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古代3 (岩波講座 日本歴史 第3巻) 単行本 – 2014/9/27

4.8 5つ星のうち4.8 8個の評価

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遣使や留学生、僧によって伝えられた制度に倣いながら、律・令が編纂され、法にもとづいた支配体制をもつ中央主権国家が成立した7~8世紀。平城京が築かれ、大仏が造立された奈良時代、大陸・半島の影響を多く残しながら、やがて日本独自の国家、文化が育まれ、形づくられていく過程をたどる。
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  • 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店 (2014/9/27)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2014/9/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 336ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4000113232
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4000113236
  • 寸法 ‏ : ‎ 15.5 x 2.6 x 21.5 cm
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2022年12月9日に日本でレビュー済み
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読みやすい部分もあれば、難解な部分もある。
2016年4月22日に日本でレビュー済み
今回の諸論考の中では、初めに取り上げる吉川真司の「天平文化論」が最も面白かったですね。全てについて、そうですが、簡単には
要約できませんので、いくつかの論考の面白そうな文章を、簡単なコメントとともに引用します。

●「天平文化論 吉川真司」(P.213 ~ P.250)

「おわりに」を引用します。

    「○おわりに -- 文化受容の地政学

     天平文化を理解する鍵は<文化の直接的受容>である。モノの移動と活用は、遺物が現存することもあって注目されやすく、
     貴重な研究成果が蓄積されてきた。しかし、その背後には人の移動と交流が確かに存在した。唐と日本、そして都城と地域社会
     の間を多くの人が往還し、そのことが文化の幅広い受容を可能とした。あまりに自明のことではあろうが、かかる観点から
     縷述してきた本稿の論点は、おおむね次のようにまとめられる。

     1、天平文化の特色は、唐との国交が維持され、唐・日本両王朝の保護があったことによって、支配層を含めた比較的濃密な
     人的交流が可能となり、学問・思想・技術・生活様式が直接経験として獲得された点にある。これが倭国時代や平安時代以降と
     異なる特徴であり、その後の文化の源流・規範となった根本的理由と考えられる。

     2、天平文化は仏教をひとつの基軸とするが、僧侶による直接的な文化移入・伝授によって天竺への眼が開かれ、中国・中国
     文化を相対化する視座がもたらされた。それは平安時代以降、三国(天竺(インド)- 震旦(唐(中国))- 日本の三国 
     書評者注)思想という独特の世界認識を生み出していく基礎となる。

     3、仏教をひとつの基軸としたからこそ、天平文化は地域社会への影響力・浸透力も大きかった。都鄙間の人的交流とともに
     寺院が爆発的に増加し、地域社会における文化拠点として機能した。天平文化は決して貴族社会のうちに閉ざされてはいな
     かった。

     4、天平文化が継続的に発展して生まれたのが弘仁文化であり、両者の連続性を重視すべきである。唐ではこの間の巨大な
     政治変動とともに文化変容が始まったが、その影響は律令体制第Ⅱ期にはいまだ部分的であった。

     しかし右(上 書評者注)の諸点は、あくまで日本の唐からの文化受容の様態を述べたものにすぎない。同時代のユーラシア
     に視野を広げた場合、その東端に位置する島嶼国家の文化受容はどのように評価すべきであろうか。

     ここでまず参照すべきは、近代日本における中央アジア史研究の基礎を築いた羽田亨の見解である。羽田によれば、8世紀
     ころまで西域(東西トルキスタン)の文化はペルシャ・インドなど西方由来のものが大部分で、中国文化は移動してきた漢人
     を除けば、現地の人々に顕著な影響を与えなかったという。唐は宗教・音楽・美術・衣食住などの諸側面で西域文化から深甚
     なる影響を受けたが、逆方向がそうでなかったのであれば、絹などの物質文化・生産技術を除いて、唐は文化面で大きく「輸入
     超過」であったということになろう。それが唐文化の「国際性」なるものの実態なのでもあろう。いくつかの反証は指摘でき
     ようが、しかし羽田説の根幹は今も揺らいでいないという。それでは、唐が文化面で圧倒的に「輸出超過」であった東方諸国を
     どう考えればよいのか。

