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哲学の起源 単行本 – 2012/11/17
柄谷 行人
(著)
アテネのデモクラシーは、自由ゆえに平等であった古代イオニアのイソノミア(無支配)の成功しなかった再建の企てであった。滅びゆくイソノミアを記憶し保持するものとしてイオニアの自然哲学を読み直し、アテネ中心に形成されたデモクラシーの神話を解体する。『世界史の構造』を経て初めてなった政治的想像力のみずみずしい刷新。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2012/11/17
- ISBN-104000240404
- ISBN-13978-4000240406
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2012/11/17)
- 発売日 : 2012/11/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 256ページ
- ISBN-10 : 4000240404
- ISBN-13 : 978-4000240406
- Amazon 売れ筋ランキング: - 386,490位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年9月8日に日本でレビュー済み
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デモクラシーを民主主義と訳すと本質が隠されてしまう。「多数者支配」と訳すと納得がいく。それは必然として僭主とデマゴーグを生む。現下の政治にも即当てはまる。「小泉純一郎」、「安倍晋三」、「橋下徹」、「松野官房長官」等々多数。松野は先日、「関東大震災下に朝鮮人が虐殺されたという政府の記録はない」と発言した。その他の記録は無視するのか。こういうことを野放しにしてはいけない。今の日本が陥っている危うい現実が示されている。「多数者支配」という現実に目を向け、その対極にある「無支配」(イソノミア)に注目し、可能なことを実践していこう。そのような提言を著者はされていると受けとめました。
2023年6月9日に日本でレビュー済み
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定価2100円+税の本が400円でしたので、それなりの古本だと想像してましたが、新本同様で驚きました。発行は10年前の2013年ですが、売り出されたばかりの新本と見紛うほどきれい。入手出来、感謝いたします。
2012年12月19日に日本でレビュー済み
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世界史の構造のクオリティーのあとゆえ、ややもの足りなさを感じる。
哲学の起源は世界史を補完する位置付けらしいのでそれでいのかもしれない。
しかし前回の世界史の構造の理論が持っていた具体性からは、やや抽象度が高い。
著者はアテネの民主主義、アリストテレスやプラトンの考えに対し、イオニア的なものや予言者、ソクラテスを
対置させる。この手法は、かつて探求2の中で、キリスト教的、ヘーゲル的な全体=有限の観念に対し
スピノザの無限の観念を対置させていたやり方の反復な気がしている。
それはそれで著者らしく、スピノザの思想や彼の哲学史における役割や位置付けが
好きな私にとっては嬉しいのだが、イオニアを
観念に終わらせるのではなく、もっと具体的なイメージがほしかった。
哲学の起源は世界史を補完する位置付けらしいのでそれでいのかもしれない。
しかし前回の世界史の構造の理論が持っていた具体性からは、やや抽象度が高い。
著者はアテネの民主主義、アリストテレスやプラトンの考えに対し、イオニア的なものや予言者、ソクラテスを
対置させる。この手法は、かつて探求2の中で、キリスト教的、ヘーゲル的な全体=有限の観念に対し
スピノザの無限の観念を対置させていたやり方の反復な気がしている。
それはそれで著者らしく、スピノザの思想や彼の哲学史における役割や位置付けが
好きな私にとっては嬉しいのだが、イオニアを
観念に終わらせるのではなく、もっと具体的なイメージがほしかった。
2013年2月14日に日本でレビュー済み
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自然哲学が生まれたイオニアにかつて存在し、ペルシャ帝国支配下で消えた「イソノミア(無支配)」を照射点にしてギリシャ哲学の起源を語り直してしまうという快著。「柄谷行人なのに、スラスラ読める!」という驚きと共に読み切ることができます。
ただし、問題になるのが「イソノミア」。
柄谷は、第一章「イオニアの社会と思想」、第二章「イオニア自然哲学の背景」、第三章「イオニア自然哲学の特質」という具合に本の半分ぐらいの紙幅を割いて、イソノミアをキーワードにして、イオニア社会をばっさばっさと解説していくんですが、その最中に
「イオニアの諸都市がどのようなものであったかを示す史料はほとんどない」(p.43)
とも言い切ります。「じゃあ、柄谷のこの自信満々な解説はどこから?」という疑問は当然に私の頭に湧き出てきて、注に並んでいる出典を確かめたんですが、ハンナ・アーレント『帝国と帝国主義』ぐらいしか出てきません。
つまり、「最近の歴史学だとか考古学の成果を受けて思索を行った」みたいな話ではありません。
アーレントの著作の中に出てくる、デモクラシー(民衆支配)とは異なるイソノミア(無支配)がイオニアには存在したという説を前提にして、イオニア系哲学者の著作や史料を捉えなおし、そこから浮かび上がっていく諸々を使いながら、かつてイソノミアが存在したイオニア社会を描いて見せるという、柄谷先生ならではのアクロバティックな思考展開です。
冷静に考えると、Aの存在を前提にしてBを解釈し、その解釈の中から浮かび上がってくるAの姿を描写しているということになります。学生さんがこういう論文を持って来たら、私なら間違いなく一から考え直すように諭しますが、、、、
柄谷先生、大丈夫でしょうか?
