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辺界の輝き: 日本文化の深層をゆく 単行本 – 2002/3/28
日本文化は,その底流に驚くべき多様な像を潜めている.その見えざる担い手たちは,聖と賤の二重構造の中で,厳しい差別にあいながらも輝く歴史を育んできた.漂泊に生きた遊芸民,漂海民・家船(えぶね),漂泊民サンカ….日本を鋭く問い続けてきた小説家と賤民文化研究の第一人者による熱い討論が,日本文化の虚像と実像を凝視し,歴史の深層を掘り起こす.
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2002/3/28
- ISBN-104000247026
- ISBN-13978-4000247023
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
日本文化は、その底流に驚くべき多様な像を潜めている。香具師やサンカ等その見えざる担い手達は、聖と賎の二重構造の中で民衆文化の地下伏流を育んできた。熱い対論が日本文化の実像と虚像を凝視し、歴史の深層を掘り起こす。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2002/3/28)
- 発売日 : 2002/3/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 208ページ
- ISBN-10 : 4000247026
- ISBN-13 : 978-4000247023
- Amazon 売れ筋ランキング: - 282,022位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,680位日本史一般の本
- カスタマーレビュー:
著者について
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1932年、福岡県生まれ。66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門・筑豊編』ほかで吉川英治文学賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 愛について (ISBN-13:978-4591117514)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年12月5日に日本でレビュー済み
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沖浦和光氏の知識に感心したのと被差別民の存在と特徴、性格がよくわかった。
2014年10月31日に日本でレビュー済み
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日頃メデアにはあまりでてこない細部にせまる、迫真のドキュメントと思ってよみました。
2012年5月31日に日本でレビュー済み
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日本の文化は、本当はどこからどのようにして生まれたのか。
五木氏と沖浦氏、二人の対談からその謎を解く鍵が随所に見つけられる。
漂白に生きた人々の中にこそ、日本文化が成り立ってきた基層ともいえる深層が浮かび上がってくるといえる。
今、日本文化の中心となっている底辺には、辺界、辺境にその本当の姿が潜み、息づいていることを我々は知らなければならない。
また、中心部だけでは見えないその姿を見い出し、読み解いていくことも必要と思う。
五木氏と沖浦氏、二人の対談からその謎を解く鍵が随所に見つけられる。
漂白に生きた人々の中にこそ、日本文化が成り立ってきた基層ともいえる深層が浮かび上がってくるといえる。
今、日本文化の中心となっている底辺には、辺界、辺境にその本当の姿が潜み、息づいていることを我々は知らなければならない。
また、中心部だけでは見えないその姿を見い出し、読み解いていくことも必要と思う。
2013年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
五木氏が沖浦氏と絶妙に書き上げた傑作である。
これまで知られなかった、民の足跡を丁寧に追っている。
日本語を話す希な民族のその辺境に生きた民の生活を、丹念に解き明かしてくれている。
これまで知られなかった、民の足跡を丁寧に追っている。
日本語を話す希な民族のその辺境に生きた民の生活を、丹念に解き明かしてくれている。
2004年6月30日に日本でレビュー済み
著者お二人の対談形式で、専門知識のない私でも、分かりやすく読めました。
この本に出てくるのは、教科書では見かけない人たちばかりです。被差別部落の人たちや、海賊、山と里の間を漂流していたサンカ、遊芸民など・・・士、農、工、商、には入れない、記録にもほとんど残っていない。それでも実在し、それぞれの方法で生活し、確実に人々に影響を与えていた人たちです。
歴史無知の私には、歴史といえばサムライに農民でしたが、狭い日本でも本当はもっと複雑で、人種(?)のるつぼだったのかなぁと思い、わくわくしました。これを読むと、自分の遠いご先祖は何者だったのか気になりますよ(^_^)
この本に出てくるのは、教科書では見かけない人たちばかりです。被差別部落の人たちや、海賊、山と里の間を漂流していたサンカ、遊芸民など・・・士、農、工、商、には入れない、記録にもほとんど残っていない。それでも実在し、それぞれの方法で生活し、確実に人々に影響を与えていた人たちです。
歴史無知の私には、歴史といえばサムライに農民でしたが、狭い日本でも本当はもっと複雑で、人種(?)のるつぼだったのかなぁと思い、わくわくしました。これを読むと、自分の遠いご先祖は何者だったのか気になりますよ(^_^)
2019年12月20日に日本でレビュー済み
被差別民への愛と尊敬が二人の偉人を語らせる。五木寛之の『風の王国』を3回読んで、本書を手に取ると、より一層興味が掻き立てられ、次の書物を手にしたくなる。その前段階として多くの基本的認識を異化作用された技術で読者に提供する対談集。したがって、読みやすい!
