『赤毛のアン』の猛烈なファンである。村岡花子をはじめ、松本侑子、掛川恭子など訳者が違えば購入し、原作はP.E.Iに行った時に入手し、
アニメのハウス名作劇場のDVDはもちろん、L.M.モンゴメリーのほかの作品ももちろん蒐集するほどだ。
そのような者だからこそ、本の後半にさしかかるまでは、この低評価レビューに大いに賛同した。はなっからの批判的な著者の眼差しに嫌悪感さえ覚えた。
ところが。
すべて読み終えた後の爽快感といったら。お風呂に入った後のようだ。
日本の女性の立場は向上している、とおっしゃる向きもあるが、それは実業の世界に身を置いたことのない方の幻想である。(もとい、向上はしている。ただ、男性と平等ではないというだけだ。法律や制度などの「箱物」を用意したところでどうしようもない類の課題だ)
なぜ私はL.M.モンゴメリーの世界をこれほど愛しているのか。 こころが折れそうな時にひたっているのか。
そのメカニズムを見事に指摘してくれる良著であった。
蛇足ながら、L.M.モンゴメリーの秀逸さは、自然への霊感である。修飾語の嵐でおよそ名文とはいえない自然への著述は、モンゴメリーが自然界から受け取ったメッセージをそのまま著そうとしたから。ヴィクトリア調のレースばりばりの古めかしい世界そのままの表現にこそ、モンゴメリーの独自性がある。 日本女性がモンゴメリーに共鳴するのは、自然に神を見る日本の自然観が反映されているから。 それは宮崎駿にも通底している。そう断じるのは安易だろうか?
私は引き続き、L.M.モンゴメリーを愛し、また、小倉千加子という人に深い好意を覚えている。
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「赤毛のアン」の秘密 単行本 – 2004/3/26
小倉 千加子
(著)
なぜ「赤毛のアン」は日本で強い人気を保っているのか.カナダでの現地取材を交え,モンゴメリの生涯と創作過程を詳細に論じながら,少女の成長物語,男の子との友情と恋愛,目標としての結婚と幸福な家庭といったテーマが,戦後日本の女性の内面と深く関わっていることを論証し,新しい「アン」像を打ち立てる,決定版「赤毛のアン」論.
- 本の長さ282ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2004/3/26
- ISBN-104000220217
- ISBN-13978-4000220217
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
なぜ「赤毛のアン」は日本で強い人気を保っているのか。モンゴメリの生涯と創作過程を詳細に追跡。アンの成長の物語が戦後日本の女性の内面と深く関わっていることを論じ、新しいアン像を打ち立てる。『イマーゴ』連載に加筆。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2004/3/26)
- 発売日 : 2004/3/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 282ページ
- ISBN-10 : 4000220217
- ISBN-13 : 978-4000220217
- Amazon 売れ筋ランキング: - 698,991位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,706位英米文学研究
- - 9,297位英米文学
- - 108,792位ノンフィクション (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年10月15日に日本でレビュー済み
評者は男で、すでにそれなりの年齢ですが、最近『赤毛のアン』をはじめて読みました。
関連本として本書を手にとった次第ですが、じつは小倉さんの単著を読むのもじつははじめて。以前、著者も加わっての、上野千鶴子さんらとの鼎談本『男流文学論』を読んだことがあるぐらいです。
