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生き延びるための思想: ジェンダー平等の罠 単行本 – 2006/2/7
上野 千鶴子
(著)
- 本の長さ277ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2006/2/7
- ISBN-104000221515
- ISBN-13978-4000221511
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2006/2/7)
- 発売日 : 2006/2/7
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 277ページ
- ISBN-10 : 4000221515
- ISBN-13 : 978-4000221511
- Amazon 売れ筋ランキング: - 541,358位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
It was very nice book! Thank you very much!
2006年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
やはり第一部の4つの論文がいいです。これらを読むだけで、現在の世界と斬り結ぶ問題(軍隊と女性兵士の問題、グローバリゼイションが進行する世界のあるべき方向=ポスト国家システムとかetc)と、「男なみになりたい、なんなきゃ、だから暴力も辞さないわ思想」ではない、「生き延びる思想」としてのフェミニズムの交差するところが見えてくる。何回も読むと、さらにこれらの論文の重要性が理解されてくる。また、読むに耐えるんだよね〜〜上野さんの書くものって、やっぱり。
あのね、フェミニズムが言葉だけだとか、レヴューでしょうもない悪口書いてるんじゃないの。思想なんて、言葉だけに、決まってるの。無力で非力に決まってるの。だけど、それでも発言することこそ、人間の知性ってもんなの。
私自身は、上野さんの思想とは距離があるけれど、この方にはほんとうに学恩を感じて感謝しています。フェミニストの論客は多くいるけれども、やはりこの方の書くものは、もっとも生々しく明快で、自分の思索のゆれ、迷いまでさらけ出して、正直だ。ちゃんと言論やっている人の悪口なんか、どんな馬鹿でも言えるよ!批判するなら、もっと真摯に知的にやれ!
あのね、フェミニズムが言葉だけだとか、レヴューでしょうもない悪口書いてるんじゃないの。思想なんて、言葉だけに、決まってるの。無力で非力に決まってるの。だけど、それでも発言することこそ、人間の知性ってもんなの。
私自身は、上野さんの思想とは距離があるけれど、この方にはほんとうに学恩を感じて感謝しています。フェミニストの論客は多くいるけれども、やはりこの方の書くものは、もっとも生々しく明快で、自分の思索のゆれ、迷いまでさらけ出して、正直だ。ちゃんと言論やっている人の悪口なんか、どんな馬鹿でも言えるよ!批判するなら、もっと真摯に知的にやれ!
2006年9月27日に日本でレビュー済み
フェミニズムの考え方を私なりに整理すると、
ひとつは、
「女も男のように強くなる。肉体労働もすれば、軍隊に入って戦場にもいく」
もうひとつは、
「女が男のように強くなる必要はない。弱いままで尊重されるべき」
と大きく二つに分けられます。
上野千鶴子氏は、後者の立場を取る論客です。
本書は、著者の考える「弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想」についての論考をまとめたものです。
著者が社会の欺瞞に向ける目は厳しく、たとえば、「人権」という誰もが否定しにくいことがらでも、一筋縄では受け入れません。
著者が歴史的に考察したところでは、フランス革命で「人権」という考え方が発明されたとき、人権を持つ主体は「市民」でした。
「市民」というのは、労働者も農民も排除する概念で、女性も子どもも含まれていませんでした。ドイツの文化を認めないフランスにとって、当初の「市民」にはドイツ人も含まれません。
その後、少しずつ「人」の範囲は拡大してきましたが、こういう歴史を抱えた「人権」を、著者は手放しで礼賛することはできません。
シンポジウムで人権を議論したことを振り返り、著者はフランス人に対して次のように言うべきだったと省察しました。
「フランスの・男性の・市民としての権利は、少しも普遍的ではない。
わたしたちは市民権を求めるが、それはあなたがたが歴史的に独占して
きたものと、同じではない」
著者のフェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採りません。
戦争や暴力に曝されたとき、反撃する力の残っている者は、テロリストとなって自分の身を犠牲にするというヒロイズムに走るかもしれません。しかし、そのテロリズムによる再反撃を受けて更なる犠牲になるのは、泣く事と祈ることしかできない無力な人たち――老人、女、子ども――なのですから。