2014年3月4日に日本でレビュー済み
柳田國男の遠野物語のまえがきを紹介しています。
国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説
あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。
国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説
あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。
2014年11月12日に日本でレビュー済み
芸能・交通・通信・詐欺―些か強引な論法を用いれば、無から有を、無から富を爆発的に算出する、二次関数的営為として、この三者は少なからぬ共通性を持っている。そしてそれだけにそれらは、一歩一歩と陣地を確保していくような一次関数に基づく定住農耕民の営みと、根本的に異質な生の様式であるといえる。そしてこれらの営みは古代文明以来人類文明の主流を自負する多くの農耕社会において、彼ら農耕民の差別と畏怖の対象としての他者なる、漂泊の民に担われる営みであった。西洋におけるジプシーやユダヤ人、中国における客家や蛋民といったこうした漂泊民に対応する存在を、我が国の歴史に求めるとすれば、本書の主人公であるサンカや海賊であるに違いない。
彼らは農耕定住民にとり、一方で謂れ無き迫害の対象と、他方でまた謂れ無きロマンティシズムの対象となってしまったが故に、その真の姿をとらえることが難しい存在となってしまった。こうしたいわば日本史の影の部分を担う漂泊民たちにつき、地道な実地調査を積み重ねてきた沖浦和光氏と、同じく文芸の立場からこうした存在に多年関心を寄せてきた五木寛之氏の対談は、己をマージナルな存在と評する、両人自身の感性とも相まって、かかる被差別民=漂泊民が支えてきた我が国の文化と社会の闇に分け入る、格好の入門書となっている。
もっともこうした主題を扱いながら、網野善彦によるに日本史分野における巨大な業績や、半村良の文芸面における貢献に全く言及がないことには、少し釈然としないところがあった。また沖浦氏が一方で山の民の長大な歴史を説きつつ、他方でいわゆるサンカの江戸末期起源説を主張するあたりの、表見的な不整合性も気になる。また本書において漂泊民は一方的に差別され、抑圧され続けてきたものとして描き出されるにもかかわらず、秀吉の出自や多くの豪商のそれに窺われるように、むしろ彼らが権力と結びつきあるいは権力そのものとなり(そのあたりが権力そのもののはらむ闇なのだが)、いわゆる常民のささやか幸せを押し潰していく存在であり続けてきたことも、忘れられてはならないだろう。
漂泊民の活動に由来する資本主義が農耕社会を解体し、社会の流動化により良くも悪くもこれまで農耕社会を支えてきた地域のネットワークが解体されつつある今日、安直なノマド賛美が権力を強化することにしかならないことは、本書に意図にもかかわらずまことに皮肉な現象だ。友人の起業家とよく話すことがあるが、出自はともあれ現在こうしたノマド的生き方に共感する感性の持ち主にとり、コミュニティ(故郷から会社に至るさまざまな)にぬくぬくと閉じこもり、生活を保障させるような生き方(企業の正社員や公務員)は、嫌悪の更には憎悪の対象でしかないのだと感じるときがある。
彼らは農耕定住民にとり、一方で謂れ無き迫害の対象と、他方でまた謂れ無きロマンティシズムの対象となってしまったが故に、その真の姿をとらえることが難しい存在となってしまった。こうしたいわば日本史の影の部分を担う漂泊民たちにつき、地道な実地調査を積み重ねてきた沖浦和光氏と、同じく文芸の立場からこうした存在に多年関心を寄せてきた五木寛之氏の対談は、己をマージナルな存在と評する、両人自身の感性とも相まって、かかる被差別民=漂泊民が支えてきた我が国の文化と社会の闇に分け入る、格好の入門書となっている。
もっともこうした主題を扱いながら、網野善彦によるに日本史分野における巨大な業績や、半村良の文芸面における貢献に全く言及がないことには、少し釈然としないところがあった。また沖浦氏が一方で山の民の長大な歴史を説きつつ、他方でいわゆるサンカの江戸末期起源説を主張するあたりの、表見的な不整合性も気になる。また本書において漂泊民は一方的に差別され、抑圧され続けてきたものとして描き出されるにもかかわらず、秀吉の出自や多くの豪商のそれに窺われるように、むしろ彼らが権力と結びつきあるいは権力そのものとなり(そのあたりが権力そのもののはらむ闇なのだが)、いわゆる常民のささやか幸せを押し潰していく存在であり続けてきたことも、忘れられてはならないだろう。
漂泊民の活動に由来する資本主義が農耕社会を解体し、社会の流動化により良くも悪くもこれまで農耕社会を支えてきた地域のネットワークが解体されつつある今日、安直なノマド賛美が権力を強化することにしかならないことは、本書に意図にもかかわらずまことに皮肉な現象だ。友人の起業家とよく話すことがあるが、出自はともあれ現在こうしたノマド的生き方に共感する感性の持ち主にとり、コミュニティ(故郷から会社に至るさまざまな)にぬくぬくと閉じこもり、生活を保障させるような生き方(企業の正社員や公務員)は、嫌悪の更には憎悪の対象でしかないのだと感じるときがある。