本書『岩波講座 日本歴史 第11巻 近世2』を、下記の論考からの引用で紹介します。
●「近世の対外関係 木村直樹」(P.107 ~ P.139)
●「近世の村 渡辺尚志」(P.141 ~ P.176)
●「近世の仏教 朴澤直秀」(P.247 ~ P.278)
●「江戸時代前期の社会と文化 若尾政希」(P.279 ~ P.314)
先ずは、渡辺尚志の論稿からの引用です。この岩波の日本歴史の講座では、古代村落や荘園制、受領等、地域社会や村や郷に関する
論考は、けっこう興味深いものが多いですね。
●「近世の村 渡辺尚志」(P.141 ~ P.176)
近世前期に、現在に続く「家」が発生したようです。「家」のジェンダー秩序についての文章を引用します。
「三 家を構成する人々
1 百姓家族のジェンダー秩序
本章では、百姓の家を構成する人々についてみていくが、まず近世の百姓家族におけるジェンダー秩序を取り上げる。
中世・近世移行期には、それまで自立的な経営を営むことができなかった傍系血族や下人・名子(なご)・被官らの従属
農民が自立し、村の正規の構成員としてのライフ・コースを歩める可能性が拡がった。それにともなって、下層の女性
にも、一家の主婦となり、子孫をもうけて、死後は子孫から永続的に祀られる道が開かれ、それが彼女らの生きる意欲を
高めた。
ただし、それと表裏の問題として、そうした主流的なライフ・コースを歩むことができない者たちへの差別意識も存在
した。また、不妊の原因を一方的に女性に求め、それを理由に離婚を強いる場合もあった。
中世・近世移行期における小百姓家族の所有主体・経営主体としての確立は、同時に所有・経営の実権の男性家長による
占有 -- ジェンダー関係の垂直化 -- をもたらした。その結果、近世の百姓の家において、その富と権力(権威)
の多くは男性側に属することになった。
男性家長は、家内の統括と管理労働、および家業である農業労働にもっぱら携わり、さらに食料・衣料生産、台所仕事から
育児、高齢者の介護にまで関与した。ただし、これは男女平等の実現を意味しているわけではなく、男性家長は家内の諸事
全般に通暁していなければならないという観念に基づくものであった。男性の指揮・監督のもとで、家事の多くを実際に
担ったのは女性だったのである。
小百姓の家族においては夫婦中心の労働が行われており、近世後期には繊維産業の発達にともなって女性労働の重要性が
増していったが、それは女性の所有主体・経営主体化には必ずしも結びつかなかった。
また、村および国家の正規の構成員たる百姓身分は、厳密には男性家長に限られ、女性は原則的に百姓身分集団の主体たり
得なかった。女性は、村の公的・政治的領域には基本的に参画できなかったのである。
しかし、こうしたジェンダー秩序は、近世後期になると変容をみせ始める。江戸近郊農村である武蔵国荏原郡下丸子村
では、天保期(1830 - 44)以降、村社会の変容にともない、家の存続に一層の努力が必要になってくると、女性の
家長が、男性に引き継ぐまでの中継ぎ相続人ということにとどまらない重要な役割を担うようになった。村が、男性優位
の相続原則に必ずしもとらわれなくなったのである。
武蔵国入間郡赤尾村では、宝暦期(1751 - 64)頃までは、女性相続人は中継ぎに過ぎなかった。それが、安永期(
1772 - 81)以降になると、家族内に成年男子が存在しても、女性相続人が長期にわたって家長であり続けるケースが
生まれてきた。成年男子の人柄や能力を見極めてから、家督を譲ろうとしたのである。この場合の女性相続人は、もはや
中継ぎとはいえない、天保期以降になると、女性相続人はさらに増加し、女性から女性への相続事例も現れた。この段階
では、女性相続はどの家にも起こりうる事態となったのである。
女性相続人(女性家長)は、年貢諸役の納入責任者となり、金銭貸借・質地契約などの経済行為の主体にもなった。また、