小倉さん、上野さんともに筋金入り(?)のフェミニストであることはよく知られています。
しかし同じフェミニストながら、いくらか直観的な印象で間違っているかもしれませんが、上野さんが女性に向かって、女は損、それは男そして男社会が悪いのだからまず男の目を覚まさせろ、とけしかけているとしたら、小倉さんは女性に向かって、女性たちよ、自分たちからまずしっかり目を見開こうよ、と叱咤している感じがします。
そうであれば、たぶん女性読者は、どちらかといえば上野さんの話のほうが耳に入りやすく、小倉さんの話は聞くのがちょっとシンドイというところがあるのでは、と想像します。
このレビュー欄についても、本書が、女性読者と思われる投稿者たちのあいだで賛否両論、毀誉褒貶相半ばとなっているのもしたがってじゅうぶん予想されることでした。
この『「赤毛のアン」の秘密』は、小説『赤毛のアン』とその作者L. M. モンゴメリ両方の神話解体の本というべきもので、日本に数多くいると想定されるアン・フリークにいっけん冷や水を浴びせるような書のように見えます。
しかしこれは上でも書いたように、女性読者よ、目を覚まそうよ、という叱咤激励の書以外の何ものでもないという気が評者にはします。
ところで、評者はもとより作家の生や人物などにはさほど興味がもてないために、著者が、書簡や伝記などさまざまな文献を駆使して行っている作者L. M. モンゴメリの生涯についての記述やその精細きわまる人物分析はかなり読み飛ばしてしまったところがあります。
レビュータイトルを「面白く読みました」としたのは『赤毛のアン』の作品読解の部分が面白かったからです。
たとえば、こういう指摘:
「マシュウとマリラが、夫婦ではなく兄妹であることは、『赤毛のアン』にとって、絶対不可欠の要素である。
アンがこの二人の家庭に引き取られた時から、マシュウが亡くなってこの家庭が事実上消え去ってしまう その時まで、この家庭の家族三人は三人とも性を持たないのである。
中学生の少女たちにとって、自分の家庭に性が存在すること、性が存在したからこそ自分が誕生したことに気づいた時の衝撃は、決して小さいものではない。
自分に見せたことのない女の顔を母が持っており、父は男の欲望を持っており、しかも子どもに接する時には決してその顔と欲望を露わにしないことで辛うじて成り立っている家族の正体を知った時、少女は母には裏切られた思いを、父には嫌悪の情を、たとえ一瞬であっても抱くのである。
家族で囲む食卓の陽気な笑い声の中にポッカリ空いた不気味な性の深淵を、その時少女は必ず見る。そして、なんとかしてそこから逃れたいと思う。
モンゴメリは、プリンス・アルバートの父の家で体験したこの疎外感を、アンには決して味わわせなかった」
これは、『赤毛のアン』が書かれた時代や社会、作家をとりまく宗教的背景、そしてこの種の少女小説というジャンルを考えれば、作品から性の匂いがあたうかぎり消し去られるのは予想されることであり、作者の伝記的事実に引きよせるまでもないし、もとよりこの『赤毛のアン』に限った話ではないようにも思いますが、成長期における少女の一般的心理状態としての指摘としては興味深いものがあります。
とはいっても、なんだか心理学ないし精神分析学の教科書に読まれるようなもっともらしさも感じられ(著者の本では、フェミニズム心理学を創始したともいえる、ドイツ出身でのち米国に渡った女性精神分析学者カレン・ホルナイ(1885-1952)の名がしばしば出てきますが、それの影響をうけているところもあるのかもしれません)、現実の少女たちがほんとうに著者が上で言うような心理過程を経るのかどうかちょっと半信半疑のところもありますが。
あるいはこういう箇所:
「アンの中には、ダイアナが美人ではあるが、美人を”腹心の友”にする満足感と、その美人が自分と違って「実際家」であって、その性向によって自分よりも「狭い世界」に住んでいることを見下す感情がある。