     濱田正美も「中央アジアは中華文明にたいし、その物質文明を除けば、ほとんど関心らしい関心を示したことがない」と断ずる。
     それとともに濱田は突厥文字で記されたオルホン碑文を取り上げ、タブガチ(拓跋、すなわち唐)の「甘い言葉柔らかい絹
     織物に欺かれて、多くのテュルクの民が死んだ。・・・・ その土地に近づけば、テュルクの民よ、汝は死ぬぞ」という突厥
     ビルゲ可汗の制誡を提示する。モンゴル高原に本拠を構えたビルゲは玄宗と「和平」していたが、長年の交戦・抑圧経験をもつ
     突厥にとって、唐文化は魅力的でありつつも、軍事政権として自立を保つため警戒すべき対象であったという。そうした警戒感・
     緊張感は同時代の日本王朝にはほとんど見られない。確かに「ひたすら無邪気に中華の文物と制度の移入に努めた」ように思わ
     れる。

     ことは中央アジア・北アジアに限られない。例えばチベット高原の吐蕃は、8世紀後葉にインド僧を招いて仏教を体系的に受容
     した。唐に漢訳仏典を求めることもあったが、主として梵語仏典が直接チベット語に翻訳され、チベット文字の大蔵経が成立
     した。吐蕃は中央アジアとの交易ルートを確保し、8世紀後葉以降はパミール - タリム盆地南部 - 河西を支配したから、
     その文化は唐一辺倒になりようもなかった。東南アジア地域も、先に林邑(インドシナ半島南東部にあったチャム人の王国
     チャンパの中国名 書評者注)についても少し触れたとおり、この時期は圧倒的にインド文化圏である。そしてインド=天竺に
     ついては言うまでもなく、中国文化の影響は見出せない。こうした諸国が唐に朝貢したとしても、それは政治的従属を意味する
     とは限らず、まして唐の文化的影響圏に入ることではなかった。

     唐は政治面でも経済面でも西方・北方との関係を重視した。唐が内陸を向いた帝国であったことは、9世紀ころの「蕃漢対照
     東洋地図」を見れば一目瞭然である。アジアのほぼ全域を描いたこの地図には、日本も新羅も渤海も出てこない。政治・経済・
     文化のほとんどの面で唐しか選択肢がなく、唐に依存するほかなかった東方諸国の現実がそれであった。また、彼らが使える
     文字は当初、表意文字である漢字しかなかった。アラビア文字・ソグド文字・突厥文字・ウイグル文字、そして梵字やチベット
     文字を始めとするインド系諸文字 -- こうした表音文字圏に取り囲まれるように、ユーラシア東方には漢字圏が存在した。
     中国仏教も儒教も律令も漢字とともにあり、その影響圏は漢字圏と重なり合う。唐文化のほぼ全面的な受容、覚えにくく使い
     にくい漢字の日常的利用は、中国周辺にあっても東方諸国に限られる現象だったのである。天平文化はこうした地政学の中で
     唐から直輸入された文化にほかならない。しかし、9世紀には万葉仮名が平仮名へと脱皮し、梵字の理解も進展する。表音
     文字への接近は唐文化を相対化する過程でもあり、中世につながる王朝文学や三国思想がそうした中で育まれていった。

     しかし、これもまた常識論ではあろう。それを前提として今後進められるべきは、同じユーラシア東方の漢字圏にあって、
     同じく唐文化を受容した新羅・渤海との比較文化史研究である。特に日本以上に唐と緊密な関係を保った新羅は、唐の仏教
     をいち早く移植していた。『往五天竺国伝』を著した慧超を始めとして、何人もの新羅僧が天竺に赴いたことは注目される。
     唐から<文化の直接的受容>を果たした東方諸国のなかで、古代日本はどのような特質を有していたのか。朝鮮を消去した
     日本の三国思想に対し、新羅とその後継国家高麗はいかなる世界認識を形成したのか。天平文化を正しく理解するためには、
     それらも不可欠の問いとなるに違いない。」(P.243 ~ P.246)

