哲学は、カントより後のあたりから、徐々に文芸的な精神活動となっていった(というか努めて目指していった)。文芸的なものを目指しているのだから、その語り口が衒学的になるのはべつにいいことだと私は思う。衒学的な文章はカッコよく見える場合があるので、それは文芸の効果の一つとして認められる余地がある。それはそれとして一応の(精神的な何らかの)価値があり、知的な刺激を供してくれるかもしれない。
しかし、せっかくカッコつけるために行ったその衒学が、明らかに間違っていた内容だったらカッコ悪い。大げさな例を挙げるなら、「アリストテレスは、その問答法によって当時の知識人と称せられていた人たちの無知さを暴き、その自惚れを砕いたのだ。これが『無知の知』である。」みたいな文章が出てきたら読んでいるこっちが恥ずかしくなるし、その文章への知的な信用を失うだろう。哲学が目指していた知的活動が却って蔑ろにされてしまう。おそらく、ソーカル&ブリクモンもそんな気持ちだったに違いない。せめてちゃんと真面目に知的に学を衒ってほしい、と。
つまり、本書に取り上げられ論難の対象となっていたテクストは、学問としても、或いはその他の何らかの知的な営みとしても、単に不誠実だったのである。
そんな知的不誠実もしくは知的怠慢と言うべきものを戒めるために、本書を読むことは非常に有効。オススメです。
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「知」の欺瞞: ポストモダン思想における科学の濫用 単行本 – 2000/5/24
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前代未聞の偽論文を書いた著者が真相を語る
- 本の長さ368ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2000/5/24
- ISBN-104000056786
- ISBN-13978-4000056786
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「ポストモダニズム」思想の分野では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされていることを指摘し、さらに、それらの著作に見られる自然科学の内容または自然科学の哲学に関連したある種の思考の混乱について議論する。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2000/5/24)
- 発売日 : 2000/5/24
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 368ページ
- ISBN-10 : 4000056786
- ISBN-13 : 978-4000056786
- Amazon 売れ筋ランキング: - 309,395位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 289位自然哲学・宇宙論・時間論
- - 1,142位科学読み物 (本)
- - 58,723位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2012年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フランス思想、なかでもポストモダンと呼ばれる思想および、
それを提唱する哲学者たちが「科学用語を無意味に濫用している」と
指摘し物議を醸した著作です。
自然科学と関係のない内容を取り扱っているのに
数学、論理学、物理学などに遣われる専門用語を並べ立てて
知識のない素人を煙にまいていると言うのです。
批判はわかりやすく、それでいて厳しいもので
ラカン、ドゥルーズ、クリステヴァなど
フランスの著名な学者を槍玉に上げ、はっきりとしない曖昧な記述や
自然科学の概念を間違って使用している箇所を引用し
徹底的に批判しています。
この本を読んで考えさせられたのは
人間の、権威に対する弱さです。
私達は難しいものや判らないものに対して
つい高い権威をもつものだと考えがちです。
エラい先生が書いているからといって
自分で考えたり調べることをせず
学説を鵜呑みにするだけでは
権威に踊らされるばかりで、何も進歩がありません。
「ソーカル事件」は権威にかしづく読者に警鐘を鳴らして
くれたのです。
ただし、指摘に疑問の残る部分もあります。
142ページでイリガライの
「(前略)宇宙のリズムとその規制を乗り越えることに〜(略)」
という部分を「意味がわからない」と批判しているのですが
ここは用語の濫用に当てはまらないと思います。
イリガライは科学に登場するような単語を遣って
詩的な散文を書いただけであって、
科学の概念を無関係なものに結びつけたわけではありません。
詩的表現を科学的に間違っていると指摘するのは適切ではないでしょう。
更に143ページを見ると
「ニーチェも自らの自我を爆発の危険に
晒されている原子核のように感知していた」
という文章があり
これに対して
「原子核が発見されたのは1911年であり
核分裂が発見されたのは1938年である(中略)
1900年に逝去したニーチェが自我を核分裂として
とらえていたとは思いがたい」
という批判がなされています。
イリガライはニーチェの思索の激烈さを喩えるために
原子核という言葉を遣っただけであって
これを事実関係や時系列がうんぬん、という観点から批判するのは
的外れです。
また196ページでボードリヤールの著書の
「(前略)戦争の空間が決定的に
非ユークリッド的空間となったことの記号である」
というくだりに対して
「非ユークリッド空間とは何か?