が、ダイアナはそう思われていることに気がつかない。[…]ダイアナはアンにとって、いくらでも操作できる「従順」な少女である。”腹心の友”ダイアナは、アンを愛し常に賞賛している。
[また、]アンが羨望するような「精神性」を備えながら、ダイアナはアンにとって、追いつき追い越す目標になることは一切ない。そのために以後二度とアンに称揚されることはない」
著者は、その上で「年少の読者には、そういうアンのダイアナ的女性に対する感情は容易には見破ることができない」と書きそえてもいます。
そしてまたこういう箇所:
「(作者)モンゴメリは、男は女に比べものにならないほど優れた美点を備えているという確信と感情――女性嫌悪――を持ちながら、自分自身とアンには女として生きることが幸福であると思わせる規範を持っていた。この矛盾を[…]抱えながらモンゴメリは生きた。[…]この感情(男性の方が優れている)と規範(女性として生きることは幸福である)の二重性は、モンゴメリが生きた時代にあっては多くの女性が強いられたものであった」
それにしても、本書は体裁としていわゆる研究書のかたちをとっていませんが、本書を著者が執筆するうえにおいて、どれほどの文献を博捜したかがおのずと推察されます。依拠した文献を無批判的に受けいれているところがときに見えたりしますが、とにかく、わずかひとつの文を書くためにもその記述の裏付けのためのリサーチをきちんとしていることが本書の行文からうかがわれます。
関連本として本書を手にとった次第ですが、じつは小倉さんの単著を読むのもじつははじめて。以前、著者も加わっての、上野千鶴子さんらとの鼎談本『男流文学論』を読んだことがあるぐらいです。
小倉さん、上野さんともに筋金入り(?)のフェミニストであることはよく知られています。
しかし同じフェミニストながら、いくらか直観的な印象で間違っているかもしれませんが、上野さんが女性に向かって、女は損、それは男そして男社会が悪いのだからまず男の目を覚まさせろ、とけしかけているとしたら、小倉さんは女性に向かって、女性たちよ、自分たちからまずしっかり目を見開こうよ、と叱咤している感じがします。
そうであれば、たぶん女性読者は、どちらかといえば上野さんの話のほうが耳に入りやすく、小倉さんの話は聞くのがちょっとシンドイというところがあるのでは、と想像します。
このレビュー欄についても、本書が、女性読者と思われる投稿者たちのあいだで賛否両論、毀誉褒貶相半ばとなっているのもしたがってじゅうぶん予想されることでした。
この『「赤毛のアン」の秘密』は、小説『赤毛のアン』とその作者L. M. モンゴメリ両方の神話解体の本というべきもので、日本に数多くいると想定されるアン・フリークにいっけん冷や水を浴びせるような書のように見えます。
しかしこれは上でも書いたように、女性読者よ、目を覚まそうよ、という叱咤激励の書以外の何ものでもないという気が評者にはします。
ところで、評者はもとより作家の生や人物などにはさほど興味がもてないために、著者が、書簡や伝記などさまざまな文献を駆使して行っている作者L. M. モンゴメリの生涯についての記述やその精細きわまる人物分析はかなり読み飛ばしてしまったところがあります。
レビュータイトルを「面白く読みました」としたのは『赤毛のアン』の作品読解の部分が面白かったからです。
たとえば、こういう指摘:
「マシュウとマリラが、夫婦ではなく兄妹であることは、『赤毛のアン』にとって、絶対不可欠の要素である。
アンがこの二人の家庭に引き取られた時から、マシュウが亡くなってこの家庭が事実上消え去ってしまう その時まで、この家庭の家族三人は三人とも性を持たないのである。
中学生の少女たちにとって、自分の家庭に性が存在すること、性が存在したからこそ自分が誕生したことに気づいた時の衝撃は、決して小さいものではない。
自分に見せたことのない女の顔を母が持っており、父は男の欲望を持っており、しかも子どもに接する時には決してその顔と欲望を露わにしないことで辛うじて成り立っている家族の正体を知った時、少女は母には裏切られた思いを、父には嫌悪の情を、たとえ一瞬であっても抱くのである。
