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「個性」を煽られる子どもたち: 親密圏の変容を考える (岩波ブックレット NO. 633) 単行本 – 2004/9/7
土井 隆義
(著)
- ISBN-104000093339
- ISBN-13978-4000093330
- 出版社岩波書店
- 発売日2004/9/7
- 言語日本語
- 本の長さ71ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2004/9/7)
- 発売日 : 2004/9/7
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 71ページ
- ISBN-10 : 4000093339
- ISBN-13 : 978-4000093330
- Amazon 売れ筋ランキング: - 20,055位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 70位家族問題
- - 750位教育学一般関連書籍
- - 2,941位教育・学参・受験 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年6月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
叱る論点を明確化させる事は、子供達に話を聞いてもらう第一歩です。
2013年2月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
普通に読める本でした。
内容も良かったです(^^)
また、こういったシリーズの本を、
探して購入したいです。
内容も良かったです(^^)
また、こういったシリーズの本を、
探して購入したいです。
2011年11月16日に日本でレビュー済み
本書は、社会学をご専門とする著者が、現代の子どもたちの、特に友人
との人間関係の特徴、築き方、保ち方に鋭く切り込んだ本である。
友人と楽しく付き合っているように見えて実は疲弊している子どもたち、
突然仲良かった友人を殺傷してしまう子どもたち、他者への関心が弱く、
まるで物を傷つけるように無感情で事件を起こしてしまう子どもたち…。
現代の一部の子どもたちのこういった行動の背景にあるのは何か。本書は
子どもたちの人間関係の観点から鋭く分析して分かりやすく提示している。
まず、現代の子どもたちは、親密圏にいる人間に対しては異常なまでに
高度に気を遣い、かといってそこには本音の交流は見られず「装った自分
の表現」をしている。一方で、親密圏の外にいる人間への関心は極めて
低く、その人が何を考え、どう行動しているのか全く気にも留めない「素
の自分の表出」をしていることを、人間関係の特徴として指摘している。
そしてその背景として、個性を煽る教育が展開されている中で、本来は相
対的に養っていく個性が、生まれつき備わった主観的な「自分らしさ」と
して結びついていることに強い疑義を呈している。
素の自分らしさを内発的に求める心は、他者との価値観の対立を拒んだ「優
しい関係」につながり、強い自己承認欲求に結びついてた末の現代の子ども
たちにみられる人間関係の背後にあるものであるという著者の指摘は実に
興味深い。
現代の子どもの人間関係から見えることを探ることが、いじめ問題や不登校
の問題、さらには学力問題等を語る上でも重要であることは間違いない。
子どもたちの理解、子どもに関係する問題を考える上で有意義な本である。
との人間関係の特徴、築き方、保ち方に鋭く切り込んだ本である。
友人と楽しく付き合っているように見えて実は疲弊している子どもたち、
突然仲良かった友人を殺傷してしまう子どもたち、他者への関心が弱く、
まるで物を傷つけるように無感情で事件を起こしてしまう子どもたち…。
現代の一部の子どもたちのこういった行動の背景にあるのは何か。本書は
子どもたちの人間関係の観点から鋭く分析して分かりやすく提示している。
まず、現代の子どもたちは、親密圏にいる人間に対しては異常なまでに
高度に気を遣い、かといってそこには本音の交流は見られず「装った自分
の表現」をしている。一方で、親密圏の外にいる人間への関心は極めて
低く、その人が何を考え、どう行動しているのか全く気にも留めない「素
の自分の表出」をしていることを、人間関係の特徴として指摘している。
そしてその背景として、個性を煽る教育が展開されている中で、本来は相
対的に養っていく個性が、生まれつき備わった主観的な「自分らしさ」と
して結びついていることに強い疑義を呈している。
素の自分らしさを内発的に求める心は、他者との価値観の対立を拒んだ「優
しい関係」につながり、強い自己承認欲求に結びついてた末の現代の子ども
たちにみられる人間関係の背後にあるものであるという著者の指摘は実に
興味深い。
現代の子どもの人間関係から見えることを探ることが、いじめ問題や不登校
の問題、さらには学力問題等を語る上でも重要であることは間違いない。
子どもたちの理解、子どもに関係する問題を考える上で有意義な本である。
2011年5月30日に日本でレビュー済み
子どもたちの最近の(狭い)友達関係は、異様なほど重いものへと変質し、その過剰に配慮を要する「優しい関係」が、「関係性の病」としての新たな「いじめ」を生み出している。著者はそう述べるが、いったい何でそんなことになるか?