村寄合に出席して発言するなど、村政にも関わった。彼女らは、村社会の一員として男性家長同様の役割を担うように
なったのである。こうして、村社会のジェンダー秩序も徐々に変容していった。
こうした変化の背景には、男性相続人の減少があった。よりよい稼ぎと暮らしを求めて都市など村外に流出したり、賭博
にふけって勘当されたり、飢饉で死亡・離村したりと、原因はさまざまだったが、男系相続が困難な家が増加していた
のである。これは、村社会の危機であった。
女性相続人の増加は、男性相続人の減少・人材難という危機的状況下で、家を確実に存続させ、村の家数を維持するため
に村が採った対応策であった。ジェンダー秩序を変容させてでも、家と村を守ろうとしたのである。
ただし、女性家長は下層の百姓家に比較的多い傾向があり、そのような家の女性家長は困難な経営状況のもとで、重い
責任と負担を背負うことになった。そのため、親類や五人組をはじめ村人たちは、女性家長をさまざまなかたちで援助
したのである。
明治21 - 22年(1888 - 89)に日本に滞在した米国人女性アリス・ベーコンは、自身の観察に基づいて、「彼女ら
(農民女性)の生活は、上流階級の婦人のそれより充実しており幸せだ。何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手で
あり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分も通るし、敬意も払われるからだ」、「農民や商人の妻
は、天皇の妻がそうであるよりずっと夫の地位に近い」、「夫婦のうちで性格が強いものの方が、性別とは関係なく家を
支配する」と述べている(Alice M. Bacon, "Japanese Girls and Women",1891)。
これらは、近世から継承された女性の現実の一面であり、中下層の百姓にあっては男女間の不平等性は相対的に弱いもの
であった。」(P.154 ~ P.156)
書評者の出自は、「中下層の百姓」だと考えていますが、1950年~60年代の田舎で「男女間の不平等性は相対的に弱いものであった」
とは考えられません。この「相対的」という言葉が曲者(くせもの)ですが。明治時代の大日本帝国憲法や教育勅語や民法、刑法等
が、けっこうな「悪さ」をしたのでしょうか(田舎なんて、1945年8月15日でも、ほとんど何も変わっていなかったのでしょうから)。
●「近世の仏教 朴澤直秀」(P.247 ~ P.278)
近世(江戸時代)の仏教では、たとえば、白隠慧鶴や黄檗宗の話を想定していたのですが、幕府の宗教政策のほうが、比重が高いの
かなと思いました。教団組織や地域社会のとのつながりの話も、読んでいると、けっこう面白いのですが、今にもつながる話として、
檀家制度(寺檀制度)の文章を引用します。檀家制度については、書評者の家では、自覚的な経験はないのですが、カミさんの実家
では、長男の人が家を継いだせいもあるのかもしれませんが、法事のたびに、決まった寺の住職がお経をあげに家に来ていました。
この檀家制度(寺檀制度)についての「通念」も見直しをかけられているということですね。
「二 寺檀制度と通念
・・・・・
2 寺檀制度をめぐる通念
幕府の強制(と近世的な「家」の成立と)のともに、寺檀制度が強固ならしめられた、という現代にいたる通念がある。
とりわけ、豊田武による、一家一寺制を規範とする観念や、離檀を困難とする観念が、幕府による強制ないし干渉の結果
として、強固な寺檀制度の基にある、という主張は、いまもって通説的な位置を占めている。しかし、そのどちらも、
実態に即するならば幕府による強制の所産とはいえない。以下、そのことについて略述したい。
まず「離檀の禁止」についてである。「離檀」とは、檀那寺または檀那の側から寺檀制度を断つことをいう。豊田は、
