「われわれが自明の前提とする境界線が排除するものとはなにか?」
境界線の中に領域にある異端を排除使用とする圧力が増加した。それは9/11によって
領域の中の異端の驚異を感じるようになった。つまり国境の内部に異質な者がいる事に気付いた。
幾重にも境界を固めれば内側を守る事が出来るという事が幻想であることに気付いた
内部の同質性を確保して、異端を追い出し、隔離して完全を確保しようという努力は無駄だ。
こうして境界線=国境の流動化は異常事態であり、素早く境界線を回復するべきだと言う主張がある。政治的な強力な主権によって国家の安定と同質性の回復を目指す動きだ。
しかし、国境をこえなくてはならないことは自明だ。
問題はどの様な越え方をするかだ。
国境という境界線を付くってその内側を最適化しようという試みは、外部に押し出された者の「復讐」によって、反対に最適な結果を得る事が出来ない。つまり境界線を前提とする政治のあり方こそが、今日、新しい困難を生み出す
国境線によって事態を管理する手法、埋まり空間的領土的な境界線によって世界を安定化させようとする主権国家システムこそが、常に新たな難民を生産し続けてきた
線を引くことで排除される者は、何かを見続けよう。
そうすれば、国民国家に代わる枠組みの必要性が見えてくるのではないか。
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境界線の政治学 単行本 – 2005/2/10
杉田 敦
(著)
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政治概念をラディカルに更新する理論的跳躍
- 本の長さ195ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/2/10
- ISBN-104000225359
- ISBN-13978-4000225359
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/2/10)
- 発売日 : 2005/2/10
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 195ページ
- ISBN-10 : 4000225359
- ISBN-13 : 978-4000225359
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,605,238位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2005年11月4日に日本でレビュー済み
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2009年7月19日に日本でレビュー済み
著者の論文や講演を六つ集めた本であるため文体などは必ずしも一貫していない。例えば3章は丁寧語による講演である。内容はリベラルコミュニタリアン論争の話から、それら両方を批判した多文化主義の話に移り、そこからキムリッカとウォルツァーを検討するという具合。4章はポストマルクス主義に位置するラクロウの理論の解説と批判。5章は「契約と闘争」と題されそれから予想できるように契約論批判が主。6章はウォルツァーの正戦論の解説と批判。その他の章の説明は省く。
安易にポストモダンなんてレッテルを貼ると怒られそうだが、まぁフーコー辺りに影響を受けたポストモダン的視点からの色々な理論の紹介と批判だなぁみたいな印象。その矛先はあからさまな悪魔のような奴らとか誰もが忌む不正よりはリベラリズムや福祉国家などに向けられている頻度が高いように思う。というのも著者によればリベラリズムというのは自分が境界線を引いている事、自分が何者かを排除している事について欺瞞的不道徳的なまでに無自覚であるから。自分の悪に無自覚な正義気取りの中の黒い部分をつんつん突っついたりガーッと抜き出してきたりが本書での著者の仕事というイメージ。しかし著者の批判全てを検討してるような力量とやる気と与えられた字数を私は持たないのでそれは他の方、読者に譲る。
個人的には最後の契約論とウォルツァーの戦争論の紹介と批判が興味深く刺激的であった。これは後者は元々ウォルツァーの戦争論に興味があったが彼の本が高すぎて読めずにいたためで、前者については私の立場が契約論に近いため。原典に当たらずウォルツァーの正戦論を知りたいなら本書と『「正しい戦争」という思想』を読むとよい。契約論を扱う5章は実は題名や私の説明より遥かに幅が広い。日本で契約論がどんな事情で持ち上げられてきたかというような歴史的な話に始まって意外にも憲法の話に繋げられ、さらには少子化対策批判、福祉国家批判・・・という凝縮っぷりである。濃い内容が凝縮されているのはこの本全体に言える事で、本文が170頁にも満たないのにこの内容の濃さというのは、著者と多少立場が違っても一読には値するものだろう。