今の若者たちは、「個性」を外部からの影響(人間関係、学びなど)で自分が変化(成長)して得られる(掴むもの)とは思えず、自分が生来的に持つ(秘めた)「ダイヤの原石」のごとく感受する。その自分がする、(物事や行為の)善し悪しの判断は、「むかつく」とかの生理的感覚や内発的衝動に従うのが適ったやり方で、社会的基準に従っては自分(らしさ)が抑圧されると感じる。価値があるのは、「善きこと」ではなく「良い感じ」なのだ。
が、感覚や衝動とは刻々変化するもので、普遍的実在であるはずの個性は、確かな手応えでは実感し続けられぬこととなり、焦慮感は必然として日々に募る。で、個性の確証は、(他者には依存しない「自分らしさ」のはずが、逆説的に)親密圏の他者に求めるしかなく、友人や親への自己承認の欲求が高まり、人間関係の重要性(重さ)が増す。求められる(友人との)「優しい関係」は、他者への配慮(思いやり)などではなく、ナルシシズムの裏返し(自己への配慮)であり、互いに自律的たり得ない人間どうしの共依存的な「友情」は、拒まれれば大変なパニックで「いじめ」(など)を生ずる。
著者は、子どもたちの、この社会(外部)に目を向けない有り様が、実のところは社会から煽られて生じたとする。高度成長の時代も終わり、社会化した(歴史的な)視点を持ちにくい変化に乏しい環境下で、人々は物質的豊かさの探求から自分の生き方(自分らしさ)重視へと価値観を変えて、それがそのまま子どもたちに投影した。更に、文科省『心のノート』のような昨今の教育は、先験的に実在すると想定された「自分の心に向き合い、本当の自分に出会いましょう」と説く。
著者がこう展開したとき、著者は触れなかったが、“戦後民主主義的な教育”に(高度成長期の遙か以前から)あった同様な思想傾向に思い至った。子どもたちは、輝ける「ダイヤの原石」を本来誰でも持っているが、受験体制や国、教委、管理職の抑圧が子どもたちの「輝き」を曇らせ失わせるから、本来の「輝き」を絶やさぬ教育実践をしなければならないというような傾向だ。そこに“他者”は十分繰り込まれていたはずだったが、今考えれば実のところ、「ダイヤの原石」は自分だけで磨いたらだめで、みんなと一緒に磨き合ってこそ真に輝くという程のものだった。「輝き」自体をどうやって創るか(そういう教育実践をめざして)、ではなかったはずだ。
戦後民間教育運動に影響を与えた(著名な)、齋藤喜博、林竹二、遠山啓、板倉聖宣など、多くの人たちがこの傾向を持っていたのではないか。現場教師の多くも勿論そこに影響を受けた(惹かれた)。
この傾向のすべてが誤りだったと簡単には言えないだろうが、現在へ重大な影響をもたらしたことは確かではないか。文科省さえ、同じ土俵に立っている。今後の教育のためには、痛みを伴う検討こそ必要だと思えた。
今の若者たちは、「個性」を外部からの影響(人間関係、学びなど)で自分が変化(成長)して得られる(掴むもの)とは思えず、自分が生来的に持つ(秘めた)「ダイヤの原石」のごとく感受する。その自分がする、(物事や行為の)善し悪しの判断は、「むかつく」とかの生理的感覚や内発的衝動に従うのが適ったやり方で、社会的基準に従っては自分(らしさ)が抑圧されると感じる。価値があるのは、「善きこと」ではなく「良い感じ」なのだ。
が、感覚や衝動とは刻々変化するもので、普遍的実在であるはずの個性は、確かな手応えでは実感し続けられぬこととなり、焦慮感は必然として日々に募る。で、個性の確証は、(他者には依存しない「自分らしさ」のはずが、逆説的に)親密圏の他者に求めるしかなく、友人や親への自己承認の欲求が高まり、人間関係の重要性(重さ)が増す。求められる(友人との)「優しい関係」は、他者への配慮(思いやり)などではなく、ナルシシズムの裏返し(自己への配慮)であり、互いに自律的たり得ない人間どうしの共依存的な「友情」は、拒まれれば大変なパニックで「いじめ」(など)を生ずる。