享保14年(1729)ごろの遠国離檀の禁に関する内達が「諸宗の寺院に向って発せ」られたとしている。また圭室文雄は、
当該の史料を、幕府による「離檀禁止令」の一つの「三奉行達」だとしている。なお圭室文雄は、享保7年の「諸宗僧侶
法度」の一節「或いは旦那徒党を結び、離旦いたし候儀候わば、触頭迄申し聞け、上訴に及ぶべき事」とあるところを、
「離檀禁止令」のもう一つとして捉えているが、これも圭室が自ら指摘するように離檀一般の禁止とは捉えられないし、
文脈から捉えるならば、僧侶の訴訟を規制するなかでの、訴訟という手段に訴えてよい例外規定と考えるべきであろう。
さて実際には、圭室のいう「三奉行達」に相当する「法令」が発令された事実はない。そもそもこの「三奉行達」ないし
その原型にあたるものは、越後国蒲原郡田上村の曹洞宗東龍寺と、同郡本成寺村の日蓮宗(法華宗)本成寺との、檀家
の寺檀関係をめぐる争論への、享保14年になされた幕府評定所における裁許の口上であった。それが、曹洞宗の教団行政
の中枢にあった関三刹(かんさんさつ)(関三刹は、下野国大中寺・下総国總寧寺・武蔵国龍穏寺。江戸に宿寺を持ち、
月番で執務をする)による、東龍寺からの裁許の書付の徴収などのルートを経て流布し、あるものは法令のごとく整形
されて、普遍的な幕法と誤認されるに至ったものと考えられる。『諸事留』なる先例書かと思われる書物への収載を経由
して、明治にいたり『徳川禁令考』にも混入している。
次に一家一寺制についてである。まず、一家一寺(制)とは、一家内の成員の全てが同一の檀那寺の檀那となる制度
ないしは慣習のことである。それに対して、一家内の成員が、複数の異なる寺との寺檀関係を結ぶ形態は資料用語ないし
民俗語彙として「半檀家」と呼ばれる。豊田は、一家一寺制は寺院側の要求から出るものも少なくなかったが、同時に
幕府が宗門改を徹底させる意図から、この問題に対して積極的に働きかけたことを忘れてはならないとしている。また
その背景として「家父長制に基礎をおく封建的統制の一方向を示す以外の何物でもなかったのである」としている。
一家一寺制は、近世初期から、一般的な寺檀関係の形態だと考えられる。近世初期に「不規則な」あるいは「複雑な」
寺檀関係が一般的であったかのような認識がなされているが、そこで取り上げられている事例は例外的なものであるし、
単純に恣意的な寺檀関係と捉えるには検討を要する事例なのである。個人入信のような状況は原則としてはなかった
のではないかと思われる。
ただし半檀家も、一般的・全体的には漸減する傾向があると考えられるが、(ややもすれば日蓮宗や真宗が絡みつつ)
新たに生起する場合もあり、現代に至るまで残存する。また、半檀家とて「家付き」の寺檀関係を前提にしているので
ある。例えば一家内の男性が全てA寺、女性が全てB寺の檀那となる「男女別寺檀制」と呼ばれる半檀家の形態があるが、
これは村単位で設定されるのでなければ、二家の「家付き」の寺檀関係(言い方を変えれば祭祀)を継続させるために
取り決められる場合が多いのである。
原則的には、幕府が一家一寺制を強制する全国法を出す、などといったことはない。半檀家状態をめぐる争論が起きた
場合は、状況を勘案して裁定が行われる。しかし、天明飢饉及びそれに至る社会状況を背景として、一家一寺制法令の
布令を企図する代官が現れ、それが虚実こもごも「先例」化する。また一家一寺制を求める動きは寺院・教団や在地側
から提起される場合もある。それらは地域により時期を異にしているが、そういったものが、一家一寺制法令の布令
とも相互関係を持ちつつ、一家一寺制を規範とする観念の醸成につながっていくのではないかと思われる。」
(P.262 ~ P.264)
●「江戸時代前期の社会と文化 若尾政希」(P.279 ~ P.314)
「はじめに」を引用します。この「はじめに」で、けっこう色々と今までの「通説」に「異論」を唱えていて、面白いのですが、