ともかくも、「アテネ式のデモクラシーとは原理を異にするイソノミア=無支配に基づく社会がイオニアにあった」は作業仮説と私は受け止めました。マルクス=エンゲルスが想定した「原始共産社会」だとか、ルソーの「原始人」みたいなものでしょう。この著作の圧倒的な読みやすさは、そのイソノミアという作業仮説が上手く作用したということに尽きます。
ことに、最後のソクラテス論は読んで良かった。今までの哲学史は、圧倒的にソクラテス−プラトンの流れで書かれてきましたが、柄谷はソクラテス−ディオゲネスの犬儒学派の流れに光を当てて、プラトンには見えなかった哲学の可能性を見せてくれます。
もっとも、古代ギリシャのイオニア植民地で、自由と平等が矛盾しない社会が柄谷が描くような形で成立していたのかは、怪しいものだと私は思います。柄谷は、アメリカのフロンティアで現れたタウンシップ制や、バイキングが植民した時期のアイスランド社会にも同様な社会が現れたのだとしていますが、このあたりは検証が必要でしょう。
しかし、この本はその手の検証を抜きにしても読まれるべき本だとも思います。
今の民主主義とは別の形があり得るのだという主張は、今の社会に強く訴えかけるものがあるからです。
多くの人々が代議員制民主主義がうまく機能していないと感じています。
世界的にみても非暴力直接行動という形で、従来の政治勢力から一線を画した市民運動が各地で起こっていますし、日本でも毎週金曜日の官邸前などに同様の現象が起こっています。これを受けて、代議制民主主義と言う制度そのものに限界があるとする著作も出ていますが(たとえば、小熊英二『社会を変えるには』)、柄谷はアテネ流の直接民主主義をも疑問に付して、イソノミア=無支配という民主制の別の在り方を提示して見せます。
もちろん、人々の遊動性が高いという条件がついた辺境の小さな社会で成立した、「自由と平等が矛盾しない社会」がそのまま、巨大人口を抱える現代社会に適応できる訳もなく、イソノミアを現代に適応させる具体策を柄谷が見せている訳ではありません。それでも、現在の民主制をまず疑ってみることは可能であるし、「今とは別の民主制」を考えてみることは可能なはずなのです。
この本には、それを考えさせるきっかけを与えてくれるということで推しておく次第です。
追記:イソノミアという言葉と概念については、「atプラス」15号(太田出版、2013.2)の特集「『哲学の起源』を読む」の大竹弘二、納富信留の論考が参考になります。柄谷の使い方は、やはり問題が多いようです。
ただし、問題になるのが「イソノミア」。
柄谷は、第一章「イオニアの社会と思想」、第二章「イオニア自然哲学の背景」、第三章「イオニア自然哲学の特質」という具合に本の半分ぐらいの紙幅を割いて、イソノミアをキーワードにして、イオニア社会をばっさばっさと解説していくんですが、その最中に
「イオニアの諸都市がどのようなものであったかを示す史料はほとんどない」(p.43)
とも言い切ります。「じゃあ、柄谷のこの自信満々な解説はどこから?」という疑問は当然に私の頭に湧き出てきて、注に並んでいる出典を確かめたんですが、ハンナ・アーレント『帝国と帝国主義』ぐらいしか出てきません。
つまり、「最近の歴史学だとか考古学の成果を受けて思索を行った」みたいな話ではありません。
アーレントの著作の中に出てくる、デモクラシー(民衆支配)とは異なるイソノミア(無支配)がイオニアには存在したという説を前提にして、イオニア系哲学者の著作や史料を捉えなおし、そこから浮かび上がっていく諸々を使いながら、かつてイソノミアが存在したイオニア社会を描いて見せるという、柄谷先生ならではのアクロバティックな思考展開です。
冷静に考えると、Aの存在を前提にしてBを解釈し、その解釈の中から浮かび上がってくるAの姿を描写しているということになります。学生さんがこういう論文を持って来たら、私なら間違いなく一から考え直すように諭しますが、、、、
柄谷先生、大丈夫でしょうか?