昔、芝原拓自の「世界史の中の明治維新」というような題名の本があったと思いますが、まさに「世界史の中の天平文化」を論じる必要性
があるということでしょうか。「世界史」まで行かなくても、一旦、離れて遠くからの視点(ex.ユーラシアから)で見直し、それから
再びぐっと近づいて、少なくとも東アジアくらいからの詳細な視点で見直すということでしょう。どの時代でもそうでしょうが、大きな
帝国からすれば、周辺諸国は、多くの国の中の一つということになるのでしょう。この時代も、倭国(日本)は、唐(中国)からすれば、
その他大勢の中の一つだったのでしょうね。これからまた、そういう時代が来るのかもしれませんが、わかりません。中国も足腰が弱そう
なのに虚勢を張っていますから、どうなることやら。多くの国は、当然のことながら、自国(自民族)中心ですから。

新羅の僧が、天竺(インド)にそんなに(日本に比べて)足繁く通っていたとは、初めて知りました。新羅のことは、ほとんど知りません。
日本とインドの関係も、私自身よく分かっていません。朝鮮半島についても、まずは、韓国の現代史(戦後史)から勉強です(朝鮮近代史
は、趙景達著の岩波新書2冊は読みましたが、全くの勉強不足です)。T・K生の「韓国からの通信」もその時代の「世界」はよく買って
いたはずなのですが、あまり読んだ記憶がありませんでした。すべてこれからです、先は長くありませんが。

●「奈良時代の政治過程 虎尾達哉」(P.35 ~ P.72)

第1章を引用します。

    「1 皇位継承の不安定性

     文武朝から光仁朝までの八十年間の政治過程を素描する。最初に、この時代、王権が通時的に抱えていた「皇位継承の不安定性」
     という課題についてふれておこう。

     前代以来、皇位の継承は常に潜在的には不安定であった。岸俊男は7世紀に頻発した皇位継承をめぐる紛争から、「皇太子は
     自らを任命した天皇の存命中は地位が安泰であるが、一旦その天皇が亡くなると、先帝の決定は極めて不安定となり、場合に
     よっては皇位継承者を替えることも可能であった」と主張し、奈良時代においても、天皇や太上天皇の崩御により、皇太子が
     いても常に皇位継承の危機が胚胎していたと論じた。例えば、持統11年(697年)2月15歳で立太子した軽王(かるの
     みこ)は早くも8月には祖母持統の譲位を受けて即位する。持統が不予(病気等体調不良 書評者注)となり、存命中に皇太子
     の即位を実現しようとしたのである。

     このような前代以来の不安定性に加え、奈良時代には王権が天武・草壁直系の皇位継承を強行したことと、それを藤原氏が支え
     たことを要因とする不安定性があった。

     天武の死後、皇太子草壁が早逝、皇后鵜野讃良(うののさらら)が天皇として即位した時点で、天武・草壁直系の皇位継承方針
     が打ち出されたに等しいのだが、その方針は朝廷上層部において合意されていたわけではない。再び軽王を例にとれば、立太子
     をめぐる会議では「群臣各(おのおの)私好を挟みて、衆議紛紜(ふんうん)せる」状態であった。これに対して葛野王
     (かどのおう)は「直系相承こそが我国神代以来の皇位継承法である」と群臣の意見を封じ、軽王の皇位継承を自明と説く。
     自身皇位継承資格者でもある弓削皇子(ゆげのみこ)は反論しようとするが、葛野王が叱りつけて発言させず、軽王の立太子が
     決まったという。真の合意を得たわけではあるまい。持統の後ろ盾を得て主導権を握った葛野王の強行である。