本文には、「はじめに」で期待したほどには「目から鱗」的な内容はあまりありません。本文は各自読んでください。
「はじめに
近世初期における政治思想のあり様とその特質を論じ、かつ17世紀後半以降大きく展開する民衆文化について論じる
こと、これが筆者に与えられた課題である。本稿には、いわば近世前期の政治・社会・文化をトータルに描く全体史
的な歴史叙述が求められているといえよう。
本論に入る前に、従来の近世史像を点検して、本稿の視角を提示しておこう。
まず、日本近世の政治についてのイメージを問うておきたい。かつては近世という時代を語るときに、領主権力の専制
的集権的性格を強調するのが一般的であった。むき出しの強権をふるう権力者と、搾取され抑圧にあえぐ民衆。鬱屈
した民衆の憤懣が積み重なって百姓一揆が勃発。一揆は、革命を希求した階級闘争だと位置づけられてきた。だが、
このような『カムイ伝』さながらの歴史叙述は、現在では通用しない。
本当かなぁ、書評者が高校生だった1960年代末の日本史教科書がここで言われているような内容であったという記憶はないですが。
歴史研究者の間でそうであったということでしょうか。何かこの書き方は、例の「新しい歴史教科書をつくる会」の、従来の教科
書を批判するときに使う口吻に似ていますね。筆者は、書評者より10年弱若いですので、『カムイ伝』も『忍者武芸帳』も、その
「時代」の中で読んではいないのでしょうけれど。
ふりかえってみれば、この転換は、1970年代半ばから80年代にかけてゆっくり着実に進行した。きっかけは、1973年に
提起された仁政イデオロギー論であった。金沢藩の前田利常(文禄2 - 万治元)の改作仕法を分析して、改作仕法
の政策基調が、仁政(「御救」「御恵」)を施すことによって小農民の家の保護・育成を目論んだものであることが見
出された。この政策の実行によって、領主は百姓が生存できるように仁政を施し、百姓はそれに応えて年貢を皆済す
べきだという、領主と百姓の間に相互的な関係意識が形成されたと論じたのである。領主による仁政は、現代から見
れば、階級関係を隠蔽するイデオロギーであることから、仁政イデオロギーと命名された。改作仕法は、寛永の飢饉に
よる武士と民の疲弊を体制矛盾の表出と認識した幕藩領主が行った、初期藩政改革の典型と位置づけれれることに
よって、同時代に通有のイデオロギーとして一般化されたのである。
仁政イデオロギー論は、百姓一揆のイメージも変えていった。「公儀」の「御百姓」である百姓は、自らの生存が脅か
される状況で、仁政を求めて訴願し一揆を起こすのであるが、これはあくまでも仁政の回復を求めてのものと理解され
るようになった。仁政が回復されれば、一揆は終息するのである。仁政イデオロギー論の提起者の一人でもあった深谷
克己は、1976年の講座論文「百姓一揆」において、「百姓一揆は幕藩制国家の存続を前提とする階級闘争であった」と
結論づけた。これは保坂智が指摘したように、羽仁五郎らによってはじめられ、戦後民主主義運動の中で発展してきた
百姓一揆論 = 革命的伝統論との決別であった。このように1970年代半ばに、百姓一揆像も大転換したのである。
上記の話もあくまで、「像」の話ですから、「お話」なのです(歴史は皆「お話」ですが)。世の中が「革命」で騒げば「革命的」
になるし、世の中が「戦後政治の総決算」「戦後レジームの脱却」になびけば、「戦後歴史学」も打ち捨てられるのです。歴史
研究者が特別に賢いわけでもないでしょうし、「空気」を吸わずには生きていけないのでしょうから、その時代の「空気」を
たっぷり吸えば、自ずから、その「時代」に「適合」する歴史「像」を築いていくわけでしょう。「百姓」が本来的に「革命的」
であった時代などなかったのでしょうし、時代が「革命的」であったから、「百姓」も時代の「空気」を吸って「革命的」になった