ともかくも、「アテネ式のデモクラシーとは原理を異にするイソノミア=無支配に基づく社会がイオニアにあった」は作業仮説と私は受け止めました。マルクス=エンゲルスが想定した「原始共産社会」だとか、ルソーの「原始人」みたいなものでしょう。この著作の圧倒的な読みやすさは、そのイソノミアという作業仮説が上手く作用したということに尽きます。
ことに、最後のソクラテス論は読んで良かった。今までの哲学史は、圧倒的にソクラテス−プラトンの流れで書かれてきましたが、柄谷はソクラテス−ディオゲネスの犬儒学派の流れに光を当てて、プラトンには見えなかった哲学の可能性を見せてくれます。
もっとも、古代ギリシャのイオニア植民地で、自由と平等が矛盾しない社会が柄谷が描くような形で成立していたのかは、怪しいものだと私は思います。柄谷は、アメリカのフロンティアで現れたタウンシップ制や、バイキングが植民した時期のアイスランド社会にも同様な社会が現れたのだとしていますが、このあたりは検証が必要でしょう。
しかし、この本はその手の検証を抜きにしても読まれるべき本だとも思います。
今の民主主義とは別の形があり得るのだという主張は、今の社会に強く訴えかけるものがあるからです。
多くの人々が代議員制民主主義がうまく機能していないと感じています。
世界的にみても非暴力直接行動という形で、従来の政治勢力から一線を画した市民運動が各地で起こっていますし、日本でも毎週金曜日の官邸前などに同様の現象が起こっています。これを受けて、代議制民主主義と言う制度そのものに限界があるとする著作も出ていますが(たとえば、小熊英二『社会を変えるには』)、柄谷はアテネ流の直接民主主義をも疑問に付して、イソノミア=無支配という民主制の別の在り方を提示して見せます。
もちろん、人々の遊動性が高いという条件がついた辺境の小さな社会で成立した、「自由と平等が矛盾しない社会」がそのまま、巨大人口を抱える現代社会に適応できる訳もなく、イソノミアを現代に適応させる具体策を柄谷が見せている訳ではありません。それでも、現在の民主制をまず疑ってみることは可能であるし、「今とは別の民主制」を考えてみることは可能なはずなのです。
この本には、それを考えさせるきっかけを与えてくれるということで推しておく次第です。
追記:イソノミアという言葉と概念については、「atプラス」15号(太田出版、2013.2)の特集「『哲学の起源』を読む」の大竹弘二、納富信留の論考が参考になります。柄谷の使い方は、やはり問題が多いようです。
2018年7月22日に日本でレビュー済み
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古代ギリシャ哲学の見直しを図った一冊。特にイオニア地方の自然哲学及びその影響をうけたソクラテスの思想の再考は必読。プラトンとソクラテスの差異を明示できるのは柄谷行人ならでは。全ての哲学的問題は古代ギリシャ時代に論じ尽くされていると感じる一冊。
2013年7月30日に日本でレビュー済み
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イソノミアとは「無支配」、「アナーキー」=人々が自由であることによって平等がもたらされるような社会=宗教的ではない(社会構成体としての)交換様式D。イソノミアは非常に限定された歴史的条件の中でしか現れない。しかしイソノミアは現にあったし、必ずや再び三度現実する。何故ならば、それは「抑圧されたものの回帰」としてあり、「向こうから強迫的にやってくる」のであるから。それは、こちらからの願望や意志によって生じるのではないし、計画や設計によって構成されるのでもない。
したがって、イソノミアを再建しようとする企ては必ず失敗する。「企て」である時点で失敗が約束される。最初の失敗例がアテネのデモクラシーであり、その困難は現代の自由-民主主義にまで通じている。
とすれば、我々の取るべき(取り得る)態度は如何なるものか?「失敗が約束されている企ては企てるだけ無駄というもの、果報は寝て待て」となるのか? …そうはならないんだ、これが。
なぜならば、交換様式Dへの志向は(我々の意に反してでも)繰り返し強迫的にやってくるから。我々は、精霊の声、神の啓示に突き動かされる。我々は「この企ては必ず失敗する」という覚醒した認識を持ちつつ、その企てに全力で加担するのだ。