家族で囲む食卓の陽気な笑い声の中にポッカリ空いた不気味な性の深淵を、その時少女は必ず見る。そして、なんとかしてそこから逃れたいと思う。
モンゴメリは、プリンス・アルバートの父の家で体験したこの疎外感を、アンには決して味わわせなかった」
これは、『赤毛のアン』が書かれた時代や社会、作家をとりまく宗教的背景、そしてこの種の少女小説というジャンルを考えれば、作品から性の匂いがあたうかぎり消し去られるのは予想されることであり、作者の伝記的事実に引きよせるまでもないし、もとよりこの『赤毛のアン』に限った話ではないようにも思いますが、成長期における少女の一般的心理状態としての指摘としては興味深いものがあります。
とはいっても、なんだか心理学ないし精神分析学の教科書に読まれるようなもっともらしさも感じられ(著者の本では、フェミニズム心理学を創始したともいえる、ドイツ出身でのち米国に渡った女性精神分析学者カレン・ホルナイ(1885-1952)の名がしばしば出てきますが、それの影響をうけているところもあるのかもしれません)、現実の少女たちがほんとうに著者が上で言うような心理過程を経るのかどうかちょっと半信半疑のところもありますが。
あるいはこういう箇所:
「アンの中には、ダイアナが美人ではあるが、美人を”腹心の友”にする満足感と、その美人が自分と違って「実際家」であって、その性向によって自分よりも「狭い世界」に住んでいることを見下す感情がある。
が、ダイアナはそう思われていることに気がつかない。[…]ダイアナはアンにとって、いくらでも操作できる「従順」な少女である。”腹心の友”ダイアナは、アンを愛し常に賞賛している。
[また、]アンが羨望するような「精神性」を備えながら、ダイアナはアンにとって、追いつき追い越す目標になることは一切ない。そのために以後二度とアンに称揚されることはない」
著者は、その上で「年少の読者には、そういうアンのダイアナ的女性に対する感情は容易には見破ることができない」と書きそえてもいます。
そしてまたこういう箇所:
「(作者)モンゴメリは、男は女に比べものにならないほど優れた美点を備えているという確信と感情――女性嫌悪――を持ちながら、自分自身とアンには女として生きることが幸福であると思わせる規範を持っていた。この矛盾を[…]抱えながらモンゴメリは生きた。[…]この感情(男性の方が優れている)と規範(女性として生きることは幸福である)の二重性は、モンゴメリが生きた時代にあっては多くの女性が強いられたものであった」
それにしても、本書は体裁としていわゆる研究書のかたちをとっていませんが、本書を著者が執筆するうえにおいて、どれほどの文献を博捜したかがおのずと推察されます。依拠した文献を無批判的に受けいれているところがときに見えたりしますが、とにかく、わずかひとつの文を書くためにもその記述の裏付けのためのリサーチをきちんとしていることが本書の行文からうかがわれます。
2015年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本を最初に読んだ時はけっこうショックを受けたものだが、いまはかなり客観的に見られると思う。
冒頭著者はプリンス・エドワード島を訪れ「この島に来て、目に見える物すべてに、退屈を超えて憂鬱を覚えている」と語り、当地で日本人観光客向けのガイドのアルバイトに来ている日本人女性が「日本人が見るほどの風景は、アン関係の家は別として何一つないと、軽く言い放った」と語る。
しかし私は、この島を訪れてこの島の風景を絶賛している人のサイトや著書を数多く知っている。私自身は勿論この島を訪れたことは無いので、どちらが正しいのかは判断することは出来ない。しかし、これはいったいどういうことだろう。もちろん個人の感性であるから、人それぞれであるといってはそれまでだが、冒頭にこれをもってくることにより、アンシリーズのファンにショックを与え、自分の主張に引きずり込もうという魂胆だ、と言ったらうがちすぎだろうか。