のでしょう。私が暮らしていた1950~60年代の田舎の「百姓」たちは、全く「革命的」とは反対のような感じがしましたが。
私の友人の古代史研究者の話によりますと、古代史研究者でも、漢文を白文で読めない人が結構いるというようなことを話して
いましたが、研究者も「時代」に流されずにしっかりと勉強してほしいですね。文科系と言えども、防衛省の「甘い水」には抗い
がたい誘惑があるのでしょうが(防衛省の誘惑は、理科系だけの話ではないでしょう)。
その後、仁政イデオロギーの意味も変わっていった。当初は、領主の施策の虚偽性、イデオロギー性を白日のもとにさら
し、それを弾劾することに重点を置いて理解されていた。しかし、80年代に入ると、主導的な論者である深谷自身が、
領主と百姓の関係意識について新しい理解をし始めた。すなわち、領主と百姓、双方の利害のぶつかりあいの中で、
両者に「合意」と呼んでもよい関係意識が形成されたという理解(「百姓成立」論)を示すようになった。同じ時期に、
幕藩領主制の骨格をなす領主と民との関係、領主と家臣の関係について、両者の間の相互的契機に着目し、そこに契約・
合意を見出す朝尾直弘の見解が出された。その影響力は大きく、80年代後半になると、幕藩制国家の「公儀」機能・公共
機能的側面に注目した研究が次々と打ち出され、むき出しの強権をふるう権力者像はすっかり影を潜めることになった
のである。
だが、いうまでもなく領主制の本質は支配・被支配の身分差別にあり、近世社会はまごうかたなき階級社会である。問題
は、上下の絶対的差別の関係において、なぜ相互的な契機が形成されたのか、それはいかにして形成・維持されたのか、
ということにある。政治という営為を、従来のように領主層の一方的な強権によるものと見るのではなく、領主層と
家臣・民との相互の関係の中で理解していくこと、いいかえれば関係意識に焦点をあわせた歴史叙述がいま求められて
いるといえよう。
ところで、近世の政治の手法・理念に関わって、従来、三代将軍家光(慶長9 - 慶安4)までの武断政治から、四代
将軍家綱(寛永18 - 延宝8)の世に文治政治へと転換したと説かれてきた。
江戸幕府は、武士が政治的権力を掌握して支配を行なった軍事政権であるが、暴力むき出しの政治を長期間続けることは
不可能である。現実には、法律や裁判の制度を整備しそれにもとづき紛争を解決したり、武力でなく教化・教諭を通じて
人々を従わせたりと、その政治姿勢を大きく変えていかざるを得なかった。これを武断政治から文治政治への転換と呼ぶ
ことはできよう。だが、問題となるのは、文治政治のなかみである。文治政治というとき、その基幹となる思想は儒教と
され、儒教的徳治主義にもとづく政治というイメージで語られてきたのである。
しかしながら、儒教とりわけ朱子学が江戸幕府の正統教学として採用されたという -- かつて丸山眞男が『日本政治
思想史研究』で述べたような -- 理解は、現在では(1980年代半ば以降)否定されている。朱子学が大きな意味を
持ってくるのは、18世紀末の松平定信(宝暦8 - 文政12)による寛政改革まで待たねばならなかった。そのとき
はじめて、幕府の学校として昌平坂学問所(もと林家の家塾を継承して)が開設され、朱子学が「正学」として奨励され
たのであって、それ以前に幕府が朱子学を正統教学として採用したという事実はない。五代将軍綱吉(正保3 - 宝永6)
が儒教を愛好し孔子廟(湯島聖堂)を造らせたり、六代将軍家宣(寛文2 - 正徳2)が儒教を講じたりしたことは事実
であるが、儒教を根幹において政治を行ったわけではないのである。では、近世の政治の手法・理念を提供したのが儒教
でないとすれば、いったい何が近世の政治体制を正当化したか。本稿で考えていきたいことである。
この「考えていきたいこと」の内容が、「天道委任論」と貝原益軒の話かな?