ひとつは、
「女も男のように強くなる。肉体労働もすれば、軍隊に入って戦場にもいく」
もうひとつは、
「女が男のように強くなる必要はない。弱いままで尊重されるべき」
と大きく二つに分けられます。
上野千鶴子氏は、後者の立場を取る論客です。
本書は、著者の考える「弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想」についての論考をまとめたものです。
著者が社会の欺瞞に向ける目は厳しく、たとえば、「人権」という誰もが否定しにくいことがらでも、一筋縄では受け入れません。
著者が歴史的に考察したところでは、フランス革命で「人権」という考え方が発明されたとき、人権を持つ主体は「市民」でした。
「市民」というのは、労働者も農民も排除する概念で、女性も子どもも含まれていませんでした。ドイツの文化を認めないフランスにとって、当初の「市民」にはドイツ人も含まれません。
その後、少しずつ「人」の範囲は拡大してきましたが、こういう歴史を抱えた「人権」を、著者は手放しで礼賛することはできません。
シンポジウムで人権を議論したことを振り返り、著者はフランス人に対して次のように言うべきだったと省察しました。
「フランスの・男性の・市民としての権利は、少しも普遍的ではない。
わたしたちは市民権を求めるが、それはあなたがたが歴史的に独占して
きたものと、同じではない」
著者のフェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採りません。
戦争や暴力に曝されたとき、反撃する力の残っている者は、テロリストとなって自分の身を犠牲にするというヒロイズムに走るかもしれません。しかし、そのテロリズムによる再反撃を受けて更なる犠牲になるのは、泣く事と祈ることしかできない無力な人たち――老人、女、子ども――なのですから。
2006年3月12日に日本でレビュー済み
フェミニズム、そして戦後思想そのものを問い返すのが本書だ。今話題のナショナリズム、国民国家の問題についてシャープに切り込んでいく。戦争だけでなく暴力そのもの、永田洋子のように革命そのものについてもジェンダーという視点との比較を通して分析していく。巷のナショナリズム本よりはるかに質が高く、是非ご一読をすすめたい。
ただ途中の女性史研究者鈴木氏への批判はいただけない。鈴木氏が女性の戦争参加説を多いかのように書いているとして、実際はそれへの批判の方が多いと上野氏は述べる。その後鈴木氏の態度への批判へと論考が長く進められていくのだが、その量の大小に関して論拠がないのだ。鈴木氏に対して論拠がないといいながら、そも論拠がないことから始められるというのはどうにも奇妙だ。その後の批判に読者は目を奪われがちであろうが、是非鈴木氏の論考と読み比べて真偽を判断していただきたい。
ただ途中の女性史研究者鈴木氏への批判はいただけない。鈴木氏が女性の戦争参加説を多いかのように書いているとして、実際はそれへの批判の方が多いと上野氏は述べる。その後鈴木氏の態度への批判へと論考が長く進められていくのだが、その量の大小に関して論拠がないのだ。鈴木氏に対して論拠がないといいながら、そも論拠がないことから始められるというのはどうにも奇妙だ。その後の批判に読者は目を奪われがちであろうが、是非鈴木氏の論考と読み比べて真偽を判断していただきたい。
2006年2月24日に日本でレビュー済み
上野千鶴子の最新論集。第3章「対抗暴力とジェンダー」、第1章「市民権とジェンダー」、第5章「記憶の語り直し方」が力作。上野は、フェミニズムの究極のパラドックスを、近代それ自身のパラドックスと融合しつつ、ともに解こうと苦闘する。フェミニズムに対しては、「もし女が男なみを求めるならば、女も兵士として前線で戦え」と要求される。アメリカのフェミニストは「イエス」と、上野は「ノー」と答える。なぜそれが可能なのか。一つは、生命・財産の保護を目的に各個人と契約する国家が、個人を戦争に動員するのは背理という国家論。もう一つは、兵士は公的暴力の加害者であると同時に被害者でもあるという、暴力の弁証法。これはルソーの「一般意思」の他に「当事者主権」を想定するという、近代のパラドックスに関わる難問だ。まだ示唆に留まるが、優れた問題提起といえる。
第3章「対抗暴力とジェンダー」は本書の白眉。彼女はルソーのように、真摯に、情感豊かに、肉声で語る。連合赤軍事件の集団リンチ殺人の一人、永田洋子は、上野の「深いトラウマだった。私がもしそこにいたら? 殺す側にいたかもしれないし、殺される側にいたかもしれない。」(81f) 「永田はイヤリングをした女を殺した。なぜなら、それは彼女自身だったから」(田中美津)という「女自身のミソジニー」の分析を通じて、上野は、ジェンダーと戦争のパラドックスを解こうとする。彼女の補論に、「この論文は本当に辛い思いで覚悟を決めて書いたのに、反応がいただけなかった。・・受けて立ってくれる人がどうしていないのか、淋しい」(230)ともある。誰か受けて立つ人はいないのか?「ムーサよ、戦さ(いくさ)を避けて、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)と。