中学や高校で学ぶユークリッドの平面幾何では〜(略)」
と数学上の説明をして批判しています。
しかしボードリヤールは「非ユークリッド「的」空間」と
喩えとして用いたのであって
数学上のユークリッド空間そのものであるとは
言っていません。
文脈を見ればユークリッド空間を「従来の形の戦争」
非ユークリッド空間を「今までのノウハウが通用しない新しい戦争」
という意味であることが読み取れます。
この部分に関してはボードリヤールの濫用ではなく
作者の読解不足でしょう。
本の体裁にも問題があります。
本文と引用文との間に余白が無い上に、全く同じ字体で
記載されているため区別がつきにくいのです。
字体を変えるなりして、いくらでも対策はとれたはずです。
これは明らかに編集の不手際でしょう。
読みやすいように改善し、より多くの読者の手に
渡るようにしてほしいです。
それを提唱する哲学者たちが「科学用語を無意味に濫用している」と
指摘し物議を醸した著作です。
自然科学と関係のない内容を取り扱っているのに
数学、論理学、物理学などに遣われる専門用語を並べ立てて
知識のない素人を煙にまいていると言うのです。
批判はわかりやすく、それでいて厳しいもので
ラカン、ドゥルーズ、クリステヴァなど
フランスの著名な学者を槍玉に上げ、はっきりとしない曖昧な記述や
自然科学の概念を間違って使用している箇所を引用し
徹底的に批判しています。
この本を読んで考えさせられたのは
人間の、権威に対する弱さです。
私達は難しいものや判らないものに対して
つい高い権威をもつものだと考えがちです。
エラい先生が書いているからといって
自分で考えたり調べることをせず
学説を鵜呑みにするだけでは
権威に踊らされるばかりで、何も進歩がありません。
「ソーカル事件」は権威にかしづく読者に警鐘を鳴らして
くれたのです。
ただし、指摘に疑問の残る部分もあります。
142ページでイリガライの
「(前略)宇宙のリズムとその規制を乗り越えることに〜(略)」
という部分を「意味がわからない」と批判しているのですが
ここは用語の濫用に当てはまらないと思います。
イリガライは科学に登場するような単語を遣って
詩的な散文を書いただけであって、
科学の概念を無関係なものに結びつけたわけではありません。
詩的表現を科学的に間違っていると指摘するのは適切ではないでしょう。
更に143ページを見ると
「ニーチェも自らの自我を爆発の危険に
晒されている原子核のように感知していた」
という文章があり
これに対して
「原子核が発見されたのは1911年であり
核分裂が発見されたのは1938年である(中略)
1900年に逝去したニーチェが自我を核分裂として
とらえていたとは思いがたい」
という批判がなされています。
イリガライはニーチェの思索の激烈さを喩えるために
原子核という言葉を遣っただけであって
これを事実関係や時系列がうんぬん、という観点から批判するのは
的外れです。
また196ページでボードリヤールの著書の
「(前略)戦争の空間が決定的に
非ユークリッド的空間となったことの記号である」
というくだりに対して
「非ユークリッド空間とは何か?