     古来皇位の継承は基本的に兄弟相承だったから、葛野王の主張は明かに歴史的事実に反する。にもかかわらず、このような強行が
     通ったのは、持統の後ろ盾に加えて、葛野王によって立つ根拠があったからである。彼の祖父天智が「改むまじき常の典(のり)」
     として初めて定めた法、いわゆる不改常典である。この法については種々の議論があって定説を見ないが、直系の皇位継承を
     規定したものであることはまず動かない。朝廷上層部において、天武・草壁直系の皇位継承は方針として合意されてはいない。
     王権はそのような不合意に対しては敏感にならざるを得なかった。文武・聖武・孝謙といった天武・草壁直系の天皇の即位に際し、
     不改常典は繰り返し根拠として言及される。

     しかし、たかだか数十年前に天智が新たに定めた法である。弟の天武はその法を一顧だにせず、兄の死後皇位を武力で強奪した。
     しかし、皮肉にも天武の後継王権はそのような法を根拠とせざるを得なかった。来歴の浅い不改常典に「直系継承が正統である」
     と言わせる必要があった。王権が強行しようとする皇位継承はそれほど危ういものであった。

     そのような王権が大きな支えとしたのは藤原氏である。藤原氏は7世紀後半、不比等が草壁皇子や持統天皇と結び、天武・草壁
     直系の皇位継承を文字通り強行してゆく。藤原氏にとって、天皇家の独占的な外戚として王権に深く食い込んだことは決定的に
     重要である。奈良時代以降の藤原氏の繁栄の主因はこの外戚関係にこそあった。

     しかし、それ故にまた、王権の皇位継承は一層危うさを抱え込むことになった。三たび軽王を例にとろう。彼は即位後、慶雲4年
     (707)に崩ずるまで在位するが、その間ついに皇后を立てなかった。当時、皇后には皇女が立てられる慣例であったが、妃に
     皇女が納れられた形跡もない。適齢の皇女がいなかった偶然もあろう。女王(皇女の子孫以下)すら嫁していない。文武の室と
     して知られるのは、夫人が不比等の娘宮子(みやこ)、嬪(ひん)が石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)・紀竈門娘(きの
     かまどのいらつめ)の両名のみである。これは明かに文武の後嗣を睨んだ不比等の戦略である。7世紀前半の舒明天皇以来、天皇
     の生母は持統のそれを除き、すべて皇族であった。その慣例に従う限り、藤原氏が天皇家の外戚となることはない。不比等は文武
     が皇后を立てたり、皇族の女性と結婚することを認めず、文武の祖母持統もそれを受け入れたのである。こうして「天皇は皇族
     所生子」とする慣例は事実上改められる。

     宮子との間に生まれた首(おびと)皇子を将来皇位につけ、天皇家の外戚となる。この不比等の戦略はやがて奏功し、王権もまた
     元明・元正の中継ぎをはさんで天武・草壁直系の皇位継承を実現する。しかし、同時に、この完全に合意されていたとはいえない
     皇位継承に、さらに「藤原氏を外戚とする皇位継承」という限定が加わったことにより、皇位継承の不安定性は一層の昂進を見る。
     聖武天皇の時代、王権と藤原氏が将来の皇位継承に備えてとった大小様々な強硬手段は聖武・光明が男子に恵まれなかったという
     偶然にも因っているが、何より不比等の戦略が皇位継承の条件を狭めてしまったことに起因している。王権にとってみると、最終
     的には孝謙(称徳)を最後に、天武・草壁直系の皇位継承を放棄せざるをえない事態にまで立ち至り、光仁の即位により、皇統は
     天武系から天智系へと移る。

     その光仁(白壁王)も、かつて独身の女帝孝謙が即位した天平勝宝以降、皇嗣不在のために人々が疑心暗鬼となり、多くの者が
     罪を得たり地位を追われる状況の中、わが身を守るため、あえて酒に溺れて人々の目を眩ましたという。長年維持されてきた天武・
     草壁直系の皇位継承が破綻すると、皇親・貴族らは皇位をかけて暗闘を繰り広げる。老齢の白壁王でさえ、遭難に怯えながらも、
     自身を天皇候補に擬えた。王は賢明にも難を逃れたが、奈良時代における皇位継承の不安定性とその破綻はこの時代の政治過程に
     様々な影を落とし、時として深刻な問題を引き起こし、少なからぬ人々に犠牲を強いたのだった。」(P.37 ~ P.39)

