果をうまく予測できるのか、それがここでの勝負所である。このあたりの議論は本当にエキサイティングであるので、読者も興奮や驚きとともに慎重さをもって読んでほしいと思う。
かくいうわたしも、最初は半ば疑わしい気持ちで本書を読み進めていた。しかし、本書の中盤で、とくに上述の「認知する」という表現の意味がわかると、本書の議論がすとんと腑に落ちた。そしてそうなると、著者の主張はけっして複雑なものではなく、むしろシンプルで、自然な考え方であるようにさえ思えてきた。本書を読み終えて、その議論の大筋が(細部は除いて)「きわめて難解」だと思われたなら、残念ながら本書の議論をうまく理解できていないのかもしれない。
すでに述べたように、本書の議論は非常にエキサイティングである。わたし個人としては、ここ数年読んだ本のなかで、日本人著者の本としては最も刺激的だったのではないかと思う。願うのは、本書がほかの言語に翻訳されて、海外のさまざまな研究者によって吟味されることである。著者の主張が今後世界的にどう評価されていくのか、それをぜひとも知りたいと思う。
さて、自分が鏡の真正面に立った(正対した)ときのことを考えてみよう。まずポイントは、じつは光学的には、そのときの鏡像は左右に反転していないという事実である。鏡はその表面に垂直な方向だけを反転するのであり、したがって、いまのケースでは前後方向だけが反転している。左右が反転していない証拠として、かりに自分が左腕に時計をしていたとしたら、その実物の時計は(自分から見て)左側にあると同時に、鏡像の時計も(自分から見て)左側にあるだろう。よって、「光学的にいえば、対象が鏡と正対しているとき、前後は反転するが、上下はもとより、左右も反転しないのである。したがって、純粋に物理学的な観点からみれば、『鏡が左右を反転するのはなぜか?』などという問題は存在しないのだ、ともいえる」(15頁)。
しかし、そうはいいつつも、あなたが鏡の正面に立ったとしたら、やはりその鏡像は左右が反転しているように思われるのではないだろうか。鏡と正対したとき、その鏡像は光学的に左右反転していないにもかかわらず、しかしわたしたち(の多く)には、左右が反転しているように思われる。だとすれば、それは光学的な問題ではなくて、わたしたちの心理の問題であろう。「鏡映反転というのは、物理の問題ではなく、認知の問題だ」(15頁)と著者がいうのは、そのような意味においてである。
ここで、本書の議論の理解促進をねらって、「認知する」という言葉の使われ方について言及しておこう。本書では、「鏡映反転を認知する」や「鏡像が左右反転しているように認知する」といった言い回しが頻繁に登場する。そしておそらく、その言い回しで何を意味しているのかが理解できれば、読者も著者の論点をずいぶん簡単に理解できるようになるだろう(わたしの場合がまさにそうだった)。「鏡映反転を認知する」という表現と反対の意味で用いられているのは、「鏡映反転を否認する」という表現である。「鏡映反転を否認する」というのは、「鏡像(のたとえば左右)が反転していないと思っている」ことであり、また、「『鏡像(の左右)は反転していますか?』と質問されたときに『いいえ』と答える」ことである。それゆえ、「鏡映反転を認知する」というのは、「鏡像(の左右)が反転していると思っている」ことであり、「『鏡像(の左右)は反転していますか?』と尋ねられたときに『はい』と答える」ことにほかならない。前述のように、鏡と正対したとき、その鏡像は光学的には左右反転していない。しかしそれでも、わたしたちの多くは、鏡像が左右反転していると思っている。それこそまさに、(鏡像は光学的に左右反転していないのに)「鏡映反転を認知する」という状態である。
というのが、本書の議論の前提である。ではそれなら、どうしてわたしたちは鏡映反転を認知するのか。どうして(光学的には左右反転していない場合でも)鏡像が左右反転していると思ってしまうのか。著者はその点の解明に向けて自説を練り上げていく。
おもしろいのは、著者が鏡映反転(の認知)を単一の事象だとは捉えていないという点だ。じつは、鏡像と何(実物 or 表象)を比較するかによって、また、比較する対象と鏡像とのあいだに方向の逆転があるかないかによって、鏡映反転は複数のタイプに分けられるという。そして著者は、鏡映反転を引き起こす成分として、3つの「変換」を抽出する。そのひとつは、すでに述べた「光学変換」。もうひとつは、文字などを鏡に映したとき、その実物と観察者の表象とのあいだで起こる「対象−表象変換」。最後は、自らが鏡の前に立ったときなどに行われる、視点(座標系)を入れ換えるという「視点変換」である。そして著者によれば、以上3つの変換の組み合わせによって、鏡映反転にも3つのタイプがあるという。それが「光学反転」「表象反転」「視点反転」であり、それら3つの反転を提唱する理論は「多重プロセス理論」と呼ばれる。
「鏡映反転にはじつは3つのタイプがある」といわれても、にわかには信じがたいかもしれない。そこで著者は、自説を検証するべく、それをさまざまな実験のふるいにかけていく。多重プロセス理論はそうした実験結果をうまく説明できるのか、また何より、その理論は実験結果をうまく予測できるのか、それがここでの勝負所である。このあたりの議論は本当にエキサイティングであるので、読者も興奮や驚きとともに慎重さをもって読んでほしいと思う。
かくいうわたしも、最初は半ば疑わしい気持ちで本書を読み進めていた。しかし、本書の中盤で、とくに上述の「認知する」という表現の意味がわかると、本書の議論がすとんと腑に落ちた。そしてそうなると、著者の主張はけっして複雑なものではなく、むしろシンプルで、自然な考え方であるようにさえ思えてきた。本書を読み終えて、その議論の大筋が(細部は除いて)「きわめて難解」だと思われたなら、残念ながら本書の議論をうまく理解できていないのかもしれない。
すでに述べたように、本書の議論は非常にエキサイティングである。わたし個人としては、ここ数年読んだ本のなかで、日本人著者の本としては最も刺激的だったのではないかと思う。願うのは、本書がほかの言語に翻訳されて、海外のさまざまな研究者によって吟味されることである。著者の主張が今後世界的にどう評価されていくのか、それをぜひとも知りたいと思う。