まえがき(マリアム・C.サイード)
序(マイケル・ウッド)
時宜を得ていることと遅延していること
18世紀への回帰
限界にたつ『コシ・ファン・トゥッテ』
ジャン・ジュネについて
消えやらぬ古き秩序
知識人としてのヴィルトゥオーソ
晩年のスタイル瞥見
原注
訳注
訳者あとがき
人名索引。
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晩年のスタイル 単行本 – 2007/9/27
エドワード W.サイード
(著),
大橋 洋一
(翻訳)
晩年のスタイル の書籍です。
- 本の長さ289ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2007/9/27
- ISBN-104000244418
- ISBN-13978-4000244411
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2007/9/27)
- 発売日 : 2007/9/27
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 289ページ
- ISBN-10 : 4000244418
- ISBN-13 : 978-4000244411
- Amazon 売れ筋ランキング: - 504,225位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 33,468位アート・建築・デザイン (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年11月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ベートーヴェン、R.シュトラウスそして映画「山猫」の作者に関する深い洞察には脱帽である。指摘されればされるほどにその意味を考えさせられ、正に正鵠を得た指摘であると納得する。
2007年9月28日に日本でレビュー済み
本書は芸術家の作品における、あるいはその言述における「晩年の様式」をテーマとして綴られたエッセイ集である。まず、読みにくい。翻訳はイーグルトンを訳している大橋洋一であるから、翻訳が悪いということは言えないと思われる。サイードはこんなに読みにくい文章を書くのであったか?
本書中で印象深いのは、グレン・グールドを扱った第6章「知識人としてのヴィルトゥオーゾ」である。グールドは64年にコンサート活動から足を洗い、レコードにのみその演奏活動を限定する。グールドは、音楽とは「システマティックな思考の純粋に人工的な構築の産物」と捉えていたとする。この言述に対するサイードの説明は複雑で錯綜している。多分、グールドの説明自体がそうなのだろう。「非実在から切り取られたものであり、それを取り囲む非実在の空虚を背景としたごく僅かな安全地帯にすぎない」ものが音楽であるとも言う。そしてシステム(=音楽)と比較したとき、非実在がいかに壮大であるかを認識することが重要だという。
この場合、非実在は<自然>と考えればよいか(サイードはそれを「音楽の外部にある世界」を指すとしている)。そして、グールドは言う。「システムのなかでしっかり守られた場所から、システムの外に横たわる非実在に、用心深く探りを入れる」ことが、演奏行為(「発案」とされている)というように読める。この読みが正しいのであれば、確かにこれは壮大な演奏論である。演奏=発案=自己主張は、世界=自然へと入り込み、それがさらに音楽へと回帰するものとして、グールドは主張している。彼は、この演奏論を音楽学生たちに語ったのだという。ここにあるのは、サイードが本書で比較する現在のヴィルトゥオーゾたち、バレンボイムやポリーニらとはおよそ異なる「演奏」であるかに見える。グールドの演奏行為は「無私」な音楽への献身というものを超えた、それより遥かに積極的な主体性を持った、そして観点を変えれば誇大妄想じみた危うさをも感じさせる。
しかし、それが彼の「ひきこもり」演奏とどういう関連を持つのか、晩年様式との関係は?といったことは見えてこない。
ほかの章では、ヴィスコンティの映画『山猫』とその原作者ランペドゥーサのスタイルの比較を、イタリア南部の問題、リソルジメント(イタリア国家統一運動)との絡みで面白く読ませる。とはいえ、これも晩年様式との関連性がよくわからない。