安易にポストモダンなんてレッテルを貼ると怒られそうだが、まぁフーコー辺りに影響を受けたポストモダン的視点からの色々な理論の紹介と批判だなぁみたいな印象。その矛先はあからさまな悪魔のような奴らとか誰もが忌む不正よりはリベラリズムや福祉国家などに向けられている頻度が高いように思う。というのも著者によればリベラリズムというのは自分が境界線を引いている事、自分が何者かを排除している事について欺瞞的不道徳的なまでに無自覚であるから。自分の悪に無自覚な正義気取りの中の黒い部分をつんつん突っついたりガーッと抜き出してきたりが本書での著者の仕事というイメージ。しかし著者の批判全てを検討してるような力量とやる気と与えられた字数を私は持たないのでそれは他の方、読者に譲る。
個人的には最後の契約論とウォルツァーの戦争論の紹介と批判が興味深く刺激的であった。これは後者は元々ウォルツァーの戦争論に興味があったが彼の本が高すぎて読めずにいたためで、前者については私の立場が契約論に近いため。原典に当たらずウォルツァーの正戦論を知りたいなら本書と『「正しい戦争」という思想』を読むとよい。契約論を扱う5章は実は題名や私の説明より遥かに幅が広い。日本で契約論がどんな事情で持ち上げられてきたかというような歴史的な話に始まって意外にも憲法の話に繋げられ、さらには少子化対策批判、福祉国家批判・・・という凝縮っぷりである。濃い内容が凝縮されているのはこの本全体に言える事で、本文が170頁にも満たないのにこの内容の濃さというのは、著者と多少立場が違っても一読には値するものだろう。
2009年5月25日に日本でレビュー済み
「境界」に関する学問的言説についてはかなり興味があり、この本からも自分の関心にピッタリの部分があったりしたが、理解できない所もあった。
「かれら/われら」に関する話が当然出てくるので、シュミットの「政治的なものの概念」が取り上げられていたり。
境界線を引くという行為は、
・内部と外部の境界線を恣意的に決定する行為
・国家に帰属する人々に必要とされてきた行為
・主権国家において最も典型的に表れた行為
・外部の人々を保護の対象から外す排他的な行為
なのだろう。
生きている限り、何かを選ぶことによって他のものを排除するという行為を避けられない以上、われわれは自らが排除しているものに対して、つねに自覚的であらなければならないのだろう。
「かれら/われら」に関する話が当然出てくるので、シュミットの「政治的なものの概念」が取り上げられていたり。
境界線を引くという行為は、
・内部と外部の境界線を恣意的に決定する行為
・国家に帰属する人々に必要とされてきた行為
・主権国家において最も典型的に表れた行為
・外部の人々を保護の対象から外す排他的な行為
なのだろう。
生きている限り、何かを選ぶことによって他のものを排除するという行為を避けられない以上、われわれは自らが排除しているものに対して、つねに自覚的であらなければならないのだろう。
2007年2月23日に日本でレビュー済み
評者の裁量で大胆勝手に本書の中心命題を要約する。
政治とは、空間や人々の間に境界線を引き、その恣意を正当化・実体化しようとする営みである。
リベラルデモクラシーやマルチカルチュラリズム、コミュニタリアリズムに至るまで、およそ境界線の政治でない政治理論はない。むしろ、境界線とは無縁を装うリベラリストほど、境界線に無自覚である分、質が悪い。
「われわれ」と「やつら」の間に線を引く政治理論家と言えば、まず挙がるのはカール=シュミットである。その経歴もあってシュミットの理論は忌避されがちであったが、だからと言ってその指摘が無効になったわけでもない。ただ、その友敵理論は飲み下すのが難しい劇薬であり、濃度を薄めた程度では扱いきれないという難点を抱える。著者の思考は、「境界線の政治」という形でシュミットを引き受け、そこから現代政治理論が陥った袋小路からのブレイクスルーを見出そうという方向を向いているように思われる。
厳然と在る境界線から目を背けたり、「よい境界線/悪い境界線」と恣意的に仕分けたり(それこそ「境界線の政治」の発動である)することに希望は見出せない。境界線は確かに避けがたく存在し、しかもどこまで行ってもその恣意性は抜きがたい。そのような境界線によって囲みつ囲まれつあがく私には、いかなる倫理が可能なのであろうか。
政治とは、空間や人々の間に境界線を引き、その恣意を正当化・実体化しようとする営みである。
リベラルデモクラシーやマルチカルチュラリズム、コミュニタリアリズムに至るまで、およそ境界線の政治でない政治理論はない。むしろ、境界線とは無縁を装うリベラリストほど、境界線に無自覚である分、質が悪い。
「われわれ」と「やつら」の間に線を引く政治理論家と言えば、まず挙がるのはカール=シュミットである。その経歴もあってシュミットの理論は忌避されがちであったが、だからと言ってその指摘が無効になったわけでもない。ただ、その友敵理論は飲み下すのが難しい劇薬であり、濃度を薄めた程度では扱いきれないという難点を抱える。著者の思考は、「境界線の政治」という形でシュミットを引き受け、そこから現代政治理論が陥った袋小路からのブレイクスルーを見出そうという方向を向いているように思われる。
厳然と在る境界線から目を背けたり、「よい境界線/悪い境界線」と恣意的に仕分けたり(それこそ「境界線の政治」の発動である)することに希望は見出せない。境界線は確かに避けがたく存在し、しかもどこまで行ってもその恣意性は抜きがたい。そのような境界線によって囲みつ囲まれつあがく私には、いかなる倫理が可能なのであろうか。