著者は、子どもたちの、この社会(外部)に目を向けない有り様が、実のところは社会から煽られて生じたとする。高度成長の時代も終わり、社会化した(歴史的な)視点を持ちにくい変化に乏しい環境下で、人々は物質的豊かさの探求から自分の生き方(自分らしさ)重視へと価値観を変えて、それがそのまま子どもたちに投影した。更に、文科省『心のノート』のような昨今の教育は、先験的に実在すると想定された「自分の心に向き合い、本当の自分に出会いましょう」と説く。
著者がこう展開したとき、著者は触れなかったが、“戦後民主主義的な教育”に(高度成長期の遙か以前から)あった同様な思想傾向に思い至った。子どもたちは、輝ける「ダイヤの原石」を本来誰でも持っているが、受験体制や国、教委、管理職の抑圧が子どもたちの「輝き」を曇らせ失わせるから、本来の「輝き」を絶やさぬ教育実践をしなければならないというような傾向だ。そこに“他者”は十分繰り込まれていたはずだったが、今考えれば実のところ、「ダイヤの原石」は自分だけで磨いたらだめで、みんなと一緒に磨き合ってこそ真に輝くという程のものだった。「輝き」自体をどうやって創るか(そういう教育実践をめざして)、ではなかったはずだ。
戦後民間教育運動に影響を与えた(著名な)、齋藤喜博、林竹二、遠山啓、板倉聖宣など、多くの人たちがこの傾向を持っていたのではないか。現場教師の多くも勿論そこに影響を受けた(惹かれた)。
この傾向のすべてが誤りだったと簡単には言えないだろうが、現在へ重大な影響をもたらしたことは確かではないか。文科省さえ、同じ土俵に立っている。今後の教育のためには、痛みを伴う検討こそ必要だと思えた。
2006年1月22日に日本でレビュー済み
社会がおおよそ完成し若者が思い切り社会に貢献できるスキマの少ない
今の日本。その狭いスキマの中でいかに生きていけば良いのか、この先
大人になったらどんな努力をすれば報われるのか?を模索しているのが
今の学生達だと思う。努力したくない訳ではない。努力したのに報われ
なかった親を見、何とか早期に自分らしさを発見して安心したいという
焦りが大いにあると思う。その焦りの中に若さというパワーが注入され
て昨今の事件へと発展してしまっているのではないかと感じた。大人か
らは奇異に見えるパフォーマンスでも何か表現しておかないと不安でし
ょうがない。そういう切実な心境を垣間見ました。
今の日本。その狭いスキマの中でいかに生きていけば良いのか、この先
大人になったらどんな努力をすれば報われるのか?を模索しているのが
今の学生達だと思う。努力したくない訳ではない。努力したのに報われ
なかった親を見、何とか早期に自分らしさを発見して安心したいという
焦りが大いにあると思う。その焦りの中に若さというパワーが注入され
て昨今の事件へと発展してしまっているのではないかと感じた。大人か
らは奇異に見えるパフォーマンスでも何か表現しておかないと不安でし
ょうがない。そういう切実な心境を垣間見ました。
2014年6月30日に日本でレビュー済み
この本は私にとって不快でした。その理由を書きます。
■見たいものだけを見て、それ以外の事実は無視する
著者は全国で起きた子供による残虐な事件を糸口に現代の子供について書いています。
現代の子供の中でも特殊な事件を使って、現代の子どもの傾向を語っています。
確かに現代の子供に承認欲求を求める傾向がある事は間違いないと思います。
ですがそれ以外の大多数の子供を観察したのでしょうか。
ごく一部の事象を全体へ一般化して現代の子供全てがそうだと思えるような内容に違和感を覚えます。
■昔の子供は良かったが、現代の子供はけしからんという論調
この本は上の世代間で回し読みする回覧板だと思いました。
そのなかでも「現代の子供は…」とひとくくりにする事に疑問を持たない人が読む本だと思います。