とはいえ、本書全体は芸術エッセイとしてまことに刺激的なものであることは間違いない。
最後に一番よくわからないのは、本書カバーに大江健三郎の直筆推薦文が印字してあることだ。書物の「もの」としての美観が損なわれること甚だしい。大江がサイードとお仲間だったことはわかるが、どうしてオビの推薦文に留めなかったのか? これを発案した編集者の勘違い、および、これを引き受けて、遠慮しなかった大江の傲慢・驕慢にはあきれてしまう。これは書物に対する冒涜にも等しいと思われた。
本書中で印象深いのは、グレン・グールドを扱った第6章「知識人としてのヴィルトゥオーゾ」である。グールドは64年にコンサート活動から足を洗い、レコードにのみその演奏活動を限定する。グールドは、音楽とは「システマティックな思考の純粋に人工的な構築の産物」と捉えていたとする。この言述に対するサイードの説明は複雑で錯綜している。多分、グールドの説明自体がそうなのだろう。「非実在から切り取られたものであり、それを取り囲む非実在の空虚を背景としたごく僅かな安全地帯にすぎない」ものが音楽であるとも言う。そしてシステム(=音楽)と比較したとき、非実在がいかに壮大であるかを認識することが重要だという。
この場合、非実在は<自然>と考えればよいか(サイードはそれを「音楽の外部にある世界」を指すとしている)。そして、グールドは言う。「システムのなかでしっかり守られた場所から、システムの外に横たわる非実在に、用心深く探りを入れる」ことが、演奏行為(「発案」とされている)というように読める。この読みが正しいのであれば、確かにこれは壮大な演奏論である。演奏=発案=自己主張は、世界=自然へと入り込み、それがさらに音楽へと回帰するものとして、グールドは主張している。彼は、この演奏論を音楽学生たちに語ったのだという。ここにあるのは、サイードが本書で比較する現在のヴィルトゥオーゾたち、バレンボイムやポリーニらとはおよそ異なる「演奏」であるかに見える。グールドの演奏行為は「無私」な音楽への献身というものを超えた、それより遥かに積極的な主体性を持った、そして観点を変えれば誇大妄想じみた危うさをも感じさせる。
しかし、それが彼の「ひきこもり」演奏とどういう関連を持つのか、晩年様式との関係は?といったことは見えてこない。
ほかの章では、ヴィスコンティの映画『山猫』とその原作者ランペドゥーサのスタイルの比較を、イタリア南部の問題、リソルジメント(イタリア国家統一運動)との絡みで面白く読ませる。とはいえ、これも晩年様式との関連性がよくわからない。
とはいえ、本書全体は芸術エッセイとしてまことに刺激的なものであることは間違いない。
最後に一番よくわからないのは、本書カバーに大江健三郎の直筆推薦文が印字してあることだ。書物の「もの」としての美観が損なわれること甚だしい。大江がサイードとお仲間だったことはわかるが、どうしてオビの推薦文に留めなかったのか? これを発案した編集者の勘違い、および、これを引き受けて、遠慮しなかった大江の傲慢・驕慢にはあきれてしまう。これは書物に対する冒涜にも等しいと思われた。
2012年8月1日に日本でレビュー済み
サイードの著作を渉猟する者ですが、本書の装丁は異様なだけでなく吐き気すら覚えます。
野火止林太郎氏のレビューに『」一番よくわからないのは、本書カバーに大江健三郎の直筆推薦文が印字してあることだ。書物の「もの」としての美観が損なわれること甚だしい。大江がサイードとお仲間だったことはわかるが、どうしてオビの推薦文に留めなかったのか? これを発案した編集者の勘違い、および、これを引き受けて、遠慮しなかった大江の傲慢・驕慢にはあきれてしまう。これは書物に対する冒涜にも等しいと思われた。』とある通りです。
もちろん私は購入しません。
野火止林太郎氏のレビューに『」一番よくわからないのは、本書カバーに大江健三郎の直筆推薦文が印字してあることだ。書物の「もの」としての美観が損なわれること甚だしい。大江がサイードとお仲間だったことはわかるが、どうしてオビの推薦文に留めなかったのか? これを発案した編集者の勘違い、および、これを引き受けて、遠慮しなかった大江の傲慢・驕慢にはあきれてしまう。これは書物に対する冒涜にも等しいと思われた。』とある通りです。
もちろん私は購入しません。