次に問題としたいのは、日本近世という時代を生きた個々の人についてのイメージである。かつては、近代以前の社会に
おいて、人は家や村といった共同体に従属(埋没)しており、個として析出されるのは近代を待たねばならなかったと
いう理解が支配的であった。それに対し、本稿では、歴史を叙述するにあたって、近世を生きた個々人の意識・思想の
形成過程に焦点をあわせたい。
思想形成というと、社会の上層の者、一部の知識人だけのものと思われがちであるが、実はそうではない。たとえば、
武蔵国川越の塩商人榎本弥左衛門(寛永2 - 貞享3)は、21歳の時、正直に、驕らないように努めたけれども、
若かったため周りの人たちには評価されなかったと、晩年に回顧している。ここには、自己評価と世間の評価との
乖離に悩む姿を見ることができる。他人の目を気にしながら、いかに自分を形成したらよいかわからない。どうしたら
よいか納得できず、心が落ちつかない状態の中で、弥左衛門は、「可笑記をよみ候て心おち付申候」と述懐している。
弥左衛門の思想形成において、『可笑記』の読書は大きな意味を持っていたのである。
これは弥左衛門だけに特異なことではない。日本の近世では、この列島の津々浦々で同じような実感を持つ人々が出て
きた。本稿では、上は領主から下は民衆まで、さまざまな階層からなる近世の人々がいかに思想形成をしていったのか、
という視点から、時代を描いていきたいと思う。
関連してもう一つ提起したいのは、書物を史料とした歴史研究である。周知のように、戦後、日本史研究は、各地の蔵に
眠っていた文書の掘り起こしと分析によって新たな境地を開いてきた。手書きの文書が歴史を叙述する一次史料として
脚光を浴び、日本全国で史料調査が行われ文書の整理と目録の作成がなされてきた。ところがそこでは文書のみが重視
され、文書とともに書物が出てきても、印刷あるいは書写による複製物である書物は史料的価値を見出されず、邪魔者
扱いされ整理の対象とならなかった。たとえ整理したとしても、扱いに慣れておらず、せいぜいが目録の「雑」の部に
入れられ、分析の対象となってこなかった。
これに対して、書物に着目して書物を史料として近世史を語ろうとする研究動向が出てきたのは、戦後半世紀も経過した
1990年代半ば以降である。それから20年、いま、ようやくにして近世史研究は、文書に加え書物をも史料として歴史を
叙述できる段階に到達した。本稿が試みたいのは、そのような新しい段階の歴史叙述である。」(P.281 ~ P.284)
●「近世の対外関係 木村直樹」(P.107 ~ P.139)
近世前期の対外関係というのは、書評者にとっては、けっこうな盲点でした。教えられることが多いのですが、残りの字数があまり
ありませんので、「琉球の帰属問題」の文章のみの引用とします。
「ニ キリシタン禁制政策の展開と華夷変態
・・・・・
2 対外関係の定置化(1651 - 80)
・・・・・
家綱政権に、最初に突き付けられた課題は、琉球の帰属問題であった。それまで琉球は明を宗主国としてきたが、大陸で
樹立した清を新たに宗主国とするかどうか選択を迫られる。1645・46年に旧明系勢力が相次いで中国南部に新皇帝を樹立
し、それらに対して琉球は使節を派遣し、彼らに当座の服属を誓っていた。しかし旧明系勢力はすぐに滅び、家光の死去
する前の1649年(慶安2)には、新王朝清から、琉球に対して招諭使が派遣され、清への服属を求めている。薩摩藩から、
琉球が清を宗主国とした場合、琉球王朝に清の官服や弁髪が強制される可能性を指摘され、幕府もこれを危惧した。
最終的に琉球は1653年(承応2)に清へ上表を呈し、旧明系勢力ではなく、清に帰順することとなった。その結果、承応3
年(1654)に再び幕府は、薩摩藩から琉球王朝の装束問題について問われ、清が琉球に清王朝の装束を強制した場合は
容認せざるを得ないという判断を回答している。幕府は、琉球から日本へやってくる謝恩使や慶賀使が、清の装束となり
服属先が変わったことが国内に知られ、琉球は幕府以外の別の国にも服属していることが露見してしまっても、中国との
紛争を回避する現実的方針をとったといえる。結局装束の変更強制は発生しなかった。また、この問題については、あく
までも薩摩藩を間に立て、幕府自身が直接指示を出しておらず、以後、琉球は、清の冊封を受けながら、薩摩藩を通して、
幕藩制国家の周辺部に位置する二重の支配を受け続け、近代に至る。」(P.131)
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近世2 (岩波講座 日本歴史 第11巻) 単行本 – 2014/5/21
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戦国の緊張が解消し、泰平の世へと移行した江戸時代前期。政権の機構が秩序化され、安定した関係が築かれてゆく時期の社会の様相を描く。
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評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。