そして現代の子供が読む事は想定されていません。なぜなら現代の子供に語りかけている文章ではありませんから。
これは上の世代の人たちが自己満足するための書物です。
■大人の責任を子供に転嫁している
昔の子供は現代の子供より承認欲求は少なかった、それに引き替え現代の子供は承認欲求が強すぎて
よろしくないと書いています。承認欲求が強くなっているのは親の養育のせいだと思うのですが。子供を承
認できない親がたくさんいたからこそ、承認欲求を満たされない子供がたくさん増えたのでしょう。承認欲
求が満たされなかったからその欲求が残ったままの子供が増えたのです。これを子供自身のせいにする事
が間違っています。子供は親から多大な影響を受けるものです。子供は親の反映だと言っても過言ではない
と思います。その事を無視して子供のダメさをあげつらうような言説には、大人の身勝手さを感じざるを得ま
せん。そして大人達自身を省みるという姿勢が欠如しています。親の養育方法はどうだったかという自分達
自身への振り返りは最後の1ページだけに小さく添えているだけです。
■子供や若者に甘えている事に気が付いていない
現代の子供のダメなところをあげつらうこのような言説は、子供を踏み台にした自己肯定だと言えます。現
代の子供はダメだと言う事によって、自分たちの世代を肯定している構図に見えます。そしてそれを共有し
合って自分たちの世代全体を肯定しているように見えます。それは子供に甘えた姿です。現代社会には子
どもや若者を踏み台にしてしか立てない大人がたくさんいます。年金制度もこの構図で、年金制度は若者
世代が支えています。
■現代の子供をダシにして自己肯定するための本
この本の目的が現代の子供を糾弾して上の世代を自己肯定するものだから、この本には解決策の提示や
反省はないのだなと納得しました。もともと解決策を講じるための本ではありません。上の世代が現代の子
供のダメさをあげつらって自分たちの正当性を再確認するための本です。
敏感な読者は文章の中に埋め込まれた真意を感じると思います。
■見たいものだけを見て、それ以外の事実は無視する
著者は全国で起きた子供による残虐な事件を糸口に現代の子供について書いています。
現代の子供の中でも特殊な事件を使って、現代の子どもの傾向を語っています。
確かに現代の子供に承認欲求を求める傾向がある事は間違いないと思います。
ですがそれ以外の大多数の子供を観察したのでしょうか。
ごく一部の事象を全体へ一般化して現代の子供全てがそうだと思えるような内容に違和感を覚えます。
■昔の子供は良かったが、現代の子供はけしからんという論調
この本は上の世代間で回し読みする回覧板だと思いました。
そのなかでも「現代の子供は…」とひとくくりにする事に疑問を持たない人が読む本だと思います。
そして現代の子供が読む事は想定されていません。なぜなら現代の子供に語りかけている文章ではありませんから。
これは上の世代の人たちが自己満足するための書物です。
■大人の責任を子供に転嫁している
昔の子供は現代の子供より承認欲求は少なかった、それに引き替え現代の子供は承認欲求が強すぎて
よろしくないと書いています。承認欲求が強くなっているのは親の養育のせいだと思うのですが。子供を承
認できない親がたくさんいたからこそ、承認欲求を満たされない子供がたくさん増えたのでしょう。承認欲
求が満たされなかったからその欲求が残ったままの子供が増えたのです。これを子供自身のせいにする事
が間違っています。子供は親から多大な影響を受けるものです。子供は親の反映だと言っても過言ではない
と思います。その事を無視して子供のダメさをあげつらうような言説には、大人の身勝手さを感じざるを得ま
せん。そして大人達自身を省みるという姿勢が欠如しています。親の養育方法はどうだったかという自分達