天武天皇や藤原不比等らの謀略(わがままな企み)が、如何に多くの人々を翻弄し、犠牲にしたかが、良く分かりますし、いつの時代も、
「政府(権力)は必ず嘘をつく」、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」は、普遍的な真理だということが、良く分かります。
最近、たまに、韓流時代劇を見ますが、宮廷の騒動の甚だしさには若干呆れ気味ですが、日本も、古代(大化前代)から江戸時代までの
「お上」のいい加減さは、似たようなものかなと思って、見ています。明治維新以降も、「権力は嘘をつく」、「権力の腐敗」という面では、
似たようなものでしょうが。「萬世一系」も、その「腐敗」の一断面なのでしょう。

●「平城京と貴族の生活 渡辺晃宏」(P.141 ~ P.178)

本論考の中から、印象的な文章を、短く抜粋します。

    「・・・・・

     天平前半期、藤原四子政権の時代は相対的安定期と見られがちであるが、日本型律令制の一つの到達点、画期として評価すべき
     時代なのではなかろうか。この時代の意義を最も端的に象徴する事件は、732年の聖武天皇が初めて唐風の「冕服(べんぷく)」
     を着用して行った元日朝賀である(『続日本紀』天平4年乙巳朔条)。それは唐風化の完成を意味する出来事であったといえよう。
     いわば首皇子の都として造営された平城京で、ここまで彼を軸に展開してきた奈良時代史は、ここに一つの画期を迎えたので
     ある。これを大きく転換させたのが、735年から737年にかけて発生した全国的な天然痘の大流行であった。時代はこれを
     機に奈良時代後半へと大きく転換してゆくことになる。」(P.165 ~ P.166)

平城京の造営も、奈良の大仏(盧遮那大仏)の建造も、当時としても画期的な事業の完成なのでしょうし、研究者も、時代に入り込んで、
それを意義を称揚するのかもしれませんが、例えば、大仏造営に、どれくらいの人が動員されて、どれくらいの人が殺された(死んだ)のか
と考えると、今の日本の「世界文化遺産」のだいたいがそうでしょうが、暗澹たる気持ちになってしまいます。唐風の「冕服」を着て喜んで
いる聖武天皇という存在は、如何なものかと思うことしきりです(当の聖武天皇としては、これ以上晴がましい事はなく、この上なく嬉しい
ことなのでしょうが)。こういう読み方は、歴史書を読む人としては論外なのでしょうけれど。

●「郡司と古代村落 鐘江宏之」(P.179 ~ P.212)

この論考は、題名からすると、私の興味から最も遠いところにある感じがしていましたが、読んでみて、なかなか面白く、「評」から「郡」
への移行の問題、それの律令との関係、また、「評」や「郡」と古代の村落との関係、また、古代の村落・集落が10世紀後半には衰退・
消滅していくこと、等、教えられることが多々ありました。「おわりに」を引用します。

    「○おわりに

     坂本太郎は、郡司の「非律令的性質」が、郡司の「守旧性」、すなわち律令制以前のものを継承している部分であるとみた。
     しかし、そのことを唐から受容した律令制で塗り込められなかった箇所と見るだけではなく、律令制の開始と並行して形成
     された可能性、あるいは律令制の運用の下で形成された可能性も含めて、その特徴的要素が出現したことの歴史的位置づけを
     考えなければならない。本稿では、古代における郡司と村落のさまざまな論点に言及したが、祭キや班田収受、出挙など、触れる
     ことができなかった問題も多い。