極端な言い方をすれば(参考になることも多のだが)一事が万事こんな感じで、いみじくも著者があとがきで書いている通り「モンゴメリの評伝という形をとって、日本人女性の結婚観・仕事観・幸福観の特異性を考察したもの」であり、その主張を通さんがための、ある種特異で一方的な方向からのアンシリーズやモンゴメリの日記、書簡等の考察なので、ある意味ミスディレクションに近いものを感じる。
私はフェニミズムが悪いとは全く思わないが、これがフェミニズムだとしたら、それによって解放された女性達の未来ははたして幸福だろうか、と思ってしまう。日本人が赤毛のアンを読む異常性の例として、アメリカ女性についてリサーチしてくれた女性の口を借りて著者はこう語る。
「アメリカの若い女性はもうそういうところに生きています。競争に打ち勝ってサクセスすること、それは自分の能力と絶えず向き合うことだからとても怖いのよね。でもそこから降りるのは、逃避でしょ」
これを皆さんはなるほどと納得されるだろうか。私はこれこそがアメリカが陥っている、誰もがこれではいけないと思いながらもそこから抜けることの出来ない競争社会の病巣であり、日本も足を踏み入れているが、そんな事にはなってはいけない社会の形だと思う。絶えず競争することにかまけ、本当に大切なことに目を向け無いことこそ、本当は逃避なのではないのだろうか。著者が退屈と憂鬱を感じる風景に美しさを感じ、世界中でカナダ以外は誰も読まなくなった赤毛のアンを喜んで読む日本人の感性こそ、本当の意味で世界の未来を切り開いていくのではないだろうか。
そう、実は先日、なぜ日本人ばかりが(負け犬物語である)「フランダースの犬」を好むかという検証映画がベルギーで作られたという話題の時にも思ったのだが、勝者のみを語る欧米文化はもう行き詰まってしまい、未来が立ち行かなくなってきているのではないだろうか。
冒頭著者はプリンス・エドワード島を訪れ「この島に来て、目に見える物すべてに、退屈を超えて憂鬱を覚えている」と語り、当地で日本人観光客向けのガイドのアルバイトに来ている日本人女性が「日本人が見るほどの風景は、アン関係の家は別として何一つないと、軽く言い放った」と語る。
しかし私は、この島を訪れてこの島の風景を絶賛している人のサイトや著書を数多く知っている。私自身は勿論この島を訪れたことは無いので、どちらが正しいのかは判断することは出来ない。しかし、これはいったいどういうことだろう。もちろん個人の感性であるから、人それぞれであるといってはそれまでだが、冒頭にこれをもってくることにより、アンシリーズのファンにショックを与え、自分の主張に引きずり込もうという魂胆だ、と言ったらうがちすぎだろうか。
極端な言い方をすれば(参考になることも多のだが)一事が万事こんな感じで、いみじくも著者があとがきで書いている通り「モンゴメリの評伝という形をとって、日本人女性の結婚観・仕事観・幸福観の特異性を考察したもの」であり、その主張を通さんがための、ある種特異で一方的な方向からのアンシリーズやモンゴメリの日記、書簡等の考察なので、ある意味ミスディレクションに近いものを感じる。
私はフェニミズムが悪いとは全く思わないが、これがフェミニズムだとしたら、それによって解放された女性達の未来ははたして幸福だろうか、と思ってしまう。日本人が赤毛のアンを読む異常性の例として、アメリカ女性についてリサーチしてくれた女性の口を借りて著者はこう語る。
「アメリカの若い女性はもうそういうところに生きています。競争に打ち勝ってサクセスすること、それは自分の能力と絶えず向き合うことだからとても怖いのよね。でもそこから降りるのは、逃避でしょ」