したがって、イソノミアを再建しようとする企ては必ず失敗する。「企て」である時点で失敗が約束される。最初の失敗例がアテネのデモクラシーであり、その困難は現代の自由-民主主義にまで通じている。
とすれば、我々の取るべき(取り得る)態度は如何なるものか?「失敗が約束されている企ては企てるだけ無駄というもの、果報は寝て待て」となるのか? …そうはならないんだ、これが。
なぜならば、交換様式Dへの志向は(我々の意に反してでも)繰り返し強迫的にやってくるから。我々は、精霊の声、神の啓示に突き動かされる。我々は「この企ては必ず失敗する」という覚醒した認識を持ちつつ、その企てに全力で加担するのだ。
2012年12月13日に日本でレビュー済み
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本書はまさに「自然(フィシス)の狡知」の書といえる。それは、ソクラテスのような問答態度によって認識=実践の変転を生きうるはずだ。
イオニア自然哲学でさまざまに彩られた始原物質(アルケー)とは、せんじつめれば、自己運動する物質といえる。これは量子力学の、量子は粒子でありかつ波動であるという知見そのものだ。哲学は自己運動する物質の産出する自然観(フィシス)を魔術的なものとみ、質料と運動に分離、世界を二重化しえたときに始まる。先駆となったピタゴラスにおいてアルケーは数となり、それはプラトンのイデアへ収束していく。世界を制作し、運動をエージェントする、背後にある神の目的の知的探求となる。
だがかような自然と哲学の分離は、それじたい社会的政治的な出来事下にあったのはいうまでもない。そもそもかの自然哲学はたんなるフィシスの認識ではなく、どうじに実践の技術、社会哲学的探求でもあった。すなわち物質が自己運動するように、人間は移動するのだ。というより、移動の可能性がなければ個人ではないということだ。人間を支配、統治する神々や、その氏族、身分、ポリス、もろもろのえにしの所属、つまり公的なるものによってみるのではなく、それを括弧にいれたところにある移動の可能性=自由においてみよう。この自由と平等への吟味が、イオニアの都市においてイソノミア(無支配)としてかつてありえた。それは参政権において対等であり、かつ賃労働や奴隷のような支配的生産関係を結ばない。かれらは植民者、交易者、外国人、手(口舌)に技術をもつ独立者であったろう。
かようにイソノミアが、交換様式Dの史上ありえた事例として懇切簡明に記述されるわけだが、本書の読みごたえはむしろ、駆逐されたこの伝統がアテネのデモクラシー(多数者支配)下において、抑圧されたもの回帰として、解きがたい謎のごとく、無自覚的にソクラテスの身にあらわれたのだ、とのべる第五章である。柄谷の柄谷たるゆえん、ハイデッガーのいう哲学によるフィシス(存在)の忘却批判との差異はここにある。
ソクラテスは民会、法廷ではなく、アゴラ(広場、市場)で問答をした。アテネのデモクラシーはほかのポリス、外国人、奴隷の収奪によって成り立っていた。その公人たることを拒否して、私人として正義のために戦った。それはポリスごとよってちがう法的正義を疑いつつ、その根底にあるフィシスとしての正義=自然法を問うことであった。それはもはや積極的には明示、想像回復できないがゆえ、ソフィストのごとく、間接的問答としてしかやりえなかった。それは個人的な良心や願望にもとづくものではなく、ダイモン(鬼神)の合図をきく、意志を超えた義務のごとき訪れなのだった。
カントはいう。国家の立場で考え行動することは私的であり、それを超えて世界市民的、普遍的であることが公的なのだ。各人が国家のなかにありつつ世界市民として判断し行動せよ。ソクラテスの態度はポリスにあってコスモポリスにたち、普遍的たりえた。
かつて柄谷は『マルクスその可能性の中心』でマルクスの自然哲学読解にひとつのキーをみた(これは吉本がマルクスのそれに人間の自然からの疎外=表出の力をみたのに継続している)。マルクスは質料と運動が不可分であるような原子の運動、そこにはらまれる偶然の偏差に、機械的決定論でも目的論でもない唯物論をみいだした。価値形態にひそむ命がけの飛躍がみえた。そもそも柄谷の出発点は漱石論『<意識>と<自然>』であったのだ。かれの著作におとずれる自然(的過程)の差異と反復にも、かような高次元で反復強迫する自然(フィシス)の狡知が働いている、というのは冗談。