中学や高校で学ぶユークリッドの平面幾何では〜(略)」
と数学上の説明をして批判しています。
しかしボードリヤールは「非ユークリッド「的」空間」と
喩えとして用いたのであって
数学上のユークリッド空間そのものであるとは
言っていません。
文脈を見ればユークリッド空間を「従来の形の戦争」
非ユークリッド空間を「今までのノウハウが通用しない新しい戦争」
という意味であることが読み取れます。
この部分に関してはボードリヤールの濫用ではなく
作者の読解不足でしょう。
本の体裁にも問題があります。
本文と引用文との間に余白が無い上に、全く同じ字体で
記載されているため区別がつきにくいのです。
字体を変えるなりして、いくらでも対策はとれたはずです。
これは明らかに編集の不手際でしょう。
読みやすいように改善し、より多くの読者の手に
渡るようにしてほしいです。
2023年12月25日に日本でレビュー済み
※科学をめぐるポストモダンの「言説」の一部が「当世流行馬鹿噺」に過ぎないことを示し、欧米で激論をよんだ告発の書。名立たる知識人の著述に見られる科学用語の明白な濫用の数々。人文系と社会科学にとって本当の敵は誰なのか?著者らが目指すのは“サイエンス・ウォーズ”ではなく、科学と人文の間の真の対話である。
1 はじめに
2 ラカン
3 クリステヴァ
4 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
5 イリガライ
6 ラトゥール
7 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
8 ボードリヤール
9 ドゥルーズとガタリ
10 ヴィリリオ
11 ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
12 エピローグ。
1 はじめに
2 ラカン
3 クリステヴァ
4 第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義
5 イリガライ
6 ラトゥール
7 第二の間奏―カオスと「ポストモダン科学」
8 ボードリヤール
9 ドゥルーズとガタリ
10 ヴィリリオ
11 ゲーデルの定理と集合論―濫用のいくつかの例
12 エピローグ。
2019年10月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
代表的なポストモダニズム思想家が、どのように科学的概念や科学用語を濫用しているかについて、実例を挙げながら丁寧に解説しています。
専門用語が数多く出てきますが、これでもかと言うくらいに脚注がついているので、数学や物理学の専門知識がなくても批判している論文の問題点がとてもよくわかりました。数学・物理学の専門知識がある人であれば、より面白く読むことができるのだと思います。
ソーカルは一般の人にもわかりやすい文章で自身の主張を述べることにより、意図的に難解に書かれたポストモダニズムの論文に対する意趣返しをしているのだと感じました。
専門用語が数多く出てきますが、これでもかと言うくらいに脚注がついているので、数学や物理学の専門知識がなくても批判している論文の問題点がとてもよくわかりました。数学・物理学の専門知識がある人であれば、より面白く読むことができるのだと思います。
ソーカルは一般の人にもわかりやすい文章で自身の主張を述べることにより、意図的に難解に書かれたポストモダニズムの論文に対する意趣返しをしているのだと感じました。
2016年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書の出自からしてショッキングです。
スキャンダルです。
でも、著者たちが言いたいのは
”一般人にも「知」はもっと開かれていて然るべき”
ということだと思います。
スキャンダルです。
でも、著者たちが言いたいのは
”一般人にも「知」はもっと開かれていて然るべき”
ということだと思います。
2013年4月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ソーカル、ブリックモンの『「知」の欺瞞』
1 人間の科学的客観的認識と科学の名を借りた主観的認識