自身への振り返りは最後の1ページだけに小さく添えているだけです。
■子供や若者に甘えている事に気が付いていない
現代の子供のダメなところをあげつらうこのような言説は、子供を踏み台にした自己肯定だと言えます。現
代の子供はダメだと言う事によって、自分たちの世代を肯定している構図に見えます。そしてそれを共有し
合って自分たちの世代全体を肯定しているように見えます。それは子供に甘えた姿です。現代社会には子
どもや若者を踏み台にしてしか立てない大人がたくさんいます。年金制度もこの構図で、年金制度は若者
世代が支えています。
■現代の子供をダシにして自己肯定するための本
この本の目的が現代の子供を糾弾して上の世代を自己肯定するものだから、この本には解決策の提示や
反省はないのだなと納得しました。もともと解決策を講じるための本ではありません。上の世代が現代の子
供のダメさをあげつらって自分たちの正当性を再確認するための本です。
敏感な読者は文章の中に埋め込まれた真意を感じると思います。
2013年3月21日に日本でレビュー済み
個人主義とか個性の尊重とか言いますが、
そもそもそういう考え方は、どのような
人間観に基づいているのでしょうか。
特にキリスト教の伝統のない日本で言われている
「個人主義」には、何ら確固たる人間観が
ないように思われます。
中村天風氏の『研心抄』には、
「我」とは心でも体でもなく、
その本体たる「真我」は
霊魂であり、それは宇宙本体に
つながるものである、という
人間観、宇宙観が述べられています。
ここから出てくるものは博愛であり、
利己主義は もちろん遥かに
乗り越えられています。
巷間いわれている「個人主義」や「個性尊重」では、
どれだけ深い人間観が前提されているのか、
それが問い直されなければならない
のではないでしょうか。
そもそもそういう考え方は、どのような
人間観に基づいているのでしょうか。
特にキリスト教の伝統のない日本で言われている
「個人主義」には、何ら確固たる人間観が
ないように思われます。
中村天風氏の『研心抄』には、
「我」とは心でも体でもなく、
その本体たる「真我」は
霊魂であり、それは宇宙本体に
つながるものである、という
人間観、宇宙観が述べられています。
ここから出てくるものは博愛であり、
利己主義は もちろん遥かに
乗り越えられています。
巷間いわれている「個人主義」や「個性尊重」では、
どれだけ深い人間観が前提されているのか、
それが問い直されなければならない
のではないでしょうか。
2009年5月5日に日本でレビュー済み
とても読みやすいのに内容がとても濃いので、この本を手がかりに教育や若者の犯罪を考えるにはよいきっかけになる本だと感じました。
「命の大切さを教える」ことが叫ばれている時、ちょうど思春期だった私は大人たちの議論に違和感を感じていました。この本がその違和感を解消するきっかけになりました。「命の大切さ」とか「心の教育」とかで解決できる問題ではない。ただ、それではどうしたら良いんだ、と空しい気持にもなります。今の若者を批判することは簡単です。でも、それでは何も解決しない。このような若者を育てた社会全体が迷走している今、ますます子供たちは戸惑い、内側に閉じこもっていくのではないかと感じました。
「命の大切さを教える」ことが叫ばれている時、ちょうど思春期だった私は大人たちの議論に違和感を感じていました。この本がその違和感を解消するきっかけになりました。「命の大切さ」とか「心の教育」とかで解決できる問題ではない。ただ、それではどうしたら良いんだ、と空しい気持にもなります。今の若者を批判することは簡単です。でも、それでは何も解決しない。このような若者を育てた社会全体が迷走している今、ますます子供たちは戸惑い、内側に閉じこもっていくのではないかと感じました。