第3章「対抗暴力とジェンダー」は本書の白眉。彼女はルソーのように、真摯に、情感豊かに、肉声で語る。連合赤軍事件の集団リンチ殺人の一人、永田洋子は、上野の「深いトラウマだった。私がもしそこにいたら? 殺す側にいたかもしれないし、殺される側にいたかもしれない。」(81f) 「永田はイヤリングをした女を殺した。なぜなら、それは彼女自身だったから」(田中美津)という「女自身のミソジニー」の分析を通じて、上野は、ジェンダーと戦争のパラドックスを解こうとする。彼女の補論に、「この論文は本当に辛い思いで覚悟を決めて書いたのに、反応がいただけなかった。・・受けて立ってくれる人がどうしていないのか、淋しい」(230)ともある。誰か受けて立つ人はいないのか?「ムーサよ、戦さ(いくさ)を避けて、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)と。
2006年8月14日に日本でレビュー済み
初めて上野千鶴子氏の大部の論考集を読んだ。
どうも小生のような男性には氏の論理の進め方にはついていけない。
まず、「はじめに−あげた手をおろす」では、「9.11」のテロのことが記されているが、いつのまにかアメリカの自衛のための対応も国家暴力とされ、いわゆるテロは対抗暴力として相対化されてしまう。
「ジェンダー」というタームが頻繁に使われているが、この論考集では定義や詳しい説明がない。ここではいわゆる「ジェンダー・フリー」的な思想は全くみられず、その点、健全な感じがする。「(femaleの)ジェンダー」とは、単に「女性」と置き換えても問題ないようである。それにしても「男性」に対するナイーブな思い込みの激しさはどこから来るものなのであろうか。女性兵士も当然の帰結であるとのフェニミズムの立場があるが、氏はこれとは一線を画しているとのことである。これも「女性」に対するナイーブな思い入れによるのでは。
もうひとつあげると、氏はどうも国家とか国民という言葉がお嫌いなようである。丸山眞男は学園闘争のなかで象牙の塔から降りたが、67年の反体制闘争に共感をもつ上野氏が国家体制の中枢にいるのは皮肉である。
どうも小生のような男性には氏の論理の進め方にはついていけない。
まず、「はじめに−あげた手をおろす」では、「9.11」のテロのことが記されているが、いつのまにかアメリカの自衛のための対応も国家暴力とされ、いわゆるテロは対抗暴力として相対化されてしまう。
「ジェンダー」というタームが頻繁に使われているが、この論考集では定義や詳しい説明がない。ここではいわゆる「ジェンダー・フリー」的な思想は全くみられず、その点、健全な感じがする。「(femaleの)ジェンダー」とは、単に「女性」と置き換えても問題ないようである。それにしても「男性」に対するナイーブな思い込みの激しさはどこから来るものなのであろうか。女性兵士も当然の帰結であるとのフェニミズムの立場があるが、氏はこれとは一線を画しているとのことである。これも「女性」に対するナイーブな思い入れによるのでは。
もうひとつあげると、氏はどうも国家とか国民という言葉がお嫌いなようである。丸山眞男は学園闘争のなかで象牙の塔から降りたが、67年の反体制闘争に共感をもつ上野氏が国家体制の中枢にいるのは皮肉である。
2006年2月15日に日本でレビュー済み
ケアや介護といった本もいいけれど、やはりこういう本のほうが、”上野千鶴子らしい”気がする。
内容は今まで、(国民国家の)「暴力」をめぐって書かれた論考をまとめたもの。朝日新聞の夕刊に書いた「あげた手をおろす(原題「非力の思想−戦争の犯罪化のために」)から『思想』や『現代思想』に書かれたもの、従軍慰安婦論争をめぐっての上野からの反論(『季刊 戦争責任研究』)、『at』で行われたインタビューまで、多岐にわたっているが、テーマは一貫している。
弱者の最後の抵抗としての暴力やテロをどう考えるかという問いに対し、上野は”No”を突きつける。フェミニズムは、やられたらやり返せという既存の枠組みのなかで上昇を図る思想ではなく、暴力の存立構造そのものを問い直す思想であるからと。
理論的にはやや単純ではあるが、だからこそ上野千鶴子の本はわかりやすく、問題提起的なのだと思う。皆がどうこの本を読んだかを知りたくなる本である。
内容は今まで、(国民国家の)「暴力」をめぐって書かれた論考をまとめたもの。朝日新聞の夕刊に書いた「あげた手をおろす(原題「非力の思想−戦争の犯罪化のために」)から『思想』や『現代思想』に書かれたもの、従軍慰安婦論争をめぐっての上野からの反論(『季刊 戦争責任研究』)、『at』で行われたインタビューまで、多岐にわたっているが、テーマは一貫している。
弱者の最後の抵抗としての暴力やテロをどう考えるかという問いに対し、上野は”No”を突きつける。フェミニズムは、やられたらやり返せという既存の枠組みのなかで上昇を図る思想ではなく、暴力の存立構造そのものを問い直す思想であるからと。
理論的にはやや単純ではあるが、だからこそ上野千鶴子の本はわかりやすく、問題提起的なのだと思う。皆がどうこの本を読んだかを知りたくなる本である。