科学の理論は人間の思考が生み出す。しかし理論は客観事実や現象の反映としての人間の認識である。ところがしばしば人間の作った理論が客観的事実を支配するという人がいる。特に論理のパラダイム転換を説明する時、(例えばガリレオの座標変換からアインシュタインの特殊相対性理論の座標変換におけるパラダイムシフト、古典物理学像から量子力学像へのパラダイムシフト等々)、世界は変わったというが、それは人間の認識が変わったことの比喩である。しかし、客観的事実は変化していなにも拘らず、人間の頭脳が認識する真理の転換を以て客観事実が変わったと主張する人々がいる。
ソーカルはこの立場を(認識に対する)相対主義といいますが、それはある命題の真偽は個人や集団に依存して決まるとする立場で、それが「知」の欺瞞をもたらす重要な原因だと彼は主張するのだと思います。この考え方に私は同調します。
もう一つ正しい観点と同時に誤った観点を知ることの必要性を昔読んだ本の中から探し出しました。(アラン・ブルーム著『アメリカン・マインドの終焉』、みすず書房、1988)趣旨はこういうことです。
強い偏見は全体の知へ至る道の誤った意見であり、誤りは勿論我々の敵であるが、それのみが真理を指し示す。誤りを丁重に扱わねばならない。はじめから偏見の全くない精神は空虚である。
2 人間の思考と認識のメカニズム
ソーカルは客観的な知識が獲得できる理由について、自分自身の感覚以外に何かあるかは決して分らないといい、それについて考えることは無意味であると言うようにとれます。しかしソーカルの本で取上げる欺瞞の言語学者、精神分析学者等のアプローチとは別な認識の研究があるのではないかと私は思います。
例えばミッチェル・ワードロップの『複雑系』(新潮社、1996)には米国サンタフェ研究所の紹介をしながら、10項目の第9番目に次のような問いかけをしています。
心とは何か。脳という3ポンドのただの物質の塊はどのようにして感情、思考、目的、自覚といった、言葉にし難い特質をもたらすのか。
問いあるが、解答はありません。
また茂木健一郎が研究を開始したばかりに出した「脳内現象」(NHKブックス、2004)には客観的存在の主観的体験をクオリア、とかメタ認識という言葉で説明しようとしています。
心意気は伝わりますが、解明からは遠い状況です。
3 ソーカル、ブリックモン『「知」の欺瞞』に対する感想
副題に、ポストモダン思想における科学の濫用、とあります。最初ポストモダンの意味が分りませんでした。モダンとは文化文明の継続的発展の信仰、科学主義、ヨーロッパ中心主義の上に立つ素朴な楽観的理想主義のことだと思います。ポストモダンはこれに対する懐疑と否定の思潮のようです。ポストモダンは1960年代以降のアメリカ、ヨーロッパの大学紛争、公民権運動、ベトナム反戦運動、フェミニズム等の社会現象と関係して発展したようです。
その風潮は世の中の様々な主張はそれぞれ存在意味があり、一方が正しく他方が誤っているとみる絶対正義はなくいずれも尊重すべきだとする一種の寛容精神ですが、徹底的な責任を問う倫理性や真理の究明を追究する知性の衰亡をもたらすのに繋がったと理解しました。
著者はこの中でフランスの精神分析学者、言語学者、哲学者、思想家、建築家、都市計画家等々を数人取上げて、彼らの論文における数学、物理学の術語を引用しながら、術語を理解せずにアナロジー(類比)、メタファ(比喩)として濫用し、合理的解釈不可能な論述と飛躍的結論を出し、自論をあたかも高度な研究成果に見せびらかすことを告発します。
批判対象の論文は全部読む気になれず半分読み飛ばしましたが、途中で出てくる著者の立場と現代物理に対する解釈は大変参考になりました。最後にソーカルが書いて社会科学系論文誌に投稿して掲載された論文があり、これはポストモダンの立場で数学、物理の概念を人文・社会科学に応用する意味を述べます。後に著者はこれがパロデイーだと公表して大反響を巻起こしたといいます。しかしもし注が付いていなければ私には何を主張し、何がパロデイーなのか理解できなかったと思います。
著者の主張と解釈に若干不満や疑念がありますが(客観的事実の認識のメカニズム考察の意味に否定的、一般相対性理論は事実を説明するまともな理論ではないとする分類)、主旨には同調します。恐らく大学の中ではこの本が批判する衒学的非生産的論議が権威を持ち、これに追随し、祖述する者が加わり、若い研究者や学生が毒される風潮が顕著になってきたのだろうと思います。日本でも翻訳されたのはその影響が日本で現れるようになったからだと考えます。■
1 人間の科学的客観的認識と科学の名を借りた主観的認識