これを皆さんはなるほどと納得されるだろうか。私はこれこそがアメリカが陥っている、誰もがこれではいけないと思いながらもそこから抜けることの出来ない競争社会の病巣であり、日本も足を踏み入れているが、そんな事にはなってはいけない社会の形だと思う。絶えず競争することにかまけ、本当に大切なことに目を向け無いことこそ、本当は逃避なのではないのだろうか。著者が退屈と憂鬱を感じる風景に美しさを感じ、世界中でカナダ以外は誰も読まなくなった赤毛のアンを喜んで読む日本人の感性こそ、本当の意味で世界の未来を切り開いていくのではないだろうか。
そう、実は先日、なぜ日本人ばかりが(負け犬物語である)「フランダースの犬」を好むかという検証映画がベルギーで作られたという話題の時にも思ったのだが、勝者のみを語る欧米文化はもう行き詰まってしまい、未来が立ち行かなくなってきているのではないだろうか。
2011年6月13日に日本でレビュー済み
明るく夢多き赤毛のアン、それを描いたモンゴメリ自身は、夫の病に悩みながら、
雄々しく自らの役割と義務を守り、苦悩を隠して生き抜いた女性だった…
こういう像を持ってモンゴメリを愛し尊敬するファンにとっては、読みたくない
一冊だろうと思います。私自身が、モンゴメリ愛読者ですから。
しかし、作品を「愛読する」のと「分析」する、というのは立場が異なります。
「分析」とは、たとえ愛読者のイメージを破壊することになっても、小倉さんの
ような作業を貫徹することでしょう。
私自身、「ダイアナ、ダイアナ」と親友を愛し続けているはずのアンが、心ひそかに
「あたしはユーモアがあるからあんな風にはならないにちがいない」などと揶揄するように
なることが疑問でした。「腹心の友」とされる人々を含め周囲に対して、アンは成長するに
従って、必ずどこか皮肉めいた視線を持つようになります。
エミリーにしても、そのクランに属するプライドと、自分より立場が低いと見る人々に
対する優越性は、なかなかにすさまじいものがあります。
作品に表れるのは間違いなく創作者のメンタリティの片鱗であり、この辺りへのメスの
入れ方、分析は、今までモンゴメリ作品で引っかかっていた事柄を見事に明らかにして
くれました。しかも、だからモンゴメリが読みたくなくなるのではなく、より複雑な陰影の
もとに興味深く読めるようになります。
この本がつらいのは、単純に冒頭のようなイメージを描いてきた読者の側に、モンゴメリの
分析を通して内なるミソジニーを突きつけるからで、そこを暴かれることへの抵抗感が拒否感に
つながるのではないでしょうか。…と思うとミソジニーの根深さも凄いし、小倉千賀子さんも
やはり凄いな。
雄々しく自らの役割と義務を守り、苦悩を隠して生き抜いた女性だった…
こういう像を持ってモンゴメリを愛し尊敬するファンにとっては、読みたくない
一冊だろうと思います。私自身が、モンゴメリ愛読者ですから。
しかし、作品を「愛読する」のと「分析」する、というのは立場が異なります。
「分析」とは、たとえ愛読者のイメージを破壊することになっても、小倉さんの
ような作業を貫徹することでしょう。
私自身、「ダイアナ、ダイアナ」と親友を愛し続けているはずのアンが、心ひそかに
「あたしはユーモアがあるからあんな風にはならないにちがいない」などと揶揄するように
なることが疑問でした。「腹心の友」とされる人々を含め周囲に対して、アンは成長するに
従って、必ずどこか皮肉めいた視線を持つようになります。
エミリーにしても、そのクランに属するプライドと、自分より立場が低いと見る人々に
対する優越性は、なかなかにすさまじいものがあります。
作品に表れるのは間違いなく創作者のメンタリティの片鱗であり、この辺りへのメスの
入れ方、分析は、今までモンゴメリ作品で引っかかっていた事柄を見事に明らかにして
くれました。しかも、だからモンゴメリが読みたくなくなるのではなく、より複雑な陰影の
もとに興味深く読めるようになります。
この本がつらいのは、単純に冒頭のようなイメージを描いてきた読者の側に、モンゴメリの
分析を通して内なるミソジニーを突きつけるからで、そこを暴かれることへの抵抗感が拒否感に
つながるのではないでしょうか。…と思うとミソジニーの根深さも凄いし、小倉千賀子さんも
やはり凄いな。