     しかし、言及できた中においても、郡領などの在地豪族の歴史像は研究の進展によって少しずつ変化してきており、在地首長制
     が提唱された当初とは、イメージが変わってきた部分もあることはわかっていただけただろう。自明のものであるかのように
     思われてきた郡領の終身的な権威も、郡領に就任した当人にとって、場合によっては流動的でもあり得たという見方も可能に
     なっていると思われる。7世紀に用意された評制から、どのような要素を堅持しつつ9世紀までの郡制が続いていったのか、
     また、9世紀以降にどのような要素が放棄されて郡司制が変化することになったのか、本稿では現象についての言及に留まったが、
     支配下の村落のあり方が変化することとも併せてその関係を論じていく必要があるだろう。

     もちろん古代史においては史料的制約も大きいが、そのような中にあっても、具体的現象を追求できる面は決して小さくはない。
     古代地方社会において起きている現象を丹念に考察する中から、新たな発見を着実に積み上げていくことが求められている。」
     (P.206)

●「遣唐使の役割と変質 榎本淳一」(P.251 ~ P.284)

「3 遣唐使が運んだ唐文化」(P.269 ~ P.272)は面白い内容ですので、読んでみてください。若干長すぎるので引用は止めます。

「白紙(894)に戻す遣唐使」で覚えました「遣唐使停止の年」894年は、現在では否定されているようです。それについて書いて
ある箇所を引用します。

    「・・・・・

     寛平6年(894)は、遣唐大使菅原道真により遣唐使の停止が建言され、遣唐使派遣の歴史が幕を閉じた年として広く知られ
     ているが、近年ではこのような理解は否定されている。確かに道真は停止を建言しているが、朝廷がその建言を容れて停止を
     決定したとする確かな証拠は存在していない。894年以降も、道真らが遣唐使の官職を帯びていることから、明確な決定が
     されないまま時日を過ごし、そのまま派遣計画が立ち消えになったと考えられる。そもそも前回の承和度の遣唐使任命から60
     年も経てから遣唐使派遣が計画されたのは、温州剌史朱褒から朝貢の勧誘があったためであり、ある意味受動的な理由からで
     あった。道真は行路の危険や困難を理由に派遣計画の中止を求めたが、身の危険に代えてまで遣唐使を派遣する必要性が無く
     なったことを直截に示すものである。

     かつては、道真の遣唐使停止の建言により、日本は鎖国的な状態になったとされたが、日本と大陸・半島の間を民間商船が行き
     来し、中国の仏教聖跡を巡礼する僧侶が渡海するなど海外との交流は行われていた。遣唐使を派遣せず、国を閉ざしていたと
     いう認識は明らかに誤っている。ただし、国家間の交流から民間交流に変わったことにより、交流の内容・質に大きな違いが
     生じたことは確かである。唐朝滅亡後も、日本では中国を唐(から)・唐土(もろこし)と呼称し続けた事実は重く、遣唐使
     時代に日本が唐朝から受けた影響が如何に大きなものであったか、十分認識しなければならない。」(P.275 ~ P.276)

最後に、「月報10」として付録になっている文章から引用します。筆者は、吉村武彦(「日本古代学への想い」)と小峯和明(「東アジア
図書館と東アジア古典研究会」)ですが、吉村の文章から引用します。今までの教科書的な歴史観からの脱却の例です。

    「・・・・・

     ただ、あらためて日本歴史を振り返ってみれば、「公地公民制」の問題など、明治期の学問を引きずっている学術用語も少なく
     ない。公地公民制と規定されている律令制のもとで、根幹の口分田は「私田」と認識されており、「私地」であった。つまり
     律令法では、口分田には「公田」ないし「公地」という法意識はなかった。公地公民制という学術用語は、当時の口分田への
     法意識とは乖離しており、歴史認識に混乱を与えるだけである。

     このように、教科書にも書かれているような、時代観に関わるような学術用語の再検討も必要である(吉村『日本古代の社会と
     国家』岩波書店、1996年)。

     ・・・・・」(P.4)

脱却されてはいないのですね。
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