科学の理論は人間の思考が生み出す。しかし理論は客観事実や現象の反映としての人間の認識である。ところがしばしば人間の作った理論が客観的事実を支配するという人がいる。特に論理のパラダイム転換を説明する時、(例えばガリレオの座標変換からアインシュタインの特殊相対性理論の座標変換におけるパラダイムシフト、古典物理学像から量子力学像へのパラダイムシフト等々)、世界は変わったというが、それは人間の認識が変わったことの比喩である。しかし、客観的事実は変化していなにも拘らず、人間の頭脳が認識する真理の転換を以て客観事実が変わったと主張する人々がいる。
ソーカルはこの立場を(認識に対する)相対主義といいますが、それはある命題の真偽は個人や集団に依存して決まるとする立場で、それが「知」の欺瞞をもたらす重要な原因だと彼は主張するのだと思います。この考え方に私は同調します。
もう一つ正しい観点と同時に誤った観点を知ることの必要性を昔読んだ本の中から探し出しました。(アラン・ブルーム著『アメリカン・マインドの終焉』、みすず書房、1988)趣旨はこういうことです。
強い偏見は全体の知へ至る道の誤った意見であり、誤りは勿論我々の敵であるが、それのみが真理を指し示す。誤りを丁重に扱わねばならない。はじめから偏見の全くない精神は空虚である。
2 人間の思考と認識のメカニズム
ソーカルは客観的な知識が獲得できる理由について、自分自身の感覚以外に何かあるかは決して分らないといい、それについて考えることは無意味であると言うようにとれます。しかしソーカルの本で取上げる欺瞞の言語学者、精神分析学者等のアプローチとは別な認識の研究があるのではないかと私は思います。
例えばミッチェル・ワードロップの『複雑系』(新潮社、1996)には米国サンタフェ研究所の紹介をしながら、10項目の第9番目に次のような問いかけをしています。
心とは何か。脳という3ポンドのただの物質の塊はどのようにして感情、思考、目的、自覚といった、言葉にし難い特質をもたらすのか。
問いあるが、解答はありません。
また茂木健一郎が研究を開始したばかりに出した「脳内現象」(NHKブックス、2004)には客観的存在の主観的体験をクオリア、とかメタ認識という言葉で説明しようとしています。
心意気は伝わりますが、解明からは遠い状況です。
3 ソーカル、ブリックモン『「知」の欺瞞』に対する感想
副題に、ポストモダン思想における科学の濫用、とあります。最初ポストモダンの意味が分りませんでした。モダンとは文化文明の継続的発展の信仰、科学主義、ヨーロッパ中心主義の上に立つ素朴な楽観的理想主義のことだと思います。ポストモダンはこれに対する懐疑と否定の思潮のようです。ポストモダンは1960年代以降のアメリカ、ヨーロッパの大学紛争、公民権運動、ベトナム反戦運動、フェミニズム等の社会現象と関係して発展したようです。
その風潮は世の中の様々な主張はそれぞれ存在意味があり、一方が正しく他方が誤っているとみる絶対正義はなくいずれも尊重すべきだとする一種の寛容精神ですが、徹底的な責任を問う倫理性や真理の究明を追究する知性の衰亡をもたらすのに繋がったと理解しました。
著者はこの中でフランスの精神分析学者、言語学者、哲学者、思想家、建築家、都市計画家等々を数人取上げて、彼らの論文における数学、物理学の術語を引用しながら、術語を理解せずにアナロジー(類比)、メタファ(比喩)として濫用し、合理的解釈不可能な論述と飛躍的結論を出し、自論をあたかも高度な研究成果に見せびらかすことを告発します。
批判対象の論文は全部読む気になれず半分読み飛ばしましたが、途中で出てくる著者の立場と現代物理に対する解釈は大変参考になりました。最後にソーカルが書いて社会科学系論文誌に投稿して掲載された論文があり、これはポストモダンの立場で数学、物理の概念を人文・社会科学に応用する意味を述べます。後に著者はこれがパロデイーだと公表して大反響を巻起こしたといいます。しかしもし注が付いていなければ私には何を主張し、何がパロデイーなのか理解できなかったと思います。
著者の主張と解釈に若干不満や疑念がありますが(客観的事実の認識のメカニズム考察の意味に否定的、一般相対性理論は事実を説明するまともな理論ではないとする分類)、主旨には同調します。恐らく大学の中ではこの本が批判する衒学的非生産的論議が権威を持ち、これに追随し、祖述する者が加わり、若い研究者や学生が毒される風潮が顕著になってきたのだろうと思います。日本でも翻訳されたのはその影響が日本で現れるようになったからだと考えます。■