現代ではフィシスのごとき量子力学的知見は常識であり、また技術的成果(半導体、原発)もえている。そこにはらまれてある普遍をめざす社会哲学については、大沢真幸も主題化しようとしているところだろう。柄谷の哲学の起源を問うこの姿勢が、アクチャリでありクリティカルなのは間違いない。虻なんてとんでもない。もっとも怠惰な猫のようなわたしはSF的パラレルワールドを夢みる。3・11原発事故以降でこんなこといってるようじゃあ、放射能の前で半分死んだシュレディンガーな猫だけど。
四つ星以上の内容、装丁だが、岩波権威と値段二千円越えのケチをつけて星三つ。
イオニア自然哲学でさまざまに彩られた始原物質(アルケー)とは、せんじつめれば、自己運動する物質といえる。これは量子力学の、量子は粒子でありかつ波動であるという知見そのものだ。哲学は自己運動する物質の産出する自然観(フィシス)を魔術的なものとみ、質料と運動に分離、世界を二重化しえたときに始まる。先駆となったピタゴラスにおいてアルケーは数となり、それはプラトンのイデアへ収束していく。世界を制作し、運動をエージェントする、背後にある神の目的の知的探求となる。
だがかような自然と哲学の分離は、それじたい社会的政治的な出来事下にあったのはいうまでもない。そもそもかの自然哲学はたんなるフィシスの認識ではなく、どうじに実践の技術、社会哲学的探求でもあった。すなわち物質が自己運動するように、人間は移動するのだ。というより、移動の可能性がなければ個人ではないということだ。人間を支配、統治する神々や、その氏族、身分、ポリス、もろもろのえにしの所属、つまり公的なるものによってみるのではなく、それを括弧にいれたところにある移動の可能性=自由においてみよう。この自由と平等への吟味が、イオニアの都市においてイソノミア(無支配)としてかつてありえた。それは参政権において対等であり、かつ賃労働や奴隷のような支配的生産関係を結ばない。かれらは植民者、交易者、外国人、手(口舌)に技術をもつ独立者であったろう。
かようにイソノミアが、交換様式Dの史上ありえた事例として懇切簡明に記述されるわけだが、本書の読みごたえはむしろ、駆逐されたこの伝統がアテネのデモクラシー(多数者支配)下において、抑圧されたもの回帰として、解きがたい謎のごとく、無自覚的にソクラテスの身にあらわれたのだ、とのべる第五章である。柄谷の柄谷たるゆえん、ハイデッガーのいう哲学によるフィシス(存在)の忘却批判との差異はここにある。
ソクラテスは民会、法廷ではなく、アゴラ(広場、市場)で問答をした。アテネのデモクラシーはほかのポリス、外国人、奴隷の収奪によって成り立っていた。その公人たることを拒否して、私人として正義のために戦った。それはポリスごとよってちがう法的正義を疑いつつ、その根底にあるフィシスとしての正義=自然法を問うことであった。それはもはや積極的には明示、想像回復できないがゆえ、ソフィストのごとく、間接的問答としてしかやりえなかった。それは個人的な良心や願望にもとづくものではなく、ダイモン(鬼神)の合図をきく、意志を超えた義務のごとき訪れなのだった。
カントはいう。国家の立場で考え行動することは私的であり、それを超えて世界市民的、普遍的であることが公的なのだ。各人が国家のなかにありつつ世界市民として判断し行動せよ。ソクラテスの態度はポリスにあってコスモポリスにたち、普遍的たりえた。
かつて柄谷は『マルクスその可能性の中心』でマルクスの自然哲学読解にひとつのキーをみた(これは吉本がマルクスのそれに人間の自然からの疎外=表出の力をみたのに継続している)。マルクスは質料と運動が不可分であるような原子の運動、そこにはらまれる偶然の偏差に、機械的決定論でも目的論でもない唯物論をみいだした。価値形態にひそむ命がけの飛躍がみえた。そもそも柄谷の出発点は漱石論『<意識>と<自然>』であったのだ。かれの著作におとずれる自然(的過程)の差異と反復にも、かような高次元で反復強迫する自然(フィシス)の狡知が働いている、というのは冗談。
現代ではフィシスのごとき量子力学的知見は常識であり、また技術的成果(半導体、原発)もえている。そこにはらまれてある普遍をめざす社会哲学については、大沢真幸も主題化しようとしているところだろう。柄谷の哲学の起源を問うこの姿勢が、アクチャリでありクリティカルなのは間違いない。虻なんてとんでもない。もっとも怠惰な猫のようなわたしはSF的パラレルワールドを夢みる。3・11原発事故以降でこんなこといってるようじゃあ、放射能の前で半分死んだシュレディンガーな猫だけど。
四つ星以上の内容、装丁だが、岩波権威と値段二千円越えのケチをつけて星三つ。